その日は雨だった 。

 地に降り注ぐ雫は、
 まるで誰かが流す涙のようで───




 今日は朝から、なぜか酷く胸がざわついていた。

  胸の中になぜかとめどなく溢れだす不安の感情。 その感情にどう向き合えば良いのか分からなくて、縁側でただただ目の前で降り続ける雨を私は見つめる。

  ふいに、後ろから温かなぬくもりに包み込まれた。それと同時に香る大好きな匂いに胸の中までも温かくなるのを感じる。


『…お兄ちゃん』

『雨、止みそうにないな』


 目の前で降る雨はけして酷くはないけれども、 雲がどこまでも空を覆っていて止む兆しはない。それがなんだか無性に悲しく感じてしまう。

 そんな私の想いはお兄ちゃんには筒抜けのようで、 労るように繊細な指が私の頬に触れ優しく撫で、その手にそっと自分の手を重ねれば私を抱きしめる腕は更に強まった。


『浮かない顔してたけど、どうしたんだ?』

『…………っ』


 やっぱりお兄ちゃんにはお見通しみたい。でも、今の自分の気持ちをどう話していいか分からなくて言葉に詰まる。

 だって…、余計な心配をかけたくない。

  お兄ちゃんはここ一年程体調が悪くて、日に日に身体が弱っていってるから…心配をかけないようにいつも明るくふるまってくれているけれども、今こうして立っているのも本当は辛いって事を私は知っている。


  『…雨でお布団が干せなかったから、残念だなって思ってただけだよ』


  努めて明るく振るまう。でもそんなのやっぱりお兄ちゃんにはすべてお見通し。

 身体をお兄ちゃんの方にやんわりと向かされ、額にそのままそっと優しく口付けられる。頬を優しく触れる指先に温かさとほんの少しのくすぐったさを感じていたら 、私よりも幾分も高い背をかがめ、そのままおでこをくっつけながら労るような優しい眼差しを向けられた。


  『……言いたくなかったら言わなくても構わない。でも無理に一人では抱え込まんでほしい』


 そう言ってまた包み込むように優しく抱きしめられる 。

 ああ、温かい
 この腕の中にずっと居たい
 この温かさを失いたくない

 そんな感情が頭の中をかけめぐる。

 温かくて、こんなにも温かくて幸せなのに、それでもなぜか不安は収まらない。縋るようにお兄ちゃんの背中に腕を回し、お兄ちゃんのお着物を震えるようにぎゅっと掴む。


『寧々?』

『………ごめんなさい、寧々にもよく分からないの。怖くて……なんだか、お兄ちゃんが居なくなっちゃいそうで……ッ』

『オイラが?』


 ぎゅうっと背に回した腕に力を込める。言葉にしたら余計に怖くなってしまった。


  ”お兄ちゃんが居なくなる”

 それが朝からずっと私が抱えている不安だった 。


 なぜそう思ってしまったのかは分からない 。でも、なぜか朝起きた時から胸騒ぎがずっと収まらないの。理由なんてないのに。

 お兄ちゃんが居なくなる…、そう考えるだけで心臓が押し潰されそうになる程苦しくなった 。脳裏にはふと離れ離れになってしまっていた時の事まで流れはじめて心が押しつぶされそうな感覚に飲み込まれそうになる。
 
 嫌、もうあんな風に離れたくなかった。


『……ッ』


  一度言葉にしてしまったらもう気持ちが抑えられなくて、心配をかけたくないのに、溢れだす感情が止められなくて必死に縋るようにお兄ちゃんに抱きついてしまう 。


『…寧々』

『…!』


 そんな私を慰めるように頭を優しく撫でてくれるお兄ちゃん。そのままやんわりと腕をとかれ、気付くと目元にはお兄ちゃんの柔らかい唇が触れていて、その時初めて自分の瞳から涙が流れていた事を自覚した。繊細に指先でもそっと涙を拭われる。


『お兄ちゃん…』

『ごめんな、不安にさせちまってたな…』

『!ううんッ…違う、違うの、お兄ちゃんは何も悪くないの。ただ、寧々が………急に……本当に急にそんな考えになっちゃっただけで…… …わっ!』


 不意に身体が浮く感覚 。

 突然の浮遊感に戸惑いわたわたするもそのまま身体はすぐにある所に着地した 。お兄ちゃんのお膝の上だ 。

 どうやらお兄ちゃんは私を横抱きにし、縁側に座り込んだようだ。その体制のまま、また優しく頭を撫でられる。


『へへっ…、寧々は本当に軽いなぁ』

『おっ…お兄ちゃん…無理しちゃだめだよ……!』

『無理なんかしてねぇって、今日は身体の調子がいいんだ』

『でも…』


 心配の言葉を口にする私を遮るように今度は力強く身体を抱きしめられる 。


『……居なくなったりなんてしないよ』

『!』

『オイラが寧々と一緒に居たいんだ。居なくなったりなんて絶対しない。オイラも寧々と離れ離れになるなんて二度とごめんだ…』


 そう安心させるような慈しむような優しい声に言葉に、また鼻の奥がツンとなる。 震える手を抑えるように目の前のお着物をぎゅっと掴めば、更に力強く抱きしめられてお兄ちゃんはちゃんとここに居るんだってやっと少し 安心する事が出来た気がする。

 降りしきる雨音の中、とくんとくんと静かに聞こえる鼓動に耳をすます。


 鼻に香る大好きな匂い
 身体全体に伝わる優しいぬくもり
 心の中に光が灯る
 温かい 温かい


『お取り込み中の所悪いのだが、そろそろ修行の時間よのう』

『ッ!』

『……ばぁちゃん』


 お兄ちゃんの腕の中があまりにも心地よくて甘えるようにすり寄っていたら、ふいに横から透き通るような声。

 慌てて声のする方を振り向けば、思ったよりもすぐそばでしゃがんでこちらに笑顔を向けているお師匠様(竜神様)がおり、私は大慌てになる 。


『おッお師匠様!』

『こんにちわ、寧々』

『………わりぃがばぁちゃん、修行はもう少し待ってくれねえか、見ての通り今”お取り込み中”なんだよ!』


 慌てる私とは対照的にさっきまでの優しい声色とは全く違った少しムッとしたようなお兄ちゃんの声が強い口調で言う。

 なっなんで少し怒ってるのかな。
 

『ふふ ご機嫌斜めのようじゃのう薙翔』

『当たり前だろ、分かっててやってるくせに…、修行までまだ時間あるじゃねぇか、ほんとばぁちゃんて底意地が悪いよな』

『おっお兄ちゃん…』

『さすが世の愛弟子、よく分かっておるのう』

『誉めるなっつーの!』


 どうやらまた私たちはお師匠様にからかわれているみたいだった。 お師匠様はこうして時々私達をからかって遊ぶところがあるの。

 目の前のお師匠様はにこにことなんとも楽しげで、でもなにはともあれお師匠様の前でいつまでもこのような体制で居るのはあまりにも無礼だと思い、慌てて立ち上がろうとするも、身体を抱きしめる力強い腕がそれを許してはくれなかった。


『”お取り込み中”! いくら偉い神様だからって、空気位読んでくれよな』

『お兄ちゃん…ッ! すっすみませんお師匠様!』

『ふふふ、良いのだよ寧々。余は薙翔のこういう素直な性格を気に入っておるからのう』


 慌てる私とは対象的にどこまでも楽しそうなお師匠様。

 そのままなにやら満足したのかお師匠様は緑色の美しい長髪をたなびかせながら鼻歌を歌い、その場をさっさっと去ってしまった。今の時間は果たしてなんだったのか。

 お師匠様の去った後をぼーっと眺める私達


『……ばぁちゃんてほんと変な奴』

『おっお兄ちゃん…神様に失礼すぎるよ…』

『えー、悪いのはばぁちゃんだろ』

『でっ…でも…』

『………分かったよ、後でばぁちゃんにはちゃんと謝っておくから』


 そう言い、また身体を抱きなおされながら今度はおでこらへんに頬を擦り寄せられる。

 さっきまでの心の温かさが再び蘇ると共に頬がかっと赤く染まる お師匠様には…申し訳ないとは思いつつも、もう少し甘えていたいという気持ちとまだ心の奥底にかすかにある不安をどうしても消す事も出来なくて、私はお兄ちゃんの首元にまた甘えるように擦り寄ってしまう 。


『海に行きたいな』

  海?

 ふいにそう告げられ呆気にとられたような声が出てしまった


『前に一緒に行きたいって話してたの覚えてないか?オイラ達、それぞれ海を見た事はあるけど一緒には見たことないだろ』


 そう言われ少し前にそんな話を他愛もない会話の中でした事を思い出す。確かテレビで海の特集をやっていてそれを見ていて出た話題。 あの時もお互いが見た海の話ですごく盛り上がったっけ。


 初めて見た海はすごく広くて、大きな水の塊に初めはすごく驚いたけど、夕日が反射してきらきらと輝く海がとてもきれいでお兄ちゃんと見たかったなと思ったのを思い出す。

  そんな過去の想い出に少し浸っている私に 海だけじゃねえんだとお兄ちゃんは話を続けた。


『寧々とさ…、一緒に行きたい場所たくさんあるんだよ。会えなかった100年の間に色んな物にふれて、一緒に見たいなって思った物がいーっぱいあるんだ。寧々の好きそうな物たくさんたくさん見つけてさ!』

『!寧々も、お兄ちゃんと一緒に行きたい場所いっぱいあるよ!』

『へへッそいつは楽しみだな。寧々のおすすめの場所すげえ見てえ!』


  楽しそうに頭上で弾む声に私もすごく嬉しくなって顔をあげれば、透き通るような瑠璃色の瞳がどこまでも慈しむように優しくこちらを見つめ揺らめいた 。


『……だからさ、オイラは消えたりなんかしないよ。寧々とやりたい事、行きたい場所、こんなにたくさんあるのに消えたりなんかしない。 それに…』


  どこまでもゆらめく美しい瑠璃色の瞳に吸い込まれそうになっていると心と共に唇にも温かなものを落とされる。


『寧々の事……………… …………………………ねぇもんな』

『…っ………わっ!』


  触れた唇と心に溢れるぬくもりに頬を赤く染めると同時にいきなり頭上からなにやら布のような物を被せられた。


『名残惜しいけど、そろそろ修行の時間だな。悪いけどオイラの羽織預かっててくれ。んじゃちーっと行ってくんな!』


 布ごしに再び頭を優しく撫でられ、お兄ちゃんはそのまま部屋を後にしてしまった。

 一人残る私は雨音よりも自身の中で響く心臓の音を抑えるようにお兄ちゃんの羽織をただただぎゅっと握りしめる。 早鐘のように鳴る心臓の音をどうにか落ち着かせようと深呼吸しつつも、先程告げられた言葉に思わず口角があがるのを抑えられなかった。


『……寧々も、お兄ちゃんの…… ……………………たいな』


  胸の中にまた温かな光が灯るのを感じた










『………うっ…けほっ…ごほっ』


 冷たい廊下の中小さく響く音 少しでもその音を抑えたくて、着物の袖を口元に必死に当てて抑える。 うなだれるように壁際に座り込んでいるとふいにすぐそばに気配と共に慣れ親しんだ匂いを感じ顔をあげれば、いつもと変わらない左右非対称の瞳がこちらを見下ろしていた。


『気分が悪そうじゃのう』

『別に…こんな……もの…少し休めば……、けほっ………すぐ収まる…』

『まったく…お前は寧々の事になるといつもそうじゃの。せっかく余が心配して足を運んでやったというに、構わず無理をするからじゃぞ』

『……よく言うよ、からかいたかっただけの癖して』

『ふふふ』


 さして気にもとめていない様子で心配などと口にするものだから、少しイラ立ちを募らせつつもばぁちゃん相手には無駄な時間だと判断し、ただ呼吸を整える事だけに意識を集中させる事にする。冷たい壁が心地よく、背を預け息を整えながらまぶたを閉じた 。

 閉じた先、暗闇の中浮かび上がるのは先程まで共に居た誰よりも愛おしい存在。 その姿を思い浮かべるだけで心の中がこんなにも温かくなるのを感じる。身体の辛さなどどうでも良かった。

 まぶたの裏で姿を思い浮かべる。それだけでこんなにも幸せを与えてくれる。いつだってオイラの心に力を与えてくれるのは寧々の存在なんだ。

 初めて寧々に会った時の事を思い出す。 この世に生を受け、産まれて初めてオイラが目にしたもの それが寧々だった。


 オイラよりも小さく、震えながら今にも息絶えそうな命がそこにはあって 、母猫が育児放棄をしたのか、はたまた無理やり引き離されたのかどちらかは分からないが、産まれたての子猫の環境にはあまりにもそぐわない場所。

 オイラもそんな中、寧々を目にしながら小さいながらに自分の命は今終わりを迎えようとしているのだとなんとなく悟っていた。

 でも、オイラの目の前に居る寧々は違った。 寧々は──必死に生きようともがいていた。


 小さな身体で一生懸命呼吸をする小さな命。

 悟ったオイラとは違う。 目の前にはか細いながらも懸命に生きようとする命が確かにそこにはあった。あの頃は胸の中にうまれた感情がなんなのかなんて幼すぎて分からなかったけど、今なら分かる。

 あの時オイラは、目の前で必死に生きようとする寧々を見て”オイラも生きたい”と、そう強く願えたんだ。


 その時からずっと寧々はオイラにとって光だった。

 どんなに辛い環境も寧々が頑張って生きる姿を見たらオイラにも生きる力が湧いた。 寧々が生きてるから、あの恐ろしい飼い主にも、未知の外の世界にも立ち向かう勇気がもてたんだ。

 100年の地獄のような孤独な月日も、再び寧々の元気な姿が見れるはずだとその願いを捨てずに生きてこれたから。すべて…、寧々が居てくれたからどんな事だって耐えられた。

 初めて出会ったあの日、寧々がオイラに ”生きる強さ”を見せてくれたから、だからこんなにも生きたいと願えた。 すべて寧々が居てくれたから。

 あの頃のオイラは、ただ寧々が元気に笑って生きていてくれたら 、それだけで良かったんだ。

  他には何も望まない。ただ寧々が生きていてくれたら。


 それなのに、一体いつからこうなってしまったのだろう。


 確かにオイラの中にあったはずのあの頃の純粋な思いは、いつのまにか酷く醜く歪みどこまでも果てしない欲望が寧々のすべてを欲してしまうように。

  「生きていてくれるだけで」

  そんな言葉、もう頭の片隅にもどこにも存在しない。

 そばにいたい
 他の誰にも渡したくない
 自分だけを想い続けてほしい
 誰の目にも触れさせたくない
 寧々のすべてが欲しくてたまらない

  欲しい欲しい欲しい欲しい欲しい

  いっその事その全てを”喰らって”しまいたい。


『………ほんと、オイラはどうしてこんなにも醜いんだろうな…』


 頬を伝う雫が地に落ちる。何度涙を流した所でこの気持ちを完全に消す事は出来ない。その事実がどこまでもオイラの心を地獄へと叩き落とす。

 今オイラに出来る事はただ1つ、必死に抗う事。
 
 ただそれだけ。例えどんなに醜く歪もうと 寧々の幸せを願うこの気持ちだけはオイラの中の唯一の”本物”だから 。


『なぁ、ばあちゃん…本当に大丈夫なの…か?』


  オイラが消えてしまうのが怖い。 そう告げる寧々の言葉に本当は酷く動揺した。 オイラも朝からずっと心の中に似た不安を持ち合わせていたから。

 7つめの黒曜石。

 これを埋めてしまったら…、もう戻れなくなってしまうような、そんな不安をオイラもずっと拭えずにいたから。


『薙翔は心配性よのう。余がいれば問題ないと言っておろう。それよりも、そなたは寧々の事だけ考えておればよい。 それとも…、まさか今更後悔しておるのか?』

『…相変わらず意地悪だな。後悔なんてオイラがしてる訳ないだろ』

『ふふ…そうであろうな』


  先程までの想いが再び蘇る。 後悔なんてする訳がない。

  醜く歪むオイラに出来る事なんてこれくらいしかないのだ 。この心を押しつぶされそうな漆黒の闇も身体に走る苦しみもすべて罰だ 。すべて、純粋な想いを持ち続ける事が出来ないオイラへの罰 。


『それで良い。どのみちもう後戻りは出来ぬ。寧々を”喰らいたくなくば、共に生きたいとそう強く願うならば”そなたは修行を受ける道以外選ぶ事はけして出来ぬのだから』


 ばぁちゃんの言葉が酷く心に重くのしかかる。 そう、オイラに選択肢なんかない。 ただ前に進むだけ…、ただ前を見据えるしかないのだと覚悟を決める。


『心の準備は出来たか?安心せい、そなたに何が起ころうとも余が居るに』

『…ああ、わかってる。頼むなばぁちゃん』

『ふふ』


 決意を胸に修行部屋へと歩みをすすめる。
 もう戻る事は出来ない。











『…お兄ちゃんの匂いがする』

 被せられた羽織を大切に握りしめ、縁側でふりしきる雨をただただ見つめた。

 この雨が誰かが流した涙でないようにと
 そう願う私の思いも虚しく 時は一刻一刻と迫っているのであった────