「ずっと部屋にこもっているだろう。庭は眺めるのも良いが、歩いてみるのも良い」


あれほど冷たかったのが噓のように言葉がやさしかった。

あたたかな音色に少女が顔をあげると、光の粒をまとう美しい髪と、涼やかな横顔に魅入ってしまった。

月冴が視線に気づいて振り返ると、恥じらって慌てて目を反らす。

その先に見えた庭の全貌に少女は息を呑み、感嘆の息をついた。


「キレイ……」

松の木、石畳の道、流れる水、木の橋。

隅々まで洗礼された光景には見たこともない花がある、

(季節がないのかな? いろんなものが混ざってる)

季節を問わない虫や鳥、池には紅白や金などの鯉がゆったりと泳いでいる。

橋の上から池を覗き込むと、鯉が口をパクパクさせながら近づいてきた。


(かわいい……)

山菜採りに野菜づくりと決まった日々を送っていた少女にはすべてが新鮮に映る。

草木の生い茂る自然もよいが、こうして趣のある計算された空間もよい。

自分にちゃんと好ましさが存在することに胸を撫でおろした。


「美しいだろう」

ワクワクする少女の心を読んだかのように月冴が代弁する。

「はい。それはとても」

生命力を感じて草木からも呼吸が聞こえた気がした。

月冴は「ふっ」と微笑むと、赤い橋の手すりを指でなぞった。


「私には持て余す庭だ。好きにすればいい」

その横顔はうら寂しそうで、少女はかけるべき言葉がわからなかった。

見つめるだけでいると、月冴は困り果てた顔をして少女に問いを投げる。


「お前の名は?」

一瞬にして現実に引き戻される。

餌をもらえないとわかって離れていく鯉を目で追いながら、気まずさに首の皮を引っ掻いた。

「名はございません」

率直すぎる回答に月冴の眉があがる。

「ないだと?」

「はい。名をつけてもらう前に両親は亡くなったそうです」

まるで他人事のように淡々と語れてしまう。

「養父からも名前をいただいていないのです。ずっと"名無し"と呼ばれておりました」

名前があれば自分の所在がわかるかもしれない。

叶わなかった夢に駄々をこねても致し方ないと、嗤うしかなかった。


「怒らないのだな」

月冴が手をのばし、乱れた少女の髪をすくって耳にかける。

「怒る?」

指から体温に少女は頬に熱が集中するのを感じた。


「いや、いい」

追及はしまいと言葉をひっこめ、月冴は少女から大股に歩いていく。

少女は月冴の背に手を伸ばそうとして、すぐに手を下ろす。

この手が伸ばしたかったのは違う背中だと虚しさに落ちこんだ。


「好きに生きろ。私も少しばかり見てみたくなった」

「月冴さま……?」


風の向かった先に、いじわるな笑みを浮かべる月冴がいた。

袖をあわせて微笑む姿は何度でも魅入ってしまい、胸が焦げそうだ。


(わからないけど、今は追いかけてみたい。いいのかな?)


これも期待の一種だろうか。

いつ月冴に見捨てられても平気でいられるように予線をはり、高鳴る旨を抑えて月冴のもとへ駆けた。