井戸の影から顔を出す。黒狐族はまだ家屋の前にいて何かを話し合っている。会話の中身までは聞き取れなかった。
すぐにでも火を消し止めたいところだけれど、今私が鎮火祝詞を奏上すれば黒狐族に気付かれてしまう。戦闘になれば間違いなく私の方が分が悪い。
さっき聞こえた会話から推測するに、彼らは恐らく家屋に怪し火を放ってまわるつもりなんだろう。つまり一通り火をつければここから離れるはずだ。
その後を狙えば交戦することなく鎮火できる。
はやる気持ちをぐっと抑えて井戸の影に背中を押し付けた。
しばらくしてバタバタと走り去っていく足音が複数聞こえた。
もう一度井戸から顔を出す。目視できるところに人影は無い。
体勢を低くしたまま井戸の影から素早く飛び出し、そばを生い茂るススキに身を潜めながら家屋へ近付く。
もう一度よく辺りを確認する。やはり人の気配はない。
家屋の前に勢いよく飛び出して胸の前で柏手を打ち鳴らした。
私が神修へ入学して、初めて奏上できるようになった特別な祝詞。火事が起こらないように神に祈る祝詞、荒ぶる火を鎮める祝詞だ。
「高天原に神留座す 皇親神漏岐神呂美之命を以て 皇御孫命をば 豊葦原の水穂の国を安国と平けく所知食と 天下所寄奉し時に事奉仍し 天津祝詞の太祝詞の事を以て申さく……」
清らかな水の膜で火を包み込むようなイメージを脳裏で強く思い浮かべた。火は水の膜の中でもごうごうと音を立てて暴れ蠢く。
鎮まれ、鎮まれ、と心の中で必死に繰り返す。
鬼市くんの故郷、鬼市くんが大切にしている同胞が住む家。今それを守れるのはここにいる私だけ。
人と妖を守り導くのが、神職の役目……!



