6月5日、考子が泣いていた。
 ぼろぼろと涙を流していた。
 それは哀しみの涙であり、悔しさが滲む涙でもあった。
 
 横田めぐみさんのお父さんが亡くなられた。
 最愛の娘、めぐみさんとの再会を果たせないまま、87歳で息を引き取ったのだ。
 めぐみさんが拉致されてから43年間、いつか帰ってくると信じて、待って待って待ち続けたのに、遂に命が尽きてしまったのだ。
 どれほど無念だったろう。
 それを思うと、考子の心は針を突き刺されたように激しく痛んだ。
 その目からは涙が溢れ続けた。

 めぐみさんが拉致されたのは13歳の時だった。
 1977年11月15日。
 家族といつものように朝ご飯を食べて、中学校へ行った。
 しかし、その日家に帰ってくることはなかった。
 北朝鮮の工作員に連れ去られ、40時間もの間、暗い船倉に閉じ込められたのだ。
 その間、「お母さん、お母さん」と泣き叫んで、出入り口や壁をひっかき続けた。
 血まみれになっても、爪が剥がれそうになっても構わずひっかき続けた。
 しかし、彼女の願いが叶うことはなかった。
 悪魔のような独裁者がいる無法国家に監禁されてしまったのだ。
 それは13歳の少女の未来が閉ざされたことを意味していた。
 家族との一家団欒(いっかだんらん)も、クラブ活動のバドミントンも、高校や大学への進学も、素敵な彼氏とのデートも、幸せな結婚や出産も、すべて消え失せてしまったのだ。

 彼女が拉致された前日は父・(しげる)さんの誕生日だった。
 彼女は櫛をプレゼントして、「おしゃれに気をつけてね」と言ったそうだ。
 最愛の娘から渡された誕生日プレゼントに喜びを隠せなかったに違いない。
 嬉しくてたまらなかったに違いない。
 でも、それが最後の思い出になってしまった。
 それ以降、滋さんは櫛を肌身離さず持ち続けた。
 そして、娘が帰ってくるのを待ち続けた。
 すると、そんな滋さんに朗報が届いた。

 1997年1月21日、
 拉致されてから20年後、
 めぐみさんが平壌(ぴょんやん)で生きているという情報が入ったのだ。
 滋さんは妻の早紀江(さきえ)さんと共に飛び上がって喜んだ。
 望みは繋がれたのだ。
 生きてさえいれば取り戻すことは可能なのだ。
 きっといつか日本政府が娘を取り戻してくれる。
 そう信じて、待ち続けた。
 希望を持って、待ち続けた。