涼子に戯れをしかける夜は、華沙の心が乱れているときだと知っていた。
 華沙は寝床に横たえた涼子に口移しで蜜酒を含ませて、涼子に問う。
「すず……触れて、よいか」
 それは何度か問われた言葉だった。華沙はその熱に駆られたとしても、決して一方的に涼子の身を奪うことはしなかった。
 そして涼子は酔いで意識がぐらつきながらも、華沙を拒む。
「いや……」
 涼子は自分が華沙の寵を受ける理由が理解できない。
 華沙は今や二十五歳の若く艶やかな帝で、求めなくとも多くの女人が身を差し出す。子どもの頃のような小さな世界ならば年の近い妹が可愛かったに違いないが、もうそんな世界に彼はいない。
 涼子の拒絶に、華沙は切ないような声で言った。
「頼む、すず。私には、そなただけなのだ……」
 息がつまるくらいに抱きしめられて、ふっと涼子の意識は濁っていた。
 涼子は夢を見ていた。十年前、華沙が即位し、中宮礼子をめとったときのことだ。
 夜、涼子は部屋を抜け出して、庭の泉をのぞき込んでいた。
 女官たちは即位と結婚の儀が盛大に行われたと言っていたが、後宮の最奥は静けさで満ちていて、まるでそんな気配はなかった。
 静まり返った暗闇、誰もいない夜なら、涼子は怖くなかった。
 この頃確かに、涼子は華沙が好きだった。
 自慢の兄上だった。強くて賢くて、病弱な自分をいつも守ってくれた。
 でもまもなく離れ離れになると思っていた。そろそろ嫁ぐ年齢で、皇家の血をひく子どもを産むのを求められる。
 自分の体はそれに耐えられない。じきに命を失うだろう。そういう確信があった。
 ゆらゆら揺れる水面の下に、なじみ深い世界が見えていた。
 踊る人々、陽気な音楽。中心に、華沙そっくりの黒髪の公達がいた。
 ……兄上がそちらにいるなら、もう、こちらにいなくてもいいかしら。
 涼子が水面に手を差し伸べて、公達の姿を抱きしめようとしたとき、後ろから目が覆われた。
 宵闇から伸びた手が、涼子の世界を暗転させた。
 婚儀の夜。華沙が閨にひきずりこんだのは、中宮ではなく涼子だった。
 いつも温かく涼子の頬を包んでくれた手が、涼子を生まれたままの姿にしていくのが、涼子は信じられなかった。
 どうしてと、涼子は混乱のままに泣きじゃくって、華沙を戸惑わせた。
 華沙はどうにか一線を越える前に行為をやめてくれたが、そのときの恐怖は今も残っている。
「……すず」
 揺り起こされて、涼子はまだ現実と夢の区別がつかなかった。
 普段の涼子なら考えられないほどの激しさで、涼子は悲鳴を上げる。
「嫌ぁ!」
 涙をあふれさせながら、涼子は抵抗する。
「すず?」
「怖い……怖い!」
 自分に価値はない。その思いが幼いときから涼子の心を蝕んでいた。明日もわからない病弱さが、涼子を生者より死者の世界に近づけていた。
「いつからここが怖くなったの。助けて、兄上! そちらに連れてって……!」
「……すず!」 
 半狂乱になって暴れる涼子を、華沙が顔色を変えて押さえつける。
「落ち着け! すず、私を見よ。私はここだ!」
「違う! 兄上は死んだの! もういないの!」
 遠い昔、あの世界をのぞきこんだとき、兄上はあちらにいると思ったのだ。
 ああ、そうだったのと、涼子は戦慄する。
 ずっと違和感があった。この人は、私に触れようとする人は、兄上じゃなかった。 
 そう思った方が、涼子は安心できた。大好きな兄上が、涼子を連れて行ってくれるのを望んだ。
 急に静かになった涼子を、悪夢から目覚めたと思ったのだろう。華沙は優しく涼子の頬をなでて言う。
「怖い夢を見たのだな。兄上はここだ。そなたの目の前にいる。そうだろう?」
 華沙は涼子の頬を両手で包んで、額を合わせながら言う。
「すまない。驚かせてしまった。私はそなたの嫌がるようなことはしない」
 華沙は涼子のまぶたに触れるだけの口づけをして、安心させるように笑ってみせた。
 華沙は自分の体を下にして涼子を腕で包むと、涼子の頭を胸に抱く。
「お休み。次は良い夢が見られるだろう。目覚めるときにはそなたが喜ぶものを、用意しておこう」
 二人はしばらくそうして体を重ねて横たわっていた。夜の帳の中、静寂が場を支配していた。
 炭櫃でまた火が燃えていた。華沙は小さくつぶやく。
「すず、愛している」
 華沙は苦しげに眉を寄せて、自問のように告げた。
「それに嘘偽りはないのに、そなたには怖いのか? どう言えば伝わるのだろう? そなたを怖がらせずに、思いを伝えるには……」
 虚ろな目で脱力した涼子を抱きしめて、華沙は途方に暮れたように涼子の背を撫で続けていた。