春の雨が降る欄干の外を、華沙は考え事に沈みながらみつめていた。
 宴の二日目は、天候が乱れたために休止とした。そもそも肝心の涼子も、体調が優れず眠りの淵についている。
 華沙は表面上、朝から淡々と政務をこなした。彼は政変の際は自ら馬に乗り、兄皇子たちと戦った豪胆さを持ちながら、普段は極めて穏やかで、必要とあらば夜通し雑務をこなす、良き君主だった。
 華沙はけむる春の雨を見ながら、ふと涼子を腕に包んで眠る穏やかなひとときを思い出した。たとえ抱くことができなくとも、ただ今夜も涼子の隣で眠りたいと願った。
 華沙がいたずらに夜の訪れを待っていた、そんなとき。
 女官の言葉が華沙の意識の弦を弾く。
「主上、東の国の比良の君が参りました」
 もしかしたら涼子が好意を抱いているかもしれない男だと思うと、嫉妬に胸が焦げそうだった。
 華沙は不愉快を押し殺して命じる。
「……通せ」
 その言葉に女官は下がっていって、まもなく目的の人物が現れた。
 東の国は内裏の支配がすべてには行き届かず、独自の文化が根付く所領だが、比良はそれほど華美を好まない。長身に馴染む狩衣をまとい、黒髪を涼しげに結っているだけで、貴公子然として宮中で映えていた。
 比良はうやうやしく一礼すると、朗らかにあいさつの口上を述べた。
「主上、ご無沙汰しております」
 少年の頃、華沙は母君の身分低さゆえに皇子としても扱われていなかったところ、乳母の手配で東の国に留学して学を得た。そのときから既に東の国の第一子として将来を約束されていたのが比良だ。
 今、華沙は中央政権である宵那国の帝だが、東の国と比良には少年の頃の借りもあり、権力だけですべてを左右することはできない相手だった。
 比良は決して無礼にはならない程度に言葉を投げかける。
「中宮様にもお会いしましたが、気苦労が絶えないようで」
 華沙と比良は、個人的に仲も悪い。中宮礼子は比良と筒井筒の仲だ。あの賢明で美しい中宮のことをこの公達が憎からず思っていたことは、華沙も知っていた。
 華沙はうっすらと笑みを浮かべて嫌味を言う。
「独り身のそなたよりは悩みが多かろうな」
 正直なところ、華沙は今回の宴に比良を出席させたくはなかった。比良は借りがある上に、扱いやすくない人物だった。所領を拡大しようという野心はないが、商才に長けており、宵那国の一所領で収まるより、利用して国を盛り立てていこうと狙っていた。
 ただ、もし涼子が目を留めるのなら比良だろうとも思っていた。礼子に通じる美貌、そしてもう一つ、涼子本人に通じる点があった。
 欄干の外の春の雨を見やって、比良は何気なく告げる。
「珍しい雨ですね」
 比良はちらと華沙を下からうかがった。
「「雨がよく降る国には良き精霊がいる」……と、聞いたことがあります」
 華沙は脇息から肘を上げて目配せをすると、女官たちを下がらせた。
 華沙は近う、と比良を呼び寄せる。比良が側近くに来るのを見計らって声をかける。
「何か言いたいことがあるようだ。聞こう」
 華沙の言葉に、比良は一度目を伏せた。 
「宴の最中、姫宮をみつめていた……主上によく似た影にはお気づきですか?」
 華沙はうなずいて答える。
「精霊とはそういうものらしい。誰かの姿を借りると聞く」
「では、お気づきで」
 東の国では、「精霊」というものが身近な存在だった。宵那国にはそのような名前すらなく、「魔」と呼ばれるだけだ。
 言葉を止めて気がかりそうに眉を寄せる比良を見て、華沙は思う。
 比良は涼子と同じものが見える。それだけでも、涼子の心に近づく可能性を持っている気がした。
 華沙は心を決めて口を開く。
「比良の君」
 華沙の呼びかけに、比良は目を上げる。
「私は涼子の降嫁先を探している」
 比良は華沙の提案に、それほど驚くさまを見せなかった。
 比良はくすっと優雅に微笑んでおどけてみせる。
「東の国はいかがですか? 暖かく、過ごしやすい土地ですよ」
「私もそう思う。……ただし条件がある」
 華沙はひたと比良を見据える。
「約定をしよう、比良の君。そなたにとっても利となる条件を用意してある」
 比良は笑みを消して華沙を見返す。
 女官の気配も完全に消えたのを確認してから、華沙は口を開いた。
「一つ目。涼子をそなたの正室とすること」
「宵那国の皇妹殿下を、それ以外の地位に迎えることは無礼でしょう」
 うなずいた比良に、華沙は続ける。
「二つ目。そなたに男児がさずからなければ、私と中宮の子を送り、子の世代でも東の国を継ぐことを許そう」
 比良は少しその言葉をはかりかねたようだった。一拍考えて華沙に問う。
「月の姫宮はまだ二十三。御子がさずかる可能性も大きいのでは?」
「三つ目。最後だ」
 華沙は比良の疑問を遮るように言葉を続けた。
「涼子に懐妊の兆しがあった場合は、速やかに宵那国に里下がりをさせること」
 比良は華沙の言葉の調子に違和感を抱いたようで、探るように問いを返す。
「姫宮の御身には決して大事がないようはからうつもりですが……。宵那国からの医師を受け入れる、という条件では?」
「涼子の体で出産は無理だ」
 ふいに比良はぎくっとして息を呑む。
「……まさか」
 華沙は彼が戦場でそうであったように、少しも動揺を見せずに冷酷な判断を口にした。
「知っているか? 宵那国には母体に害とならない堕胎方法がたくさんある」
「主上!」
「涼子に害なすものは子であっても要らぬ。私は涼子には健やかに、永く生きてほしい」
 比良は彼らしくもなく、しばらく言葉を失ったようだった。
 子をもうけるのは王侯貴族の務めと考えるのが常識だ。だが華沙はそれを覆してでも、妹姫の平穏を願っている。
 華沙は淡々と比良に告げる。
「東の国とはこれまで以上の交易を行おう。手はずは整っている」
 華沙は彼が重臣たちに恐れられている、凍るように冷静な目で比良を見た。
「私は涼子の降嫁先を得る。そなたは宵那国との交易と後世までの利権を得る。互いに利となる条件ではないか?」
 比良はその目をもう見ていることができず、苦い思いで目を伏せた。
 比良は首を横に振りながら、まだ動揺を抑えきれずに言う。
「なぜ主上は月の姫宮を中宮にお迎えしなかったのか、わたくしどもは不思議に思っていましたが……」
 華沙が少年の頃、東の国に留学していたときから、比良は華沙を恐れていた。
 華沙は、やって来たときは歌も書けない男児だったのに、たった数年で見違えるような貴公子に成長した。彼は身分低い女房の子と侮られることなど気にも留めなかった。ただ淡々と貪欲に教えを乞い、努力を重ね、甘やかされた貴族の子弟たちをあっさりと追い抜いていった。
 けれど比良は、そんな不気味なほど有能な少年と向き合ったとき、その目に冷ややかさと共に宿る光に気付いてしまった。
 昨日の出来事のように比良が覚えていることがある。まだ東の国にやって来て間もない頃、ひどい熱病に侵され、医師に匙を投げられた夜でも、華沙は今と同じ目をしていた。
 俺は死なないから大丈夫だと、彼は言った。落ち着けよと比良がなだめると、華沙は少し黙った。
 それから華沙はぽつりと言ったのだ。お前も妹がいたな。妹は守りたいものだなと。
 今あのときとは違う感慨を持って、比良は言う。
「主上は月の姫宮をお守りしたいのですね」
 王侯貴族において母の違う姉妹など、むしろ憎しみの対象だ。幸い比良は妹と仲がいいが、それでも妹の嫁いだその先にまで思いを馳せたりはしない。
 華沙はそれに今までで一番たやすそうにうなずいた。
「……ああ。筒井筒の頃からの約束だからな」
 一瞬だけ、華沙は少年の頃のように無邪気な光を目に宿して、微笑んだ。