命の重さを知ったのは、空の父さんである宏哉が死んだ時だった。
 あの日の夜、突然鳴り響いた救急車の音。
 仕事で一緒になったこともある宏哉が運ばれていく。
 玄関を出た先の奥に見える空と空の母の姿。
 唖然として様子で動きが止まる二人。
 何が起こったのかわからない私には何をすることもできず家に戻った。

 宏哉に出会ったのは、園児の頃。
 サスペンスドラマに出演が決まった私は、何も嬉しくなかった。
 また、セリフを覚えて表情を作って、撮影日にはダメ出しをもらってできるまでやらされる。
 ドラマに出たいなんて言ったこと一度もなかった。全部、母が決めたこと。
 芸能界にいる人間は、どうして芸能界に連れて行こうとするのか。
 あんな恐ろしい現場にゾクッとすることはしばしば。
 あの現場に何度も連れて行かれるのはストレスだった。
 同じマンションに住む宏哉とはタイミングが同じくしてロケバスに乗った。撮影は終わりに近づいている。
 お互い同じマンションということと同じ年の息子がいると言うことだけをその日に知った。
 会わせてみたいと宏哉はいう。
 この現場に同じ年の人はいない。
 会うなら現場に連れてきてと無茶を言うと同席している母がペコペコと頭を下げて謝罪する。
 不用意な発言をどうたらこうたらと謝る姿に私は言っては行けないことを言ったのだとすぐに気づいた。
 だけど、こんな場所でカメラを向けられて泣きの演技ばかりさせられる自分の居場所も拠り所も私にはなかった。
 どうしても会ってみたい。
 会いたい。話してみたい。
 現場に到着する。早速、確認から本番に入る。
 宏哉の出番は毎回、すぐに終える。
 申し分のない演技力なのだと思う。元は小説家、今は兼俳優。
 そんな人が実力で世間を黙らせていく姿は、なんだかかっこいいものに思えた。
 スタイルも良く顔もいい。
 その子供なのだからかっこいいのだろうと予想する。
 気が散ってしまったのか、私はこの日、演技で失敗を重ねて勝手にやりたくないと駄々を捏ねた。
 母はいう。
「また周りに迷惑をかけるの?」
 演技が思うようにできなくなってから、現場でも家でも何度もそうやって怒った。
 宏哉が、母に何かを伝えている。
 頭を下げている様子に謝っているのかなと想像した。
 私に同じ年の息子がいると伝えて、私が会いたいとねだるから。
 迷惑をかけている。
 何度も、何度もまた変わらずに。
 監督に怒られたくないくせに、現場を困らせたくないくせに。
 でも誰かに私のことを知ってほしいと思うのは、わがままなのだろうか。
 理解してほしいと思うのに、誰も私をみてくれない。
 私じゃない役を見て、演技を見て、ダメ出しをして、うまく行けば終了。
 家に帰ってなんであんなにも時間を取らせるのと怒る母の姿。
 今日もまた母は怒るのだろう。
 これなら、幼稚園でも行って友達と遊んでいた方が楽なのに。
「ごめんなさい、もう一度、やらせてください」
 何もできないでいる私の前に立って頭を下げたのは、宏哉だった。
「少し時間をください、ちょっと頭が整理できていないんだと思います」
 彼は、私の前にしゃがむと両腕を優しく掴む。目が合う。
「深呼吸しようか」
 優しい瞳に見惚れそうになる。
 言われた通りに深呼吸をする。
「もう一回」
 言われた通りに。
「もう一回」
 ちゃんと吸って吐いて。
「もう一回、あ、もっと吸って」
 また言われた通りに吸う。
「もっと吸って」
 言われた通り吸ってみる。まだ吸うのだろうか。
「もっと」
 限界で、首を小さく横に振る。
「もっと!」
 それでも言われてしまっては、吸うしかないと頑張ってみてもゲホゲホと息を吐き出してしまう。
 なのに、考え事は気が散って消えて、脈打っていた心臓は落ち着いていた。
「どう?ちょっと頑張れる?」
 うん!と頷くと彼は頭をくしゃくしゃにして場から離れた。
 メイクさんが何してくれてんのあの人とぶつぶつ言いながらも髪を直してくれた。
 リラックスできたみたい。
 この日の現場はなんとかうまく行って昼前には帰れた。
 宏哉もまた昼前には終わったみたいで無理やり一緒に帰りたいとごねた。
 彼は、幼稚園からそろそろ帰ってくると思うからうちに来るかと聞いてきた。
 彼の息子に合わせてくれるらしい。
 家に上がると宏哉の母である真里がこの子あれじゃんと言わんばかりに宏哉に訴えていた。
「この子、空に会わせようと思って」
「突拍子もない……。親は?許しをもらってるの?」
「もらってる。さっき一緒に帰ってきたから」
「……もしかして、マンション一緒?」
「一緒だって。今日知った」
 二人の会話をボケーっと聞いていると玄関が開いた。
 もしかして、とドタドタ向かうとそこには同じ年の男の子がいた。
 目が合う、声をかける前に彼は口を開いた。
「あ、家間違えました」
 玄関を開けて外に出ようとするので急いで彼の腕を掴んで止める。
「間違いじゃないよ!上がらせてもらってるの!宏哉さんが連れてきてくれた!」
 簡潔に伝えると彼は訳がわからないと表情を見せてまた玄関を出ようとする。
「空、おかえり。この子、今仕事で一緒でさ、同じマンションだって言うから紹介しておこうかと思って」
 宏哉の声で安心したのか玄関を閉めて、鍵をかけた。
「なんだ、怖い。家、間違えたのかと思った」
 靴を脱いで揃えるとお茶飲む?と聞いてきた。
「飲む!」
「僕は、空。君は?」
「愛香、よろしくね」
 宏哉の遺伝だろうか、すごく綺麗で端正な顔立ち。この子もまた俳優になるのだろうか。
「愛香さんか、よろしくです」
 リビングに流れるように向かう彼。
「いや、待って。なんでさん付けなの?敬語じゃなくていいよ」
「年上ですよね?」
「同じ年です」
「ほら、そっちも敬語だしいいかなって」
「同い年なんで敬語なしで」
 椅子の上に立って冷蔵庫を開けてコップにお茶を注ぐ。
「麦茶でよかった?」
 全く話を聞いてない様子。お茶をもらったので礼を言う。
「うん。ありがと」
 ほいと手渡されるお茶を飲む。
「でも、なんでわざわざ愛香を連れてきたの?」
 さん付けもせず名前で呼ばれる。
 たったそれだけのことなのになんだか嬉しかった。
 現場では役名だし、両親はあまり名前を呼んでくれない。新鮮だった。
「マンション一緒だから」
「絶対、それだけじゃないじゃん」
 宏哉の言葉にため息をつく空は、まぁいいやゲームしようよと誘ってきた。
 今流行りの対戦ゲーム。
 何度かやったことあってコツは掴んでいるのでその勝負に乗っかった。
 レースゲームで勝つには三周目のラストレースまで二位にいること。
 追い討ちをゴール手前でかければ大抵は勝てる。
 予想通りに一位を守り続ける空。
 三周目に入りゴールが見えてきた頃、アイテムを使って仕留め、動けないままの彼の車を追い抜かしゴール。
「わーい」
「強……」
 呆気に取られる彼は、次は負けないと前のめり。
 しかし、何戦しても私が勝ってしまって彼は諦めたように両手を上げた。降参らしい。
「無理、勝てない」
「やめる?」
「やめる。勝てないし」
「勝つまでいくらでも相手してあげるよ?」
「いや、いい」
「……」
「なんだか、風呂に入りたくない時に必死にやりたいこと探してる感じがする」
「…………それは」
 強引に誘ってみても彼が動いてくれないのは、私の言動に気づいてしまったから。
 家に帰ったら、ゲームもさせてもらえず、ただひたすら演技の練習。台本を読んで、セリフを声に出して。今日の反省をして、明日のために予習する。
 すごく眠たくなってもできるまで寝させてもらえない。
 夜の十時を過ぎる頃でも練習する。
 家に帰りたくないとここで駄々をこねるのは、失礼だ。
 宏哉にまた迷惑をかけて、今日初めて会った空にも迷惑をかける。
「やりたくないことなんてやらなきゃいいんじゃない?」
 そんな簡単な話なら、やらない。
 でも、仕事だ。
 大人と同じくらいに働いてお金を得ている。
 やりたくないからやらないは、できない。
「辞めちゃえば?」
「……は?」
 彼は、あっけらかんと告げた。
 やめる、そんなことできる訳がないのに無知だなと思う。
「親の言う通りにしないと」
「いい子じゃないの?」
 被せるように彼はいう。
 見透かされている気分。
「いい子に見えないけど」
「……え、ひどい!」
 バシッと肩を叩く。すると彼はゴロゴロと床を転がった。
「ほら、寝っ転がってみてよ。少しは気が落ち着くんじゃない?」
 大の字で横になる彼はとっくにゲームに飽きたようでリモコンはその辺に置いてしまっている。
 私のことを見て。
「なんだかさ、子どもらしくなくてつまんないよ、愛香」
 言う彼は思いの外真剣だった。
 ちゃんとみてくれているような気がした。
 だけど。
「子どもじゃないし」
 礼儀もバシバシと鍛えられてきた。あの子たちとは違うって幼稚園にも通ってない。
「どう考えても、同じ年」
「さっきまで年上だって」
「見えただけだよ。でも、話してみたら違った。同じだった。ゲームやってる時の方が話しやすい」
 それってと付け加える。
「愛香が愛香らしくいられてるからなんじゃない?」
 スッと息を吸って吐く彼。
 気持ちよさそう。
 こんな近くに理解してくれる人がいるのなら、私は少し頑張れるだろうか。
 文句とか不満とか彼は聞いてくれるだろうか。
 宏哉はこの子のこの性格を知っているから会わせてくれたのだろうか。
 彼に目をやると大人げなくピースサインを作った。
 なんだか嬉しかった。
 空の隣に来てべしべし肩を叩く。
 起き上がる彼の胸に頭をぐりぐりと押し付けた。
 髪の毛がぐちゃぐちゃだ。
 それでいいや。
 こんな彼と一緒にいられるなら。
「私、あなたのこと好きかも」
「……僕も」
 大人たちがキャッキャしていることに気づいていながら、戯れた。
 彼がずっと私のこと見透かして、言えば理解してくれて。
 そんな関係が続いていたからこそ、あんなこと言われるとは思ってもいなかったのだ。

 高校生に上がる頃、空は勉強もせず部活に明け暮れていた。
 小学生の頃は、不登校だったみたいだけれど、中学校ではうまくいったみたいで安心していた。
 何があったのか教えてくれることはなかったけれど、部活でちゃんと上手くいっているのならそれでいい。
 高校受験もあった。今も進学先の高校で遅れを取らないように必死に勉強している。疲れて近くのコンビニに行っては甘いものを買っていた。
 働いている分、多少金遣いが荒くなってもしょうがない。
 そんなとき、ヘッドホンをしながら歩く空の姿が見えた。
 手にとっていたものを戻して、コンビニをでて彼の前にたつ。
 幽霊でもみたかのように驚く彼にイラッとしながらもヘッドホンを取り上げる。
「久しぶり!」
 声をかけると彼はチッスと答えた。
 返事ではない。
「なんの曲を聴いてたの?」
 ヘッドホンを勝手に耳に当てると彼は焦ったのかスマホで何やら操作した。
 流れてきた曲は最近流行っていて誰もが知っている曲だ。
「最初流れてたのは何?」
 ちょっと良くない空気を感じてヘッドホンを肩にかけた。
「怒らないから教えてよ」
 思春期の男子らしくヤな曲を聴いていたくせに。
「いやぁ、えっと……、昔の曲だから聞きたくないかなって」
「昔の?」
 圧を強めると彼は目をキョロキョロさせた。
「宏哉さんに言っちゃうね」
「……コンビニで何か奢るから許して」
 それは間接的にヤな曲を聴いていたわけで。
「宏哉さんに言わないとしても私が許さないよ?」
「……」
 中学ではどんな生活を送っていたのかわからないけれど、仕事もあってまともに行けてなかったのは良かったのかもしれない。
 手に持つ袋の中には本が入っている。本屋の帰りだろう。
 それ以上は聞かない方がいいと言うことくらいよくわかっている。
「なんで許さないのかわかんないけど、コンビニ行かない?温かいドリンク買いたいんだよね」
 それは私も思う。
「じゃあ」
「奢るよ」
 言わずもがな彼は降参の意を示すように両手をあげた。
 これもこれもと甘いお菓子も渡す。
 ちょっと嫌がっているけれど、袋を指さすと彼は何も言わなくなった。
 マンションに到着すると彼が口を開いた。
「受験も終わったのに、まだ勉強?」
「学校で遅れをとりたくないじゃん?」
「あぁ、そっか」
「あなたも遅れちゃダメだよ」
「教えてもらお」
「しょうがないなぁ」
 私は彼に甘かった。
 受験勉強もたまに彼の家に行って勉強してわからないことは教えていた。
「うちくる?母さんも会いたがってたけど」
「え、でも」
 袋に指をさすと彼はそれに気づいた。
「後で隠すよ」
「隠すって言い方良くない」
「勝手に見つけたの愛香じゃん」
「ひどい!」
「女の勘、恐ろしい」
 バシンっと肩を叩くと彼は痛そうに壁にもたれた。
「んで、くるの?」
「しょうがない、行くよ」
 彼の家に着くと食卓に袋を置いて、手を洗いに行った。
「真里さん、久しぶりです!」
「突然ね」
「突然誘われたので」
「何かのむ?」
「あぁ、買ったので大丈夫です」
 コンビニで空と会って、と付け足す。
「それで会ったのね」
 勝手に袋の中を覗く。
 そこにはアイドルが表紙を飾る漫画雑誌があった。
「あ……」
 ふーん、こう言う子が好きなんだー……。
 私と全くタイプが違う……。
「普段あの子、雑誌とか買うような子じゃないのにねぇ」
 真里がいう。
「単行本?」
「そうね。買うなら」
 リビングに戻った空が状況を把握したのか勢いよく漫画雑誌を取ろうとするが、奪い取って距離を置く。
「待て待て!おかしい!なんで人の勝手にみてんだ!」
「あなたこそ、人前にこんな子の雑誌置いとくんじゃないよ!」
「こんなってなんだ!いいじゃんか!」
「そこまでしてこの子を擁護しなくたって!」
「落ち着け!な!返してもらおうか!」
「無理!こんなギャルが好きなんて知らなかった!」
「うるさい!父さんがいるんだよ!バレるじゃないか!」
「宏哉さんがいるとかいないとか関係ない!空に聞いてるの!」
「だいたいギャルがどうとか愛香に関係あんのかよ!」
「それは……!その!えっと!」
 リビングの扉がガチャリと開く。
「どうした、すごい騒がしい」
 相変わらず衰えない宏哉の姿がそこにあった。
 だけど少しクマができたように見える。俳優業の仕事を減らしたみたいだけど、それでもなお忙しいのかもしれない。
「宏哉さん!この人!アイドルが好きなんですって!」
「おい!?」
 必死に止める空の姿。
 しかし。
「そっか。まぁ、そう言う年頃だろう。いいんじゃないか」
 あまり興味のなさそうな顔に聞く相手を間違えたと思った。
 だが、真里の顔を見るとちょっと引いた様子。不満があるらしい。
 宏哉は真里の顔に気づいたのか、なぜか私と空を交互に見る。
「あぁ、なるほど。ゆっくりしてってね」
 何を察したのか、納得したのか、スーッと扉を閉めて自室に戻って行った。
「嘘だろ……」
「空くん、もう無理だよ。負けだよ」
「……」
「この子のどんなところが好きなの?」
「……」
「いや、黙ってないでなんとか言おうよ」
「……ヘッドホン返して」
「これは?」
 手でパシパシとやっていると彼は素早く取り返し部屋に戻ってしまった。
「あ!?」
「残念ね」
「真里さん、おかしいです。どうしてギャルなんかに興味を持つんですか」
 彼の周りにギャルなどいなかったはず。
 どうしてこうなってしまったのか。
「気になっただけなのに」
「ギャルにするの?」
「髪染められないので、無理です……」
「そのままで十分素敵だわ」
「ありがとうございます」
 褒められてもらうと嬉しい。普段褒めてくれる人は少ない。
 今も仕事は減っていく一方で大人の演技を身につけなければならないのに、全くできていない。
 仕事ありつつ受験勉強をしてきたとは言うけれど、そんな仕事大したものじゃない。むしろ勉強に時間を割くこと自体は楽だった。
 このままでいいのかという焦り。
「空は、仕事どうするんですか?」
「そうねぇ、まだなんも話してくれないね。芸能界誘ったけど、微妙だったから」
「私と同じで俳優になっちゃえばいいんじゃないですか?」
「そんな簡単じゃないんでしょ?って言われちゃったわ」
 投げやりに芸能界に行くって言われても困るからと真里は言う。
 本気じゃない限り続かない。
 それを理解しているのは、真里本人だ。
 アイドルをやってきた経験が、それをより深く理解させているのかもしれない。
 続かない人は、惰性で続けてしまったりするらしい。向上心もないのに、人を妬んだりするからタチが悪いと。
「宏哉さんは?何か言わないんですか?」
「言わないわね。興味を持ったものに刺激を与えればやるでしょって気長に待ってる」
「えぇ」
「愛香ちゃんは、空に芸能界に入って欲しいの?」
「……入って欲しいけど」
 けど、なんだろう。
 わからない。
 彼がやりたいことをやるのが一番だと私も思う。
「私の望みだけで何かやらせたいとは思わないです。ハグしてって無理言ってハグしてもらうより彼からしてもらう方がいいじゃないですか」
 例えですけどと付け足した。
 無理させたら壊れてしまうのは、私がそうだから。
 幼い時、この家庭の人たちがいなかったら私は耐えられなかったと思う。
 あのサスペンスドラマをきっかけに仕事も増えて、歌も出した。うまくは行かなかったけど、やりたいことはやってきた。
 宏哉も以前、やりたいことをやってるからと小説家も俳優も逃げ出すことはしなかったと聞いた。
 やりたいことが見つかるまで待ってみるのもいい。

 そして、彼にはやりたいことが見つかった。
 宏哉が死んで三年。
 死んだ理由を知りたいと浜松に行くらしい。付き合うことにした。
 人の死の重さなんて考えてこなかったけれど、何度も行っていたあの家にはもう宏哉はいない。
 ドラマに出ることも小説の新作が出ることもマンション内でばったり会うこともない。
 いないのだ。この世にはもう彼はいない。新しい彼をみることはできない。
 その辛さを知っているのは、真里であり、空である。
 私は違う。泣くのは私の役目じゃない。彼らだ。

 浜松に来て二日。
 どうも気持ちが暗いのは色々理由がある。
 部屋を一緒にしてもらって、何かないかと思っていたのに風呂から出てきた彼はのぼせて、倒れるように眠った。
 意地悪をしてやろうと私が寝るつもりだった布団で寝ていたと嘘をついた。演技力を見せつけた。
 しかし、全く動じない彼は部屋を飛び出した。
 思っていた以上に何もない。
 キスくらいするのかなと思っていたから、今度は自分から動いてみようと思ていた。
 浜名湖に来て、気賀駅の近くの橋で彼は『愛香は、大人、だろ?手っ取り早く父さんの死についてもわかるかなぁって。ほら、父さん、自殺だし』という。
 私はずっと大人としてみられていた。
 幼馴染だって言うから子供として見てくれている。お互い信用しあっているんだって思っていた。
 今まで大人である私に気を遣っていたのだろうか。
 距離を感じたのは、私が芸能界にいる大人だから?
 彼のことを一般人だとか見下したりしたことなかったのに。
 私だけが彼を友達として、幼馴染として、片思いの相手として見ていた。一方通行だ。彼は距離を置いてた。
 幼馴染を強調していたのは、あくまでいる世界が違うから。
 芸能界にいる私と一般人の彼。そんなふうに思ったこと一度もない。
 でも彼は、今までそう思ってきた。
 隣で橋の下の湖を見る彼の顔にはそう書いてある。
 だから、その現実を受け止めたくなくて逃げ出した。
 一人にさせてなんて言っても、この知らない街じゃ何もできないのに。
 小道に続く小さな坂を下り歩いていくとお寺が見えた。
 お墓だ。
 宏哉の墓はここにはない。
 なのにどうして、胸が苦しいのか。
 この場所、宏哉の小説のモデルに使われている。確か六作目だ。
 海に行く前にわざわざこの場所に向かった主人公の気持ちが書かれていたから覚えてる。
 恨んだ父親の墓がこの場所で初めて読んだ時は会う必要があるのかと疑問を抱いた。
 でもだから会いに行ったのだと思う。最後に海に行って入水自殺する彼。
 何かを見せつけたかった?違う。この作品が販売されてから数日、宏哉の父が亡くなった。
 気づいてはいけないことに気づいた気がした。
 禍々しいほどの憎しみがこれまで書かれてきた。それでも復讐として描かなかったのに、この作品だけが復讐を完遂させ、復讐について触れなかった。
 もしかして、宏哉は小説を使って人を殺した?復讐は現実で行なってきた?
「あなたこの辺の人ではないでしょ?」
 声に驚き、振り返るとそこには老婆がいた。
「え、はい」
「だと思った。この辺じゃ見かけないから」
「……」
「何か、悩み事?」
 当たってる。でもすぐに思い出したのは空のこと。
「どうして?」
 わかったの……。
「何にもないのにお墓に来ることはないでしょ?」
「……」
「言いづらそうね」
「だって……」
 この気持ちはどうやって伝えたらいいのだろう。
「仲良い男子がいたんです。ずっと、心を開ける相手だった。でも、その人は私のこと大人だって見てた」
「……大人?」
「高校生、ただの子供ですよ。なのに、彼はずっと大人として見て距離を置いてた」
 今更気づいた。私が彼にペシペシ叩いても何もやり返さないのは、彼が大人だからじゃなくてただ距離を置いていたから。
 彼もまた普通の子供。
「それが辛かった?」
 老婆の声に首を縦にふる。
「その男子、父親が亡くなってるんです。大人のお前なら何かわかるのかって聞いてきて」
 何を考えてしまっているのだろう。乾いた笑みが浮かぶ。
「カッとなって一人でこっちにきちゃいました。バカですよね」
 首を横に振る老婆は包むような温かさを感じた。
 全部言ってしまいそうになる。
 出会った時からずっと気になってた。アイドルが表紙を飾る漫画雑誌に怒りを覚えたのだってきっとそう言うことで。
 ギャルっぽい服を着てもなんら反応も見せない彼。
 どっかのタイミングで服を褒めてくれるかと思っていたけれど、違う。
「距離を置かれてるんじゃ、話なんてできないですよね。私は彼のことなんでも理解しているつもりだったのに。彼は私のこと理解するどころか興味もなかった」
 初めて出会った時に言ってくれた言葉なんてきっともう忘れてる。
 彼に付き合うって言うのは、本当にただついて行くだけ。
 その相手が同じ歳で稼ぎがあって大人に見えたら私くらいしか候補は上がらない。
「その気持ち、伝えてみたらいいんじゃない?でも鈍感ね、その男の子は」
 私にもいたわ、そういう人と付け足す老婆はがんばってねとさっき私が通った道を通っていく。
 その先に人影が見える。
 動きからわかる。彼だ。
 隠さなきゃいけない勘と伝えなきゃいけない気持ち。
 きっとこの勘を隠しても彼がそのうち真相に気づくのなら。
「ごめんね、私、大人って思われるほど、大人じゃないよ」
 彼が駆け寄ってきて口を開いた時に被せた。
 何か言われることが怖かったから。
「……私ってあなたとは何が違うのかなって考えてた。ずっと距離置かれてたなんて気づかなかった」
「それは」
「じゃなきゃ、めんどくさそうに共感しないでしょ?」
「……」
「ほら。迷惑だったよね」
 気づかないようにしていた。
 コンビニなどで会った時、どうして面倒なことになったみたいな顔をするのか。
 今の私ならわかる。私と会うのが面倒だった。仕事している私としていないあなたでは理解できることの数が違う。
 ほとんどができないで終わる。
 働いてない彼に高校生らしい考えとか言った、お金があるなら服をプレゼントするのもアリとか言ってたわけだから、ちょっとしたずれが価値観を変えた。
 私と彼に距離ができてしまうのは、当たり前だった。
「僕は……、芸能界が怖い。子供が仕事の道具にされて、毎日大変そうで、僕の知ってる生活を子役は送れない。幼稚園にもいけない、受験に失敗したらネット記事にされるかもしれない。そんなプレッシャーをいつまでも感じたくない」
 目の前に君がいたから。
「それを余計に感じた。僕の考えが、過去がちっぽけに感じた。仕事をしてストレスを抱えている人にいじめなんて小さいもの。理解なんかされないし、されなくていいって思ってた」
 だから。
「面倒だけど、愛香の前では普通の学生として接していようって距離を置いた」
 彼は、ごめんと一言謝った。
 嘘であって欲しかったことが現実であると知ってしまうと苦しくなるのは、彼を幼馴染で友だちで好きな人だから。
 我慢できない悲しさが、誤魔化そうと演じることもできない悔しさが彼の肩を本気で叩いていた。
 叩かれるままの彼は全部受け入れているようで。
「ずっとあなただけは、一緒にいてくれるって思ってたのに……!素の自分でいられたのに!なんで……!」
 バシバシと叩いて訴えかけてそれでも目もあわない彼に寂しさを覚えた。
 ……独りだ。
「どうせ本当は気づいていたくせに……」
 彼の服をクシャッと掴む。
 初めて会った日、伝えてくれた言葉。
『あなたのこと、好きかも……』
『……僕も』
 あれはきっと合わせてくれただけ。
 そんな悲しい思い出になるくらいなら忘れてしまいたい。
 なのに彼は。
「大人として見てた方が楽だった。バイトもしないガキが隣にいれない気がして。愛香は働いているわけだし」
 私の頬に手をやる彼の表情は柔らかい。
 どうしてそんな目ができるのか。
「同じ環境にいないから、好きってバレない方がいいかなって」
「………………………え?」
「親にはバレてたし、もうバレてたかなって」
「……………………は?」
「僕としては気づいてないと思ってたから、大人って言っても多少は問題ない気がしてた。でも、なんか違ったっぽい」
 それはつまり、私のことが好き。
 両思い?
「で、でも、キスする?って聞いた時、嫌そうだったじゃん」
「そんな流れでしたくないでしょ、愛香は」
「そうだけど」
 あの老婆の言う通り、気持ちは隠さなくて正解だった。
「それでさ……どうする?続ける?」
 宏哉の死の真相について。
「続けるよ。私、大人じゃないからわかんないことばっかだから」
 お互いの気持ちを初めて理解しあえて良かったと思う。
 戻る彼に続く私。
 両思いなら何しちゃってもいいやと、腕に絡みつく。
 驚いて周りを見渡す彼がおかしくて面白くて、可愛い。
 彼の気持ちに気づけなかった私もよくないのだけど。それにしても。
「ひどいよ、ばかっ」
 嬉しい気持ちは声に出て、曇った気持ちは晴れていく。

 空と少し離れた時間に宏哉の死因をSNSで調べる。小説にはなかったテーマがサムネになっていたものをタップして視聴した。
 性犯罪と家庭問題。
 エンタメ風に面白おかしく書かれていたけれど、気づいてしまった私にとっては全ての辻褄があっていく。
 認めたくないのか首を縦にふる。
 空に見せちゃいけない。
 それどころか早急に六作目について触れさせちゃいけない。
 五作目でとどめてしまおう。
 きっと彼も気づいてしまう。
 無性に海に行きたくなる気持ちの心理を知ったら彼はもう宏哉の死から立ち直れないのではないだろうか。
 宏哉自身も海に行きたくなることが多々あったらしい。
 空の声が聞こえる。
 スマホを閉じて、今まで通りに会話をする。
 晴れていた気持ちは少し霧がかったよう。