――あの人形を処分頂けませんか

真っ先に思い浮かんだのは「やべえことになっちまったな」という感想。
「私も初めてのことなので少し待ってください」という旨のメールを返し、うーむとうなった。すでにプロットは切り終わり、本文も8000字ほど進んだ。人形を参考にしなければならないシーンもある程度フレームワークができていた。

人形を見る。アイスブルーの目は、こちらに焦点を合わせることは無かった。
なんとなく席を立ち、壊れた右手を手に取る。傷口はほぼ垂直に、強い力で折られたように見えた。人形には簡単なメイクが施されていたが、手の甲には無理やり削られたような跡があった。踏みつけた、あるいは叩いたのだろう。それも何度もやっている。
その日の夜、出品者から返信が届いた。

「ごめんなさい。お願いします。」
いよいよ途方に暮れた私は、知り合いに相談することにした。


ところで、会うたびにつまらん人間になっていく職業というのがある。
プログラマ、特に独学のやつ。それからパブリックの立場が求められる接客業。
彼女は残念ながら独学のプログラマだった。さらに悪いことには今はホテルの受付だった。そして最悪なことには、気のある男にネコを被る女性だった。

「また傷が増えたんじゃない?」
開口一番、こちらを見て彼女――江川は顔をしかめやがった。
そうして無駄に洒落た喫茶店の法外に高価なラテをすすりながら、私の方に伝票を置く。相談を持ち掛けた側が奢る、というのが私たちの暗黙の了解だった。
「テイザーガンだ」と返すと、派手に鼻を鳴らされたのを覚えている。

警備会社の取材のときに、ふざけた同僚に撃たれた。
250万ボルトの電圧で全身を絞られながら床とキスするというのは、控えめに言ってじつにいい体験だった。おかげでまるまる3日は胃と右手の痙攣が続いた。

まあ、私は冒険をしなければ生きていけず、彼女は安定しなければ落ち着けない人間だった。昔はともかく、今は1杯のドリンク越しに会話する程度の関係になっていた。
彼女がラテを飲み終えたあたりで雑談は切り上げ、真面目な話に移ることにした。

「なんか、変なヒトだね」というのが例のメールを見た江川の感想だった。

出品者の「Meris1254」というアカウントは、オークションサイトでこれまでに80回ほど出品経験があった。どの品物も落札されており、アカウントの評価を見ても、目立ったトラブルは無かったらしい。
たしかに、支払い請求のやり方が分からない人間ではない。

盗品か? と彼女が聞くので、いやと返した。
人形を整備したときにウィッグを外したら、ヘッドに製造業者のプレートが残っていた。
調べたところ、製造年月と購入店舗の情報がシリアルナンバーと共に刻印されており、その気になれば簡単に個人情報が抜き取れるものらしい。
福岡県の店舗で、2018年に購入されたとのことだった。Meris1254から教えられた銀行口座も、福岡県の信用金庫だった。盗品ならば、こんな身近なところで出所のバレるものは出品しないだろう。

「なんでそこまで分かってるのに調べないの?」
去り際に江川に言われた。そこまで性格は悪いつもりじゃない、と返すと、「つまらない野郎になったなあ」とあきれたように笑われた。

その一言で私はたぶん、かちんと来たのだと思う。

「近いうちに処分します。手続きが終わったらまた連絡いたします。」
自宅に帰ってすぐ、Meris1254にメールを返して、私は人形を机に置いた。
持ち主から修理もせずに放置された哀れな人形だ。ちょっとくらい、代わりに復讐してやってもバチは当たらないだろう。幸い、手がかりはいくらでもあった。

冒険に慣れた男が、八つ当たり100パーセントの善行を積むには充分だ。