生暖かく湿った風が校庭の砂を巻き上げ、鈍色の雲が形を目まぐるしく変えながら吹き飛ばされていく。時折射す太陽の光の刺激に耐え兼ねて紬はぎゅっと明るい茶色の瞳を眇めた。
 朝から予感はしていたが大事な式の最中に、いよいよ頭を両側からぎゅっと手で押さえつけられるような鈍い痛みに悩まされた。よせばいいのに校庭にでてうっかり白っぽい空を見てしまったら、それが刺激となってずきんっとかなり強く刺すような痛みが増してしまった。
 
(あったま、痛っ……)

 予報通り、午後には雨が降り出すかもしれない。紬の母も天気によって片頭痛が出るため『卒業式なのに最悪だわ』と今朝久しぶりに美しく化粧を施した顔を歪めて忌々し気に呟いていた。
 そんな母は式が終わるとすぐさま『第〇回卒業式』と書かれた看板の前に紬を引っ張っていき、母子して多少痛みに引きつった笑いを浮かべて何とか一枚だけ写真におさまった。そして自分は先にさっさと家に帰っていったのだ。
 他の保護者達が互いに思い出話に花を咲かせ、式典後の華やいだ雰囲気を味わっているのに、やけにあっさりしたものだが、頭痛が相当辛かったのだろう。慣れないパンプスを脱ぎ捨てたらさっさと布団に入る気かもしれない。
 紬がもっと小さな頃であったのならば母のそんなマイペースな行動を寂しく思ったのかもしれないが、受験期のストレスが契機になり紬も同じように頻繁に頭痛に見舞われるようになったのですごく気持ちが分かるようになり同病たる母を憐れんだ。

 式の後、幼馴染の陽仁(はると)とそれぞれの部活の顧問や担任の先生のところに挨拶に周り、そのたび『お前たち卒業してもまた高校一緒か?』と揶揄われた後、一度離れてそれぞれのクラスメイトのグループにも顔を出した。 
 この独特な湿っぽい空気が苦手だ。紬はいつまでも取り留めのない話をしている人の輪から切りのいいところで抜けて門の方へと歩き出す。
 一番仲の良い幼馴染と進学先が一緒の為、離れ離れになって哀しい友人が他にいない紬にとって、チャレンジして入れた進学校の勉強についていけるかだけが心配の種だ。それすら出来の良い幼馴染と一緒なら乗り越えていける気がしていた。

(それにしても。持ち帰るの卒業証書とアルバムだけかと思ったら切り花じゃなくて、なんで鉢植え……。ビニールの持ち手、指に食い込むし、地味に重たい)
 
 PTAからのプレゼントだという名前も知らぬ花の鉢植えは、しっかりお世話をしてもらっていたのか水を吸ってズシリと重い。卒業生の数だけ校舎から体育館へ続く文字通りの花道を作るために置かれていて、その後プレゼントとして卒業生に渡された。
 赤や黄色、白に紫の斑入り、そして青、ピンクと色とりどりの花が白いビニール袋から咲き零れている。『生徒それぞれの輝く個性のように多彩な花々』なんてPTA会長が祝辞の中で話していたが、女子は花一つ選ぶのでもあれがいいこれがいいと大騒ぎしてとても嬉しそうで、男子はなんとなく無難な青や黄色を選んでいる者が多かった。しかしその後はみな一様に持ち歩くには若干邪魔そうにしている。紬は最後に余った蕾の目立つ赤い花の鉢の袋を手に提げていた。

 紬は陽仁との合流場所に選んだ、昔の卒業生が制作したという各学年カラーを表す五輪もどきのオブジェの台座に寄り掛かった。

(早く帰りたい。帰ったらとにかく一回寝たい……)

 ぼんやりして頭の痛みをやり過ごしたかったが、そのオブジェが門の横っちょにあるため、見知った顔が紬に声をかけてひらひら手を振ってくれたり頻繁に話しかけてくる。

 式典中我慢し続けた頭の痛みが時折強まって集中できず上の空で適当な返事を返し、愛想笑いで応じてしまう。そのあいまいな態度がいけなかったのか、クラスの中では一番仲が良い皆のムードメーカーの木戸が夕方からクラスでファミレスに行くのを熱心に誘ってくれるのを断るタイミングを逃してしまった

「……だから、俺は3時半には着替えて中町公園行くけど、ツムも来いよ。手塚とかさ、早めに来てくれる女子も何人かいるし、ツムが来るって言っちゃったしさ? 」
「あ……。公園行ってから5時頃からご飯食べにいって7時までには解散なんだろ? 時間早くないか?」

(それはその頃には頭痛治まってるだろうって思ったからさ)

 朝、軽く誘われた時よりずっと早い時間に公園に行くことを指定されて、歯切れの悪い答えをしたら、木戸がいつものようにグイグイと押し通してくる。我が強い木戸の大抵の我儘を紬が飲んでいるうちにすっかり図々しくなってしまった。1年2年と一番の幼馴染の陽仁とクラスが分かれてしまったから、3年になってから仲の良い友人作りに苦心していた紬に、声をかけてくれた恩があるし、根は気のいい奴なので邪険にも扱えない。しかし木戸には陽仁ほどの本音が漏らせず盛り下がりそうで頭痛のことを言い出しにくかった。

「公園に咲いてるとこあるらしいから、みんなで写真とってから、すぐファミレス早く行かないと、今日なんて他のクラスの奴らもみんないくだろうから、席埋まっちゃうだろ? 早く行って他の奴らの分も席とらないと」
「そうだけど……」

(公園いったってファミレスいったって、どうせみんなひとしきり写真上げて盛り上がったら、後はみんな勝手にスマホ弄ってるんだろう。それより今日は早く家でゆっくりしたい)

「手塚さん、ツムがいないとさ、寂しいだろ? 第二ボタン渡したんだろ?な?」
「ボタン? ああ女子が何人かで来て、欲しいっていうからあげたけど……」

 先ほど女子に囲まれて千切られたボタンの行き先はどうやら手塚さんだったらしいと紬は今知った。手塚さんとは共に学級委員をして一緒にいることも多い時期もあり、ちょっとした噂をたてられたが、受験で皆それどころではなくなると立ち消えていた。今更蒸し返されても面倒だと思っていたが、にやにやとした木戸の顔を見るとなにかクラスの女子からそういうお膳立てを頼まれているのかもしれない。

(頭痛いときにそういうの……。勘弁してくれ)

 クラス一明るくてお調子者の木戸とは普段なら一緒にいて楽しいと思えるが、今日のように体調が優れない時には彼の変声期後とは思えないような高めの声も早い喋り方も正直少し苦痛だ。しかしこんなこと本人に面と向かって言えるはずもなく、頭が痛くて騒がしいところに行きたくないなんて、ノリの悪いことも言えず迷っていた。即答しない紬に焦れたように木戸が口をとがらせてなおも大声を出そうとしたから、痛みの予感に反射的に紬がぎゅっと身体に力をいれると、後ろから聞き覚えのある声がかかる。
「紬ごめん、待たせた」

 大体いつもの彼の立ち位置である紬の左側に背の高い陽仁がすっと並ぶ。陽仁が紬と共に二対一で木戸の前に立っている雰囲気になった。
 あれほど紬にがんがん来ていた木戸も大人しくなったので紬はほっとした。騒がしくはないのにきちんとした存在感のある陽仁には木戸も一目置いているようなのだ。

「もう帰れる?」
「まだちょっと木戸と話してる」
「分かった」

 声まで男前な陽仁のそれはすぐ傍でしゃべられても低く滑らかで耳触りがいい。抑揚も同学年の男子と比べて落ち着いていて、流石年の離れた妹の面倒をよく見るお兄ちゃんといった感じだ。
 陽仁の声。聞いただけで強張っていた身体から余計な力が抜ける心地だ。今みたいな体調が悪い時、隣にいるだけでも大分ほっとするから幼馴染とは不思議なものだ。
 多少頬を緩めて紬は陽仁の方を何気なくみてぎょっとする。ほんの先ほどまで確かにあったはずの学ランのボタンが綺麗さっぱり、糸だけ残してなくなっていたのだ。

「陽仁? お前上着……」
「あ、ああ、これ。欲しいって言われて……」
「だからって全部取られるか? 普通。前締まってないじゃん」

 白シャツが完全に見えた状態の陽仁はちょっと恥ずかしそうな顔をして目を伏せた。校庭でそれぞれのクラスに分かれていた時にこうなったのだろう。陽仁に彼女はいないはずだから今回もしかしたら女子に次々に告白されて、こんな有様になったのかもしれない。

(誰にあげたんだろ……。一つじゃなくてこれだけないってことは何人もにねだられた? それとも一人の子が持っていったのか? もしくは付き合ってた子がいたのかな? 俺に黙って彼女作ってた??)

「紬のも、一つない。第二ボタン……」

 少し沈んだ声色で指摘されたが、一つぐらいなんだと思う。意味深と言われている第二ボタンだが、特に好きな女子がいるわけではない紬は、まあ別に欲しいのならあげればいいかと深く考えずに渡してしまった。頭が痛くてそれこそおざなりな対応をしてしまった結果だし、だからあまり意味なんてない。
 それよりも保育園時代から陽仁のことで知らないことはないと自負している紬は、もやもやといろいろな感情が胸に渦巻き、頭痛も相まって唇を引き絞る。後で絶対に問い詰めようと思ったが、今は頭が痛くてそんな元気もない。
 
「君島、お前そのボタン! 誰にあげたんだよ?」

 曖昧に笑って木戸の質問にも答えない陽仁は、それほど長身ではない木戸をぬっと見おろすような形になる。人によっては陽仁の大きさを威圧的に感じる様でそれ以上しつこくしてこなかった。
 陽仁は笑えば懐っこい大型犬みたいな感じでその暖かな笑顔が紬は大好きだ。普段から高い位置にあるものを率先して取ったり、重い荷物を持ってあげたり、配布物をさりげなく手伝ったりする優しさも手伝って、女子からも人気も密かに高いのが納得なのだ。

(あーあ。陽仁ついに彼女持ちになったのかな……。折角受験が終わって春休み一緒に沢山遊ぼうと思ってたのに、もう前みたいに毎日つるめないのかも)

 そう考えるとツキンとこめかみだけでなく、胸の奥まで何故だか痛む。木戸がまた色々喋りかけてきたがぼんやりしていたが、ついに痺れを切らしたのか、大声で確認をされて頭を上から殴られたように痛みが走った。

「……おい、ツム、来るよな?」
「……えっ、ああ」

 なおも紬には威圧的でしつこく誘ってきた木戸に即答しかねると、日頃は控えめな陽仁がすっと少しだけ前にでて、代わりに答えて始めたから驚いた。

「木戸君、ごめん。俺たち夕方、学童に俺の妹を迎えにいかないといけないんだ。だから紬は行けたとしても合流はすごく遅くなると思う」

(そんな約束してたっけ? 確かに週末は母さんたちと俺たちで卒業祝いに回転ずし食べ放題行くって言ってたけど……)

 陽仁の母も式典後すぐに仕事にいってしまったから、確かに今日も妹の彩夏ちゃんの学童のお迎えを陽仁が頼まれているのかもしれない。今までも何度か一緒に行ったことはあるが、今日一緒に行くとは寝耳に水だ。

「えー。ツムそんなこと言ってたっけ?」

 木戸はなんでお前の妹のお迎えに紬もいかないといけないんだという不満をありありと顔に載せている。しかし正直今も頭がずきずき痛すぎて苦しいので、陽仁の話にありがたく乗ることにした。

「……ごめん。忘れてた。そうだった」
「妹は小さなころから紬に懐いてて、今日三人で卒業祝いのケーキ買いに行くって約束してたんだ」

 陸上部でもずば抜けて目立つ長身な上、物腰は優し気なイケメンの陽仁に丁寧に頼まれて、木戸も流石にそれ以上誘わなくなった。

「わかったよ! じゃあこれたらこいよ!」
「わかった。じゃあな」

 やっと木戸から解放されてほっとし、紬はいつものように肩越しに陽仁を見上げて促した。

「俺らも帰るか?」
「うん。帰ろう」

 そろそろ時計が昼を回り大分お腹も空いてきた。経験上、空腹が治れば頭痛も少し収まるかもしれない。帰宅する人の流れに乗るように2人も歩き始めた。

※※※

 陽仁とは家も同じマンションの階数違い、近所にある保育園にも小学校にも毎日一緒に通っていた。親同士も仲が良く、その上春からの進学先の高校も一緒だ。
 中学からの帰り道、古めかしい懐かしい保育園の園舎の前に差しかかると、門の隣の桜が思いのほか満開に近かった。
 風に揺られても群れて咲く重そうな梢が揺れるばかりで、花びらはそれほど散らない。きっと今が盛りといったところだろう。昔はもっと巨木に見えたが、紬も陽仁も大きくなって、花が鼻先に近くに見えた。
 
「もう他所より結構咲いてる。いつもこの木少し咲くの早いよな? ちょっと花びらのピンク濃くないか?」
「染井吉野とは種類が違うのかもしれない。園庭の方のも咲いているかな。こっちからじゃ見えないが」

 園舎の裏にある懐かしい園庭はこちら側からは見えないのだ。
 保育園に一緒に通った仲間は他にも沢山いたが、保育園時代から一番の仲良しは陽仁のまま変わらない。

「あー。庭のブランコの後ろの木。あっちの木の方がこれより大きいよな。あっちはたしかピンクが薄くて白っぽい普通の奴だよ」
「そうだな。……落ちてくる花びら、どっちが先に片手で掴めるか競って遊んだよな」
「そうそう片手でキャッチ出来たら願いが叶うっていってさ。あれ誰が教えてくれたんだっけ? みんなむきになってやった」
「お互い同じ花びらとろうとして紬と頭ぶつかったりして、痛かった上に先生に怒られた。懐かしいな……」
「お前が石頭だから俺の方がもっと痛かったよ。花終わるとさ。ポロポロ小さいさくらんぼみたいな先が小さい赤い実がそこら中に沢山落ちててさ、食べれるかなって口入れてそれも怒られたよな。それに陽仁が、小さいさくらんぼでも、埋めたら桜が生えてくるっていってさ……」
「紬、そのことだけど……」
「陽仁! 花びらきた! 掴んで!」

 風がさやさやと吹いて、ちょうどよいタイミングで花びらがひらりと1枚、陽仁の目の前に落ちてきた。彼は眉一つ動かさず、事も無げに利き手ですらない方の手で花びらをぱっと掴み取った。その雄姿に紬は痛みを暫し忘れてぱあっと顔を輝かせた。

「ナイスキャッチ! 願い事、言いなよ。志望校は入れたから、別のやつ」

 おかげで気分が少し上向いて紬がにっこり笑いかけると、陽仁が眩しげな表情をした後、くっきりした二重の瞳を細めて何か言いたげな顔をしてこちらを向いた。

「紬、俺な……」
「あ、陽仁それ」

 こちらに向き直って真剣な顔つきをした陽仁の手元を見たら、ビニール袋からちょっと桜に似ている可愛い感じの花が揺ら揺らと顔を覗かせている。

「彩夏ちゃんが好きそうな色の花だな、それ。だから選んだのか?」

 話の腰を折られて言いよどみ、陽仁は何故だか顔を赤らめた。その照れたような表情がなんだか可愛く、幼い頃の陽仁のそれと重なって見えて紬は幼馴染に変わらぬ部分を見つけて嬉しくなった。

「……ああ、これか。そうだな。彩夏、ピンクが好きだからな」
「桜みたいな色の花だな」
「だから桜草っていうらしい……。紬、覚えてないか? ……あのな」
 
 ざわざわと風が吹き、桜の梢が揺れて光が射し、はらはらと散る花びらの美しさより、またその刺激にずきっとまた頭に痛みが走って陽仁が顔を僅かに顰める。するとボタンが締まらず白シャツが丸見えになった陽仁が学ランを翻し、慌てて近寄ってくる。

「大丈夫か?」
「んっ……。ちょっとずきっときた。こういう薄曇りな日に急に眩しいと駄目なんだ」

 陽仁は折角掴んた花びらを前がはだけた学ランのポケットに押し込むと、自分の荷物を片手にまとめて、片手を紬の方に差し出してくれた。

「……? 何?」
「荷物持つよ。 頭痛いんだろ? 朝からか?」
「あ……。やっぱりばれてたか」
「そりゃ、分かる」
「俺そんなに機嫌悪そうだったか?」
 
 紬が顔を歪めて陽仁を見上げると、彼は眉を下げて困ったような顔をして見せた。

「いや。別にそんな風には見えないが。俺には何となくわかる。こんな天気だし、いつもより余計に顔が白っぽいし」
「……よかった。うちの母さんみたいにつんつんしてみえるのかと思ったら恐ろしかった。あれやられたら周りは最悪だろ?」
「それは大丈夫だ」

 普段は大雑把なところはあるものの、朗らかな性格の母も頭痛の時は恐ろしい程の不機嫌さで近寄るのもはばかられる。幼い頃、一度だけだったが、ものに当たり散らしていた姿を目の当たりにしてから、逆にああはなるまいと紬は体調が悪い時こそ人に不快感を与えないようにと周りに気を使ってしまうのだ。

「むしろお前はいつも人に気を使いすぎだろ? 俺には気を使わなくていい」
「そっか。……うん。いつもありがとう」

 そんな一言が、弱った身体にジワリと暖かく効く。なによりの薬に感じた。
 紬がこくりと頷くと、陽仁は優しい瞳で微笑んでくれる。
 陽仁は紬の意地でも頑張る外面の良さも見抜いていて、あれこれと世話を焼いてくれるのだ。互いに両親が仕事で忙しく、幼い頃は学童から帰ってきたあとも互いの家でどちらかの親が帰ってくるのを暗くなるまで二人で待っているような日々だった。どれだけお互いの存在が救いだったか分からないし、お互いがお互いの世話を焼いているつもりだったが、今では妹が生まれてから兄力がめきめき上がった陽仁に気遣いの先回りをされてばかりだ。

「それよりこのまま、うちくるか? 昼もうちで食べよう」
「助かる。母さん絶対頭痛くて寝込んでるだろうし……。あ、でも母さんの分もなにか買ってこようかな。甘いパンとかなら少し食べるっていうかもしれないし。起きないかもしれないけど」
「紬は優しいな。じゃあ俺がおばさんの分も色々適当に買ってくるからお前は着替えてきたら、すぐうちきて、俺の部屋で休んでていいよ」
「え、いいの?」
「ご飯食べて薬飲んだらよくなるだろ?」
「ありがとう」

(どっちが優しいんだか……。イケメンだし、背は高いし。頭いいし。運動できるし。そりゃボタンなんて争奪戦で、すぐ無くなるよな。彼女ができたら俺にしてくれてた以上に、きっとすごく大事にするだろうな。……ボタン渡した子と付き合うのかな。クラスの子なのか、それとも別の……)

 またも心がこの空のようにもくもくっと曇ったが、紬はそれを頭痛と陽仁の優しさに甘えてばかりの成長のない自分のせいにした。

「陽仁はさ、いかないの? クラスの集まり」
「……うちのクラスは男子は男子、女子は女子って感じでそんなに仲良くないからな。一応今日、集まりがあるらしいけど、俺はそもそも部活の友達の方が多いしお前もいるから行く必要ないだろ?  それに彩夏迎えに行かないとだしな 」

てっきり人気者の陽仁はクラスの集まりに行くと思っていたからそれはとても意外な答えだった。

「そっか、そうなの? 本当はさ……。俺もあんまりクラスの集まり行きたくなかったんだ」
「……お前こそ3年のクラス、気に入ってるのかと思ってた。木戸とか、女子でも仲いい人いたじゃないか? ……あの、学級委員の」

 人の噂話など気にしなさそうな陽仁まで学級委員同士の云々の話を知られていたとは思わず、それがいつもより少し訝し気な口調だったから意外に思った。ざわとまた風が吹き、桜が散ったが、陽仁が神妙な顔つきをしてこちらを見ているので紬はとても花びらに手を伸ばせなかった。

「お前にまで聞かれるとは思わなかったな? いろんな奴に聞かれてほんといやなんだよ、その話題」
「俺が紬の好きな人に興味持っちゃおかしい?」
「陽仁なに怒ってるんだよ? 手塚さんとは学級委員一緒にやったってぐらいで特に仲いいとかじゃなくて、別に普通だよ」
「でもお前そのボタン、手塚さんにあげたって」
「え? なんでお前知ってんの?」
「学年のグループラインの通知に入ってた。お前が手塚さんにボタンあげたって」
 
 陽仁にしてはどことなく苛々とした早口で、しかも食い気味だ。

(そっか、俺が陽仁のボタンの行方気になったみたいに、こいつもそれなりに気になるのかな?)

 やはり幼馴染同士。お互いのことは何でも知っていないと気になるのは同じなのだ。そう合点がいって紬はわざと明るい声をだすと、事も無げな雰囲気をわざと醸した。

「ええ、もうそんな噂になってんの? 直接あげたわけじゃない。別の女子のグループに欲しいって言われてあげたら、それを手塚さんに渡してるのは見たけど」
「そんな簡単に渡していいものなの? 第二ボタンだぞ」
「なんか陽仁、どうしたの? そんなにこだわるところかよ? お前こそ、ボタン全滅じゃないかよ」
「……別に俺はいいんだ。何人かにノリで記念に欲しいって言われただけだから、でもお前の場合、それ本命ってことだろ?」

 ぐっと一瞬詰まるが、日頃素直な陽仁にしては珍しく。木戸ぐらいしつこく食い下がってくる。これではまるで、陽仁がやきもちを焼いているみたいに聞こえてならなかった。
「じゃあ俺も陽仁と同じ。記念に欲しいって、そんな感じだ。別に意味なんてない。俺好きな女子がいるわけじゃないから、欲しいなら別にいいかなって。それに、頭痛くて色々考えるの億劫だったんだよ」
「中々ひどい奴だな、お前。相手はお前のこと好きなんだろ? だから欲しがってたんだろ? それをそんなおざなりにしていいのか?」
「だったら自分でちゃんと取りに来て告白でも何でもすればいいじゃないか。俺はきちんと面と向かっていってくるのじゃなきゃ嫌だ。SNSで告白とか、後で削除してウソ告白とかいってなかったことにするとか、そういう正々堂々としていないのは好かない」

 今度は女子の肩をもった陽仁に紬の方がやきもちを焼いて文字通り餅のようにぷうっと頬を膨らませた。

「それになんだよそれ、陽仁どっちの味方なんだよ? 陽仁はいつでも俺味方じゃないと駄目なんだよ」
「俺はいつでも、紬の味方だ」
 
 ついに零した本音に、陽仁の方も真っ正直に即答した。しかしすぐあと、恥ずかしくなってお互いに顔を見合わすと急激に照れて顔を赤らめた。

「は、はは。俺ら保育園の前で何言ってんだろ」
「だな。……お前が他に好きな奴がいないって、分かったからいいとする」
「俺もだわ。陽仁についに彼女出来たかと思ってやだったから。よかった」
「……俺に彼女いないの、良かったって思ってくれるんだな」
 
 足元に散った花びらに目をやりながら、安堵感から思わず陽仁も零した本音は、紬の耳には届かず昼下がりの雑踏に溶けていく。

「俺さ、今日朝から体調いまいちだし、公園で騒いでからファミレスでだらだらコース結構きついと思ってた。だから陽仁にああいって貰えてすげえよかった。陽仁んちで前みたいにまったりしたい」
「……そうか」
「彩夏ちゃん迎えに行くのは本当なんだ?」
「本当だ。彩夏とケーキ買いに行くのも本当。じゃあさ、お前も体調良くなったら、一緒に来るか? ケーキ好きなの買っていいってさ」
「あ、ああ。うん。じゃあそうする、陽仁といる方がいい」
「そうか。それは、嬉しい」
 
 紬の返答に満足そうに微笑む顔は目元が陽仁のお母さんに似ていて柔和な感じだ。紬はむすっとしていると末広二重の切れ長の瞳がちょっときつめに見えてしまうから憧れる綺麗な瞳だと思う。

 さりげなく紬の荷物を手に取って歩き出した陽仁の後ろについて、そのすっかり広く頼もしくなった後姿を眺めてちょっとした感傷に浸る。
 入学したころは二人ともそれほど身長は高くなく、むしろ紬の方が僅かに大きいぐらいだったが二年の終わりぐらいからぐんぐん伸び始めた陽仁の身長はまだまだ止まる気配を見せない。
 
(小さい頃は周りと喧嘩してばかりでどっちかといえばトラブルメーカーだったのに、今じゃすごく優しくて成績も身長もすっかり逆転だよな……。悔しいけどかっこいい。性格も良くて、頼りになるし、一緒にいて楽しい。こんなにいいツレがいたら、彼女どころじゃなくなったって、仕方ないだろ?)

 高校まで一緒になってしまったから、さらにお互いニコイチから離れられなくて、とても彼女出来なくなるぞと部活の連中にも散々揶揄われてきた。
 しかし一番安心できる相手とのこの距離感に子供の頃から浸り慣れているので、まだまだ失いたくないと思ってしまうのだ。

※※※


 一度マンションのエントランスで別れてそれぞれの家に帰ると、母は寝室の遮光性のあるカーテンをぴっちり閉め、本格的に暗くして眠っていた。年度末で仕事の疲れが出たのだろう。今日も無理して年休をとってくれたのだからそっとしておいてあげたいと思う。声をかけるのもやめてそっと静かに扉を閉めると、急いで部屋に着替えに向かう。
 
(もうこの制服着ることもないんだ)

  新しい制服は紺のブレザーだから、人生でもう学ランに袖を通すことはない。この制服を着て陽仁と校門の前で写真を撮ったのがついこの間の様な気がするのに、紬は慣れ親しんだ制服をちょっと感傷的な気持ちで脱いできちんとハンガーにかけた。

(そういえば……。入試直前からお互いの勉強の邪魔になるからって、母さんたちに部屋に行くの禁止されてたから、陽仁の部屋行くの久々だな)

 以前は中間や期末テスト明けで部活のない日は陽仁の部屋でゲームをして、そのまま泊まったりもしていた。卒業式が終わったら春休み中はまたそんな感じのだらだらとした生活もできるかもしれない。

(学校が始まったら、陽仁は陸上続けるだろうし、俺もバイトとか、ダンスも興味あるから始めてみたいし。何だかんだ言って一緒にいる時間短くなるかもしれないから、今のうちにがっつり陽仁と遊んでおこうっと)

 それにはまずこの頭痛を止ませるのが先決だ。痛み止めを多めの水で飲んでから上の階にある陽仁の家まで、エレベーターではなく紬の家の扉から近い内階段を昇って向かう。
 インターフォンを鳴らしたらすぐに塾に行くときの様なラフなパーカー姿に着替えた陽仁が、黒く重たい前髪をかき上げながらドアを開けて抑えてくれた。

「頭痛いの、大丈夫か?」
「うん……。薬飲んだから多分そのうち効いてくると思う。痛くなってから飲むと効きにくいらしいって母さんが言ってたから時間かかるかもしれないけど」

 そっと労わるように頭を撫ぜられ紬はにへらっと笑う。思春期なので外では彩夏ちゃんに接するような仕草を陽仁にされると恥ずかしいが、二人きりなら幼い頃と変わらないごく親しげな距離感も気にならない。むしろ嬉しいとさえ思ってしまう。

「お邪魔します。あー。久々の陽仁んちの匂いだ」
「なんだそれ。じゃあ、俺買い物いってくる」
「ありがとう。母さん寝てたから俺のだけでいいよ。金は? 先渡しとく?」
「いや、いいよ。前に紬のおばさんにラーメン奢ってもらったし」

 出ていく陽仁と入れ違いに、紬は靴を脱いで今まで何度も行き来してきた陽仁の家に勝手知ったる感じで入っていった。
 同じマンションでも間取りが違うので陽仁の家の方が広い。一人っ子の紬の家と違い、男女の兄弟なので部屋数が多い方の間取りにしたとのことで、入ってすぐ廊下の左側が陽仁の部屋だ。
 この間取りのおかげで二人で示し合わせて夜中にこっそり陽仁の手引きで寝巻のまま紬が部屋へと忍び込んだりしていた。家族にバレないようにこそこそ喋ったり一緒にスマホでサブスクの映画を見て夜更かし、朝方帰ったりとちょっとしたイタズラをしているようで楽しかった。そのまま一緒にベッドで寝落ちして、気がついたら朝で部活の朝練に遅れそうになり、慌てて制服に着替えに家に帰ったことも一度や二度ではない。
 流石に受験生だったこの1年は真面目な陽仁の申し出でそんなことをしていないが、中二の頃までは頻繁にそんなゼロ距離感の生活をしていたのだ。

「なんか雰囲気違う! すげー片付いてる。偉すぎ」

 久々の陽仁の部屋はすっきり片付いて、カーテンの色も今までの子供っぽい明るいブルーから、落ち着いたダークブラウンに変わっていた。
 机の上には入学祝に買ってもらったと聞いていたノートPC。今まで本棚に並んでいた塾の参考書が紐をかけた状態で部屋の隅に置いてあった。

(俺の部屋なんてまだ、受験の名残残りまくりだよ……。母さんの言う通り春休み中片付けないとだな)

 志望校を余裕をもって選んだ陽仁と違い、むしろ一つアップさせて必死に猛勉強した紬の部屋は合格と同時に燃え尽きてまだ新しい教科書を置く場所がない程、ごちゃごちゃ雑然としたままだ。しかも封印していた好きな漫画本を段ボールから出してしまって読みかけのまま収拾がつかない。
 整然とした部屋はそれだけで大人っぽく見え、陽仁が一足先に高校生としての自覚をもって歩み出した気がして紬も負けていられないなと思う。

 徐々に薬が効いてきたので、参加しているクラスのSNSを覗き見たら早速浮かれきった写真が次々と投稿されていた。いつも通り木戸が皆に向かって色々発信しているが、逆に卒業したら用なしとばかり早くもクラスのグループから抜けた猛者もいて、すぱっと人間関係を整理できてある意味すごいなと感心する。
 そのまま下にスクロールしたら手塚さんと紬の第二ボタンの下りが目に飛び込んできて、『ツムと手塚さん付き合うの?』『どっちが告白?』とか下世話なコメントにもどきりとしてすぐに画面を切ると、ベッドを背もたれにしてぼんやりしていた。

(……クラスの集まり行きたくない。色々詮索されるのかな……。別に告白したわけでもされたわけでもないのに。周りが勝手に面白がって騒いでるだけのネタにされるの、マジ無理……。それに……)

「駄目だ……。ものすごく眠たい」

 薬のせいか眼もとろんとしてきて頭にもやがかかってみたいなぼんやり感が広がる。靴下も服も綺麗なものに着替えてきたから、本当に遠慮なく布団に入れさせてもらうと薬が効いてきて少しずつ痛みが遠のく。朝からそれなりに緊張していた気持ちもほぐれ、余計に瞼が重くなった。

(この布団、陽仁んちの匂いがする。なんか高級な感じの洗剤の匂い? おばさんの趣味だろうな。うちと違って陽仁んちっていつもちゃんと片付いてるし、綺麗だもんな。陽仁の匂いもする……。落ち着く)
 
 多分本当にひと時眠ってしまったと思う。暖かな気配を感じてすうっと意識が浮上してくる。

「……つむぎ。紬」
「はると? あれ……ここ?」

 何度か呼ばれてようやく目を覚ますと、さっき出ていったはずの陽仁がもう戻ってきていていて、触れそうなほどすぐ間近に端正な顔があったから驚いた。

「寝ぼけてる? 俺の部屋だよ」
 
少しだけ遠のき陽仁の顔と焦点が合うと、年始に合格祈願の初詣に行った時より大分大人びて引き締まってみえた。部屋の雰囲気もベッドのカバーも変わっていたこともあり、陽仁も含めてなんだか見知らぬ場所で目を覚ましたような感覚になっていた。

「早かったね」
「走ったから」
「通りで早いわけだ」

 陽仁は陸上部を引退した後も部活がない代わりに朝、早起きして走り込んでいるらしい。今、ファーストフードのポテトの香りが漂っているから、駅前までひとっ走り往復してきてくれたことになる。バドミントン部を引退して受験シーズンに入ってからは運動から遠ざかっていた紬は痩せてしまって筋力も落ちたから大分差がついてしまった。走ったせいでより乱れた陽仁のもっさりした前髪を紬も今はちょっと長めだから笑えない。
 卒業したら髪型が自由になるから入学式までに高校生らしい髪型に二人で一緒に美容室に行って切ってもらう約束になっているのだ。

(高校いって、髪型とかもうちょっとどうにかしたら余計にモテそうだな、陽仁。はっきりした顔立ちだから、ちょっと髪色明るくするのもいいよなあ)

 起き上がりもせず、まじまじと幼馴染の顔を見つめて、そんな益体のないことをぼんやり考えていた。
 掛け布団をきっちり首までかけていたせいで、少し汗ばんだ額に、ひやっとした陽仁の手が頬を撫ぜてから額に当てられ心地よい。そのまままた頬の感触を味わうようにやんわり摘ままれたり、両手で包まれたり。昔から餅みたいだとかすべすべだとか何かにつけて陽仁に頬を触られてきたが、心地よくて目を瞑ると、今日の触れ方はなんだか壊れ物を触るように余計に優しいのが不思議だ。

「外、雨降ってきた? 少し寒くなった?」

 瞳を開けて微笑み、真っすぐに陽仁の黒目が大きく澄んだ瞳を見つめ返したら、陽仁が眦を僅かに赤く染め目を反らし、手はそのままにすっと顔が遠のいた。
 まだぼんやりとした心地で頭を起こそうとすると薬が効いている隙間を縫うように少しだけ痛みの芯のようなものが残っている。

「手、冷たくて気持ちい。……? 熱はないよ。俺、寝てた?」
「あ……。ごめん。頭痛平気か?」
「ちょっとまだ痛むけど大分いい。薬効いてきた。ただ、すごく眠たい」
「バーガーセット買ってきた。飲み物の氷が溶ける前に食べよう」
「分かった」
 
 陽仁がベッドと床の隙間から出してきた脚が畳めるタイプの小さな机には、小さな頃二人でぺたぺたと張ったゲームのキャラクターのシールが今でも所狭しと張り付いたままだ。お互い競って張り付けて、綺麗好きのおばさんにこっぴどく怒られたが、のちに諦められ子供部屋専用になっていた。懐かしく思いながら見入っていたらファーストフードの紙袋に一緒に入っていたお手拭きで手早く陽仁がそれを拭いて中身をあれこれ並べてくれる。

「いただきます」

 ハンバーガーのセットにさらに単品でお替り用のバーガー、ナゲットや山盛りのポテトも瞬く間に食べ終わると、陽仁は飲み途中の飲み物を残して手早く袋を片付け、台所の方にある大きなごみ箱に捨てに行った。

 平日の昼間。普段ならまだ学校にいる時間だが、明日からは少し長めの春休みだ。高校から課題が出ているが、今日のところは手を付ける気は起らない。
 春休み中べったり陽仁の家に入り浸る予定だったから、一緒に宿題を進めようと思っていた。SNSでは早くも進学先の高校の仲間を必死に募集して動き出した同級生予定の子たちの姿もあちらこちらにみえるが、進学しても親友がそばに居る紬はのんびりとしたものだ。

 薬の影響かベッドを背にしたまま頭を赤ちゃんのようにうつらうつらと頭をぐらつかせる。そのまま床に向かって大きく傾いだところを、隣に座っていた陽仁が肩をグイッと引き寄せもたれかからせる。伝わる暖かな気配に眠気はました。

「眠いならまた寝てていい。風邪ひくから、ちゃんと布団に入って。彩夏のお迎えまで、まだ時間はあるからちゃんと起こすよ」
「本当にどうしたんだろ、すごく、眠い。薬のせいかな……」
「緊張してたからじゃないか。紬、意外と緊張しぃだから。それに雨降りだしそうで……ちょっと肌寒くなった。だから余計に怠くて眠くなるのかもな。動物的だ」
「ふふっ……。動物って。じゃ、スマホでアラームかけて寝るか。お前も眠くない? 隣で寝る?」
「え……」
「なに驚いてるんだよ。いつも泊りに来たら一緒に寝てたじゃん。」
「そうだけど」
「大丈夫だよ。俺寝起きはいいから、ちゃんとお迎え間に合うようにいくから」
「……わかった」

 しかしお互いこの半年で特に陽仁がベッドを買い替えなければならない手前ぐらいに身体が大きくなっていたから、並んで横になると陽仁の広い肩がぶつかってぎっちぎちだ。

「せまっ……。眠い……」

 窓の方に寝返りを打って、より小さい紬の方が気を使って身を縮めると、陽仁が言う通り雲は鉛色で今にも雨が降り出しそうだ。間髪入れず少しだけ開いたままの窓から強い風が吹き込み、風で飛ばされた水滴がぱたぱたっと次々に窓に降りかかった。

「なあ、陽仁。雨降ってきた」

 紬が寝返りを打って振り向いたのとほぼ同じ瞬間に、陽仁の長いがまだぐんぐん成長途中の若木の様な腕にグイっと引き寄せられた。そのままむぎゅっと陽仁のシャツのボタンが顔に食い込み、紬は目を白黒させた。

(え、あ? なに? これどういう状況?? 陽仁寝ぼけてる?)

 抱き枕よろしく腕の中に抱きかかえられて、紬と同じく小ざっぱりとした服に着替えたての陽仁の胸は、綺麗な洗剤の香りと混じる、人気の制汗剤の爽やかな香りがした。
 子どもの頃ぬくぬくと一緒に布団に入った時はもっと甘いミルクの様な食べ物の香り、あるいは炊き立てのご飯のような香りがしていかにもふくふくとした安心の布団といった感じだったが、今は違う。

(なんだこれ……。なんか、なんか……)

 異性を意識して中高生が必死で振りかける爽やかな香りが鼻をくすぐり、自分より逞しい腕の中に抱きかかえられると、逆になにか妙にいやらしく意識せざるを得ない。

 ごそごそと布団の中でまさぐるように陽仁に探し出された紬の手は、小さなころと違い大きく骨ばった陽仁の手に握られて、まるでマッサージでもするようにぎゅっと掴まれたり、緩く離されたりを繰り返す。そののち指同士を絡めるいわゆる『恋人つなぎ』をされたから、思いがけぬシチュエーションに紬は耳まで顔が熱くなる。それに顔をぺったりつけているせいで伝わる、陽仁の心音が何故だか先に早鐘を打っていたから、仲良しな相手に釣られるように紬の心音も高鳴り出した。

(なんか、喋らないと、このシチュ。妙な感じになっちゃうじゃないか)

 ひねり出したのは呑気風を装った、小さな震え声。

「……陽仁ぉ、俺彩夏ちゃんじゃないよ」
「流石にもう彩夏も小3だから、抱きかかえて眠ったりしない」
「じゃあなんで」
「いいから眠って。寝ないなら……。このまま俺の話聞く? それとも紬が何か話をしてくれる?」

(俺の話ってなんだよ!)

 表が暗くなると同時に、部屋の中まですっかり薄暗く、夜ではないが真昼間でもないような静かであやし気な雰囲気が二人っきりの部屋の中に立ち込める。

「……じゃあなにか話をするか。そうだな……中学生活もこれで終わりますが、やり残したことはないですか? 」
「俺はある。紬は?」

 やけに力強くきっぱりとした陽仁の声にびくっとし、紬は陽仁に抱きしめられたまま考えるが、頭が上手くまとまらない。

※※※

 正直、紬は中学でやり残したことが思いつかない。
 そう考えるとそこそこ悪くない中学生時代を過ごせたのかもしれない。バドミントン部は部員が少な目で常に試合に出られていたし、強豪校ではなかったが地区大会までは勝ち進めた。これは創部以来の快挙だったらしい。
 とはいえ、英語のスピーチコンテストで学校の代表になったり、陸上の大会で個人で入賞した陽仁と比べたら活躍はそこそこだったとしか言えない。そんな輝かしい中学時代を過ごした陽仁がやり残したことがある方が気にかかった。

「うーん。自分で聞いておいてなんだけど、ないや。俺。中学でやり残したこと。それより。陽仁のやり残したこととか、願い事の方が気になる」

 よいしょ、とばかりに手に平をついてボタンが食い込む陽仁の胸からぐいっと手を突っぱねて身体を離そうとしたのに、それを馬鹿力で阻まれて『うぐっ』と不満の声を漏らした。

「陽仁、顔にボタンが当たって痛いんだけど」
「あ……。ごめん。余裕がなくて」
「余裕?」

 腕が緩まったから紬はもぞもぞと顔を上げると、陽仁は大きな掌で顔を覆うように隠してこちらから表情をうかがい知れない。

「?? お前変だぞ? おかしいぞ」
「……おかしい。そうだな。おかしい」

 ぶつぶつ呟いて、だがやがて静かになった。
 静かになると、また眠くなってきた。とくとくと相変わらず騒がしい陽仁の心音。下半身は緩く曲げられた膝で止まり、遠慮がちにあまり触れぬ位置で止まったままで、しかし手はぎゅっと握られたまま、陽仁がどうしても離さない。しかたなく紬は今度はボタンを避けて胸ポケットの辺りにこてんと頬を押し付けて瞳を閉じた。
 なにはともあれ、少しひんやりとしてきた空気を遮る、布団は暖かく、温い陽仁の腕の中は心地よくて落ち着く。

「眠い。後で起こせよ」

 また沈黙。なのに心音だけが、とっとっとっとっとずっと早いピッチのまま紬の耳を打ってくる。

(こんなの……。心音うるさくて眠れない)

 身体を離して頭の位置を変えようとしたのに、陽仁はそれを許さないのだ。

「陽仁さあ」
「ごめん、紬……。そのままちょっとだけ聞いてくれる」

 囁き声がまた絶妙なテンポで心地よい。思わず素直に聞き返す。

「ん……何?」
「今日、クラスの集まりに行かないで俺の事選んでくれて嬉しかった」

そう言うと指をぎゅむぎゅむと照れ隠しのようにまた手を握られた。

「なんだそんなことか? だってそりゃ、親友といる方がその他大勢といるよりずっと楽しいだろ?」
「……はあ。親友か」

重々しくため息を疲れたから紬は頬をむうっとさせて、繋がれた指をお返しとばかりにぎゅっと痛いくらいに握り返す。
「なんだよ? ただの友達じゃなくて親友であってるだろ?」

逆に今度は陽仁にすりり、と長い指先が紬の手の甲をなだめるように撫ぜられた。それが妙にこそばゆくてぞくぞくっと背中がしてしまい、落ち着かない気持ちになる。

「……そうじゃなくて。まあいいや。紬さあ、保育園の時、花終わった後の桜の木の下に沢山落ちてた、小さいさくらんぼみたいな種を沢山拾って、埋めたの覚えてる?」

 それは先ほど保育園の前を通ってきた時にちょうど思い出したところだ。

「ああ、ぼんやりと覚えてる。花壇の端に沢山突っ込んで埋めてたよな」
 
 なにぶん小さな頃の記憶だからすべてが鮮明ではないが、プラスチックのおもちゃのシャベルでがりがり掘って、皆揃いで被っていたクラス帽子の濃いピンク色と種を埋めている陽仁の背中が記憶に残っている。

「『これを埋めたら桜が生えてくる』ってみんなに堂々と宣言して……。あの頃はまだ彩夏も生まれる前で、俺、初孫だから親にも親戚にも甘やかされててかなり我儘でさ。普段から威張り散らしててそんな事言ったのに、中々芽が出てこなくて、みんなに嘘つき呼ばわりされてすごく馬鹿にされた。悔しかったなあ。意地はって誰とも遊ばなくなって、お前は心配してくれたのに、お前のことも無視した」
 
 すっかり忘れていたが、紬も思い出した。小さな頃の陽仁は身体は大きくてて運動もできたけど威張ってばかりで、今みたいに穏やかないい男ではなかったのだ。紬も運動神経がいい方だったから、陽仁と互角に渡り合えたのが紬だけということもあり、何だかんだで一番一緒に遊ぶ友達だった。

「……週末を家で過ごして翌週保育園にいったら、桜の花そっくりのピンクの小さな花が種を埋めた場所に揺れながら咲いてた。みんな驚いてたけど、俺が一番びっくりしたな。やっぱりあのさくらんぼから花が咲くんだねってみんなに言って貰えて、それがきっかけでみんなと仲直りができたんだ。嬉しかった。でも小学校に入って大分経ってから知ったんだ。染井吉野の種は発芽しない。あれは挿し木でしか増えない花だって。だからあの花は勿論桜じゃない」

 紬はもう一つ思い出したことがあり、もぞもぞと動く範囲で身体をよじる。そんな紬を陽仁はもっと強く、でも優しく抱き寄せる。

「……お前だったんだろ? 紬。サクラソウの花を家のプランターから引っこ抜いてきて、あそこにおばさんと一緒にこっそり植えてくれたの。大分経ってから母さんが教えてくれた。保育園の先生と相談してそうしてくれたんだって」

(そう。あんまり陽仁がしょげるから。俺、母さんに頼んだんだった……)

『さくらんぼの種からさくらがはえるって、はるくんが言うのだれも信じてくれないんだ。はるくんが嘘つきだっていって、みんな遊んでくれない。はるくん、僕とも遊んでくれない……。お母さん、さくらのおはなに似てるから、あのお花をあそこにうめちゃだめ? そしたらさくらが咲いたねって、みんなまた仲直りしてくれると思う』

 ただまた陽仁と楽しく遊びたい一心でそんなことを親にいってお願いしたのだと思う。紬にとってはたいしたことではなかったのだ。

「あの時はありがとう。俺は『親切は人に言わずに率先して行うといい』ということを、ちっちゃい紬から学んだ」
「なんだそれ。格言みたいだな。じゃあ俺が陽仁のこと、こんないい男にしたんだな。お礼言って貰わないと。陽仁のお母さんに」

 くすくすっと紬が笑ったら、陽仁も笑った気配が触れ合った身体を通じて伝わってくる。

「俺はただ、陽仁と遊びたかっただけだよ。大したことじゃない。大体花をこっそり植えるの手伝ってくれたの、先生と母さんだし」
「だけど俺にとっては一大事だったから、すごくありがたかった」
「変な奴。今更いうなんてなんでだよ。ああ。さっきあれ見て思い出したのか? 卒業式で陽仁が貰ってきた花。あの花だったよな? たしか。ピンクで桜みたいな花」

 紬がくすりと笑うと、すうっと深く息を吸ったのち、紬の頭を乗せたまま陽仁の胸が大きく膨らんだ。そして全てを吐き出すように、はっきりと声が雨の雫が窓を伝う様子が映った天井に響く。

「今更じゃない。あれからずっと。……ずっとだ。俺はお前のことが誰より、一番好きだ。俺が中学でやり残したことも、桜の花びらを捕まえた時に願ったことも。全部同じ。お前が好きだから、高校生になったら、恋人として付き合いたい、です。ダメか?」

 紬の好きな陽仁の声は最後は少し情けなく上擦っていて、しかしずんっと重たく紬の胸に届いた。

(陽仁が、俺のことを、好きだって? マジか……)

 寝耳に水だ。陽仁とは、今までも距離感がおかしいと周りから言われ続けてきたし、正直『お前ら付き合ってんの?』などとネタにもされた。

 そのたび陽仁は一笑に付してきたが、逆に紬の方が『そうだけど? 彼氏カッコよくて、すげえだろ』なんてどや顔で応えてた。そういったやり取りとか陽仁は実際のところどう思っていたのだろうか。

「だめっていうか……」

 人生で初めて人から面と向かって受けた真っすぐな告白の後、再び静寂が戻った部屋に、強くなった雨音だけが響き渡った。
 紬は幼馴染からの告白という衝撃と興奮と心臓の高鳴りで、再びこめかみにつきんっと僅かに痛みがぶり返して思わず身体を小さく震わせた。

「ご、ごめん。急に変なこと言って。でも俺本気だから。今日告白するってずっと前から決めてたんだ。紬の第二ボタン貰うつもりで……。正確には他の奴に取られないようにするためだったんだけど……。紬? 泣いてるのか?」

 痛みで項垂れた紬をショックで泣きだしたと思ったのか、ふいに抱きしめた腕が緩まって身体を起こした陽仁は、おろおろとした両手は一度宙を彷徨った後、顔を覗き込みながら背中をトントンと叩く方と、紬の猫っ毛を撫ぜる方に役目が分かれていった。

「ち、違うよ。また頭がちょっと痛くなって……、だ、第二ボタンってお前っ」

 しかし驚いた拍子にぐっと言葉に詰まり、本当に涙が滲んでしまった。

「お前、だからさあ。そういうの、ちゃんと……、先に言っとけよ」
「ごめん。……言ったら、紬、俺にボタンくれたのか?」
「ボタン、ボタンこだわるなあ。お前のボタンは人にあげたくせに」
「あげてない。全部外されたけど第二ボタンだけ戻してもらった。好きな子に渡したいからって」
「え……」
 
 汗ばむほどにしっかりと握られていた手が突然離されたのが少し寂しい。
 ゆるく拳を握ろうとした紬の手には、しかしすぐに掌の中にコロンと硬いものが押し付けられた。布団の中の手元は見えないが、多分想像していたとおりのものだろう。
 
「俺の第二ボタン、貰ってください」
「いででっ、だから頭が痛いんだって」

 紬の頭の天辺に陽仁が顎を載せ、照れ隠しなのかぐりぐりされつつ、項から襟足の辺りを絶妙なタッチで撫ぜ上げられ、それがまたまたくすぐったくて身体からへにゃへにゃと力が抜けそうになる。

「く、くすぐったいよ。手ぇやめて」

 悪戯をやめさせよとした手をまた握られ、今度は首筋にぐりぐりと鼻先や頬を押し付けられてそれがまたこそばゆい。

「紬って首とか脇腹とか昔から弱いよな」

 囁かれる吐息が耳元に降りかかり、本格的に笑いが止まらなくなってしまった。

「わ、ううっ、く、くすぐったいって!! 脇腹とか無理、あんま笑うと頭痛くなるって、うわ、こしょいこしょいから! 陽仁、やめて!」
「貰うの? 貰わないのか?」
「くすぐったい、むり、無理。耳とか息吹きかけないで! 貰えばいいのか? それで、お前の願いは叶うの? それでいいの? もう無理!やめてくれ!!!」
「返事は?」

 意地悪なほどしつこい指先が一番弱い脇腹に伸びた時、もう降参とばかりに紬は叫んだ。

「わ、わかった!!! ボタン貰うぐらい、なんてことない! もらう、貰うけど……」
 
 涙目で真っ赤になった顔を上げたら、にやっとちょっと悪げに微笑んだ陽仁の顔がぱっと近づき、口元に生暖かく柔らかいものが一瞬触れて、すぐ離れた。

「今叶った」





                                               終
 





🌸 ~ おまけ ~ 🌸

紬 「よくも俺のファーストキスを予告もなく奪ったな!!!」
陽仁「安心しろ。お前のファーストキスは中一の時、すでにこの部屋で寝ている間に終えてる。相手は俺だ」
紬 「とんでもねぇ!!! ケダモノ!!!」
陽仁「自分のことが好きな男の部屋で爆睡かますお前が悪いだろ」
紬 「キ、キスはまあいい」
陽仁(いいのか? 押せばいけるな。流石チョロ紬)
紬 「いいか! ボタン貰ったからって、即、付き合うってことにはならない! ……んだぞ!」
陽仁「なるね」
紬 「?? ならないだろ? だったら手塚さんと俺だって付き合うってことじゃん?!」
陽仁「それは無理。なら俺が手塚さんからお前のボタン回収してくる。紬は俺のだから、ボタンも俺のものだって。今日、駅前のファミレスにみんないるんだろ? 彩夏お迎えにいったらその足でファミレスいって返してもらってくる。アレ、俺のだって」
紬 「お、横暴だ……。さっきまであんなにしおらしかったくせに!! 小さい頃の横暴陽仁に戻ったな」
陽仁「なんとでもいえ。でも小さい頃から、こういう俺でも、お前一番俺のことが好きだっただろ?」
紬 「そりゃ一番仲がいいから。気もあうし、友達だから、友達」
陽仁「まあいってろって。これからは友達兼幼馴染兼、恋人なんだよ。お前は面倒を見てくれるような相手があってるんだって。マイペース甘えん坊一人っ子」
紬 「一人っ子を甘えん坊とかマイペースとか型にはめるの、よくないぞ」
陽仁「高校入ってからも頭痛くなるたびに、でろでろにお前のこと甘やかして、俺なしじゃいられなくしてやるから、覚悟しとけよ」
紬 「覚悟って……」