志成様は宣言通り帰宅時間が遅くなり、いつしか戻らぬ日の方が多くなった。
それでも私は不安に思うことはない。誕生日の贈り物として縫ってあげた羽織も喜んで受け取ってくれたし、仕事なのだから仕方がない。私はただ彼を信じて、待ち続けた。
志成様が忙しくなり始めて四ヶ月が経った頃。庭で落葉の掃除を手伝っていた私は、ふと使用人達の噂話を耳にした。
……正行が一ヶ月ほど前から行方不明で、そのせいでただでさえ忙しい志成様に皺寄せが来ているらしい。
(正行が、行方不明? しかも職務中の失踪とか……何があったの?)
正行は私が絡むと面倒くさい性格だが、仕事に対する態度は極めて真面目。軍での上司にあたるはずの志成様も仕事熱心だが、逢引きを理由に休んだりするので、そこを考慮すれば正行の方が硬い。
(志成様、同じ近衛府に勤めているのに、正行の事は教えてくれなかったわ。何か事件でもあったのかしら)
次に志成様が帰ってきたら聞いてみようと考えていれば、意外と早く顔を合わす機会は訪れた。
夜も更け、私が約束通り歌を歌っていると、突然寝室と縁側を仕切る障子が勢い良く開いた。
「志成様!?」
「……疲れた」
志成様はそう呟くと、羽織も脱がずに私の布団に倒れ込んだ。まさか戻ってくるとは思っておらず志成様の布団を敷いていなかった私は、慌てて押し入れから布団を出して敷く。
「志成様、大丈夫ですか? お布団敷きましたよ。私の布団で寝ても良いですけど、せめて羽織は脱ぎましょう?」
仕事だったというのに、その姿はいつもの軍服では無い。普段着の着物に、私があげた羽織だ。
疑問に思いながらも倒れ込んだ彼から羽織を剥ぐようにして脱がしていると……ふわりと、嗅ぎ慣れない香が私の鼻腔をくすぐった。
「──え」
……悪い予感がする。心臓がドクリと大きな音を鳴らして、不安な気持ちで志成様の肩を揺すった。
「志成様。志成様!」
「……何?」
眠気のせいか眉間に皺が寄り、機嫌が悪そうだ。そんな状況で香について聞く勇気が無くて……私はつい別事を口にした。
「えっと、その……正行は、元気にしてますか?」
「わざわざ起こして正行の話……明日にしてくれ」
随分お疲れなのか、志成様はそのまま寝入ってしまった。恐々と羽織を顔に近づけてみれば、深みある甘さを漂わせる香の存在を感じる。
(仕事って言ったのに……女の人と会っていたの?)
知らない香が染み付いた、私が縫った羽織。手の中に残ったそれが気持ち悪くて……気がついた時には、手に裁ち鋏を握っていた。
(志成様のせいで、全然眠れなかったわ……)
翌日の早朝。完全に睡眠不足の私は、池に写った自分の顔をどんよりした気分で見つめる。呪詛が解けてからはすっかりなくなっていた目の下のくまが復活しており、私は深いため息をついた。
良くない想像に取り憑かれた私は、思わず羽織に裁ち鋏を入れた。私が縫った羽織で、別の女性と会うなんて信じられない。
その後はとても一緒の部屋で眠るなんて出来ず、一晩縁側で月をぼーっと眺めながら過ごした。朝日が出てきたので、心を曇らせる澱みを取り去りたい一心で、私は庭に佇みあえて朝日の下で光を浴び続けている。
どうにか陽の光で澱みが浄化してくれないかと考えつつ朝露に濡れた庭を散策していると、屋敷の中で何やら騒ぎが起こっているのが聞こえた。
「志成様、どうか落ち着いてくださいませ」
「落ち着いていられるか! 早く皆を叩き起こして、探さなければ……」
どうやら志成様が何かを探しており、それを使用人達が宥めているらしい。
……今は、顔を合わせたくない。もう少し庭を散歩したって許されるだろう。そんな軽い気持ちで、何も聞かなかったことにして立ち去ろうとしたのだが。
「しかし影を辿っても見つからないのでしょう? では屋敷の中には居ないものとして考えた方が……」
「だから急ぐと言っているんだ! 昨晩布団を使った形跡もなければ、何か騒ぎが起きたわけでもない。影のことを知らない和音が自力で失踪出来るわけがないし、俺の羽織は切り捨てられていた。きっと正行だ……あいつが、和音を……!」
(えっ……私が探されているの?)
どうしてそうも必死で私を探しているのか理解に苦しむが、私は逃げてなど居ないし、誘拐されてもない。なんならすぐ側の庭に居る。そして羽織がズタズタなのは嫉妬に駆られた私の仕業だ。
屋敷の方に視線を移せば、寝室近くの外廊下で志成様が膝から崩れ落ちた瞬間だった。その手には刻まれた羽織が握られている。
「和音、和音……お願いだ。生きているなら何かの影を踏んでくれ。どこに囚われていても、絶対に探し出してみせるから……」
「志成様、お気を確かに。まだそうと決まったわけではありません。志成様は優秀な闇の能力の使い手でございますから自信がお有りなのかも知れませんが、最近の激務ゆえの捜索漏れの可能性も」
「だから皆を叩き起こして、闇の能力の使い手総出で探せと言っているんだ! あぁどうしてもっと頑丈な鳥籠に囲っておかなかったのだろう……失うくらいなら、座敷牢にでも閉じ込めてしまえばよかった」
ここまで取り乱した志成様を見るのは初めてだった。
(どうして? 志成様には、私より好きな人が出来たのではないの? それに……『影』って何?)
影なら私の足元にも伸びているが、これでは駄目なのだろうか。疑問に思った私はすぐ近くにある石灯籠に近寄って、そこから伸びる影に入った。志成様の言った「影を踏んでくれ」を実行してみることにしたのだ。
「──ッ和音!!」
その瞬間、志成様と目が合った。必死の形相で外廊下から飛び降りて、草履すら履かず、裸足のまま私に向かって駆けてくる。痛いぐらいに私を抱きしめるその力は、私の脳内にとある仮説を浮かび上がらせた。
とても小さな私の歌声が聞こえたのも、街で私が助けを求めた声がすぐに届いたのも。夜間志成様が不在の時でも歌って欲しいと言われたのも──
「和音、無事でよかった! 屋敷の中に居ないから、正行に攫われたのかと……」
「もしかして志成様は、『影』を通して私を見ているのですか?」
志成様から返ってきたのは、無言の肯定だった。
四大名家は各々の属性の術を使える者が生まれる。
例えば火の鷹宮は、鷹としての性質を持つだけでなく、火の術を扱うことができる。現状その姿を鷹に出来るのは次期当主とされる正行だけであるが、火を扱うのはお父様でも茜でも容易に出来ること。その威力に差はあれども、生活補助程度まで含めれば火の術を使える人間は一族の中にかなりの人数存在する。ちなみに私はこれっぽっちの火も出すことも叶わない。
そして私が嫁いだ暁烏の一族に脈々と引き継がれる属性は「闇」だ。火や水と違い何が出来るのかイメージし難いが、どうやら瘴気に近い性質を利用して、無理矢理瘴気や怨霊などの穢れを断ち切ることを得意とするという。
つまり。志成様が私の首にかけられていた呪詛を刀で断ち切って解けたのは、闇の暁烏の人間だったからであり。優れた術の使い手でもあったからだ。
また、暁烏の人たちは闇に溶け込むようにして身を潜め、諜報活動を行うのが得意だという。中でも志成様は、夜間だけでなく日中にも、地面に出来た影を伝って情報を集めることが可能らしい。……聞こえる訳のない私の声が聞こえたというのは、嘘でも幻聴でもなく、事実だった。
最近志成様がお忙しくされているのは、この闇の術の使い手だからだという。
四大名家から二十年ごとに人柱を立て、何百年間も鎮めてきた禍津日神。今年贄を出す番の鷹宮と二十年後に次が回ってくる暁烏の働きかけにより、他に鎮める方法が無いかと、四家当主と帝で対策が話し合われ始めた。そしてその情報収集を一手に引き受けているのが志成様だという。
「だから、浮気じゃないと言っているだろう! そんな暇があるなら和音の顔を見に戻ってくる」
「では花街ですね、分かりました」
「だから! どうして疑われているんだ……朝から和音が居なくなるし、浮気を疑われるし、愛妻お手製の羽織は切り刻まれて見るも無惨。散々だ。これぞ厄日……」
庭で私を捕まえた志成様は、その後私を離そうとしない。今日の仕事は夕刻からのようなので時間があるそうだが、他の女性と会っていた翌日にベタベタ触らないで欲しい。その気持ちから彼を責めてしまったが、どうにも志成様には心当たりが無いようで……私の心の靄は晴れない。
「……だって、羽織に知らない香が付いていました。それにお仕事なのに軍服ではなかったし」
どうして疑っているのか正直に話せば、志成様は心当たりがあったのか気まずそうに視線を逸らした。
「ほらやっぱり! 離してください。志成様なんて大嫌いです」
「違う、そうじゃない! 恐らく香ったのは伽羅の香りだろう? ……帝だ」
「身近にいらっしゃるからと、帝を犯人に仕立て上げるのはどうかと思います」
「本当に帝なんだ! 昨日の夕刻にお忍びで知人の墓参りをされて……帝の金の髪が思ったより目立つから、頭の上から掛けさせてもらっていた。お忍びだから警護で軍服を着ていくわけにもいかなかったんだ」
現在の帝は鳳凰の印を持ち、そのお髪は美しい金色だという。皇族に多いその色は、遠目でも目立つ。……それは偶然同じ色を持ち生まれた私も良く知っている。
「死者とはいえ、帝との関連が有ったと知られたら体裁上良くない立場の、身分のある女性で……」
「不貞の子」と鷹宮で後ろ指刺されてきた私は、なんとなくその言葉で察してしまった。
「……悲しい恋だったのでしょうね。今回は帝の悲恋に免じて不問にして差し上げますが、しばらく志成様の前では歌う気になれません」
「は!? そんな殺生な! 俺は和音を贄の役目から遠ざけて……君との間に生まれる子を、暁烏が差し出す次の贄にしたくない一心で頑張っているのに……」
そう言われると、心がぐらつく。きっと志成様は私に「贄の件は任せろ」と言った手前、手を抜けないのだろう。贄以外の手段が見つからなかった場合、禍津日神が復活する……もしくは誰かが贄になるしかない。そして今回がどうにかなっても、二十年後には暁烏に贄の役割が回ってくる。
「そもそもこんな燻んだ気持ちで歌っても、綺麗な歌にはなりませんから」
「……では今晩俺の仕事に付いてきて、そこで帝に直接事実確認してくれ。疑いは晴らすから『嫌い』は撤回してもらえないか?」
「帝に、直接……」
「和音がいない世界で、俺は生きていけない」
そんな大袈裟な、中毒者のような表現をしなくても……と思ったが。その表情が真剣だったので、私は何も言えなかった。
秋の長夜に相応しい中秋の名月。月を眺めるという名目の宴の主催者は帝。どうやら今晩の志成様の仕事は、宴での帝の警護だったらしい。
上座に座る帝は、金の髪が美しく、とても四十手前には見えない。そんな帝の側には、これまた美しく整った顔の軍服姿の志成様が控えている。秋らしい様相に飾り付けられた室内の趣よりも、上座から感じる顔面破壊力の方が強い。周囲の全女性の視線を掻っ攫っているのではないだろうか。
急遽宴に参加することになった私だが、志成様のコネなのか、暁烏という家柄のお陰か、すんなりと席が用意されたらしい。紅梅色の訪問着を着た私は大人しく宴に参加していた。
「見慣れない顔ですね。どちらの家のお嬢……いえ、奥様でしょうか?」
どうやら沢山の貴族が参加する宴だったようで、近い席の者同士で歓談を楽しんでいる。しかし今まで鷹宮の屋敷に引きこもってきた私の顔など、知っている者の方が少ない。ただ四大名家の一つなだけあって、暁烏の名を出すと皆丁寧に接してくれた。
「あぁ、噂の……宴に出られるほど体調が良くなられたのですか?」
「志成様が、合う薬を見つけてくださったので。ご心配ありがとうございます」
「暁烏は身内以外には非常に冷酷だと聞く。特に当主様は顕著らしいが」
「志成様は、とても優しい人ですよ。それこそ私には勿体無いくらいの」
私の噂だけは知っているという人は多いので、ひとまず志成様のおかげで元気になったのだと広めておく。私には政の話は難しいので、地道に志成様や暁烏の好感度上げに徹することにした。
そうやって初対面の人達と話しつつ、目の前に置かれていた月を模した和菓子に手を伸ばした瞬間だった。後ろからヌッと手が出てきて、私の手の甲を掴む。同時に反対側の肩も掴まれて、驚いた私はビクッと体を跳ねさせた。ふわりと深みある甘さが香る。
「ごめんね。驚かすつもりじゃなかったんだよ」
私の耳元で響く声は、志成様ではない。恐る恐る首を捻って後方を確認すると……そこにいたのは、帝だった。
驚きすぎた私は、挨拶するのも頭を下げるのも忘れて固まってしまう。
「私のせいで志成と喧嘩したんだって? ほら……こうやって体を寄せると香りが分かるかな。羽織に付いていた香りと同じだろう」
「は……はい」
「疑いは晴れた? 羽織を裁ち鋏で切り刻んだって聞いたよ。流石鷹宮で育っただけあって怒ると強烈。血筋より育ちだね」
「私は生まれも育ちも鷹宮なのですが……」
帝の発言の意味が分からない。困惑する私の耳元で帝は「そう思っているのは君だけだよ」と囁く。先程まで話をしていた隣の人に視線を向ければ、サッと目を逸らされてしまった。
(帝の悲恋に、亡くなった想い人。鷹宮らしくない容姿の私は、不貞の子と言われ続けた。お父様に呪詛をかけられて、贄として育てられたのは……もしかして?)
私の疑念は徐々に確信に変わる。ゆっくりと大きく瞬きする私を見た帝は、私とは反対にその目を細めた。
「愛妻家の志成が沈んでいると揶揄い甲斐が無くてつまらない。私のためにも夫婦仲良くね」
「帝、和音との距離が近すぎます。疑いを晴らして欲しいとは頼みましたが、そこまで寄る必要はありません」
私と帝との間を顰めっ面の志成様が割るようにして入ってくるが、帝の表情は相変わらずだ。
「ケチだなぁ、減る訳じゃないのに。じゃあ代わりに志成が大事にしている金糸雀の歌を聞かせてよ。ほら、月夜の宴にはぴったりだろう?」
「俺はケチなので、宝は見せびらかさない主義です」
「では本人に聞こうか。帝である私が望むのだから、歌うよね?」
にっこりと笑みを携えた帝にそう言われてしまえば、断れない。黙ったまま頷くと、逆に志成様からは睨み付けられた。
「良い子だね。月夜に相応しい歌で頼むよ」
「……和音、後で覚えていろ」
(睨まれたって、この状況で歌わないなんて無理よ!)
私は睨みつけてくる志成様と目を合わさないようにしつつ、何の歌にするか暫し考えてから……帝に促されるままに歌を歌い始めた。月を愛でる穏やかな歌詞は、青藍の夜空に溶ける。
周囲の歓談の声は消えて、ただ私の歌声だけが響いた。
「……おい、どうしてか持病の腰痛が治ったぞ」
「実は私も。先日落馬して骨をやっていたはずなのですが」
「まさかただの金糸雀では無いのか? 鷹宮は贄にするフリをして、特殊な力を持った娘を隠していたのでは?」
私が歌い終われば、静かだった空間は一気にどよめきに包まれた。そしてこの流れで注目を浴びるのは──
「素晴らしい歌声だった。志成の治療のおかげで娘の才能が表に出て良かったな? 鷹宮の当主よ」
……帝に話を振られ注目を浴びたのは、お父様だった。
多くの貴族が集まるこの宴。どうやらお父様も茜を連れて参加していたようだ。
「そうですね……長女は暁烏で随分と調子が良くなったようだ」
「どうして長女の才を隠していたのだ? これは治癒に特化した光の力。それこそ光の皇族と呼ばれる所以となる力だ。それが偶然他家に現れるなんて、有り得なくはないが珍しい。一言私に相談してくれても良かったのに」
悔しそうにギュッと唇を噛む茜と、帝への負の感情が隠しきれていないお父様。鷹宮らしい激情が表立っている。
「和音は体が弱く、人目に晒せば……更に悪くなると思い」
「そうか。どうやら鷹宮の長女が贄姫という噂は、一人歩きした偽りだったようだ。現在贄を使わない禍津日神の封印方法を検討している最中であるが、もしそれが間に合わなかった場合、鷹宮は誰を贄に出すつもりだったのだろうな? 是非聞いてみたいものだ」
「……それは」
「どうして手をこまねいているのですか、お父様! 和音姉様を贄にするのだと、ずっと言ってきたではありませんか! どうしてこの場で和音姉様を贄として連れ戻すと明言しないの!?」
返答に困るお父様に痺れを切らしたのか、茜が私に向かって飛びかかってくる。咄嗟に志成様が私を守るように正面に立ち、茜を引っ捕えた。
「馬鹿だとは思っていたが、ここまでとは」
「ちょっと、離して! 帝は、未来の花嫁である私の話をどうか聞いてくださいませ!」
茜は状況が把握出来ていないのか、目をきゅるんと潤ませて帝を見つめる。可愛らしいのは認めるが……この状況でやるのは逆効果だ。帝は温度の無い冷たい笑みを茜に返す。
「聞かないよ。種を蒔いた元凶は私であったとしても……鷹宮は私に勘づかれないように和音の声と健康を奪った。和音を傷つけ続けた君を側室にすることもない。それで、鷹宮の当主は誰を贄にするつもりだったのか聞いていいかな?」
お父様が観念したかのように口を開きかけた、その瞬間だった。
すぐ近くで爆発音がして、室内に煙と土埃が充満した。
(何!? 苦しい……)
咄嗟のことで屈むことすら出来なかった私は煙を吸い込んでしまい咳き込む。
「──姉様」
そんな中、正行の声が聞こえたような気がした。目すら開けられない私の体は何かに掴まれるようにして捉えられて、頬には風を切る冷たさを感じる。
「和音姉様」
やはり正行の声だ。行方不明だったはずなのに、鷹の姿で煙の中から連れ出してくれたのだろうか? 煙たさが無くなって目を開けた私だったが……状況は私の予想とは大いに異なっていた。
「志成! どうして私を先に庇った、こういう時は妻を優先するだろう!?」
「では帝は今から全力で、自力で逃げてください。……流石にコレ相手に帝を庇い、和音奪還は不可能です」
遥か下に見えるのは、こちらを見上げつつ言い合いする帝と志成様。志成様は刀を抜いて、それに闇の力を纏わせている。
そして私を捉えているのは……鷹の足ではない。禍々しい瘴気を放つ黒い腕のような物体だった。それは本体と思われし巨大な黒い塊に繋がっている。
「和音姉様、やっと見つけた」
黒い塊から、正行の声がする。私は信じられない気持ちで問いかけた。
「正行……なの?」
「そうだよ。これからはずっと一緒にいられるから安心してね」
「和音! それはただの正行じゃない。──禍津日神と一体化している!!」
まさかの状況に目を見張る。そして私を捉える正行と思われし物体も、志成様の言葉を否定しない。
(禍津日神の封印が解けるのは、贄を差し出す冬以降のはずなのに!?)
「光の皇族の力を求める禍津日神と、その血を引く姉様が欲しい僕。利害関係の一致だよ。僕が禍津日神になり姉様を貰えば、みんな幸せな結末を迎えられる」
「だから禍津日神の封印を解いたの!?」
「そう。言ったでしょう? 絶対に姉様を贄にはさせないって。姉様は禍津日神となった僕の花嫁になるんだよ」
春に会った時に彼が言っていた「良い方法を見つけた」とはこのことだったのだろうか。だから仕事の合間に禍津日神の封印を解いて……この一ヶ月、行方不明のだったのだろう。
「そんなの駄目、私は志成様の妻なのよ!」
「煩い! 本物の姉様なら、笑って頷いてくれるはずだ。僕の和音姉様だったら……!」
「きゃッ!」
急に私を捉える黒い腕のような部分が左右に大きく振られる。その動きで下からこちらに攻撃の狙いを定めている人々の動きは制限された。
「くっ……暁烏の奥様を盾にしようっていうのか」
「しかも鷹宮の長男が取り込まれてるって? 冗談じゃない……どうするんだ。どちらにせよこれは死人が出るぞ」
そんな声が聞こえてくるが、激しく振られたせいで既に私の意識は飛びかけている。
このままでは私が死に、それにより狂った禍津日神の正行が暴れ残虐の限りを尽くして、最悪の結末を迎えてしまう。考えられる未来の、一番最悪の展開だ。
(これだと、私一人が犠牲になって、正行と一緒になる方がマシ? そうすれば、皆は助かる……?)
「──和音、諦めるな! 俺と生きると、約束しただろう!?」
すぐ近くで志成様の声が聞こえて、私は必死に意識を保つ。
私の目の前に飛んできた八咫烏がサッとその姿を人に戻し、私を捉えたままの黒い瘴気に刀を振ろうとするが。あと一歩のところで届かず、正行の放つ瘴気に吹き飛ばされてしまった。
それを受け止めるようにして誰かの術が展開されるが、正行の追撃は止まらない。押し切られるようにして志成様は地面まで落ち、土煙が舞った。そこへも執拗に正行の瘴気と火が入り混じった攻撃が繰り出される。
周囲からは火を防ぐような水の術や、こちらの本体を狙っての攻撃が繰り出されているが、正行の勢いは止まらない。
『暁烏志成。姉様を奪ったヤツ。オマエダケハ、ゼッタイ、ユルサナイ……!』
「やめて、正行お願い。志成様を傷つけるのはやめて!」
私の声はもう正行に届かないのか、返事は無かった。
(どうしてこんなことに……)
思わず涙が溢れるが……私は諦めるわけにはいかない。志成様は私に、諦めるなと言った。私はまだ志成様に言ってしまった「嫌い」を訂正すらしていない。一緒に生きるのだと、約束したのに!
「正行、聞いて!」
私は持てる限りの力で歌を歌い始めた。それはずっと昔に、時折正行に歌ってあげていた童謡。それに、どうか志成様の命だけは助かるように思いを乗せて。私に唯一できる『歌』が叶える奇跡を信じて、歌う。
「──姉様、その歌懐かしい……」
歌を聞いてくれたのか、声が正行の口調に戻る。私を捉えていた瘴気を纏った腕のような物体からシュウッと音がして、瘴気が滅しているのが見えた。
その瞬間だった。
「和音、よくやってくれた」
頭上から響く志成様の声。空を見上げた私の視界に映ったのは、巨大な黒い物体となった正行の頭上で、八咫烏から人の姿に戻る瞬間の志成様。その手には先程までとは違う金の光を放つ刀が握られており、その周囲には闇の能力が纏わせてある。
自由落下の勢いで突き立てられた刀。闇の力が瘴気を破り、光の刃が禍津日神を二つに割って……禍々しい物体は滅された。
支えを失った私の体は真っ直ぐに地面に落ちる。重力に引かれる感覚に、思わず悲鳴をあげた。
「きゃ……ッ!」
「──っ、危ない」
宙で私を支えてくれたのは、輝かしい光を纏った鳳凰。そのまま私をゆっくり地面に下ろした鳳凰は、すぐにその姿を帝に戻す。空から舞い降りてきた志成様は、無事を確認するかのように力一杯、私を抱きしめた。
「苦し、ぃ……志成様、息が」
「──良かった! 和音が無事で、本当に良かった。失うかもしれないと必死だったせいか、今更震えが……」
私は、震える志成様の体を抱き返す。私を取り戻すために懸命に戦ってくれた志成様。その愛を一瞬でも疑ってしまった私は大いに反省しなければならないし、約束を果たさなければ。
「志成様、大好きです。嫌いだなんて言ってごめんなさい……って、志成様怪我してませんか!?」
彼の背に回した手に感じる、どろりとした感触。私の顔からはサッと血が引く。
「あぁ……そうかもしれない。もしかして震えは、出血のせいか?」
「呑気に喋らないでください! 今すぐに歌いますから!!」
慌てて歌い始める私に目を細めて笑みを向けた志成様は、続いて帝の方へと視線を向ける。
「……帝、ありがとうございます。和音を受け止めて貰って、助かりました」
「美味しい所を持って行ってすまないね。私のせいで大変な人生を歩んできた娘が大活躍したのに、破魔の刀を用意しただけで出番無しでは……どうにも格好がつかないからな」
禍津日神は、帝の用意した破魔の刀によって滅された。通常であれば瘴気に阻害されて通らないであろう攻撃でも、志成様の闇の力で無理やり瘴気を破ってしまえば本体まで届くだろうという計算で……唯一可能かもしれない禍津日神を倒す方法として、考えられていた最中だったという。更に私の歌声が瘴気をある程度滅し、刀が通りやすくなったため、良い方向に転んだのだ。
志成様は怪我を負いつつも助かり……生存が絶望的だと思われた正行も、奇跡的に一命を取り留めた。
それでも基本は寝たきりで、以前と同じようには動けない。禍津日神と一体化した影響なのか……私の歌を持ってしても、それ以上の治癒は不可能であった。
「……暁烏志成。お前は絶対に僕を殺すと思っていたのに、どうして僕の魂を避けるようにして切ったの? 妻を奪おうとした男だよ?」
正行は禍津日神の封印を解いた罪人として、罪を償い生きる。最後に面会を許された際、正行は私ではなく、私の付き添いで訪ねていた志成様との会話を望んだ。
志成様は正行と会話なんてしたくないのでは? と思ったが、案外真面目に正行の質問に答えてくれた。
「確かにお前は面倒くさい奴だ。和音は俺の妻なのに、返せ返せと仕事中まで煩い。しかし俺も、聞く者の心に光を差す和音の歌に、魅了された男。お前の気持ちが一番分かるのは、恐らく俺だ。そう考えれば、切れなかった」
「ハハ……身内以外には冷酷な暁烏の当主様が? お優しいことで。和音姉様に影響されたの?」
「あの鷹宮の家で唯一和音を庇い、仕事でも同僚だったお前は、無意識に身内判定したのかもしれないな。今後は名前の通り、一般常識に照らして正しい行いをして過ごせよ。正行」
志成様は正行にそれだけ伝えると「あとは二人でゆっくり話すといい」と言い……私の頬に口付けてしっかり威嚇してから、席を外した。しかし正行は予想外なことに、私に話す事は無いと言う。本当に無いのか私が詰め寄ると、ぽつりと「正しい行い……ね」と呟いた正行は、淡く笑ってみせた。
「ごめん一個だけあった。和音姉様、結婚おめでとう」
鷹宮のお父様は、茜は厳重に管理・処分すると帝に約束した上で、四大名家の名と貴族としての位を返上した。……起こした騒ぎの大きさを考えれば当然の報いかもしれないが。それでも……少しだけ可哀想だと思ってしまったのは、私が彼らと一応「家族」という形で暮らしていたせいだろうか。
「本当に和音は人が良いな。自分を苦しめてきた奴らなんて、どうなっても知ったことではないだろうに。俺ならば、ざまあ見ろ地獄に堕ちやがれと思うが」
胡座をかいて座った志成様の腕の中で、はらりと舞い落ちる雪を見上げる。……もうすぐ、本来の贄の期限。志成様と初めて会った冬から一年だ。私は一年前には想像も出来なかった幸せの温かみの中に居る。
でもそれは……本当に不貞の子だった私を、鷹宮のお父様が生かしてくれたから。呪詛を掛け贄としてであっても命は奪わずにいてくれたから、今がある。
「だって私はあの環境で育ったからこそ、志成様との今を手に入れたのです。苦しかった日々も志成様へ続く道だったのだと思えば、何ともありません」
「その発想は、あの鷹宮で育ったからこそだな。俺はずっと、か弱い金糸雀を鳥籠に閉じ込めて大切に飼ってやらねばと思っていたが。……意外と強いからな、和音は。怒らせると、勝てる気がしない」
大事な羽織は切り刻まれるし……と、嫉妬に駆られた件を持ち出されるので「また縫いますから許してください」と謝罪する。
「許さない。だってあれは和音が初めてくれた贈り物だったんだぞ。だから、そうだな……お詫びに、毎週俺と逢引きに出掛けてくれ」
「歌ではなくて、逢引き? そんなもので許していただけるのですか?」
と思ったが。そういえば志成様は、私が街歩きする様子を見て快感を覚える程だったのを思い出して、押し黙った。
「そんなもの? あれ程可愛らしい姿を、そんなもの扱いしないで欲しい」
だんまりを無言の肯定と捉えた志成様は嬉しそうに私の唇を奪う。そして楽しげに、次は劇場に行こうかなどと話し始めたので、私も釣られて笑ってしまった。
「好奇心で輝く瞳と弾む歌声を独り占めする甘美な役割を、俺だけのものにできるのなら。……それは十分すぎる程のお詫びだよ」
鳥籠に囲うのではなくて、その腕で金糸雀を囲い連れ回す男の話が有名になり私の耳に入るのは……もう少し後の話。