「紫陽花、あまり根を詰めるな」
地図を頼りに戒砂へ流れ込む穢れのもとが、北の山麓にある洞窟だとわかった。そこから現し世に繋がっているらしい。紫陽花は洞窟の中へ入る算段を立てているところだった。
寝る間を惜しんで根源の穢れを浄化することを考えていた紫陽花のことを、時春は心配した。
「大丈夫ですよ、時春様」
「だが、最近あまり寝ていないようだと那魚が心配していた。俺も心配だ。日中も穢れの浄化を行っているだろう。今のままでは穢れを根だやす前におまえが倒れてしまうのではないかと気が気ではない」
「私は大丈夫です。丈夫なのだけが取り柄なのですから」
「俺はおまえに無理をさせるために戒砂に連れてきたわけではない」
時春は紫陽花の頬に触れる。大きな手のひらから温かさを感じた。
「そろそろ休め、体が冷えている。夜になると砂漠は冷える。暖かくして眠れ、暖を取る衣を持ってくる」
「もう少しだけ考えさせてください」
「そうか、邪魔にならないなら俺も付き合う」
「邪魔だなんてとんでもないことです。ですが、時春様こそお休みになられたほうが良いのではありませんか? 毎日お忙しいでしょう?」
「問題ない。忙しさを測るならおまえのほうが忙しいだろう。紫陽花、今、おまえは穢れに関して何を考えている」
問われて紫陽花は北の山麓を指さした。
「ここから穢れが出ています。洞窟を塞ぐという方法もありますが、それではまだ穢れが漏れ出す可能性があるでしょう。穢れの根を絶つ必要があります。うまくいけば、この戒砂だけではなく、波都の穢れも祓うことができるかもしれません」
波都の穢れが溜まっているようだと那魚が言っていた。手紙を送ったが、志保子がうまく祓えていないのだろう。もしかしたら、穢れの量自体が増えてきているのかもしれない。そうなれば、根源を絶つ必要がある。
「そこまで考えているのか。穢れの根を断つときは俺も付き添おう。祈祷の手伝いはしてやれないが、おまえの護衛なら勤まるだろう」
「いけません! 私などに時春様の貴重な時間や労力を割かせるわけにはいきません。これは私の責務なのです。私がやらなければいけません。私はひとりで大丈夫ですから」
「紫陽花」
時春は紫陽花の名を呼んだ。
「はい」
「なにがおまえをそこまで駆り立てるのだろうな」
「駆り立てられてなどおりません。ただ、落ち着かないのです。なにかやるべきことがないと、やるべきことをやっていないと、落ち着かないのです」
ずっとそうであった。誰かに必要とされること、誰かの役に立つこと。そればかりを考えてきた。そうでなければ自分には価値がないと紫陽花は思っていた。異国の地に来た今は尚更。
「お役に立たなければ……」
地上のひとのために生贄になった。
波都のために穢れを祓ってきた。
透璃の妻としてその子を孕むべきだった。
透璃様のお役に立てなかった。
私はもう役立たずだったのだ。
このまま穢れの根源を祓えば、きっと、戒砂での私の役目は終わる。
今度こそ誰にも必要とされなくなる。
戒砂でも役に立たないとわかってしまえば、私はどうしたら良いのだろう。
私は……必要とされなくなることがこんなにも怖い。でも、みんなの生活のために穢れの根を経たないわけにはいかない。
「私は……」
いずれ無意味な人間になってしまうとしても。
「紫陽花」
自然と頬を涙が伝う。ハラハラと零れ落ちる涙を止めることができない。
「申し訳ありません、申し訳ありません……」
泣くのはいつぶりだろう。生贄になったとき、穢れを祓う訓練が辛かったとき。志保子が身ごもったとき。
どんなときでも人前では決して泣かなかった。それは透璃の前でも同じことだ。
泣いたところで何も変わりはしない。泣けば困らせるだけだとわかっていたから。
それなのに、どうして今涙が止まらないのだろう。
どうして、時春の前では泣いてしまうのだろう。
「なぜ謝る。おまえは何に心を痛めているのだ、教えてくれ紫陽花。俺は、おまえに笑っていてほしい
そのためになら何でもする」
時春の言葉が優しく心を撫でる。思わず本音がこぼれてしまいそうになる。
この方の言葉は、私の心を惑わせる。私のことを心配してくれる。
だから。
言えるわけがない。自分が役立たずになるのが怖いだなんて。そんなことを言えば、時春様は私を慰めるために必要だと言ってくれる。そんなことを、無理に言わせたくない。
「大丈夫です。時春様がおっしゃるように寝不足で少し疲れているのだと思います」
「波都に帰りたいのか? 俺はおまえが弱っている時に無理矢理この国へ連れてきた。思えば随分と強引なことをした、反省している」
「違います。私の居場所はもう波都にはありません。ですから、時春様に連れ出していただけて本当に良かったのです」
「後悔していないのか」
「後悔などしておりません。ただ、波都の穢れについて心配はしております」
「それを憂いで泣いているのか」
「それは……」
「穢れの根源を絶てば良い」
「はい」
それを心から望んでいる。望むと同時に恐ろしい。穢れがなくなれば、紫陽花は存在の意義を失ってしまう。
「紫陽花、何を憂いでいる」
「私は、穢れを祓うことを望んでいます」
「ああ、俺も力を尽くす」
「……それと同時に恐ろしいのです。もしも穢れがなくなれば、私は、私は……」
言ってはいけない。言葉にしてはいけないのに。時春様の瞳に見つめられると、心の弱いところを見せてしまう。
「私の存在が、無意味なものに、なってしまうと……そう思うと恐ろしくて……」
「紫陽花……それを誰かに言われたのか?」
「いえ、違います。ですが、私はずっとそう、思っていたのだと思います。お役に立たなければ……私に価値はありません。お役に立ちます、お役に立ちますから、どうか穢れを祓っても、私を必要としてください。どうか……」
流れ落ちる涙とともに、すべてを話してしまった。とんでもないことをしてしまった、後悔してももう遅い。
「すみません、忘れていただけますか」
そう涙を拭いながら言うと、時春に抱きすくめられた。
「紫陽花、俺は仮におまえにその浄化の力がなくとも、妻にしたいと願う。そもそも、おまえにそんな力があると知ったのは、おまえを妻にしたいと思ったあとのことだ。おまえのことが欲しくて欲しくて、おまえの隣に立つ透璃のことが、たまらなく羨ましかった」
「時春様……」
「もう、なにもしなくていい」
耳から、心地よい音が流れ込んでくる。
「それはできません」
「なにもしなくていいんだ。おまえは、在るだけで計り知れない価値がある」
「在る、だけで……」
そんなことは、思いもしなかった。
「そうだ、俺はおまえに救われた。おまえがいたから、ここまで生きてこられた。おまえと出会っていなければ、この国はとうに滅びていた」
「そんな……」
「もう、俺は限界だ。そろそろおまえのことがほしい。ずっとおまえに恋をしてきた。やっとそばにおくことが叶ったのだ。これからもおまえのそばにいたい。隣に立ちたい。どうか、その資格を俺にくれ」
「時春様……」
「紫陽花、おまえことを愛している。どうか、俺の妻になってくれ」
時春の言葉に、紫陽花は困惑した。そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。
時春と過ごした時間の中で、彼が戒砂の国をいかに愛しているかを知った。人々に慕われ、人々を守ろうとする時春の姿を見てきた。
自然と惹かれていたのかもしれない。思い返せば、時春の姿を見るたびに、胸が高鳴った。
それは、透璃に対する穏やかな好意とは違う。胸を焼くような痛みを伴う感情だった。
時春が微笑んでくれるたびに、紫陽花は戸惑った。
「私などで、よろしいのですか」
時春は常に紫陽花のことを気にかけてくれた。波都にいたときは顧みられることのなかった紫陽花自身のことをいつも心配してくれていた。こんなことは初めてだった。
波都にいたとき、紫陽花が穢れを祓うのは当たり前のことだった。厳しい訓練も、つらい祈祷も、すべては当たり前のことだった。それが、紫陽花の責務だったから。
それを、時春は心から労ってくれた。
透璃へ募らせていた想いは、波都を離れる時に置いてきた。もう、この新しく生まれた感情を受け入れてもよいのかもしれない。
恋など、したことがなかった。
これがきっと、誰かを好きになるということなのでしょう。この震えるような心の痛みこそが。
「おまえがいいのだ。おまえ以外は、誰も必要ない」
「私を、私を必要としてくださいますか……?」
「俺にはおまえが必要だ。だから、おまえも俺を必要としてくれ」
深い紺色の瞳が不安そうに揺れている。
もしかしたら、時春様も不安なのかもしれない。ならば、私はその不安を消して差し上げたい。
思っているだけではだめだ。きちんと言葉にしなければきっと伝わらない。
「私にも、時春様が必要です。どうか、私を妻にしてください」
「紫陽花、俺の妻になってくれ」
時春が見つめてくる。瞳を閉じると、唇に熱いものが触れた。触れ合った唇にから、想いが通じ合ったような気がした。
地図を頼りに戒砂へ流れ込む穢れのもとが、北の山麓にある洞窟だとわかった。そこから現し世に繋がっているらしい。紫陽花は洞窟の中へ入る算段を立てているところだった。
寝る間を惜しんで根源の穢れを浄化することを考えていた紫陽花のことを、時春は心配した。
「大丈夫ですよ、時春様」
「だが、最近あまり寝ていないようだと那魚が心配していた。俺も心配だ。日中も穢れの浄化を行っているだろう。今のままでは穢れを根だやす前におまえが倒れてしまうのではないかと気が気ではない」
「私は大丈夫です。丈夫なのだけが取り柄なのですから」
「俺はおまえに無理をさせるために戒砂に連れてきたわけではない」
時春は紫陽花の頬に触れる。大きな手のひらから温かさを感じた。
「そろそろ休め、体が冷えている。夜になると砂漠は冷える。暖かくして眠れ、暖を取る衣を持ってくる」
「もう少しだけ考えさせてください」
「そうか、邪魔にならないなら俺も付き合う」
「邪魔だなんてとんでもないことです。ですが、時春様こそお休みになられたほうが良いのではありませんか? 毎日お忙しいでしょう?」
「問題ない。忙しさを測るならおまえのほうが忙しいだろう。紫陽花、今、おまえは穢れに関して何を考えている」
問われて紫陽花は北の山麓を指さした。
「ここから穢れが出ています。洞窟を塞ぐという方法もありますが、それではまだ穢れが漏れ出す可能性があるでしょう。穢れの根を絶つ必要があります。うまくいけば、この戒砂だけではなく、波都の穢れも祓うことができるかもしれません」
波都の穢れが溜まっているようだと那魚が言っていた。手紙を送ったが、志保子がうまく祓えていないのだろう。もしかしたら、穢れの量自体が増えてきているのかもしれない。そうなれば、根源を絶つ必要がある。
「そこまで考えているのか。穢れの根を断つときは俺も付き添おう。祈祷の手伝いはしてやれないが、おまえの護衛なら勤まるだろう」
「いけません! 私などに時春様の貴重な時間や労力を割かせるわけにはいきません。これは私の責務なのです。私がやらなければいけません。私はひとりで大丈夫ですから」
「紫陽花」
時春は紫陽花の名を呼んだ。
「はい」
「なにがおまえをそこまで駆り立てるのだろうな」
「駆り立てられてなどおりません。ただ、落ち着かないのです。なにかやるべきことがないと、やるべきことをやっていないと、落ち着かないのです」
ずっとそうであった。誰かに必要とされること、誰かの役に立つこと。そればかりを考えてきた。そうでなければ自分には価値がないと紫陽花は思っていた。異国の地に来た今は尚更。
「お役に立たなければ……」
地上のひとのために生贄になった。
波都のために穢れを祓ってきた。
透璃の妻としてその子を孕むべきだった。
透璃様のお役に立てなかった。
私はもう役立たずだったのだ。
このまま穢れの根源を祓えば、きっと、戒砂での私の役目は終わる。
今度こそ誰にも必要とされなくなる。
戒砂でも役に立たないとわかってしまえば、私はどうしたら良いのだろう。
私は……必要とされなくなることがこんなにも怖い。でも、みんなの生活のために穢れの根を経たないわけにはいかない。
「私は……」
いずれ無意味な人間になってしまうとしても。
「紫陽花」
自然と頬を涙が伝う。ハラハラと零れ落ちる涙を止めることができない。
「申し訳ありません、申し訳ありません……」
泣くのはいつぶりだろう。生贄になったとき、穢れを祓う訓練が辛かったとき。志保子が身ごもったとき。
どんなときでも人前では決して泣かなかった。それは透璃の前でも同じことだ。
泣いたところで何も変わりはしない。泣けば困らせるだけだとわかっていたから。
それなのに、どうして今涙が止まらないのだろう。
どうして、時春の前では泣いてしまうのだろう。
「なぜ謝る。おまえは何に心を痛めているのだ、教えてくれ紫陽花。俺は、おまえに笑っていてほしい
そのためになら何でもする」
時春の言葉が優しく心を撫でる。思わず本音がこぼれてしまいそうになる。
この方の言葉は、私の心を惑わせる。私のことを心配してくれる。
だから。
言えるわけがない。自分が役立たずになるのが怖いだなんて。そんなことを言えば、時春様は私を慰めるために必要だと言ってくれる。そんなことを、無理に言わせたくない。
「大丈夫です。時春様がおっしゃるように寝不足で少し疲れているのだと思います」
「波都に帰りたいのか? 俺はおまえが弱っている時に無理矢理この国へ連れてきた。思えば随分と強引なことをした、反省している」
「違います。私の居場所はもう波都にはありません。ですから、時春様に連れ出していただけて本当に良かったのです」
「後悔していないのか」
「後悔などしておりません。ただ、波都の穢れについて心配はしております」
「それを憂いで泣いているのか」
「それは……」
「穢れの根源を絶てば良い」
「はい」
それを心から望んでいる。望むと同時に恐ろしい。穢れがなくなれば、紫陽花は存在の意義を失ってしまう。
「紫陽花、何を憂いでいる」
「私は、穢れを祓うことを望んでいます」
「ああ、俺も力を尽くす」
「……それと同時に恐ろしいのです。もしも穢れがなくなれば、私は、私は……」
言ってはいけない。言葉にしてはいけないのに。時春様の瞳に見つめられると、心の弱いところを見せてしまう。
「私の存在が、無意味なものに、なってしまうと……そう思うと恐ろしくて……」
「紫陽花……それを誰かに言われたのか?」
「いえ、違います。ですが、私はずっとそう、思っていたのだと思います。お役に立たなければ……私に価値はありません。お役に立ちます、お役に立ちますから、どうか穢れを祓っても、私を必要としてください。どうか……」
流れ落ちる涙とともに、すべてを話してしまった。とんでもないことをしてしまった、後悔してももう遅い。
「すみません、忘れていただけますか」
そう涙を拭いながら言うと、時春に抱きすくめられた。
「紫陽花、俺は仮におまえにその浄化の力がなくとも、妻にしたいと願う。そもそも、おまえにそんな力があると知ったのは、おまえを妻にしたいと思ったあとのことだ。おまえのことが欲しくて欲しくて、おまえの隣に立つ透璃のことが、たまらなく羨ましかった」
「時春様……」
「もう、なにもしなくていい」
耳から、心地よい音が流れ込んでくる。
「それはできません」
「なにもしなくていいんだ。おまえは、在るだけで計り知れない価値がある」
「在る、だけで……」
そんなことは、思いもしなかった。
「そうだ、俺はおまえに救われた。おまえがいたから、ここまで生きてこられた。おまえと出会っていなければ、この国はとうに滅びていた」
「そんな……」
「もう、俺は限界だ。そろそろおまえのことがほしい。ずっとおまえに恋をしてきた。やっとそばにおくことが叶ったのだ。これからもおまえのそばにいたい。隣に立ちたい。どうか、その資格を俺にくれ」
「時春様……」
「紫陽花、おまえことを愛している。どうか、俺の妻になってくれ」
時春の言葉に、紫陽花は困惑した。そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。
時春と過ごした時間の中で、彼が戒砂の国をいかに愛しているかを知った。人々に慕われ、人々を守ろうとする時春の姿を見てきた。
自然と惹かれていたのかもしれない。思い返せば、時春の姿を見るたびに、胸が高鳴った。
それは、透璃に対する穏やかな好意とは違う。胸を焼くような痛みを伴う感情だった。
時春が微笑んでくれるたびに、紫陽花は戸惑った。
「私などで、よろしいのですか」
時春は常に紫陽花のことを気にかけてくれた。波都にいたときは顧みられることのなかった紫陽花自身のことをいつも心配してくれていた。こんなことは初めてだった。
波都にいたとき、紫陽花が穢れを祓うのは当たり前のことだった。厳しい訓練も、つらい祈祷も、すべては当たり前のことだった。それが、紫陽花の責務だったから。
それを、時春は心から労ってくれた。
透璃へ募らせていた想いは、波都を離れる時に置いてきた。もう、この新しく生まれた感情を受け入れてもよいのかもしれない。
恋など、したことがなかった。
これがきっと、誰かを好きになるということなのでしょう。この震えるような心の痛みこそが。
「おまえがいいのだ。おまえ以外は、誰も必要ない」
「私を、私を必要としてくださいますか……?」
「俺にはおまえが必要だ。だから、おまえも俺を必要としてくれ」
深い紺色の瞳が不安そうに揺れている。
もしかしたら、時春様も不安なのかもしれない。ならば、私はその不安を消して差し上げたい。
思っているだけではだめだ。きちんと言葉にしなければきっと伝わらない。
「私にも、時春様が必要です。どうか、私を妻にしてください」
「紫陽花、俺の妻になってくれ」
時春が見つめてくる。瞳を閉じると、唇に熱いものが触れた。触れ合った唇にから、想いが通じ合ったような気がした。