「たった今から私はあなたのものです。これからはあなただけのためにこの命を、力を捧げます」

 息をのむほど美しい異形は、頬に浴びた鮮血を拭いながら微笑んだ。
 雨風になびく紅葉さえ、おぞましい返り血さえ、彼を引き立てるための道具に過ぎないのではないだろうか。
 そう思ってしまうほど、恐ろしく絵になる光景だった。

「私だけの沙雪(さゆき)さま。この世で最も気高く、誰よりも甘美な血を持つひと。あなたさえいれば、他に何もいりません」

 呆然とする沙雪の手をとり、(うやうや)しく口づけをした異形の瞳が鈍く光る。
 その瞬間、にわかに悟った。
 ここから自分の運命は大きく変わっていくのだと――。


♢ ♢ ♢ ♢

 ひんやりと冷たい秋風が、回廊へ吹き付けた。
 縁側から見える位置に立った見事な大樹が、風に合わせてその枝を揺らしている。ちらちらと舞い落ちる楓の葉が、地面を、眼前を深紅に染めていく。

 まばゆい西日に目を細めたその時、朱色の葉が沙雪の頬を撫ぜながら舞い落ちた。まるで、意志を持っているかのように。
 このまま何事もなく美しい秋景色を眺めていられたらどんなに幸せだろう。そう心のなかでため息をつきながら、椿(つばき)沙雪はひとつの座敷の前で立ち止まった。

 ――ここへ来るのは、どれくらいぶりだろうか。

 屋敷の離れからこの母屋まではずいぶん離れているため、道中何度か迷ってしまった。しかしそれも仕方ないことだと思う。母親を亡くして以来、沙雪はこの母屋に足を踏み入れることすら許してもらえなかったのだから。

 時は大正初期、大和(やまと)と呼ばれるこの国にはふたつの種族が存在している。

 ひとつめは人の子。平々凡々な営みを送る平民だ。
 ふたつめは妖と呼ばれる異形。類まれなる異能を持つ者たちである。
 
 力や才で大きく劣る人の子は、自然と妖を恐れるようになった。
 
 しかしそんな時、人の子でありながら妖を制御できる力を持った者たちが現れる。
 霊力に満ちた身体を携え、特別な契約印で妖を従えるその一族の名は――百花(ひゃっか)
 どんなに屈強な妖であっても、蜜のように甘美な百花の血液を飲めばたちどころに従属してしまうという。
 
 かくして国から格別の地位を与えられた百花は、国家安寧を保つ『種族の橋渡し役』となった。

 沙雪は、そんな誇り高き百花の本家に生まれた。
 絹糸のように艶やかな黒髪と、透き通るような白い肌。そして赤く染まった両眼。
 沙雪の恵まれた容貌は母譲りであり、そのどれもが百花の血を強く引いている証拠であった。

 しかし、沙雪の身体には霊力がない(・・・・・)
 力が弱いなどと呼べる代物ではなく、微塵も存在していないのである。
 本家の血筋でありながら、霊力を持ち合わせずに生まれた例は沙雪がはじめてだった。
 
 胸元に手を当て、着物の下に隠した首飾りを押さえる。
 勾玉で出来た首飾りは、沙雪が五つの時に亡くなってしまった母の形見である。

『どんな時でも誇りを忘れないで』

 亡くなる間際まで、たったひとりで沙雪の味方をしてくれた母の口癖が脳裏によぎった。
 百花の血に愛されなかった沙雪が誇りを持ち続けるなんて、なんとも滑稽な話だ。
 それでも、美しく強かだった母の言葉は孤独な沙雪を支えてくれていた。

「母さま、見守っていてください」

 ひとりごとのように呟いた沙雪の言葉が静まり返った廊下に消えていく。
 沙雪は左手で胸元を押さえたまま、意を決して襖を開いた。
 
 広い座敷のなかに暗い目をした少女が三人並んで座っている。
 少女の後ろには、それぞれの家紋を身に着けた下男たちの姿があった。右から朝顔家、鈴蘭家、芍薬家。
 全て百花の一族に属する者たちだ。

 表情のない少女たちの姿を見て深く息をつき、広間へと足を踏み入れる。
 すると、その場にいた全員の視線が沙雪に向けられた。

「おやおや、これはこれは、椿家の小娘ではないか。百花の栄華に災いをもたらす本家の名折れが、神聖な場に何をしに来たのだ」

 沙雪が腰を下ろすと共に、向けられたのは刃のように鋭い悪意だった。
 胸元に朝顔の家紋を持つ下男が、口元をゆがませこちらを見ている。

「朝顔さま、ご無沙汰しております」
「おお、口がきけたのだな」

 沙雪が形式上の挨拶を返すと、わざとらしく目を見開いて笑い始める朝顔家の下男。
 その嘲笑につられたのか、一つ、二つと下劣な笑い声が広間に響く。ぎゅっと噛んだ唇からかすかに鉄の味がした。
 なじられ、罵倒されるのは分かり切っていたことだった。ここで反応しても沙雪に得はない。

 今日は百花の一族が一堂に会する査定(さてい)の日だ。
 百花に生まれた子が持つ‶霊力の強さ”を確かめる儀式で、座敷にすわった少女はみな選ばれた跡継ぎたちである。
 霊力を持たない沙雪にはさらさら関係ない儀式だが、本家の生まれである以上どうしても出席しなければいけなかった。
 欠席しようものなら、父である百花当主からどんな目に遭わされるかわからないからだ。

「そうだ、せっかくだから椿家の娘に‶軸移(じくうつ)し”をさせてみてはどうだ?」
「ははっ……それは名案だな。査定の儀が始まる前にお願いせねば」

 芍薬家の下男がした提案に、みなが薄笑いで同調する。
 軸移しとは、査定の儀が始まる前に床の間の掛け軸を新調することだ。
 季節ごとの催しに合わせて行われる百花独自の習わしである。
 おおよそ、この下男たちは沙雪を見下しており、この場で無知を辱めてやろうと思っているのだろう。

 ――ここまで明け透けだと、呆れてしまうわね。

 小さく嘆息を漏らし、立ち上がる。
 床の間から少し離れたところに、掛け軸がいくつか置いてあった。
 
 松竹梅が描かれた祝儀掛け、ハスの花が描かれた仏事掛け、季節の山水画。
 今は秋のはじめだ。このなかでいうと、紅葉が散らされた山水画を選ぶのが無難だろうか。
 その時、端に置かれた小さな掛け軸が視界に入った。
 そっと広げてみる。横に筆で古語が書かれた、なんてことない風景画のようだ。
 その古語を目で追った瞬間、沙雪はその掛け軸を持って床の間へ歩み出た。

「……なぜその風景画を選んだ?」

 芍薬家の下男が、眉を上げて沙雪を見る。

「どれも素敵な掛け軸だったのですが、この風景画には古語で『年々歳々花相似たり』と書かれていました。これは唐の詩人がよんだ詩から、下の言葉を間引いたものです。意味は『花は年ごとに変わることなく咲き誇る』……百花の繁栄を願う査定の日にこれ以上ふさわしい掛け軸はありません」

 しゃんと背筋を伸ばしながら答えた沙雪に、下男たちはぐうの音も出ない様子で押し黙った。
 どうやら沙雪はしっかりと正解の掛け軸を選ぶことができたらしい。
 
「た、ただの穀つぶしにも教養を身に着けさせるなんて、百花当主は本当に懐が深いようだ」

 体裁を保とうと、朝顔家の下男が笑って場を濁す。
 沙雪の教養は、父が身に付けさせてくれたものではない。
 それでも沙雪は、にこりと笑って会釈した。

「父には深く感謝しております」

 顔色を一切変えずに受け流した沙雪を見て、朝顔家の男はつまらなそうに顔を歪めた。

「どうしました献花(けんか)さま、ご気分がすぐれないのですか」

 隣から聞こえてきた声に視線をずらすと、鈴蘭家の少女が青ざめた顔をして震えていた。
 額には冷や汗がにじみ、全身が怯えの色で染まっているのが分かる。
 そしてそれは鈴蘭家の少女だけではない。朝顔家の少女も、芍薬家の少女も、みな一様に恐怖していた。これから始まる出来事に。

「わ、私、私……」
「お家のためです。どうか耐え忍んでくださいませ、献花さま」

 献花さま、と呼ばれた鈴蘭家の少女を見ると、恐怖で満ちた瞳は蓄積された絶望でゆがんでいた。
 きっと、この少女は生まれたころから恐怖と闘い続け、やがてわずかな希望さえも絶望へと変わったのだろう。

「大丈夫?」

 ガタガタと震え続ける鈴蘭の少女に声をかけ、ハンカチを差し出す。
 すると沙雪の方を一瞬見やった少女が、じわりと涙を浮かべた。
 身体を震わせ、助けを乞うように沙雪を見つめる鈴蘭の少女。他の家の少女もまた、同じ顔をしていた。
 
「あ、あなた本家のひとなんでしょう? お願いよ、こんな儀式やめさせて……私を助け――」

 何かを言いかけた鈴蘭の少女だったが、途中でピタリと動きが止まった。
 目の前の襖が、すっと音もなく開いたからだ。

「お話の邪魔をしてしまったかしら」
 
 開いた襖の向こうには、柔らかな栗色の髪を揺らした少女が立っていた。

「……ひまり」

 ほとんど反射的にその名を呼べば、目の前の少女は沙雪を見下してにっこりと微笑んだ。
 薄く弧を描いた唇は赤く色を持ち、あどけない美しさを際立たせている。

「お姉さま、ご機嫌うるわしゅう。最近姿を見ないからてっきりどこかで死んだものと思っていたのだけれど、まだのうのうと生き恥を晒しているのね」
 
 トゲのある言葉とは裏腹に、小鳥がさえずるような愛らしい声で笑ったひまり。
 
 椿ひまりは、沙雪にとって腹違いの妹である。
 沙雪の母が亡くなったあと、父である百花当主はすぐに自身の妾を後妻にした。
 その妾は、妻の座につく前から沙雪と二歳違いの子を身ごもっていた。それがひまりだ。
 
 沙雪と違って強い霊力を持って生まれたひまりは、父である百花当主からあらゆるものを与えられた。
 きらびやかな装飾品、当主代理の座、そして最上の妖と契約する権利(・・・・・・・・・・・)

「まあ、出来損ないのお姉さまに構っている暇はないわ。早く査定をはじめないとね」

 ひまりはそう言って、横に向かって手招きをする。
 廊下の先から歩いてきたのは、麗しい異形の男だった。あふれ出た妖気にあてられたのか、どこからともなく小さな悲鳴が上がる。

相模(さがみ)、霊力を嗅ぎ分けなさい」

 ひまりから相模と呼ばれた男は、ゆっくりとした動作で座敷を見渡した。
 古めかしい狩衣に、特徴的な高下駄。そして金糸のような髪。
 彼は一族としての力が最も強い妖――天狗だ。
 相模に見据えられた百花の少女たちは、みな一様に震えあがっていた。

「そうだねぇ。このなかで一番霊力が高いのは鈴蘭の娘だ。その次に朝顔、牡丹……おや? 椿の娘からは霊力の香りがしないな?」
 
 相模の視線が、沙雪に落とされる。
 礼儀として身体を伏せれば、相模の笑みが深まった。

「姉妹なのにこれほどまでに霊力量が違うとは……哀れなものだ」
「お姉さまは生まれた時からこうなの。可哀そうなひとなのよ」

 くっ、とひまりの口元が歪み、沙雪を嘲るような表情になった。
 しばらく面白そうにこちらを見下ろしていた相模だったが、沙雪が何の反応も示さないことに興がそがれたのか視線を奥にずらした。

「まあいい、今日は鈴蘭の血を頂くとしよう」

 相模に指さされた鈴蘭家の少女がびくりと震える。
 怯え切った少女とは対照的に、後ろに控えた男は感極まった様子で平伏した。

「ああ、我が鈴蘭の献花さまをご指名いただくとは恐悦至極にございます! ささ、献花さま。血を献上くださいませ!」

 懐から取り出した刀を鈴蘭の少女に手渡した男。
 すると少女は、力なく首を振った。

「いや……嫌よ……私は百花の跡継ぎになるために生まれてきたのに、どうして契約してもない妖のために血を捧げなくちゃいけないの?」

 放心したように涙を流す鈴蘭の少女を見て、沙雪は強くまぶたを閉じた。

 査定の目的は、跡継ぎの霊力量をたしかめること。
 しかし圧倒的な霊力を持つ沙雪たちの父が百花当主になってから、その儀式は様変わりしてしまった。

 妖と契約できるのは百花当主、そして当主代理に選ばれた者のみ。
 他の跡継ぎ候補たちは一族繁栄のため、甘美な血を捧げるべし。

 百花当主が下したその命令には誰も逆らうことができなかった。
 そして跡継ぎのなかで唯一、妖との契約を許されているひまりの言葉も当主と同じくらいの効力を持っている。
 素直に従えば家が繁栄し、抵抗すれば破滅するのだ。それは彼女たちが絶対的な力を持った妖を従えているからである。

「腕を薄く斬るだけだから痛みは感じないはずよ? なんなら私がやってあげましょうか?」
 
 こてんと首をかしげたひまり。
 鈴蘭の少女はガタガタと震えるだけで何も答えない。すると、ため息をついたひまりから視線を投げられた相模が腰に差した刀を抜く。
 刀が鞘にこすれる音を聞いた沙雪は立ち上がり、鈴蘭の少女をかばうように腕を広げた。

「なにしてるの、お姉さま?」

 そう言って薄く笑ったひまりの瞳が、射るように沙雪を見据えた。

「こんな暴力許されていいはずないわ。血が必要なら、私の血を採りなさい」
「はぁ? 無能が何を言って――」
「たしかに霊力はないけれど私も百花の血筋よ。妖の腹を満たすことくらいできるはずだわ。そうでしょう?」

 ひまりの言葉を遮り、相模に向きなおる。
 すると相模の妖しげな紫色の瞳が弧を描いた。

「へぇ? 無能のくせに人助けとは、なかなか度胸がおありのようだ」
「……っ」

 歩み出た相模が手に持った刀を沙雪の前に出す。
 そのまま鞘で顎を持ち上げられ、強制的に上を仰がされた。

 ――怯んでは駄目。堂々としていなくては。

 睨み付ける勢いで視線を返せば、相模の口元からふっと息がもれた。

「気が変わった、俺はこの女の血を貰うぞひまり」
「ちょっと相模……! どうしてお姉さまなんか相手にするのよ!」
「鈴蘭としても異議を申し立てさせていただきます! このなかで一番甘美な血を持っているのはそこの無能ではなく、我が鈴蘭家の献花さまですぞ!」

 慌てた様子で相模に詰め寄る鈴蘭家の下男とひまり。
 すると相模は、余裕そうに顎をなでた。

「もちろん、ひまりが嫌ならやめておく。妖は契約印を持つ主人の決定に逆らえないからな。だが、お前の姉は自ら血を捧げて俺の腹を満たしてやると言ったんだ。どれだけ血を奪われても文句はないってことだろう?」

 意地の悪い顔でそう言った相模に、ひまりは目を見開いた。『どれだけ血を奪われても文句はない』という言葉に込められた意味にようやく気付いたのだろう。

 ――妖相手だもの、血を差し出すのなら命を賭けるくらいじゃないと通用しないはず。

 どれだけ血を採られるかはわからない。もしかすると本当に殺されてしまうかもしれない。
 それでも、目の前で震えている少女を放っておくことなんてできなかった。

「……ふうん、お姉さまがそのつもりならしょうがないわね。ただし短刀は使わせないわ。直接血を奪うの」

 満面の笑みでそう命じたひまりに、周りの者たちがざわめく。

「いいのか? 本当に死んでしまうぞ」
「あら、お姉さまが本当に百花の一族なら死なないわ」

 少し驚いた様子で問うた相模に、そう返したひまり。
 
 妖が直接牙を立てて血を飲むのは、捕食の時のみ。
 その痛みは絶命してしまうほど鋭く、霊力を持たない人間は一秒と持たず意識を失ってしまうという。
 霊力がない沙雪が耐えられるはずもないことを、ひまりは分かっているのだろう。

 そっと近づいたひまりが、沙雪の耳元で口を開く。

「ねえお姉さま。私、あなたがずっと目障りだったの」
「……知っているわ」
「ああ、そうやって怖気づかずに返してくるところも大嫌い。無能のくせに生意気なんだもの」

 日が陰り、遠くの方で雷鳴が聞こえた。
 天狗に愛されたひまりが怒りを見せれば、空すら陰ってしまうのだろうか。
 沙雪が持っていないものを、この妹は全て持っている。しかし、それでも――。

「やるなら早くしてくれるかしら、噛みやすいようにこうしてあげるから」

 着物を自らはだけさせ、首から肩にかけた白肌を差し出す。
 すると、相模たちが小さく息をのむ音が聞こえた。

 無様な姿を見せてはいけない。力に屈してはいけない。何故なら沙雪は、あの気高く美しかった母の娘なのだから。
 本家の中心に生まれながらも霊力に恵まれず、離れに閉じ込められて育った沙雪。
 そんな沙雪の心が死ななかったのは、母がくれた矜持があったから。張りぼてで出来た誇りだろうと、惨めだと笑われようと、沙雪は母の名に恥じない生き方をしてきたつもりだ。

「相模、やりなさい」

 大きく舌打ちをしたひまりが、相模に命じる。
 刹那、天狗のごつごつとした手が沙雪の首にかかった。
 肌に当てられた牙の感触に、唇を噛みしめる。後悔はない。最後まで母の教えを全うすることができたのだから。
 それに沙雪とて、無策で妖に立ち向かったわけではない。
 
 隙を見て握りしめたとある小瓶(・・・・・)をちらりと見やり、強く目を閉じた。
 そうして脳天をつらぬくほどの痛みが沙雪の身体に走る――はずだった。
 
 沙雪がつけていた首飾りの勾玉がパリンと音を立てて割れ、辺りに白いモヤが広がっていく。
 その瞬間、沙雪を包み込んだのはむせ返るほどの妖気だった。
 相模のものではない。もっと強大で、全身の産毛が逆立ってしまいそうなほど忌々しい異形の気配だ。

 ――何が、起こったの?

 思わず目を開ければ、黒々とした羽織が視界に入ってくる。
 誰かに抱きすくめられているのだ。沙雪がそう気付いた時にはもう、目の前の光景は一変していた。

「ぐ、は……っ」

 沙雪の首元に噛みつこうとしていた相模が、何故か膝をついている。
 相模の肩には深々と刀が突き刺さっており、滴り落ちた血が畳を汚していた。

「きゃあああああ!!」

 ひまりの甲高い悲鳴が座敷に響き渡る。
 しかし、沙雪の視線は縫いつけれたように斜め上から逸らせなかった。
 沙雪の肩を抱き、見たこともないくらい美しい笑みを浮かべているこの男は――紛れもなく、異形だ。それも、とてつもない妖力を持った。

「お、まえ……何者だ……っ!?」

 開き切った瞳孔をぎらつかせながら、息を荒げる相模。
 突如として湧いて出た異形に攻撃されたのだ、驚くのも無理はないだろう。

「ああ、すみません。誰かを斬るのは百年ぶりくらいだったので加減を間違えてしまいました」
「ぐっ!」
「でも沙雪さまに危害を加えようとしていたんだから、これくらい許されますよね? 妖なんだから耐えられるでしょう?」

 軽薄な笑みを湛えながら、刀をより深く刺し込む闖入者(ちんにゅうしゃ)
 陶器のごとく白い肌。夜闇より深い黒髪に黄金色の瞳。作り物のように美麗な異形の男は、沙雪の視線に気が付いたのかふと下を向いた。澄んだ双眸が、沙雪を捉える。
 状況が読み込めず呆然としていた沙雪だったが、ハッと我に返って身をよじった。

「は、離して……! あなたは一体……」

 うろたえた沙雪が言葉を発した瞬間、パッと動きを止める目の前の異形。
 
「お初にお目にかかります、私は(ひいらぎ)と申します。種族は……そうですね、鬼と言えば伝わりますか?」
「はぁ!? 鬼ですって!?」

 沙雪の代わりに、ひまりが声を落とした。

 驚いているのはひまりだけではない。周りの下男たちや、相模ですら、ぽかんと口を開いたまま固まっていた。

 鬼――とうの昔に滅んだとされる最上の妖が、こうして姿を現わすなんてありえない。
 沙雪を含めたみながそう思っているだろう。しかし異を唱えるものはいなかった。柊と名乗った男が只ものじゃないことは、彼が持つ膨大な妖気がすでに証明していたからだ。

「ああ……こうして沙雪さまに相まみえることが叶い、夢のようです」

 どうして彼は、沙雪の名を知っているのだろう。
 ふと脳裏によぎった疑問は、柊の恍惚とした表情にかき消されてしまった。 

「たった今から私はあなたのものです。これからはあなただけのためにこの命を、力を捧げます」

 息をのむほど美しい異形は、頬に浴びた鮮血を拭いながら微笑んだ。
 雨風になびく紅葉さえ、おぞましい返り血さえ、彼を引き立てるための道具に過ぎないのではないだろうか。
 そう思ってしまうほど、恐ろしく絵になる光景だった。

「私だけの沙雪さま。この世で最も気高く、誰よりも甘美な血を持つひと。あなたさえいれば、他に何もいりません」

 呆然とする沙雪の手をとり、(うやうや)しく口づけをした異形の瞳が鈍く光った。