なかなか寝付けず、眠りも浅く、寝不足状態で迎えた翌日は、木曜日だった。
 大宮の所属する美術部の、本来の活動日だ。
 教室では、葉山はいつも以上に大宮の様子を気にしながら過ごしたが、大宮はいつも以上に葉山に視線を向けないようにしているのが明らかで、そのまま一日が過ぎていった。
 部活後、葉山は急ぎ足で駐輪場へと向かった。
 今までなら、慌てなくとも自分が帰るまで大宮の自転車は停まったままだった。それもきっと、大宮がわざと下校のタイミングを遅くしていたからだろう。言葉にできない気持ちを込めたハンドルのサインに気付いて欲しい、だけどどうか気付かないで――大宮はそんな揺れる気持ちを抱えながら、葉山がハンドルを外して帰って行くのを美術室で待っているのではないかと、ずっと葉山は思っていた。
 だがこの先、部の活動日以外はもう、大宮が遅くまで学校に残ることはなくなるような予感が、葉山にはある。今日のように美術部の活動日なら帰り時間は自分と大差ないだろうが、それでもこれまで通り自分が帰った後を見計らって駐輪場に来るということはなく、部活が終われば早々に帰ってしまうかもしれない。
 葉山は急いだ。自分と大宮の自転車はどういう状態なのか。彼がどんな気持ちでいるのか。それを確かめるには、大宮が帰ってしまう前に駐輪場に向かうしかない。
 白く煙る息を切らせながら、自分の駐輪区画の近くまで辿り着いて、その光景を目にしたとき、葉山は全身の力が抜けていきそうになるのを感じながら、どうにか堪えてそこに立ちすくんだ。
 二台の自転車は、もう寄り添うようにして停まってはいなかった。ハンドルは触れ合っておらず、よそよそしい距離を保っていた。

(そっか……そうだよなぁ……)

 ハンドルが重ならない光景が、こんなにも冷たく感じられるとは思わなかった。
 結局、昨日葉山が大宮の自転車にそっと触れたのを、大宮が見たのか、見ていないのか、分からないままだ。だが正直もう、それはどちらでも良かった。
 どちらにせよ事実として、大宮は葉山のことを諦めようとしている。
 そうはっきりと認識した瞬間、葉山は胸のあたりが妙に重くなるのを感じた。

(まぁ……そんなもんだろ……)

 わざとらしく息を吐き出す。白く煙る息が、いつもよりやけに長く漂ってから消えていった。
 大宮のサインに気付きながらも、知らないふりを続けてきたのは自分だ。向こうがそれを「なかったこと」にしたいのだとしても、別に文句を言う筋合いはない。

(むしろ今まで、叶う見込みなんてないと思ってただろうに、ずいぶん俺のこと想ってくれてたっていうか……)

 帰ろう。そう思って、気持ちを切り替えたつもりだった。
 自分の自転車の後輪のロックを外し、悴んだ手でハンドルを握る。スタンドを後ろ足で蹴り上げようとして……できずに足を下ろした。
 ハンドルを持つ手に力を込め、俯きながら奥歯を強く噛み締める。

(くそ……なんで止まるんだよ。帰るんじゃないのかよ)

 頭の中で自分に語りかける。

(足、動かせ。スタンド蹴り上げろ。帰るんだろ)

 言い聞かせても、命じても、身体は動かない。
 このまま大宮を待ちたいという気持ちを、振り切れずにいる自分がいる。

(帰らずに、このまま大宮を待って、それでどうする? そんなことしてどうなる?)

 問いかけてみても、答えは出なかった。自分が何を期待しているのか、どうしたいのか、葉山には分からないままだ。
 それでも、今はっきり分かることが、ひとつだけある。
 このまま帰ったらまた昨日と同じ――いや昨日よりももっと、ずっと取り返しのつかない後悔を抱えることになる。
 昨日はここから逃げ出して、大宮のことを傷つけた。自身も眠れぬ夜を過ごした。
 今朝、彼はどんな気持ちでここに自転車を停めたのだろう。今日一日いったいどんな顔をして過ごしていたのか。
 考え出すと、胸の中がざわつき始め、気持ちがさらに深く沈んでいくようだった。考えれば考えるほど、どうしても足が動かせない理由がはっきりしていく。
 これまでずっと、知らないふりを続けてきた。でも、もうそれでいいとは思えなかった。
 どうなるか分からないし、大した結果は生まないかもしれない。それでも。
 ゆっくり息を吐いて、深く吸い込む。
 冷たい空気が肺の奥まで染み渡るようだった。
 葉山は意を決して、ハンドルから手を放した。



 ほどなくして駐輪場に現れた大宮は、葉山の姿に気づいたのだろう位置で、立ち竦んでそのまま動かなくなった。
 距離にしておよそ五メートル。姿ははっきり視認できるのに声をかけるには微妙なその間隔が、まるで自分と大宮の関係性を象徴しているようだと、葉山は思った。
 この距離を、縮めたい。埋めてしまいたい。
 葉山は一度呼吸を整えると、ゆっくりと口を開いた。

「大宮」

 呼びかけると、葉山の影は一瞬びくっと震えた。

「葉山……なに、してんの……帰んないの?」

 暗がりの中で、小さく囁くような大宮の声が響く。その声を聞きながら、葉山は一度視線をそらし、足元を見た。

「大宮のこと待ってた」

 大宮は葉山の言葉に眉をひそめ、一瞬周りを見回した。
 校舎裏の駐輪場には、自分たちのもののほかにもぽつぽつと自転車が停められていた。もう残りほんの数台だが、持ち主は帰宅のためにこの駐輪場に現れるはず。大宮はきっと、それを気にしているのだろう。
 日が暮れて静けさに包まれたなか、気をつけなれば校舎の壁に反響して、声は大きく響いてしまう。この場へ向かってくる誰かに会話の内容を聞かれてしまうかもしれない。そんな緊張が、二人の間に漂う。

「なん、で……?」

 大宮の声が一段と小さくなるのを感じながら、葉山は自分も慎重に声の調子を整えた。

「今日、重なってなかったから」
「なんの話……」

 大宮の声がかすれ、ぎこちなく反応する。
 葉山はゆっくりと彼に一歩近づき、静かに続けた。

「ハンドル。俺の自転車と、重ねてただろ。ずっと。あれ、もうやめんの?」

 前置きなく核心に触れると、大宮は顔を伏せた。

「俺、気持ち悪かったよね……ごめん」

 俯いたまま紡がれた言葉は、震えていた。

「そんなこと誰も言ってないだろ」

 葉山は意識して、さらに声を落とした。

「俺は、もうやめるのかって聞いただけだよ」

 沈黙が訪れた。
 暗い駐輪場の空気は冷たく、大宮の鼻先が赤くなっているのが、寒さのせいなのかそれとも泣き出しそうだからなのか、葉山には分からなかった。ただ、大宮の肩がかすかに震えていることは確かだった。
 ふいに足音と話し声が近づいてくるのが聞こえた。
 間もなく男子生徒と女子生徒の二人連れが駐輪場に現れ、微妙な距離を保って無言で立ち尽くしている葉山と大宮の様子を怪訝そうに窺いながら、彼らは少し声のトーンを落とした。男子の方が駐輪区画から自転車を取り、押して歩く彼の隣に女子が並んで、また小声で楽しそうに話しながら去ってゆく。
 その姿が見えなくなり、声も足音も聞こえなくなって、葉山はほっと息を吐き、こわばっていた身体の緊張をゆるめた。
 再び沈黙が戻り、小さな息が薄暗闇に白く溶けては消えてゆく。
 待てども大宮の答えはないままだ。

「なぁ……大宮……」

 耐えかねて、葉山は促すように大宮の名を呼んだ。

「うん……もう、意味ないから……」

 ようやく返された答えに、胸が軋んで痛んだ。

「あれやってたの俺だって葉山気づかれてたの、分かっちゃったし……どうせ俺の気持ちには応えてもらえないし」

 続けられたのは、どこか告白めいた言葉だった。
 大宮がずっと諦めを抱えながら自分を想っていたこと、そしてその気持ちに自ら見切りをつけようとしていることが、静かに突き刺さるように伝わってくる。
 大宮はすんと鼻を啜ってから、それを誤魔化すかのように笑いまじりの息を吐いた。結局それも葉山には、ただ啜り泣きのようにしか聞こえなかった。
 葉山は視線を落とし、しばし躊躇ったあとで、静かに口を開いた。

「なんで俺が大宮の想いに応えるかどうかを、俺じゃなくて大宮が決めんの?」

 またほんの少し大宮に歩み寄り、声の響きを抑えながら囁くように問いかけた。
 その言葉に、大宮は一瞬驚いたように顔を上げたが、次の瞬間、視線を彷徨わせたまま、再び言葉を失う。
 微妙な間が生まれるなか、葉山はさらに大宮を促すように尋ねる。

「なんで?」

 葉山の静かな問いかけに、大宮は息を詰まらせた。

「だって……」

 大宮の視線が地面へ落ちる。口からこぼれた呟きは、今にも消え入りそうだった。葉山は、相手の表情をじっと見つめながらさらに言葉を重ねる。

「どうせ叶わないと思ってる?」
「叶わないんじゃ……ないの……?」

 大宮の声はかすれ、寒空に溶けていく。葉山は一瞬黙り込んだが、すぐにふっと息を吐いた。

「さあ……どうだろうな」

 軽く眉を寄せつつも、穏やかに答える。
 その返答に、大宮がゆるゆるとした動きで葉山を見上げた。その眼差しには、期待とも不安ともつかない複雑な感情が混じっていた。

「なにそれ……葉山、意地悪い」

 大宮がそう呟いた瞬間、葉山は微笑んで首を振った。

「そういうつもりじゃない。真剣に考えてるから、こういう答えになるだけ」

 放課後には必ずハンドルを重ねて、自分の自転車に寄り添うように停められている大宮の自転車。その光景が、そこに込められた大宮の想いが、徐々に葉山の心を動かしていった。
 それは紛れもない事実で、だから葉山には大宮を跳ね退けるようなことはできない。
 だからと言って、じゃあ付き合おうかという短絡的な話でもない。

「ハンドル重なってんの、これ意図的にやってんだなって気づいて……なんかだんだん、いじらしいなあって思うようには、なってたよ。教室でも、おまえ俺がそばにいると、なんかほんといっぱいいっぱいになってて……そういうのかわいいとは、思ってるし」

 大宮が葉山を見上げた。見開かれた目が潤んでいる。

「だからって、俺の気持ちが大宮と同じなのかって言われると……正直よく分からないけど」

 葉山の言葉に、大宮はふと俯き、肩を落とした。だが、続けられた葉山の声に、大宮はもう一度目を上げる。

「でもさ……続けたらいいんじゃないの」
「え……」
「ハンドル重ねるやつ」

 葉山はまっすぐに大宮を見つめた。視線がどこまでも優しく穏やかなものになっているのが、自分でも分かる。らしくないと思いはするけれど、大宮に向ける眼差しがそうなってしまうのは、もうどうしようもないのだとも思う。

「続けてみれば? あれ、ちょっとめんどくさいけど、いじらしくて、俺は好きだよ」

 葉山のその言葉に、大宮の目が丸くなる。しばらく何も言えないでいる彼の表情を見つめながら、葉山は静かに思う。ずっと、ハンドルが重なるそのわずかな距離に、大宮の気持ちは込められていた。自分に近づきたいという想いを、彼なりに必死に形にしようとしていたのだろう。叶わないと分かっていながらも、二台の自転車が寄り添い、触れ合うことで、彼はささやかな「近さ」を保っていたかったのだ。
 葉山はずっとその距離を無言で受け入れ続けてきた。
 ふと、ここまで僅かながら歩み寄って詰めながらも、二人の間に今も残る微妙な距離に、葉山は胸の内でこっそり苦笑する。寄り添い触れ合う自転車が大宮の望みならば、この距離は自分たちの現実そのものだ。
 望みは自転車に託して、実際にはいつもこのぐらいの間隔を保ち、見つめ合うこともなく、お互いを横目に気にし合うだけの関係。それが、やっと今夜、自転車の距離――大宮がずっと密かに望んできた距離へと変わろうとしている。

 葉山と大宮の間に静寂が戻った。そしてまた、ふいに駐輪場へと向かう足音が響く。
 見知らぬ男子生徒が一人、自転車に手をかけ、視線を一瞬こちらに向けてから、特に気にとめる様子もなく去っていった。その姿が暗がりに消え、再び駐輪場には二人と、二台の自転車だけが残される。

 冷えた空気が肌に触れるのも、ふたりきりでいるのも、今はどこか心地よい。葉山はひんやりした空気を吸い込んでから、視線を大宮に戻した。

「……あれ、俺ら以外の最後の一台。もう誰も来ないよ」

 静かに告げたその言葉で、大宮の顔が赤くなったのがわかった。目を伏せ、恥ずかしそうにうつむくその姿に、葉山の胸がほんの少しだけ高鳴る。

(あぁもう……やっぱり、こいつちょっとかわいいよな……)

 そんな内心を隠しながら、冷えた夜風が二人の間を通り抜けるなか、葉山はもう少しだけ距離を詰め、大宮と視線を合わせた。

「触れる距離で寄り添うの、別に自転車だけじゃなくてもいいけどな」

 声にはさすがに、照れくささが滲んでしまったけれど。
 その囁きに、大宮の表情が揺れた。

「……ほら、まだ遠いって。おまえが本当にいたい場所、そこじゃないんだろ?」

 葉山は軽く息を整えるようにして、眼鏡の位置を指先で押し上げた。そして、大宮へと静かに片手を差し出す。
 まだ残る最後の距離だけは、大宮に埋めて欲しいと思った。
 冷えた空気の中で差し出されたその手を見て、大宮は動きを止めたまま立ち尽くした。まるで躊躇うように、葉山の指先をじっと見つめている。

「いいよ、おいでよ大宮」

 声をかけると、ようやく大宮がためらいながらも一歩ずつ歩み寄ってきた。ゆっくりと手を葉山の方へと動かし――そこでふと、また動きを止めた。その視線が葉山の自転車に向けられ、大宮の目が見開かれた。
 葉山もその視線を追うと、二台の自転車が並んで停められているのが見えた。よそよそしく距離を置いた自転車がどうにもせつなくて、葉山は大宮を待つ間に、自分の自転車を動かしておいたのだ。今はこれまでとは逆に、葉山の自転車のハンドルが大宮のハンドルに寄り添うように重なっている。
 大宮が再び葉山を見上げた。頬が紅潮している。そのまま彼は息を潜めながら、慎重に、まるで大切なものに触れるかのように、その指先を葉山の指に重ねた。
 葉山はそっとその指を絡めるようにして大宮の指先に応え、口もとにかすかな笑みを浮かべた。
 冬の冷たい空気の中で、わずかに触れた箇所の温かさが、二人を優しく繋ぐ。
 指先を重ねたふたりと、ハンドルを重ねた自転車の影が、駐輪場の薄明かりの中で静かに重なっていた。