「気がつかなくて、ごめんなさい」

 突然、高齢の女性が考子に声をかけて、立ち上がった。
 若い女性の横に座っていた人だ。
 
「あっ、いえ」

 杖は持っていなかったが、見るからに後期高齢者という容姿だった。

「私は大丈夫ですので」

 考子が断ろうとすると、「次の駅で降りますから。それより、急ブレーキで転んだりしたら大変だから、早く座ってね」と考子の手を取って席へ誘導した。

 その様子を見ていた30代と思しき男性が自分の娘であろう小学生低学年くらいの女の子に大きな声で話しかけた。

「この席はね、優先席っていうんだよ。『おとしよりの方』『体の不自由な方』『赤ちゃん連れの方』『妊娠されている方』『マタニティーマークをお持ちの方』って書いてあるだろ。ここに書いてある人達は優先席を必要としている人たちなんだよ。だから、こういう人たちがいたら席を譲らなくてはいけないんだよ」

 すると、女の子が父親を見て、ニッコリ笑った。

「私ならすぐに代わってあげる」

 父親は嬉しそうな表情で大きく頷いてから、席に座り続ける若い男女に目を向けた。

「若い人や元気な人が優先席に座って、お年寄りや妊婦さんが立っているのはおかしいよね。人を思いやる優しい気持ちを持って率先して席を譲る人になろうね」

「うん、わかった。そうする」

 すると、女の子の元気な声に押されるように若い男性が組んでいた足をほどき、〈冗談じゃないよ〉というように立ち上がった。
 その瞬間、考子の耳に「ちぇっ」という小さな声が届いた。
 それだけでなく、〈うるせえな~〉という響きが感じられた。
 若い女性は尚もスマホをいじり続けていた。