佐岐(さき)の国との国境で、野菜泥棒が頻発してます。それから、あの辺りの山の恵みはほぼ採りつくされているとか」
「やはりそうなったか」

 巧からの報告に、俺は顔を顰めた。
 東の隣国である佐岐も、肥賀と同じように一昨年から干ばつの被害を受けていて、それは今年も続いていると聞いている。
 エリのおかで肥賀には満遍なく雨が降るようになり、稲妻の助けもあり田畑も山の恵みも豊富に実り始めたが、佐岐は変わらず乾いたままなのだ。
 特に国境の近くに住む人々は、その差を目の当たりにしていることだろう。
 こういった厄介事が起きることは予想していた。

「佐岐の国主宛に書簡を送ろう。なんとか取り締まってもらいたいところだが、難しいだろうな」
「そうでしょうね。あちらも蔵は空になっていることでしょうから」
「多少は目をつぶるしかないか。これ以上被害が大きくならないよう、男衆に夜回り当番を組ませることにしよう」

 他国のこととはいえ、飢えに苦しんでいる人々がいるというのは胸が痛む。
 だからといって、自国民に犠牲を強いるつもりはない。
 俺が父の後を継ぎ肥賀の国主となったのは、四年前のことだった。
 父は以前から病気がちで臥せっていることも多く、俺は十を越えたあたりから父を手伝うようになっていた。
 幸いにも俺は小さいころから体が大きく頑丈で、荒事方面はだいたい俺が対応した。
 国主の嫡子とはいえ、未熟な小僧でしかなかった俺がそんなことができたのは、全て父の的確な指示があったからだ。 
 父は病に侵されながらもその頭脳の鋭さは欠片も損なわれることなく、床から出られずとも立派に国を治めていた。 
 俺はそんな父を尊敬していた。
 いつか父のような国主になりたくて、俺は武術だけでなく勉学にも力をいれた。
 父は厳しくい人だったが、同時に愛情部会人でもあり、褒める時は言葉を惜しまず精一杯褒めてくれた。
 それは果菜芽に対しても同じことだった。
 おかげで、生まれてすぐに母を亡くし、母の顔を知らずに育った果菜芽も、捻くれることなく真っすぐに育った。
 果菜芽は俺の自慢の可愛い妹だ。
 儚くなった両親に代わって、俺が責任を持って嫁に出さなくてはならない。
 一時は竜神様の花嫁にしなければならないところまで追い詰められたが、幸いなことにその危機は脱した。
 小さかった果菜芽も、もうすぐ十六になる。
 今年の秋の稲刈りが終わった後、巧と祝言を挙げさせてやりたいと思っている。
 そのためにも、竜神様からもたらされた恵みを余すことなく享受できるよう、俺たちは全力を尽くさなければならないのだ。
 俺は水田を吹き抜ける少し湿った風を頬に感じながら、巧と肩を並べて速足で城へと向かった。

 佐岐の国主には、苦情と取り締まり強化を求める書簡と、せめてもの気持ちとして採れたばかりの新鮮な野菜を荷馬車に乗せて送った。
 あれくらいの量では焼け石に水にしかならないだろうが、こちらも米などの穀物類はもう備蓄がほとんどないのだ。
 隣国である佐岐とは、これまで数世代に渡る長い間、良好な関係を築いている。
 俺の代でそれを終わりにしたくはない。
 状況次第ではあるが、今年の秋に十分な収穫量に恵まれたら、ある程度の支援をしようと思っているところだ。 
 後日、佐岐の国主からは、謝罪と感謝が綴られた書簡が送られてきて、それ以降は野菜泥棒はほとんど現れなくなった。
 俺たちは警戒を続けつつも、必要以上にたくさん採れた野菜があれば佐岐に送った。
 雨だけでなく稲妻により、野菜もこれまでにないくらい豊富に実っているからできたことだった。
 
 そうして時は流れ、初夏の夏祭りを迎えた。
 この日のために、エリは舞と歌を毎日練習していた。
 ついに本番を迎え、朝食の時から緊張した顔をしていたが、大丈夫だろうか。 
 東の空が茜色に染まり、ぽつぽつと星が瞬きだした。 
 集落の広場の中央では大きな篝火が焚かれ、それを俺たちが遠巻きに取り巻いている。
 大巫女殿を先頭に、白と緋色の巫女装束を着た娘たちがしずしずと現れ、篝火を中心に円になった。
 巫女たちはそれぞれに真剣な面持ちだが、エリが一番強張った顔をしている。
 他の巫女たちと違い、エリは今回が初めての祈祷なのだから、それもしかたがないことだろう。
 頑張れよ、と声に出さずに声援を送っていると、大巫女殿が手にした小さな鐘をカンと鳴らした。
 それを合図に、巫女たちの舞が始まった。
 豊穣祈願の歌を歌い、竜神様への祈りをこめて舞い踊るのだ。
 手にした笹の枝を振り、白い袖を翻してくるりくるりと回る。
 頭の後ろで一つに束ねたエリの稲穂色の髪は、そうして回るたびにふわりと広がり、篝火の光を映して温かな色に輝いた。 
 ああ、きれいだな。可愛いな……
 エリが現れてから、何度そう胸の中で呟いたことだろう。
 御神木の前で祈る姿も、目新しいものに緑の瞳を輝かせる姿も、果菜芽たちと笑っている姿も、とても可愛い。 
 竜神様から遣わされた天女様だという立場に驕ることもなく、常に謙虚で控え目で、優しくされたり親切にされてりすると、嬉しそうにはにかんで笑う。
 それがなんとも可愛くて、その笑顔を俺だけのものにしたくて、できるだけ多くの時間をエリと過ごした。
 故郷で冷遇されていたというエリは、肥賀に来たばかりのころは折れそうなほど細く青白い顔色をしていた。
 今は健康的にふっくらとして肌も髪も艶やかになり、よく笑うようになった。
 エリを虐げたものたちのことを思うと怒りが湧くが、おかげでエリが俺たちのところに遣わされたのだから、複雑ではあるが感謝もしている。
 エリの舞は、他の巫女たちに比べるとややぎこちなくはあるが、努力の跡が見て取れる。
 舞うのも歌うのも初めてのことだったそうで、苦労しつつもとても頑張っていると果菜芽が言っていた。

「エリが頑張っているのは、兄上様に見てほしいからなんですって」

 なんて生意気なことをこっそり言ってくる果菜芽に、

「おまえだって巧に見てほしいんだろう」
 
 と返すと、図星を突かれて果菜芽も赤くなっていた。
 巫女たちが笹の枝を天に掲げ、その動きを止めた。
 舞が終わったのだ。
 太陽は東の山の向こうに隠れ、空には満天の星空が輝いている。

「祈祷は無事終わった。竜神様に我らの願いが届いたことだろう。さあ、宴を始めよう!」

 俺がそう告げると、わぁっと歓声が上がった。
 この宴では料理と酒がふるまわれるので、皆が楽しみにしているのだ。

「トラ様!」

 巫女衣装のまま、エリが駆け寄ってきた。
 
「よく頑張ったね。とても上手に舞えていたよ」

 心から褒めてあげると、エリは頬を赤らめてはにかむ。
 可愛いな。
 できることなら誰にも見せたくないくらい、可愛い。

「さあ、着替えておいで。今日の汁物はとても美味しくできているそうだよ」
「はい!」

 まだ米などの穀物が収穫できたわけではないので、御馳走というわけにはいかないが、たくさんの野菜と鶏肉の汁物は美味に仕上がったと聞いている。
 酒も量は少ないが、皆が一杯ずつ飲むくらいはあるだろう。
 巫女衣装から小袖に着替えた巫女たちが戻ってきて、宴に加わった。
 
「エリ、こちらにおいで」

 俺がエリを隣に座らせると、気を利かせた女衆が汁物の器を渡してくれた。

「美味しい!すごく美味しいです!」

 エリ は緑の瞳を輝かせ、鶏肉を頬張った。
 緊張から解放されて、すっかり気が緩んでいるようだ。
 そんなところも可愛い。

「ねぇトラ様、お酒もあるんですよね?」
「あるにはあるが……酒を飲んだことはあるのか?」
「ありません!だから、すごく楽しみにしていたんです!」
 
 満面の笑みのエリだが、俺は飲ませていいものか迷った。 
 というのも、実は俺がエリを隣に置いているのは、周囲を警戒しているからなのだ。
 こういう人が多く集まる祭りには、不穏分子が混じるのを避けられない。
 肥賀の国に稲穂色の天女様がいるということは、周辺諸国にも既に知れ渡っている。
 エリが拐されたりでもしたら大変だ。
 国主である俺は常に多くの家臣に囲まれているので、エリは俺の隣にいるのが一番なのだ。 
 もちろん、俺がエリを独り占めしたいから、というのも否定はしない。
 可愛いエリに熱のこもった視線を向ける男は数多くいるが、幸いにも俺と張り合おうというような男はいない。 
 天女様の伴侶には、並の男では釣り合わない。
 それこそ、俺のような国主くらいでないと。

「悪いが、どうら酒はもう無くなってしまったようだ」

 元々量は少なかったのだ。
 俺も一口も飲んでいない。
 こういうことにしておいても、問題はないだろう。

「えぇ~、残念です」

 エリはしゅんと髪と同じ色の眉を下げた。
 そんな顔も可愛い。

「ここでは、酒は米から造られる。今年は米がたくさん採れそうだから、来年は酒が飲めるだろう。それまで辛抱してくれるか?」
「わかりました。また来年ですね」

 エリは素直に頷いて、花がほころぶように笑った。
 ああ、やっぱり可愛いな。
 もう手放すなんて無理だ。

「あ、あれ」

 エリが視線で示した先には、俺たちがしているのと同じように寄り添っている巧と果菜芽の姿があった。

「ふふ、いつも見ても仲がいいですね」

 あの二人は少し年が離れてはいるが、お互いを思い合っているのが見ていてよくわかる。
 俺もだが、亡き父も巧のことを信頼していた。
 巧になら安心して果菜芽を任せられる。

「これはまだ本人たちにも伝えていないのだが、秋の収穫が終わって落ち着いたころ、あの二人に祝言を挙げさせようかと思っている」
「え!?」

 エリはぱっと顔を輝かせた。

「果菜芽ももう十六だからな。そろそろ嫁に出してもいい年頃だ」
「二人とも、きっと喜びますね!あ、でも、まだカナメたちはそれを知らないんですよね。うっかり口を滑らせないように気をつけないと」

 一転して神妙な顔になり、両手で口を塞いで見せるえりが可愛くて、俺は抱き寄せたくなるのを必死で堪えた。
 稲穂色の天女様。俺の可愛いエリ。
 果菜芽を嫁に出すまではと、独身を貫いておいてよかった。 
 来年の春、俺たちも祝言を挙げような。
 そっと声に出さずに呟いて、必ずそれを実現させなくてはと決意を新たにしたのだった。