私は今日も御神木の前で跪き、祈りの体勢になった。
 肥賀の国に来てから二か月。
 私は毎朝欠かさず、こうしてここで祈りを捧げている。

 竜神様、いつもお恵みをありがとうございます。
 おかげさまで、今年は稲も野菜もよく育っているそうです。
 皆、感謝しております––––––

 最初のころはひたすら雨を降らせてくれるように祈っていたが、国中にたっぷりと雨が降って以降は、感謝の気持ちを祈りにのせて伝えるようにしている。
 しばらく一心に祈って、顔を上げた。
 祈るのに慣れてきてから、どれくらい祈れば竜神様に届くのかがなんとなくわかるようになった。
 今日の祈りは、もうしっかり伝わったはずだ。

「エリ」

 私は差し出されたトラ様の手をとり、立ち上がった。
 トラ様は私がここに来るのに、毎日付き添ってくれる。 
 国主であるトラは忙しいだろうから、たまには他の人と変わってくれてもいいと言ったのに、「天女様の祈りを見届けるのも国主の大事な仕事だ」と却下されてしまった。
 私たちは手を繋いだまま、簡素だが真新しい東屋に入った。
 それを見届けたように、空からゴロゴロと控え目な雷の音が響き、さぁっと細かな雨粒が降りだした。

「今日は、あっちにある山の辺りに雨が降ると思います」
「東北だな。あの辺りは、水田もあるが柿という果樹が多く植えられているんだ」
「かき、ですか」
「ああ。甘くて美味いぞ。果菜芽の好物でもある。秋になったら食べさせてやるからな」
「ふふふ、今から楽しみです」

 私が祈りを捧げると、御神木の近くでは必ず小雨が降り、同時に肥賀の国のどこかで雨が降る。
 それがどこになるのか、というのも私にはなんとなくわかるようになった。
 私たちが雨宿りをしているこの東屋は、祈るたびに雨に降られて濡れてしまう私を心配してトラ様が建ててくれたものだ。
 少しくらい濡れても私は大丈夫なのだが、女性が体を冷やすのは良くないとトラ様だけでなく会う人全員に言われたので、ありがたく受け入れることにした。

 それに、私が着ている小袖や帯は、トラ様とカナメの亡くなったお母様の遺品でもあるのだ。
 そんな大事なものを、とこれも最初は遠慮したのだが、
 
「古着で申し訳ない。できるだけ早く新品を用意するから、今はこれで我慢してくれないか」

 と言われていまい、

「古着で十分です!」

 と慌てて受け取ったのだ。
 ついこの前まで雨不足で不作が続いていたというから、この国が財政的に楽ではないことは私にだって想像がつく。
 私のために新しい衣装をそろえる余裕があるなら、もっと別なことに使ってほしい。
 古着とはいえ、どれもしっかりと手入れが行き届いており、ほつれていたり破れていたりするところはない。
 色もピンクやオレンジ、深い青や鮮やかな緑など、手に取るだけで胸が踊るようなきれいなものばかりだ。
 雨が降るのは竜神様に私の祈りが届いたという証なのだが、雨に降られるとどうしても衣装に泥がはねたりして汚れてしまう。
 東屋の中にいるとそれを防ぐことができるので、とても助かっている。
 それともう一つ、東屋には密かにありがたい効果がある。

「昨日は、タエさんの家で仔犬を見せてもらいました」
「ああ、あの白い犬が仔を産んだのだったな。仔犬も白かったか?」
「白が三匹、茶色が二匹でした。父親が茶色い犬なのでしょうね。とても小さくて、抱っこすると温かくて、すごく可愛かったです」
「あの母犬は、可愛い顔をしているが優秀な猟犬なんだ。仔もしっかりと躾けたら、いい猟犬になるだろうな」
「まぁ、それは頼もしいですね」
 
 雨宿りの時間は、トラ様とのんびりおしゃべりができる時間でもある。
 雨粒が柔らかく地面や屋根を打つ音を聞きながら、なにげない日常のことを話したり、トラ様やカナメの子供のころのことなどを話すのだ。
 国主という立場だからか、トラ様は肥賀の国の中のことも外のこともなんでも知っていて、博識なトラ様の話を聞くのはとても面白く、いつまで聞いていても飽きないのだ。

 あ、雨が止む。

 なんとなくそう感じた直後、ぴたりと雨音が途絶えた。
 今の私は雨が止むのも事前に感じることができるようになっている。
 祈りを重ねる毎に、私と竜神様との距離が近くなっていっているからだと思う。
  
「さあ、下に降りようか」
「はい」

 私はトラ様に手を引かれ、城へと続く道を下る。
 雨上がりの坂道は滑りやすいからと、手を繋いでくれるのが嬉しい反面、トラ様との二人きりの静かな時間が終わってしまうのは少し残念に思う。
 私は元々掃除と洗濯ばかりしていたから、体力はそれなりにあるし、体も丈夫なのだが、トラ様はまるで私が壊れ物かなにかのように大切に扱ってくれる。
 それがくすぐったくて嬉しくて、私もそんなトラ様に甘えてしまっている。  
 私は幼いころに両親を亡くし、父の弟である叔父に引き取られた。
 今にして思えば、おそらく両親が私に残した遺産目当てだったのだろう。
 そんな叔父が私に優しいわけもなく、叔父夫婦は私を使用人のようにこき使った。
 神殿でも同じような扱いだったので、つまるところ私はこの国に来るまで、記憶にある限りずっと冷遇されこき使われ続けていたのだ。
 それなのに、ここでは皆が私に優しくしてくれる。
 最初はそれに慣れなくて、ぎこちない態度になる私を率先して甘やかしてくれたのはトラ様だった。
 私の手を引いて城の隅から隅まで案内してくれただけでなく、私を城の外に連れ出して、これから稲が植えられるという水田や、干上がってしまった川、人々が住む家などを見せてくれた。
 人々はトラ様を「御屋形様」と呼んで気軽に声をかけ、トラ様も自然にそれに応えていた。
 この国ではごく日常的な光景なのだろうが、ベルトラム王国の王族とのあまりの違いに私は驚いた。
 トラvはあちらの王族のように尊大にふるまったりしなくても、皆に国主として愛され敬われていることが、見ているだけでよくわかった。
 あちらの王族もトラ様みたいにすればいいのに……と、考えても無駄なことを考えてしまった。
 数日かけてゆっくりと肥賀の国を私に見せてくれた後、トラ様は私に選択肢をくれた。

「エリ、きみは竜神様からこの国に遣わされた天女様だ。国主である俺よりも、きみはこの国にとって重要な存在だ。きみが望むなら、俺はきみに首を垂れ、きみを神様のように扱うよ。俺がそうしたら、皆もそれに従うだろう。もしくは、神様ではない一人の女性として扱うこともできる。どちらがいいか、きみに選んでほしい。どうするにしろ、きみを大切にすることに変わりはないから、そこは心配ない。他にもなにか希望があるなら、遠慮なく言ってくれていいからね」

 自分のことを自分で選ぶことができるなんて……と、私は密かに感動した。
 こんなふうに選択肢を与えられるのは、私にとって初めてのことだったのだ。
 私はトラ様の気遣いに感謝しつつ、必死で考えた。

「……私は、神様ではありませんから……トラ様に頭を下げてほしいとは思いません。 穏やかに暮らせるなら、私はそれで十分です」

 贅沢をしたいわけではないし、偉そうにふんぞり返りたいわけでもない。
 この国の一員として認められ、皆と一緒に笑顔でいられるなら、それでいい。
 トラ様は顎に手をあてて、考えた。

「それなら、神様扱いするのはやめておこう。だからといって、きみを城の外で庶民と同じように生活させるわけにもいかない。ということで、果菜芽と同じような扱いをする、ということでどうだろうか」
「私は、トラ様の妹になるのですか?」

 それは……少し嫌だな。
 理由はよくわからなかったが、なんとなくそれは嫌だと思った。

「いやいや、きみを俺の妹にするわけではないよ。果菜芽と同じくらい、国全体で大切にするということだ」

 カナメは姫様と呼ばれて皆に愛されていて、トラ様にも可愛がられている。
 正直、私はそんなカナメがちょっと羨ましかった。 
 姫と同じなんて私には身に余るとは思うが、そうなれるならとても嬉しい。
 だって、カナメと同じくらいトラ様の近くにいることができる、ということなのだから。
 私は、トラ様のその提案を受け入れることにした。

「エリ、これからよろしくね。肥賀の国主として、きみが穏やかに暮らせるよう尽力すると誓おう」
「はい、トラ様。こちらこそよろしくお願いします」

 こうして、私のこの国での立ち位置が決まった。
 皆は私を『エリ様』と呼び、トラ様やカナメに対するのと同じくらい敬意をこめて親しく接してくれた。
 ベルトラム王国ではありふれた色だった私の髪と瞳の色は、『豊かに実った稲穂の色』と『冬にも枯れない常緑樹の色』とされ、恵みをもたらす天女様の色だとトラ様が言い、皆もそう信じるようになった。
 明らかに異質なので、気味悪がられるのではないかと最初は心配していたが、そんなことにはならなかった。
 それはトラ様のおかげでもあるが、この国の人々が優しいからというのも大きい。

「今日も大巫女殿のところに行くのか」
「はい!もう少しで夏のお祭りの巫女舞を覚えられそうなのです」
「そうか、頑張っているんだな」

 私は巫女として、大巫女様のところで修行をしている。
 巫女たちと一緒に舞や祝詞を練習し、各種祈祷の作法や竜神様と肥賀の歴史などを学んでいるところだ。
 カナメも巫女の一人で、カナメが間に入ってくれたおかげで私は他の巫女たちともすぐに打ち解け、今では仲のいい友達になっている。
 城のすぐ外にある集落の端に、大巫女様の住処となっている巫女の修行場がある。
 祈りを捧げた後に大巫女様のところに行く時は、トラ様はそこまで送ってくれるのだ。
 たっぷりと水で満たされた水田の間の道を、私たちは手を繋いだまま歩く。
 規則正しく植えられた稲は天に向かって真っすぐ葉を伸ばし、元気に茂っている。
 今は緑色の稲は、夏が終わり収穫する時期になると、黄金色に色づいて稲穂がお辞儀をするように垂れるのだそうだ。
 なんだか想像がつかないが、それを見るのが楽しみにしている。

「御屋形様!エリ様!」
「エリ様、巫女の修行頑張ってくださいね」
「いい大根が採れたので、後でお城に持って行きますね!」

 私たちを姿を見ると、皆が気軽に声をかけてくれる。
 稲だけでなく、今年は野菜もよく育っているということで、皆の笑顔は明るい。
 私たちは手を振ったりしてそれに応えながら、修行場を目指し歩いた。
 伸びやかな歌声が爽やかな風に乗って聞こえてきた。
 夏のお祭りで歌われる豊作祈願の歌を歌いながら、カナメたちが舞の練習をしているのだ。
 私はまだ振付を覚えるのに必死だが、カナメたちみたいに上手に舞えるようになりたくて、毎日練習している
 だって、巫女の舞は、国主であるトラ様の目の前で舞うのだから。
 きちんと最後まで間違えずに舞って、トラに褒めてもらうのが私の今の目標なのだ。

「御屋形様!」

 声に振り返ると、タクミが駆けてくるところだった。
 タクミはトラ様の幼馴染で、トラ様が最も信頼している家臣だ。
 トラ様に比べるとやや線が細い印象だが、槍術では肥賀の国で右に出る者がいない腕前なのだそうだ。
 私にもいつも親切なタクミは、実はカナメと恋仲でもある。
 甘い笑みを浮かべていたトラ様は、一転して国主の顔になった。

「エリ、すまないが俺は行かなくては」
「わかっています。お仕事頑張ってくださいね」

 こうして私に時間を裂いてくれているが、トラ様が忙しいことはよくわかっている。
 広く逞しい背中が遠ざかっていくのを見送り、私はほぅっとため息をついた。
 甘やかしてくれるトラ様も好きだが、国主の顔をした凛々しいトラ様も好きだ。 
 そう。
 つまり、私はトラ様が大好きなのだ。
 こんなにも素敵な男性に優しくされて、好きにならないわけがない。
 トラ様の年齢なら奥方が三人くらいいてもおかしくないのに、カナメを嫁に出すまで結婚しないと、未だに独身のままなのだそうだ。
 そうやって家族を大切にしているところも、大好きだ。
 トラ様も私を嫌ってはいないと思うが…… 
 私は首を振って、不毛な考えを振り払った。
 人生経験が豊富とはいえない私がいくら考えたところで、トラ様の胸の内がわかるはずがない。
 それに、順調に稲が育っているとはいえ、収穫はまだまだ先のことで、安心するには時期尚早というものだ。
 トラ様だって、きっちり収穫が終わるまでは落ち着かないだろう。
 私にできることは、肥賀の国が豊作になるように竜神様に祈りを捧げることだけ。
 トラ様のためにも、頑張ろう。
 そう思うたびに、胸の奥がじんわりと温かくなる。
 誰かを好きになるのも、その人のために頑張りたいと思うのも、私には初めてのことなのだ。

「エリ!」

 カナメが修行場から顔を出し、笑顔で私に手を振っている。 
 この国に来て、本当によかった。
 竜神様に感謝しつつ、私はカナメに手を振り返しながら修行場へと向かった。