竜巻は波都の外へと紫陽花たちを運んだ。森の木々に馬がつながれている。
「ここからは馬で行く。紫陽花殿は馬に乗ったことはあるか?」
「いえ、初めてです。乗れるでしょうか」
「安心しろ、俺は馬の扱いも国一だ。この馬は戒砂でも随一の早馬だ。空を飛ぶように駆けるように走るからな、すぐに国につく」
時春は紫陽花を馬に乗せると、自分も紫陽花の後ろに乗る。
「私が乗っていて重くありませんか?」
「紫陽花殿は軽すぎるくらいだ。もう少ししっかり食べた方がいい」
「きちんと食べております」
「戒砂は食事も旨い。紫陽花殿にも堪能してもらいたい」
波都の食事も美味しかった。泉の底では魚や水の中に生息する植物が主食である。用意される食事はどれも新鮮で美味しかった。地上にいたときは質素な食事をしていた。波都に来たばかりのときは贅沢な食事に驚いたものだ、
「戒砂の国というのは、どういうところなのですか? 波都では人の世とつながる岩場から湧き出るように穢れが流れ込んでおりました。戒砂のどこから穢れが流れ込んできているのか知りたいと思います」
「なるほど、生真面目なことだ。ますます紫陽花殿の価値が分かる」
「私は求められる仕事をするだけです。それから時春様、私のことは紫陽花とお呼びください。私はもう透璃様の妻ではございませんから」
「それは喜ばしいな、では紫陽花」
「はい」
「戒砂の国は波都とは異なり砂漠の中にある」
「サバク、ですか? すみません、私は聞いたことも見たこともありません」
紫陽花は波都の国から一歩も出たことがない。
「そうか、それは連れ帰るのが楽しみだ。今はあまり話さないでおこう、おまえを驚かせたいからな」
時春は馬を自在に操り、波都の国がどんどん離れていく。住み慣れた都の景色が遠のいていくと、紫陽花は急に不安になった。
私は本当に、波都にも透璃様にも必要がなくなってしまったのだ。
脳裏に浮かぶのは透璃と過ごした穏やかな日々だった。いつも隣には透璃が隣にいた。
国のことはふたりで常々話し合ってきた。
だが今となっては、透璃の横にいるのは自分ではない。もう、かけがえのなかったあの場所は紫陽花のものではなくなってしまった。
自然と目頭が熱くなる。大きな瞳からこぼれ落ちたしずくを、時春の大きな手が掬い取った。
「紫陽花、今のうちに泣いておけ」
「え……」
「戒砂にいけば、今おまえが感じている喪失感など、消えてなくなってしまうからな」
「そう、でしょうか」
「あたりまえだ、おまえの傍には、俺がいるのだから」
「時春様が……」
「紫陽花、俺は冗談でおまえを妻にしたいといったわけではない。おまえの心が俺に向いた時に、俺はもう一度おまえに求婚する。覚えていてくれ」
顔は見えなくとも、背中越しの時春の鼓動の音を感じた。
もしかしたら、時春様は本当に私のことを好いてくれているのかもしれない。そういえば、透璃様はどうだったのだろう。突然落ちてきた私を、仕方なく妻として迎えたのかもしれない。現に透璃からはただの一度も愛の告白を受けたことがない。
もう忘れよう。私は波都には必要のない人間だから。前を向くのだ、前だけを。それが、私を連れ出してくださった時春様への恩返しになる。
緑に染まっていた景色には次第に砂埃が混じるようになり、木々の姿が消えると景色は一変した。
「すごい、砂の大地……」
「これが砂漠だ。どうだ、美しいだろう?」
「はい、とても」
水の豊かな波都の国とは全く違う。砂に覆いつくされた大地は無機的でありながら自然の力強さを感じた。砂の上を進むと、遠くに揺れる緑が見える。
「見ろ、あれが戒砂だ」
「砂の上に木々が生えているのですか?」
「地下から水が湧き出しているのだ。戒砂の国は砂漠の中にありながら緑豊かで美しい国だ」
「すごいです……!」
目に映るすべてが新しい。時春がいうように、波都を出たときのような喪失感が消えていくような気がした。
「お帰りなさいませ時春様、お客様をお連れですか? おや、ずいぶんと別嬪ですね」
「お帰りなさい時春様」
通りを進むと人々が話しかけてくる。時春は国のひとから愛されているようであった。自ずと隣を歩く紫陽花にも興味を持たれる。
「高名な祈祷師を迎えてきたのだ」
紫陽花の肩を抱くと時春は人々にそう告げた。
「それはありがたい! 祈祷師様、どうかこの国をよろしくお願いいたします」
行く先々であたたかな声をかけられるのでなかなか屋敷へとたどり着かない。立派な門が見えてくるまでにかなり時間がかかった。屋敷の門をくぐるとこちらに向かって足早に駆けてくる足音がした。紫陽花と同じ年頃の若い男が顔を出す。
「時春様! ようやくお帰りですか。突然供も連れずに波都に向かわれたかと思ったら……って、もしかして本当に連れて帰ってきちゃったんですか!」
若い男は紫陽花を見て目を丸くし、それから頭を押さえた。
「何をやっているんですか。もう少し節操のある行動をしてください。下手をすれば戦になりかねませんよ」
「阿呆の透璃が奥方を離縁したのだ。だから俺が貰ってきた。なにも問題はない」
「なにを言っているんですか、大問題……って、え? 透璃様、紫陽花様を離縁なさったのですか? なぜ? どうして!」
「新しい花嫁が身ごもったそうだ」
「それで? それだけで? 紫陽花様を? とんでもない阿呆じゃないですか!」
「だから言っているだろう。透璃はとんでもない阿呆だが、おかげで俺は幸運を手にした。紫陽花殿を我が戒砂の祈祷師として迎え入れることにしたのだ」
「え、奥方ではなくて?」
「……すぐ妻にするわけにはいかない」
時春がバツの悪そうな顔をすると、若い男はニヤリと笑った。
「さては断られましたね」
「断られてはいない、まだ」
「求婚なさっていないのですか?」
「それは……したことにはしたが真面目に取り合ってもらえなかった」
「それはそうでしょうよ、時春様が透璃様の奥方に横恋慕していたのを知るのはこの国でも私くらいのものですから、ご本人は知る由もありません。突然の求婚を受け入れらるはずがありませんよ。離縁されてすぐとなれば気持ちの方も落ち着いてはいらっしゃらないでしょうし。それにしても祈祷師とは、上手くやりましたね。穢れに感謝しないといけませんね」
時春と若い男はこそこそと何やら話をしているが、紫陽花の耳には届かない。
「紫陽花、この男は月臣という。俺の片腕のような働きをしてくれている」
「ようこそ紫陽花様、歓迎いたります。私は月臣、時春様のお目付け役をかっております」
「よ、よろしくお願いします」
「紫陽花様、長旅でお疲れでしょう? すぐに部屋を整えさせますから、客間でお待ちいただいてもよろしいですか」
「俺の部屋でいいだろう」
「そういうわけにはいきませんよ、公私混同なさらないでください。紫陽花様は我が国の大事な祈祷師様ですから、屋敷のものに時春様の恋人だと勘違いされては困ります」
「本当に恋人になってくれたいいのだがな」
「時春様、紫陽花様も反応にお困りでしょう。申し訳ありません紫陽花様、どうぞこちらへいらしてください。時春様、客間を訪れる際はきちんとやるべきことを終えてからいらしてくださいよ。あなたが急に波都に行かれたものですから、机の上に書類が崩れそうなほど重なっております」
「わかったわかった、うるさいやつだな」
「うるさくもなります。では参りましょう紫陽花様」
「はい」
月臣に連れられ、客間に通された紫陽花は月臣に手紙を書くための筆と紙をお願いした。
「手紙……ですか?」
「はい、正妻になられた志保子さんに浄化の方法を教えたいのです。国にいる間にはうまく教えることが出来ませんでしたから」
紫陽花が答えると、月臣は驚いたように目を丸くした。
「透璃様はそんな状態で紫陽花様を離縁なさったというのですか?」
「志保子さんが私と一緒にいることに気まずい思いをされているようで……私も志保子さんにが祈祷を使えるようにと厳しく指導しすぎたかもしれません」
「そんなのあたりまえではありませんか! 浄化の祈祷はとても難しいのです。少々教えられたからといって簡単にできるものではございません。そもそも隠り世のものでは穢れは扱えない。私は正直波都が羨ましかったのですよ、紫陽花様のようなきちんとした浄化ができるかたがいらっしゃったので。その点で今回の時春様の横暴は評価できます」
「横暴ではありませんよ、時春様は透璃様から必要とされなくなった私の受け皿となってくださったのです」
「はあ、ご本人に自覚がないのも困ったものです。紫陽花様、あなたはもっとご自分のことを評価なさったほうがいいです。では、紙と筆をお持ちしますね。急いで送った方が波都のためにもなるでしょうし、恩を売るためにも一番早い馬に運ばせましょう」
「ありがとうございます月臣さん」
「月臣とお呼びください」
月臣から紙と筆を受け取ると、紫陽花は丁寧に祈祷の方法をしたためた。初めて見るものでもわかりやすいように難解な言葉をかみ砕く。書きあがった手紙を見た月臣は感嘆の声を上げた。
「同じものをもう一部用意していただけないでしょうか」
「それはかまいませんよ」
「助かります。紫陽花様のご負担を軽くするためにも知識を共有しておきたいと思います。素質も必要になると思うので、紫陽花様同等の浄化はできないでしょうけれど」
「それはありがたいことです。では、さっそくもう一部同じものを用意いたしますね」
同じものを書き終えると、一部を封に閉じ、波都へと送ってもらうことにした。
「月臣、この国の穢れはどこから入り込んできていますか? 少しでも早く浄化に取り掛かりたいと思います」
「紫陽花様、今日来られたばかりではありませんか。戒砂の穢れはあまりひどくありませんから、少しゆっくりされてください」
「でも、落ち着かないのです。私は時春様に祈祷師として雇われましたから」
「生真面目なお方だ。では少しだけお話いたしましょうか。汚染は国の北側にそびえる山麓から吹き降ろす風に乗って流れてきております。戒砂は元凶である山麓からかなり距離がありますので、穢れを散らすことが出来ていますが、浄化が出来ないので濃度はどんどん濃くなっていると思います。穢れの影響はご覧の通り、周りが砂の大地になっているのが証拠です」
「なるほど、あの、地図のようなものはありますか? 私には土地勘がなくて……」
「すぐにご用意しましょう」
部屋を出て行く月臣と入れ替わりに時春が尋ねてきた。
「時春様、お仕事は」
「終えてきた」
「あの量をですか! まあ、あなたならやりかねない。いつもそうやって本気を出してくれたよろしいのに」
時春は紫陽花の向かいに腰かけると紫陽花を見て微笑む。
「夢のような光景だ」
「夢、でございますか」
「いつかおまえとふたりで話をしたいと思っていた」
「それは、すぐに叶うことではありませんか」
「容易いことではなかった。透璃はおまえを俺には会わせたがらなかったからな」
「そうなのですか、なぜ……」
「さあな」
とぼける時春には答えが分かっているようであった。思わぜぶりな時春の態度を紫陽花は気にも留めない。
「あの侍女に迎えを送った。おまえの荷もすぐにつくだろう。他に必要なものがあればなんでも言え」
「あ、ありがとうございます。荷が届けばそれだけで。那魚が来てくれるなら言うことは何もありません」
「そうか、無欲なものだ。おまえに相応の対価を支払いたいのだが、なにが良い?」
「浄化のでしょうか? それでしたら何もいりません。ただ、この国に置いていただけるなら」
「そういうわけにはいかないだろう」
「波都ではそうでしたから。あたりまえのことかと」
「それは、おまえが透璃の妻であったからで、この国では当然のことではない。対価を払う。受け取るのが嫌なら俺の妻になれ」
「それは……」
紫陽花が答えに困っていると、ガタリと音を立てて障子戸が開いた。入ってきたのは不機嫌そうな顔をした月臣だ。
「時春様、その脅しはどうかと思います」
「おまえにどう思われてもかまわん」
「紫陽花様が困っておいでです。そのように婚姻を迫れるなど、高貴な黒龍にあるまじき姿。幻滅いたします」
「おまえに幻滅されてもかまわない」
「紫陽花様が幻滅なさいます」
月臣がそう答えると時春はうろたえたように紫陽花を見た。
「それは悪いことをした。おまえの気持ちを蔑ろにしたいわけではない」
「はい、承知しております。婚姻の方はまだ心の準備が出来ておりません。離縁して間もないことですし、しばらくは無心になりたいのです」
そもそも、時春が本当に自分を妻にしたいと思っているとは思っていない。冗談の類だろう。真面目に受け取るものではない。
「そうか、わかった。俺は紫陽花の気持ちを尊重する」
「くれぐれも早まらないでくださいね」
「わかっている」
月臣に釘を刺され、時春は苦い顔をした。
日中は暑さを感じたのに、陽が落ちると急に寒さを感じるようになる。波都に比べて、戒砂は寒暖差の激しい国だった。紫陽花は時春が用意してくれた羽織で暖をとる。薄い生地には時春の力が込められているようで、触れるとほのかな温かさを感じた。
障子越しに淡い月の光が見える。今日一日で自分の在り方がずいぶんと変化してしまった。
もしも時春様がいらしてくれなかったら、私は北の離れでなにをしていたのだろう。
誰からも必要とされず、ただ生きるだけの日々はつらいものだったかもしれない。そう思うと、今戒砂にいられることを感謝せずにはいられない。少々強引ではあったが、時春は確かに紫陽花の恩人だった。
月の明かりを頼りに地図を眺める。
「穢れのもとはどこかしら」
浄化を進めるため、紫陽花は地図にをたどった。
「ここからは馬で行く。紫陽花殿は馬に乗ったことはあるか?」
「いえ、初めてです。乗れるでしょうか」
「安心しろ、俺は馬の扱いも国一だ。この馬は戒砂でも随一の早馬だ。空を飛ぶように駆けるように走るからな、すぐに国につく」
時春は紫陽花を馬に乗せると、自分も紫陽花の後ろに乗る。
「私が乗っていて重くありませんか?」
「紫陽花殿は軽すぎるくらいだ。もう少ししっかり食べた方がいい」
「きちんと食べております」
「戒砂は食事も旨い。紫陽花殿にも堪能してもらいたい」
波都の食事も美味しかった。泉の底では魚や水の中に生息する植物が主食である。用意される食事はどれも新鮮で美味しかった。地上にいたときは質素な食事をしていた。波都に来たばかりのときは贅沢な食事に驚いたものだ、
「戒砂の国というのは、どういうところなのですか? 波都では人の世とつながる岩場から湧き出るように穢れが流れ込んでおりました。戒砂のどこから穢れが流れ込んできているのか知りたいと思います」
「なるほど、生真面目なことだ。ますます紫陽花殿の価値が分かる」
「私は求められる仕事をするだけです。それから時春様、私のことは紫陽花とお呼びください。私はもう透璃様の妻ではございませんから」
「それは喜ばしいな、では紫陽花」
「はい」
「戒砂の国は波都とは異なり砂漠の中にある」
「サバク、ですか? すみません、私は聞いたことも見たこともありません」
紫陽花は波都の国から一歩も出たことがない。
「そうか、それは連れ帰るのが楽しみだ。今はあまり話さないでおこう、おまえを驚かせたいからな」
時春は馬を自在に操り、波都の国がどんどん離れていく。住み慣れた都の景色が遠のいていくと、紫陽花は急に不安になった。
私は本当に、波都にも透璃様にも必要がなくなってしまったのだ。
脳裏に浮かぶのは透璃と過ごした穏やかな日々だった。いつも隣には透璃が隣にいた。
国のことはふたりで常々話し合ってきた。
だが今となっては、透璃の横にいるのは自分ではない。もう、かけがえのなかったあの場所は紫陽花のものではなくなってしまった。
自然と目頭が熱くなる。大きな瞳からこぼれ落ちたしずくを、時春の大きな手が掬い取った。
「紫陽花、今のうちに泣いておけ」
「え……」
「戒砂にいけば、今おまえが感じている喪失感など、消えてなくなってしまうからな」
「そう、でしょうか」
「あたりまえだ、おまえの傍には、俺がいるのだから」
「時春様が……」
「紫陽花、俺は冗談でおまえを妻にしたいといったわけではない。おまえの心が俺に向いた時に、俺はもう一度おまえに求婚する。覚えていてくれ」
顔は見えなくとも、背中越しの時春の鼓動の音を感じた。
もしかしたら、時春様は本当に私のことを好いてくれているのかもしれない。そういえば、透璃様はどうだったのだろう。突然落ちてきた私を、仕方なく妻として迎えたのかもしれない。現に透璃からはただの一度も愛の告白を受けたことがない。
もう忘れよう。私は波都には必要のない人間だから。前を向くのだ、前だけを。それが、私を連れ出してくださった時春様への恩返しになる。
緑に染まっていた景色には次第に砂埃が混じるようになり、木々の姿が消えると景色は一変した。
「すごい、砂の大地……」
「これが砂漠だ。どうだ、美しいだろう?」
「はい、とても」
水の豊かな波都の国とは全く違う。砂に覆いつくされた大地は無機的でありながら自然の力強さを感じた。砂の上を進むと、遠くに揺れる緑が見える。
「見ろ、あれが戒砂だ」
「砂の上に木々が生えているのですか?」
「地下から水が湧き出しているのだ。戒砂の国は砂漠の中にありながら緑豊かで美しい国だ」
「すごいです……!」
目に映るすべてが新しい。時春がいうように、波都を出たときのような喪失感が消えていくような気がした。
「お帰りなさいませ時春様、お客様をお連れですか? おや、ずいぶんと別嬪ですね」
「お帰りなさい時春様」
通りを進むと人々が話しかけてくる。時春は国のひとから愛されているようであった。自ずと隣を歩く紫陽花にも興味を持たれる。
「高名な祈祷師を迎えてきたのだ」
紫陽花の肩を抱くと時春は人々にそう告げた。
「それはありがたい! 祈祷師様、どうかこの国をよろしくお願いいたします」
行く先々であたたかな声をかけられるのでなかなか屋敷へとたどり着かない。立派な門が見えてくるまでにかなり時間がかかった。屋敷の門をくぐるとこちらに向かって足早に駆けてくる足音がした。紫陽花と同じ年頃の若い男が顔を出す。
「時春様! ようやくお帰りですか。突然供も連れずに波都に向かわれたかと思ったら……って、もしかして本当に連れて帰ってきちゃったんですか!」
若い男は紫陽花を見て目を丸くし、それから頭を押さえた。
「何をやっているんですか。もう少し節操のある行動をしてください。下手をすれば戦になりかねませんよ」
「阿呆の透璃が奥方を離縁したのだ。だから俺が貰ってきた。なにも問題はない」
「なにを言っているんですか、大問題……って、え? 透璃様、紫陽花様を離縁なさったのですか? なぜ? どうして!」
「新しい花嫁が身ごもったそうだ」
「それで? それだけで? 紫陽花様を? とんでもない阿呆じゃないですか!」
「だから言っているだろう。透璃はとんでもない阿呆だが、おかげで俺は幸運を手にした。紫陽花殿を我が戒砂の祈祷師として迎え入れることにしたのだ」
「え、奥方ではなくて?」
「……すぐ妻にするわけにはいかない」
時春がバツの悪そうな顔をすると、若い男はニヤリと笑った。
「さては断られましたね」
「断られてはいない、まだ」
「求婚なさっていないのですか?」
「それは……したことにはしたが真面目に取り合ってもらえなかった」
「それはそうでしょうよ、時春様が透璃様の奥方に横恋慕していたのを知るのはこの国でも私くらいのものですから、ご本人は知る由もありません。突然の求婚を受け入れらるはずがありませんよ。離縁されてすぐとなれば気持ちの方も落ち着いてはいらっしゃらないでしょうし。それにしても祈祷師とは、上手くやりましたね。穢れに感謝しないといけませんね」
時春と若い男はこそこそと何やら話をしているが、紫陽花の耳には届かない。
「紫陽花、この男は月臣という。俺の片腕のような働きをしてくれている」
「ようこそ紫陽花様、歓迎いたります。私は月臣、時春様のお目付け役をかっております」
「よ、よろしくお願いします」
「紫陽花様、長旅でお疲れでしょう? すぐに部屋を整えさせますから、客間でお待ちいただいてもよろしいですか」
「俺の部屋でいいだろう」
「そういうわけにはいきませんよ、公私混同なさらないでください。紫陽花様は我が国の大事な祈祷師様ですから、屋敷のものに時春様の恋人だと勘違いされては困ります」
「本当に恋人になってくれたいいのだがな」
「時春様、紫陽花様も反応にお困りでしょう。申し訳ありません紫陽花様、どうぞこちらへいらしてください。時春様、客間を訪れる際はきちんとやるべきことを終えてからいらしてくださいよ。あなたが急に波都に行かれたものですから、机の上に書類が崩れそうなほど重なっております」
「わかったわかった、うるさいやつだな」
「うるさくもなります。では参りましょう紫陽花様」
「はい」
月臣に連れられ、客間に通された紫陽花は月臣に手紙を書くための筆と紙をお願いした。
「手紙……ですか?」
「はい、正妻になられた志保子さんに浄化の方法を教えたいのです。国にいる間にはうまく教えることが出来ませんでしたから」
紫陽花が答えると、月臣は驚いたように目を丸くした。
「透璃様はそんな状態で紫陽花様を離縁なさったというのですか?」
「志保子さんが私と一緒にいることに気まずい思いをされているようで……私も志保子さんにが祈祷を使えるようにと厳しく指導しすぎたかもしれません」
「そんなのあたりまえではありませんか! 浄化の祈祷はとても難しいのです。少々教えられたからといって簡単にできるものではございません。そもそも隠り世のものでは穢れは扱えない。私は正直波都が羨ましかったのですよ、紫陽花様のようなきちんとした浄化ができるかたがいらっしゃったので。その点で今回の時春様の横暴は評価できます」
「横暴ではありませんよ、時春様は透璃様から必要とされなくなった私の受け皿となってくださったのです」
「はあ、ご本人に自覚がないのも困ったものです。紫陽花様、あなたはもっとご自分のことを評価なさったほうがいいです。では、紙と筆をお持ちしますね。急いで送った方が波都のためにもなるでしょうし、恩を売るためにも一番早い馬に運ばせましょう」
「ありがとうございます月臣さん」
「月臣とお呼びください」
月臣から紙と筆を受け取ると、紫陽花は丁寧に祈祷の方法をしたためた。初めて見るものでもわかりやすいように難解な言葉をかみ砕く。書きあがった手紙を見た月臣は感嘆の声を上げた。
「同じものをもう一部用意していただけないでしょうか」
「それはかまいませんよ」
「助かります。紫陽花様のご負担を軽くするためにも知識を共有しておきたいと思います。素質も必要になると思うので、紫陽花様同等の浄化はできないでしょうけれど」
「それはありがたいことです。では、さっそくもう一部同じものを用意いたしますね」
同じものを書き終えると、一部を封に閉じ、波都へと送ってもらうことにした。
「月臣、この国の穢れはどこから入り込んできていますか? 少しでも早く浄化に取り掛かりたいと思います」
「紫陽花様、今日来られたばかりではありませんか。戒砂の穢れはあまりひどくありませんから、少しゆっくりされてください」
「でも、落ち着かないのです。私は時春様に祈祷師として雇われましたから」
「生真面目なお方だ。では少しだけお話いたしましょうか。汚染は国の北側にそびえる山麓から吹き降ろす風に乗って流れてきております。戒砂は元凶である山麓からかなり距離がありますので、穢れを散らすことが出来ていますが、浄化が出来ないので濃度はどんどん濃くなっていると思います。穢れの影響はご覧の通り、周りが砂の大地になっているのが証拠です」
「なるほど、あの、地図のようなものはありますか? 私には土地勘がなくて……」
「すぐにご用意しましょう」
部屋を出て行く月臣と入れ替わりに時春が尋ねてきた。
「時春様、お仕事は」
「終えてきた」
「あの量をですか! まあ、あなたならやりかねない。いつもそうやって本気を出してくれたよろしいのに」
時春は紫陽花の向かいに腰かけると紫陽花を見て微笑む。
「夢のような光景だ」
「夢、でございますか」
「いつかおまえとふたりで話をしたいと思っていた」
「それは、すぐに叶うことではありませんか」
「容易いことではなかった。透璃はおまえを俺には会わせたがらなかったからな」
「そうなのですか、なぜ……」
「さあな」
とぼける時春には答えが分かっているようであった。思わぜぶりな時春の態度を紫陽花は気にも留めない。
「あの侍女に迎えを送った。おまえの荷もすぐにつくだろう。他に必要なものがあればなんでも言え」
「あ、ありがとうございます。荷が届けばそれだけで。那魚が来てくれるなら言うことは何もありません」
「そうか、無欲なものだ。おまえに相応の対価を支払いたいのだが、なにが良い?」
「浄化のでしょうか? それでしたら何もいりません。ただ、この国に置いていただけるなら」
「そういうわけにはいかないだろう」
「波都ではそうでしたから。あたりまえのことかと」
「それは、おまえが透璃の妻であったからで、この国では当然のことではない。対価を払う。受け取るのが嫌なら俺の妻になれ」
「それは……」
紫陽花が答えに困っていると、ガタリと音を立てて障子戸が開いた。入ってきたのは不機嫌そうな顔をした月臣だ。
「時春様、その脅しはどうかと思います」
「おまえにどう思われてもかまわん」
「紫陽花様が困っておいでです。そのように婚姻を迫れるなど、高貴な黒龍にあるまじき姿。幻滅いたします」
「おまえに幻滅されてもかまわない」
「紫陽花様が幻滅なさいます」
月臣がそう答えると時春はうろたえたように紫陽花を見た。
「それは悪いことをした。おまえの気持ちを蔑ろにしたいわけではない」
「はい、承知しております。婚姻の方はまだ心の準備が出来ておりません。離縁して間もないことですし、しばらくは無心になりたいのです」
そもそも、時春が本当に自分を妻にしたいと思っているとは思っていない。冗談の類だろう。真面目に受け取るものではない。
「そうか、わかった。俺は紫陽花の気持ちを尊重する」
「くれぐれも早まらないでくださいね」
「わかっている」
月臣に釘を刺され、時春は苦い顔をした。
日中は暑さを感じたのに、陽が落ちると急に寒さを感じるようになる。波都に比べて、戒砂は寒暖差の激しい国だった。紫陽花は時春が用意してくれた羽織で暖をとる。薄い生地には時春の力が込められているようで、触れるとほのかな温かさを感じた。
障子越しに淡い月の光が見える。今日一日で自分の在り方がずいぶんと変化してしまった。
もしも時春様がいらしてくれなかったら、私は北の離れでなにをしていたのだろう。
誰からも必要とされず、ただ生きるだけの日々はつらいものだったかもしれない。そう思うと、今戒砂にいられることを感謝せずにはいられない。少々強引ではあったが、時春は確かに紫陽花の恩人だった。
月の明かりを頼りに地図を眺める。
「穢れのもとはどこかしら」
浄化を進めるため、紫陽花は地図にをたどった。