紫陽花を離縁した透璃は頭を抱えていた。志保子が穢れを浄化できないのである。波都の町へは少しずつではあるが、穢れた水がたまり始めていた。このままではひとびとに影響が出るのは時間の問題である。
「申し訳ありません透璃様。私は紫陽花様がおっしゃったとおりに祈祷を行っているのです」
「だが、穢れは消えていない。なぜだ」
「それは……きっと紫陽花様が私に嘘を教えられたんです。私はちゃんと祈祷しているのに……」
さめざめと泣く志保子をそれ以上責めることができず、透璃はため息を吐いた。
「紫陽花はなぜ嘘など……そんな女ではなかったのに」
透璃は頭を悩ませた。透璃の知る紫陽花は、自分に厳しいところはあったが他者には優しかった。
常に波都のことを考えてくれていたのに、どうして志保子につらく当たったりしたのか。やはり、志保子が俺の子供を身ごもったことが許せなかったのか。波都のことを考えれは跡継ぎは必要だ。紫陽花が間違っている。
「紫陽花様は、私に嫉妬していらっしゃったのです。透璃様の愛を私が奪ったから。そう考えると、申し訳ないことをしてしまいました。私が生贄として泉に落とされたばかりに」
「それは志保子のせいではないだろう」
そう答えてからふと疑問に思う。自分はこの女を愛していると言えるのだろうか、と。
そして、紫陽花に愛していると伝えていただろうか、と。
別れ際、紫陽花は俺のことを好きだったと言ってくれた。思えば紫陽花から聞いた始めての言葉ではなかっただろうか。
俺は、紫陽花にただの一度も好きだと告げたことがなかったかもしれない。そばにいるのが当たり前過ぎたのだ。まさか自分の手のなかから居なくなってしまうとは考えもしなかった。
「透璃様……本当にお優しいのですね」
とんっと胸に持たれかかってくる志保子の肩を抱く。
そういえば、紫陽花に触れたのはいつが最後だっただろう。初めて褥を共にしたのは紫陽花が嫁いできてから七年の時が経った時だ。あまりに美しく育った紫陽花に、俺は気おくれした。
ずっと妹のように大事にしてきた。それが、次第に手の届かない宝石のように光輝いて見えたのだ。触れることが許されないような、そんな気高さが紫陽花にはあった。
憧れが紫陽花に触れることをためらわせた。子供が出来なかったのは、当然ではないか。紫陽花に非はなかった。それなのに志保子を重宝した。紫陽花が腹を立てて志保子につらく当たったのも当たり前ではないか。
「紫陽花……」
「透璃様?」
名を呼ばれてはっとする。自分の隣にいるのは紫陽花ではない。彼女は、遠い地へ連れ去られてしまったのだ。
「手放すつもりなどなかったのだ。今はそばにはおけなくとも、俺の目の届くところにいさせるつもりだった」
それを、時春が奪った。
「時春のやつめ……」
「透璃様、どうかなさいましたか?」
「い、いや、なんでもない。それよりも、穢れの浄化について考えなければならないな。祈祷に詳しい者たちを集めよう。志保子にきちんとした知識をつけさせなければいけない。調子がよくなったらでいい、無理はするな」
「ありがとうございます透璃様」
嬉しそうに笑う志保子を可愛らしいと感じる。だがそれは、幼い子供を見て可愛いと感じるそれと同じに思えた。
紫陽花の顔が浮かぶ。それはどれも心配そうに透璃を見つめる表情だった。彼女が無邪気に笑いかけてくれたのは、いつが最後であっただろう。
別れ際の、彼女の不安そうな顔が今更になって頭をよぎる。
紫陽花、なぜ俺のそばにいないのか。俺は何を間違った。
そばにいることが当たり前すぎて忘れてしまっていた、離れて初めて実感した。俺は、こんなにも紫陽花のことが好きだったのだ。
愛していると伝えていたら、紫陽花は時春に抵抗してこの国にとどまってくれたのか。きっとそうだ。
「……必ず取り返す」
「透璃様?」
「志保子、調子が良くなったら勉強をしてくれ、紫陽花か戻るまではおまえに穢れを祓ってもらわなければ困る。なんとしてでも浄化を成功させてくれなければいけない」
「そんなの、紫陽花様が戻られてからやってもらえばよいではありませんか、私にはお腹の子が……」
「そんな悠長なことは言っていられない。穢れの悪影響はいつでてもおかしくないのだ」
「……わかりました」
透璃の言葉に志保子はしぶしぶ頷いた。
紫陽花が波都を離れてすぐ、一通の手紙が届いていた。それは穢れを祓う浄化の方法が事細かに書かれていたが、受け取った志保子はそれを破り捨てていた。
それを知らぬ透璃は志保子のために祈祷の知識を持つ者たちを集め、志保子への指導が始まったのであるが、波都の祈祷師たちは険しい顔をした。
「透璃様、大変申し上げにくいことなのですが、紫陽花様は我々よりも正しく、そして非常にわかりやすく志保子様にご指導なさっておりました。なかなか覚えられない志保子様に付き合って、紫陽花様は匙を投げずに根気よく説明されていたのです」
「それは……どういうことだ」
「つまり、私どもでは志保子様のお役に立てないと思います。紫陽花様でお教えできなかったことを、我々が行うのは荷が重すぎます」
「そ、それでは困る」
「紫陽花様がこの国を立ってすぐ、戒砂から志保子様宛の手紙が届いておりました。筆跡からして紫陽花様のものでした。念の為中身を検めましたが、中には祈祷の方法が細やかに記されておりました。それ以上の知識を私どもがお伝えするのは到底無理かと……」
「紫陽花から手紙が来ていただと、そんなことは一言も言っていなかったぞ」
祈祷師たちの言葉を聞いて、透璃は混乱していた。
志保子の言うことも、祈祷師の言うことも正しいとしたら矛盾が生じてしまう。いや、それはありえない。あってはならない。志保子の言うことを信じるしかない、そうでなければ、波都の穢れは浄化できない。穢れが進めば波都は滅んでしまう。
「なんとかしてくれ」
「そう申されましても……」
祈祷師たちはため息を吐き、「わかりました」と引き下がった。
「紫陽花さえ、紫陽花さえいてくれたらこんなことにはならなかったのだ。時春め……」
透璃の怒りの矛先は自然と紫陽花を連れ去った時春へと向いた。
「以前から紫陽花のことを誉めていた、あいつは紫陽花に恋慕していたのだ。だから波都にいるべき紫陽花を奪った。紫陽花も慣れ親しんだこの国に残りたかったはずだ。紫陽花のためにも、必ず取り返してやる」
透璃は急いで要人たちを集めると、宣言した。
「戒砂に囚われている紫陽花の救出に向かう」
透璃の言葉に集まった人々は困惑した。
「紫陽花様を救出に……でございますか?」
「そうだ」
「そうは申しましても、透璃様は紫陽花様を離縁なさってはありませんか。こちらとしては紫陽花様をこの国へ戻す名目がありません。それに、そもそも透璃様がおっしゃるように戒砂の国へ無理矢理連れていかれたのかどうかも怪しいところでございます。紫陽花様付きの侍女である那魚が先日紫陽花様の荷をもって戒砂へと向かいました。彼女は紫陽花様が助けを欲しているとは申しておりませんでした」
「それは、時春に脅迫されているのだ。戦になってでも連れ返してこい」
「……わかりかねます。戒砂は大国です、ことは慎重に運ぶべきです。紫陽花様の状況を調べましょう」
「そんな悠長なことを言ってはいられないだろう」
焦りを見せる透璃の様子に、どこからともなくため息が漏れた。
「戒砂に使いを出します」
「俺が行く」
「なりません、もう少し冷静になってください」
「冷静だ。自分の妻を迎えに行って何が悪い」
「紫陽花様はもうあなた様の奥方ではありません。ご自分で離縁なさってはありませんか! 我々は反対致しましたのに、志保子様の意見を尊重なさったのはほかでもない透璃様です」
「それは、志保子の腹には俺の子が…・・」
「跡継ぎのことを考えるように、目の前の国の在り方を考えていただきたかったと思います。紫陽花様が、いかにこの国の在り方に心を砕いてくださっていたか、あの方が必死で祈祷を習得なさった日々をお忘れですか! 大奥様が幼い紫陽花様に厳しく指導なさっていたのを、あなたもご存じでしょう。志保子様にだって、国のことを思えば厳しく指導して当たり前なのです。紫陽花様は、この国に必要な方だったのに」
「だから北の離れをくれてやるといったではないか。他の国へ行ってもよいとは言っていない」
「紫陽花様を飼殺すおつもりですか。紫陽花様が自ら戒砂へ向かったというのなら、私は紫陽花様をこの国へ連れ戻すことに反対です。そのために、調査をさせます」
「だが、それではこの国の穢れは……」
「それは志保子様の責任でしょう。なんとしてでも祈祷に成功していただきます」
「志保子に負担をかけると腹の子が……」
「透璃様、あなたはお優しいのではありません。甘いのです」
そう言い切ると、要人のひとりは席を立つ。その意見に賛同するようにひとり、またひとりと席を立ち、ついには誰もいなくなった。
「申し訳ありません透璃様。私は紫陽花様がおっしゃったとおりに祈祷を行っているのです」
「だが、穢れは消えていない。なぜだ」
「それは……きっと紫陽花様が私に嘘を教えられたんです。私はちゃんと祈祷しているのに……」
さめざめと泣く志保子をそれ以上責めることができず、透璃はため息を吐いた。
「紫陽花はなぜ嘘など……そんな女ではなかったのに」
透璃は頭を悩ませた。透璃の知る紫陽花は、自分に厳しいところはあったが他者には優しかった。
常に波都のことを考えてくれていたのに、どうして志保子につらく当たったりしたのか。やはり、志保子が俺の子供を身ごもったことが許せなかったのか。波都のことを考えれは跡継ぎは必要だ。紫陽花が間違っている。
「紫陽花様は、私に嫉妬していらっしゃったのです。透璃様の愛を私が奪ったから。そう考えると、申し訳ないことをしてしまいました。私が生贄として泉に落とされたばかりに」
「それは志保子のせいではないだろう」
そう答えてからふと疑問に思う。自分はこの女を愛していると言えるのだろうか、と。
そして、紫陽花に愛していると伝えていただろうか、と。
別れ際、紫陽花は俺のことを好きだったと言ってくれた。思えば紫陽花から聞いた始めての言葉ではなかっただろうか。
俺は、紫陽花にただの一度も好きだと告げたことがなかったかもしれない。そばにいるのが当たり前過ぎたのだ。まさか自分の手のなかから居なくなってしまうとは考えもしなかった。
「透璃様……本当にお優しいのですね」
とんっと胸に持たれかかってくる志保子の肩を抱く。
そういえば、紫陽花に触れたのはいつが最後だっただろう。初めて褥を共にしたのは紫陽花が嫁いできてから七年の時が経った時だ。あまりに美しく育った紫陽花に、俺は気おくれした。
ずっと妹のように大事にしてきた。それが、次第に手の届かない宝石のように光輝いて見えたのだ。触れることが許されないような、そんな気高さが紫陽花にはあった。
憧れが紫陽花に触れることをためらわせた。子供が出来なかったのは、当然ではないか。紫陽花に非はなかった。それなのに志保子を重宝した。紫陽花が腹を立てて志保子につらく当たったのも当たり前ではないか。
「紫陽花……」
「透璃様?」
名を呼ばれてはっとする。自分の隣にいるのは紫陽花ではない。彼女は、遠い地へ連れ去られてしまったのだ。
「手放すつもりなどなかったのだ。今はそばにはおけなくとも、俺の目の届くところにいさせるつもりだった」
それを、時春が奪った。
「時春のやつめ……」
「透璃様、どうかなさいましたか?」
「い、いや、なんでもない。それよりも、穢れの浄化について考えなければならないな。祈祷に詳しい者たちを集めよう。志保子にきちんとした知識をつけさせなければいけない。調子がよくなったらでいい、無理はするな」
「ありがとうございます透璃様」
嬉しそうに笑う志保子を可愛らしいと感じる。だがそれは、幼い子供を見て可愛いと感じるそれと同じに思えた。
紫陽花の顔が浮かぶ。それはどれも心配そうに透璃を見つめる表情だった。彼女が無邪気に笑いかけてくれたのは、いつが最後であっただろう。
別れ際の、彼女の不安そうな顔が今更になって頭をよぎる。
紫陽花、なぜ俺のそばにいないのか。俺は何を間違った。
そばにいることが当たり前すぎて忘れてしまっていた、離れて初めて実感した。俺は、こんなにも紫陽花のことが好きだったのだ。
愛していると伝えていたら、紫陽花は時春に抵抗してこの国にとどまってくれたのか。きっとそうだ。
「……必ず取り返す」
「透璃様?」
「志保子、調子が良くなったら勉強をしてくれ、紫陽花か戻るまではおまえに穢れを祓ってもらわなければ困る。なんとしてでも浄化を成功させてくれなければいけない」
「そんなの、紫陽花様が戻られてからやってもらえばよいではありませんか、私にはお腹の子が……」
「そんな悠長なことは言っていられない。穢れの悪影響はいつでてもおかしくないのだ」
「……わかりました」
透璃の言葉に志保子はしぶしぶ頷いた。
紫陽花が波都を離れてすぐ、一通の手紙が届いていた。それは穢れを祓う浄化の方法が事細かに書かれていたが、受け取った志保子はそれを破り捨てていた。
それを知らぬ透璃は志保子のために祈祷の知識を持つ者たちを集め、志保子への指導が始まったのであるが、波都の祈祷師たちは険しい顔をした。
「透璃様、大変申し上げにくいことなのですが、紫陽花様は我々よりも正しく、そして非常にわかりやすく志保子様にご指導なさっておりました。なかなか覚えられない志保子様に付き合って、紫陽花様は匙を投げずに根気よく説明されていたのです」
「それは……どういうことだ」
「つまり、私どもでは志保子様のお役に立てないと思います。紫陽花様でお教えできなかったことを、我々が行うのは荷が重すぎます」
「そ、それでは困る」
「紫陽花様がこの国を立ってすぐ、戒砂から志保子様宛の手紙が届いておりました。筆跡からして紫陽花様のものでした。念の為中身を検めましたが、中には祈祷の方法が細やかに記されておりました。それ以上の知識を私どもがお伝えするのは到底無理かと……」
「紫陽花から手紙が来ていただと、そんなことは一言も言っていなかったぞ」
祈祷師たちの言葉を聞いて、透璃は混乱していた。
志保子の言うことも、祈祷師の言うことも正しいとしたら矛盾が生じてしまう。いや、それはありえない。あってはならない。志保子の言うことを信じるしかない、そうでなければ、波都の穢れは浄化できない。穢れが進めば波都は滅んでしまう。
「なんとかしてくれ」
「そう申されましても……」
祈祷師たちはため息を吐き、「わかりました」と引き下がった。
「紫陽花さえ、紫陽花さえいてくれたらこんなことにはならなかったのだ。時春め……」
透璃の怒りの矛先は自然と紫陽花を連れ去った時春へと向いた。
「以前から紫陽花のことを誉めていた、あいつは紫陽花に恋慕していたのだ。だから波都にいるべき紫陽花を奪った。紫陽花も慣れ親しんだこの国に残りたかったはずだ。紫陽花のためにも、必ず取り返してやる」
透璃は急いで要人たちを集めると、宣言した。
「戒砂に囚われている紫陽花の救出に向かう」
透璃の言葉に集まった人々は困惑した。
「紫陽花様を救出に……でございますか?」
「そうだ」
「そうは申しましても、透璃様は紫陽花様を離縁なさってはありませんか。こちらとしては紫陽花様をこの国へ戻す名目がありません。それに、そもそも透璃様がおっしゃるように戒砂の国へ無理矢理連れていかれたのかどうかも怪しいところでございます。紫陽花様付きの侍女である那魚が先日紫陽花様の荷をもって戒砂へと向かいました。彼女は紫陽花様が助けを欲しているとは申しておりませんでした」
「それは、時春に脅迫されているのだ。戦になってでも連れ返してこい」
「……わかりかねます。戒砂は大国です、ことは慎重に運ぶべきです。紫陽花様の状況を調べましょう」
「そんな悠長なことを言ってはいられないだろう」
焦りを見せる透璃の様子に、どこからともなくため息が漏れた。
「戒砂に使いを出します」
「俺が行く」
「なりません、もう少し冷静になってください」
「冷静だ。自分の妻を迎えに行って何が悪い」
「紫陽花様はもうあなた様の奥方ではありません。ご自分で離縁なさってはありませんか! 我々は反対致しましたのに、志保子様の意見を尊重なさったのはほかでもない透璃様です」
「それは、志保子の腹には俺の子が…・・」
「跡継ぎのことを考えるように、目の前の国の在り方を考えていただきたかったと思います。紫陽花様が、いかにこの国の在り方に心を砕いてくださっていたか、あの方が必死で祈祷を習得なさった日々をお忘れですか! 大奥様が幼い紫陽花様に厳しく指導なさっていたのを、あなたもご存じでしょう。志保子様にだって、国のことを思えば厳しく指導して当たり前なのです。紫陽花様は、この国に必要な方だったのに」
「だから北の離れをくれてやるといったではないか。他の国へ行ってもよいとは言っていない」
「紫陽花様を飼殺すおつもりですか。紫陽花様が自ら戒砂へ向かったというのなら、私は紫陽花様をこの国へ連れ戻すことに反対です。そのために、調査をさせます」
「だが、それではこの国の穢れは……」
「それは志保子様の責任でしょう。なんとしてでも祈祷に成功していただきます」
「志保子に負担をかけると腹の子が……」
「透璃様、あなたはお優しいのではありません。甘いのです」
そう言い切ると、要人のひとりは席を立つ。その意見に賛同するようにひとり、またひとりと席を立ち、ついには誰もいなくなった。