涼子の月の宮には、帝以外がたやすく訪れることはできない。
 かつては帝の寵愛を受ける涼子に近づこうと、多くの客人が訪れていた。けれどそれを決定的に覆した事件があった。
 五年前、涼子が十八歳のとき、野心を持った姫君が中宮の女房として潜り込んで、涼子の食事に毒を盛った。
 帝は激怒し、中宮以上に高位の貴族だったというのに、彼女もその後ろ盾であった父宮も、手足となった侍従に至るまで、華沙が極刑に処した。
 そのときから、涼子の口に入るのは専属の医師と料理番が知恵を絞ったものだけだ。涼子が身につけるのは糸の一本まで帝が手配したものだ。
 寵はそのときを機に、越えてはならない線を越えてしまったようだった。
 今の涼子は昼の間、涼子付きの女官と医師しか顔を合わせることはなかった。
 夜、炭櫃の前でうたたねをしていた涼子に、しきりに女官が寝所に入るよう勧める。
「姫宮、お休みください」
 涼子は子どもがぐずるように首を横に振る。
「もう少しだけ……」
 そんな涼子の様子に、女官たちはほほえましそうに顔を見合わせた。帝の訪れを待っていると思ったらしかった。
 涼子は眠気の狭間で待ち人に思いを馳せる。
(今日は、いらっしゃるのかしら)
 目をこすりながら待ち続けた涼子には、それは夜が明けるほどの長い時間に思えた。
 願いは叶うときもあればそうでないときも多い。だが幸い、今日の願いはその人に届いたようだった。
 女官は涼子に近づいて、涼子が待ち望んだ言葉を告げる。
「姫宮、お待ちかねの方がいらっしゃいましたよ」
「あ……」
 目を輝かせた涼子に、女官は悪戯っぽく言葉を続ける。
「姫宮はすでにお休みですと申し上げて、お帰りいただきましょうか」
「そんな!」
 後宮の住民が帝を追い返すことなどできない。女官の言葉はもちろん冗談だったが、半分以上眠りの中にあった涼子はうろたえた。
「蜜酒をお出しして、お待ちいただいてください。すぐに向かいます」
 お酒が苦手な涼子が唯一飲むことのできる甘い蜜酒は、涼子の精一杯のもてなしの心だった。
 涼子は慌ただしく支度を整えて、居室を二つ渡った先にある「歌月の間」に向かう。
 涼子が待ちわびた来訪者はそこにいた。
 中宮礼子(れいこ)は涼子が入って来たのをみとめると、すぐに深々と頭を下げて礼を取った。
 礼子は華沙の乳母の子であり、本来的には中宮につくのが難しいほど身分が低い。彼女は生まれながらの皇族である涼子とは立場が違うと、中宮となった後も涼子に臣下の礼を取っていた。
 つややかな見事な黒髪とすっと切れたようなまなざしの麗しい風貌だが、賢明でがまん強い娘だと、帝は初めて涼子に彼女を引き合わせたときに告げた。
 後宮で唯一、涼子と他愛ない話ができる相手。涼子は本当の姉よりこの中宮と親しかった。
 けれど涼子が言葉に迷ったのは、傍らに華沙の姿もあったことだった。
主上(おかみ)?」
 涼子がそっと問いかけると、華沙は事も無げに告げる。
「礼子は、そなたに大切な話があるそうだ」
 その波の無い口調には、嫌な予感がしていた。いつものように、礼子と気の置けない話をする雰囲気ではない。
 涼子はまだ平伏したままの礼子に声をかける。
義姉(あね)上。私に頭を垂れる必要はありません。どうぞ、お顔を上げてください」
 涼子が言葉を尽くして勧めると、礼子はようやく顔を上げて帝を見やった。
 けれど礼子はまた深く顔を伏せて、涼子の目を見ずに言った。
「……今日は姫宮に、お別れを申し上げにきたのです」
 瞬間、涼子は何を耳にしたかわからなかった。とっさに言葉もなく、ただ礼子を見下ろしてしまう。
 礼子は顔を伏せたまま、もう終わったことを告げるように続けた。
「私は後宮を退き、生家に戻ります。もう姫宮にお会いすることはなくなると……」
「お、お待ちを。何を仰います、義姉上」
 過ぎ去った事実のような別れの言葉が空恐ろしくなって、涼子は慌てて言葉を挟む。
「義姉上は中宮様でいらっしゃいます。皇太子殿下の母君でもあらせられます。後宮の主の」
「後宮の主は、月の姫宮でございます」
 後宮の住民は、涼子のことをそう呼んで頭を垂れる。礼子もためらいなくその名で涼子を呼んだ。
 涼子は首を横に振って礼子を留めようとした。
「お言葉をはかりかねます。お考え直しください、義姉上。主上ももちろんそのようなこと、お許しには……」
 涼子は華沙を振り向く。
 華沙は慌てる様もなく、蜜酒の入った盃を片手に、ゆるりと坐したままだった。
 形の良い唇が、蜜酒を一口含む。ちらりと涼子を見やった目は、夜の帳の中で向けられたときのように濡れていた。
 華沙は涼子のまなざしに、睦言のような一言で答えた。
「私はすずが側にいればそれでよい」
 中宮を去らせるのは彼の意思なのだ。それに気づいて、涼子はいっぺんに血の気が引く。
 涼子は膝の上で震える手を握りしめて言う。
「私は後宮の主などではありません。臥せっているときの方が多い私などが……一体何をしてきたというのです」
 首を横に振って、涼子は声を振り絞る。
「主上の心のよりどころとなれますか。主上の御子をお育てできますか。何一つできないでしょう?」
 涼子の目がじわりとにじむ。華沙は眉を寄せて、盃を卓に置いた。
 華沙は涼子の哀しみをなだめるように制する。
「すず、よせ」
「お留まりください。主上にも宵那国にも、義姉上が必要です。月など、主上には必要……」
 言いかけた涼子の隣で、華沙が動いた。
 華沙は手を伸ばして涼子の口を覆うと、顎をつかんで自分の方を向かせる。
 華沙は光のない目で涼子を見据えて言う。
「月の無い野に華が咲くのは、空しいと思わぬか」
 静かな口調の下に激しい意思を秘めて、華沙は涼子に告げる。
「私に、闇に生きよというのか。そなたはもう少し己が存在を理解した方がよい」
 涼子は華沙の瞳に食らわれるような錯覚を抱いた。一瞬、華沙を恐れるような感情を抱く。
 けれど涼子はどうにか体を引いて華沙の手から逃れると、その場で平伏する。
 驚く礼子の前で手を床につけて、涼子は華沙に頭を下げる。
「お願いです、主上。義姉上にどんな落ち度があるというのですか。どうか」
「姫宮、おやめください!」
 額を床につけた涼子を、礼子が怯えたような声と共に助け起こそうとする。
 華沙がそれに口を閉ざしたのは一瞬で、次の瞬間には彼は立ち上がっていた。
 華沙は涼子に腕を回して、低い声音で告げる。
「……だからこそ、もう近づけぬことに決めたのだ」
 華沙は涼子を腕に抱き上げる。
 冷えた目で礼子を見下ろしながら、華沙は波のない声音で告げた。
「そなたは賢い娘だ。自らの落ち度もわかっておるだろう」
「はい」
 礼子は何もかもを理解したように、一言受け答えただけだった。
 涼子を抱いたまま、華沙は礼子に背を向ける。
「十年間、よくやった。それに免じて罪は問うまい。明朝、去れ」
 何も言わずに頭を下げる礼子を置いて、華沙は寝所の方に足を向ける。女官たちが扉を開いて、華沙と涼子を寝所に招く。
 涼子は大粒の涙をこぼして、悲鳴のような声を上げる。
「義姉上……義姉上!」
 涼子が伸ばした手は空を切って、礼子の姿は扉の向こうに消えた。