葉山連の自転車は特徴的だ。
学校内の駐輪場ではあまり他に見かけない、明るく鮮やかなターコイズブルー。遠くからでもよく目を引くその色を、葉山はよく友人たちから「らしくない」「似合わない」と言われる。実のところ、混み合う場所でも見つけやすいからという理由だけで選んだ色だ。
葉山は白く煙る息で眼鏡のレンズをわずかに曇らせながら、日が暮れたあとの暗い校舎裏を抜けて、ひと気のない駐輪場へと向かった。この時間、もう自転車はまばらにしか停まっていない。
駐輪場の明かりに照らされている自分の自転車の前に辿り着き、足を止めて――そして葉山は眼鏡のブリッジに指先を当てて位置を直しながら、同時にその手のひらで、思わず綻びそうになった口もとを覆った。
人には知られていないだろうが、本当は車体の色の他にも、葉山の自転車だけに見られる特徴が、もうひとつある。
そのハンドルの上に、隣に並ぶ銀色の自転車のハンドルが、まるで互いに手を取り合うかのように、いつも少しだけ重ねられていることだ。
その光景を見るたび、葉山の口もとには笑みが浮かんでしまう。
いつの間にかそんなふうに微笑んでしまうようになった自分に、葉山は正直ちょっと、戸惑っている。
今日は部活後の施錠を担当している部長が不在で、葉山はその代理を引き受けていたため、普段よりも時間が遅くなった。
もしかしたら今日はもう隣の区画は空かもしれないと考えていたが、たどり着いてみれば普段と同じように、自分の自転車の左横には、銀色の自転車が寄り添うように停まっていた。
(大宮、まだ帰ってないんだな)
隣の区画を利用しているのは、葉山とは同じクラスの大宮悠太だ。美術部に所属していて、活動日は週に二回、たしか火曜日と木曜日。なのに大宮はそれ以外の日も、美術室で遅くまで過ごしている。葉山はそれを、偶然耳に入ってきた彼とその友人との会話から知った。
(今日もハンドル重ねてる……)
毎日朝練に顔を出す葉山の登校時には、隣の自転車はまだない。いつもあとから銀色の自転車がやって来て、葉山の自転車に寄り添うように停められるのだ。
この不思議な習慣がいつから始まったのか、正確なことは葉山にも分からない。少なくとも夏休み前までは、隣の自転車は部活を終えた自分が帰る頃にはもう停まっていないことが多かったと、葉山はなんとなく記憶している。変化に気づいたのは、夏休みが明けてしばらく経った初秋のことだった。
最初は、偶然だと思っていた。ときおりそういう状態になっているだけなら、なんの不自然さもなかった。
けれどそれが何日も続くうちに、さすがに奇妙に感じ始め、秋が深まり始めた頃には、ハンドルは意図的に重ねられているのだと、葉山はもう確信していた。
駅から近いこの学校では自転車通学者は少数派で、駐輪場利用は事務室で個別に手続きすることになっている。申請順に空いている区画に割り振られるため、隣だからと言ってクラスや学年が同じとは限らない。だから、あの銀色の自転車の持ち主が誰なのかは、しばらく分からないままだった。
このような停め方をされたからといって、特に何か困るというわけでもない。自転車を出す時に軽く退ければいいだけの話だ。大した手間でもない。まあいいかと思って放置はしつつも、それでもやはり、誰が何のためにこんなことをしているのか分からないというのは、少し気がかりではあった。
もしかしたら、と思ったのは数日続けて駐輪場にあの自転車がなかった時で――その期間にちょうど、クラスメイトの大宮の欠席が重なっていた。
大宮悠太は葉山のクラスの中では大人しくて目立たない存在だった。その大宮がなぜこんなことをしているのか、その頃の葉山にはまだ、想像もつかなかった。だが、少なくとも彼が悪意のある悪戯や嫌がらせを仕掛けるような人間でないのは明らかだったし、下手に問いただしたりしたら追い詰めてしまいそうな気もして、だから特に何も言わずに放っておくことにしたのだ。
それから冬休みを迎え、年を越し、三学期が始まって――今や日常と化したこの光景は、葉山の密かな楽しみになっている。
呆れ半分、微笑ましさ半分。部活後に駐輪場に来るたび、葉山がじんわりと込み上げてくる笑いを堪えているのを、葉山のことを「無表情」だとか「表情筋がサボりすぎている」だとか評する友人たちは、誰も知らない。
(ほんとよく飽きずに続けるよな……)
先ほど校舎から出てきたばかりなのに、もう指先は悴んでいる。葉山はその冷えた両手を大宮の自転車のハンドルにかけた。
そっとハンドルを持ち上げ、浮かせた前輪を横にずらして、再び慎重に接地させる。
別に片手で押し退けるだけでも構わないのだが、教室での大宮の様子を思い出すと、自ずと葉山の手つきは丁寧に、慎重になる。うっかり乱雑に扱うと、期せずして彼の繊細な部分に触ってしまうような気がして、それがなんとなく怖かった。
隣の自転車は大宮のものかもしれないと気づいてから、それまではおどおどしていて気の弱そうな奴だという認識がある程度で、ほとんど意識したことのなかった大宮の存在が、妙に気になるようになった。そして葉山はひそかな観察を通して、大宮悠太という人物を少しずつ知っていった。
実際のところ、大宮はもともと葉山が抱いていた印象とは、異なるタイプの人間だった。引っ込み思案だとか人が苦手だとかいうわけではないし、意思表示がうまくできないわけでもない。物静かで穏やかなだけだ。意外にも陽気で賑やかな奴と仲が良かったりもする。思った以上に表情が豊かで、よくはにかんだように笑っている。
それなのに葉山が関わると、彼の様子は一変してしまうのだ。葉山とすれ違うとき、大宮は一瞬身体を強張らせる。葉山と言葉を交わす必要のあるとき、その声は上擦って、つっかえがちになる。葉山が何かを手渡そうとするとき、彼の手は震える。そんなとき、いつもきまって彼の目はちょっと潤んでいて、葉山はそんな大宮の表情を可愛いと思ってしまうのだった。
大宮はきっと、うまく言葉にできない気持ちを自転車のハンドルに乗せているのだろう。
大宮の自転車を動かし終えた葉山は、両手を離すと、最後に改めてそのハンドルに、左手でそっと触れた。
いつも自分の前で明らかに緊張して、すぐにいっぱいいっぱいになってしまう大宮を、宥めて落ち着かせるような、そんな気持ちを込めた優しい手つきで。
(やってることほんと意味わかんないけど……なんかいじらしいっていうか……)
笑いがわずかに込み上げたあとは、いつもなんとなく胸が温かくなり、そのあとで心の奥に淡い切なさがかすかに残る。
(でもまあ、そりゃ、口には出せないよな……)
もしも葉山が想像しているように、大宮悠太は葉山のことが好きなのだとして。実際のところ葉山はいま、彼に想いを向けられることに対して嫌悪感を抱いてはいないし、むしろ彼の様子を案外可愛いと思ったりもしているけれど――、それでももし大宮がその想いを声に出して伝えてきたなら、そのときはきっと返す言葉に困る。
たぶん大宮もそれを分かっていて、だから何も言えずにこんなことを続けているのだろう。
気持ちを切り替えるように息を吐いて、大宮の自転車から自分の自転車へと手を移し、スタンドを蹴り上げる。
自分の区画から出した自転車を押して駐輪場内を歩きながら、校門へと向かう。その途中で、葉山はふと足を止めた。
何か気配を感じた気がして振り返ると、駐輪ポートの柱の影に身を寄せるようにして立っている人影が目に入った。
「え……大宮?」
咄嗟の印象だけで思わず声をかけてから、葉山はうっすら白く曇る眼鏡レンズの奥で目を眇めて、改めてその人物の顔を確かめた。屋根に取り付けられている照明の明かりも届きにくい薄暗い場所だが、間違いない。
大宮は驚いたように目を瞬かせ、少し居心地悪そうに葉山を見返した。その視線はまっすぐではなく、どこか微妙に逸れている。
「なにしてんの、そんなとこで」
葉山が尋ねると、ようやく大宮はおずおずと、柱の影から一歩前へ進み出てきた。
「あ、あの、驚かせてごめん……ちょうど、タイミング被って……。葉山が自転車出すのに、邪魔になるかなって、ちょっとよけてた……」
大宮は小さな声でそう言い終えると、急にハッとして口もとを押さえ、俯いて震えた。まずいことを口走ってしまったと自分で気づいたかのように。
そんな反応の理由が分からなくて、葉山は首を傾げた。
「あぁ、そう……ごめんな待たせて」
困惑しつつも大宮を気遣いながら口にしたはずの言葉も、響きは意図せず淡々としたものになる。
たぶん表情も上手く作れていない。というより、そもそも葉山は表情の作り方など知らない。
「そ、そんな……それは、全然……」
大宮の途切れがちな声は、もう消え入りそうだった。
(なんだこれ。いつも以上にびくびくして……)
これでは自分が怯えさせているみたいだ、と葉山は複雑な気持ちになった。
微妙な空気をどうにかしたくて、焦りながら取り繕うように言葉を探して、口を開く。できるだけ口調を優しく、怖がらせないように……、だけど表情の乏しい自分が話しかけ続けても、もしかして逆効果か……などと、話しかける内容そのものよりも、そんなことにばかり気を取られながら――
「大宮って、毎日帰り遅いよな。俺が部活終わって帰る時も、いつも自転車あるし、」
言葉を紡いている最中に、大宮が驚いたように顔を上げた。直後、その顔が真っ赤になって、大きく見開かれた目が、みるみるうちに潤んでいく。
そして、葉山は自分の失敗に気づかされた。
(しまった……今の……)
同時に、今の自分と同じく先ほど大宮が失言していたことにも思い至り、彼の様子が急におかしくなったことに、今更ながら納得がいった。
自分も大宮も、動揺のあまり咄嗟に、自分たちの自転車が隣同士に並んでいることを前提に、話してしまっていた。
せっかく今までずっと、あのハンドルを重ねてくる銀色の自転車が大宮のものだと気づきながら、あえて知らないふりで何も言わずにきたというのに。
焦りが込み上げて言葉が出なくなって、一瞬の沈黙ののちに先に口を開いたのは、意外にも大宮の方だった。
「もしかして、葉山……俺の自転車の場所、前から知ってた……?」
大宮は、もう今にも泣き出しそうだ。
こんな状態の大宮に尋ねられながら、それに返事をしないわけにもいかず、葉山は観念して口を開いた。
「俺の、左隣……」
ぼそっと呟いて答え、背後を振り返って大宮の銀色の自転車に視線をやった。
そこから見える景色に、はっとした。
屋根に取り付けられている照明に照らされた駐輪区画まで、視線を遮るものはない。
大宮が身を潜めていた場所からも、角度からして、いま葉山が見ているのとほぼ同じ視界が得られるだろう。先ほどまで停められていたターコイズブルーの自転車は、よく見えていたはずだ。もちろんその隣の、葉山が優しく触れた、大宮の自転車も。
(うわ……これって……)
葉山は無言で思考を巡らせた。
大宮は葉山が自転車を触っていた瞬間を目撃していたのかもしれない。
いや、自分の背中に隠れて、手元までは見えなかったかも――
声をかけた時の、あの微妙に逸れていた視線を思い出す。振り返ってみれば、あの時の大宮の目は、見ていたものを知られまいと隠す様子ではなかったか。それとも単に、自分の重ねたハンドルを葉山が退かしているところを見てしまったことへの、罰の悪さの表れだったのか。
(どっちだ……見られた? 見られてない?)
もし見られていたのだとしたら、大宮は……気持ちに応えてもらえるかもしれないと、期待を持ってしまっただろうか。
そうだとしたら、なんと答えればいい?
あのハンドルを重ねる無言の合図を、いじらしいとは思っているけれど――
「あの……お、俺、自転車取りに行くね……」
答えは出せないまま、葉山は大宮の声で、再び彼の方に向き直った。
(あぁ、どうしよ、こいつかなり無理してる……)
大宮は泣きそうな顔で、弱々しい笑みを浮かべていた。
「なんかごめん、葉山帰るとこだったのに、足止めさせるみたいになっちゃって……。もう行って……」
そう言って、大宮は葉山に背を向けた。
告げられた言葉が、葉山の胸の奥にひっかかった。
その言葉に従えば、彼を置き去りにしてしまうことになる――そんな感覚がある。
どこか頼りなげで、けれど一途さを感じさせるような大宮の背中に、手を添えて支えてやりたいという気持ちが葉山の中に湧き上がった。
なのに、そこから先はどこに向かっていくべきなのか、その先に踏み出すべき一歩が分からなくて、そうしてやることができない。彼の背中に手を伸ばすことができず、ただ見つめている自分が歯がゆい。
このままこの場に留まったとしても、大宮になんと声をかけたらいいのか。その言葉を見つけられずに、葉山は黙ったまま駐輪場を後にするしかなかった。
そして葉山は、その場を離れてしまった後で、胸の内がひやりと冷たくなっていくのを感じて、あぁこれは後悔だ、と自覚した。
学校内の駐輪場ではあまり他に見かけない、明るく鮮やかなターコイズブルー。遠くからでもよく目を引くその色を、葉山はよく友人たちから「らしくない」「似合わない」と言われる。実のところ、混み合う場所でも見つけやすいからという理由だけで選んだ色だ。
葉山は白く煙る息で眼鏡のレンズをわずかに曇らせながら、日が暮れたあとの暗い校舎裏を抜けて、ひと気のない駐輪場へと向かった。この時間、もう自転車はまばらにしか停まっていない。
駐輪場の明かりに照らされている自分の自転車の前に辿り着き、足を止めて――そして葉山は眼鏡のブリッジに指先を当てて位置を直しながら、同時にその手のひらで、思わず綻びそうになった口もとを覆った。
人には知られていないだろうが、本当は車体の色の他にも、葉山の自転車だけに見られる特徴が、もうひとつある。
そのハンドルの上に、隣に並ぶ銀色の自転車のハンドルが、まるで互いに手を取り合うかのように、いつも少しだけ重ねられていることだ。
その光景を見るたび、葉山の口もとには笑みが浮かんでしまう。
いつの間にかそんなふうに微笑んでしまうようになった自分に、葉山は正直ちょっと、戸惑っている。
今日は部活後の施錠を担当している部長が不在で、葉山はその代理を引き受けていたため、普段よりも時間が遅くなった。
もしかしたら今日はもう隣の区画は空かもしれないと考えていたが、たどり着いてみれば普段と同じように、自分の自転車の左横には、銀色の自転車が寄り添うように停まっていた。
(大宮、まだ帰ってないんだな)
隣の区画を利用しているのは、葉山とは同じクラスの大宮悠太だ。美術部に所属していて、活動日は週に二回、たしか火曜日と木曜日。なのに大宮はそれ以外の日も、美術室で遅くまで過ごしている。葉山はそれを、偶然耳に入ってきた彼とその友人との会話から知った。
(今日もハンドル重ねてる……)
毎日朝練に顔を出す葉山の登校時には、隣の自転車はまだない。いつもあとから銀色の自転車がやって来て、葉山の自転車に寄り添うように停められるのだ。
この不思議な習慣がいつから始まったのか、正確なことは葉山にも分からない。少なくとも夏休み前までは、隣の自転車は部活を終えた自分が帰る頃にはもう停まっていないことが多かったと、葉山はなんとなく記憶している。変化に気づいたのは、夏休みが明けてしばらく経った初秋のことだった。
最初は、偶然だと思っていた。ときおりそういう状態になっているだけなら、なんの不自然さもなかった。
けれどそれが何日も続くうちに、さすがに奇妙に感じ始め、秋が深まり始めた頃には、ハンドルは意図的に重ねられているのだと、葉山はもう確信していた。
駅から近いこの学校では自転車通学者は少数派で、駐輪場利用は事務室で個別に手続きすることになっている。申請順に空いている区画に割り振られるため、隣だからと言ってクラスや学年が同じとは限らない。だから、あの銀色の自転車の持ち主が誰なのかは、しばらく分からないままだった。
このような停め方をされたからといって、特に何か困るというわけでもない。自転車を出す時に軽く退ければいいだけの話だ。大した手間でもない。まあいいかと思って放置はしつつも、それでもやはり、誰が何のためにこんなことをしているのか分からないというのは、少し気がかりではあった。
もしかしたら、と思ったのは数日続けて駐輪場にあの自転車がなかった時で――その期間にちょうど、クラスメイトの大宮の欠席が重なっていた。
大宮悠太は葉山のクラスの中では大人しくて目立たない存在だった。その大宮がなぜこんなことをしているのか、その頃の葉山にはまだ、想像もつかなかった。だが、少なくとも彼が悪意のある悪戯や嫌がらせを仕掛けるような人間でないのは明らかだったし、下手に問いただしたりしたら追い詰めてしまいそうな気もして、だから特に何も言わずに放っておくことにしたのだ。
それから冬休みを迎え、年を越し、三学期が始まって――今や日常と化したこの光景は、葉山の密かな楽しみになっている。
呆れ半分、微笑ましさ半分。部活後に駐輪場に来るたび、葉山がじんわりと込み上げてくる笑いを堪えているのを、葉山のことを「無表情」だとか「表情筋がサボりすぎている」だとか評する友人たちは、誰も知らない。
(ほんとよく飽きずに続けるよな……)
先ほど校舎から出てきたばかりなのに、もう指先は悴んでいる。葉山はその冷えた両手を大宮の自転車のハンドルにかけた。
そっとハンドルを持ち上げ、浮かせた前輪を横にずらして、再び慎重に接地させる。
別に片手で押し退けるだけでも構わないのだが、教室での大宮の様子を思い出すと、自ずと葉山の手つきは丁寧に、慎重になる。うっかり乱雑に扱うと、期せずして彼の繊細な部分に触ってしまうような気がして、それがなんとなく怖かった。
隣の自転車は大宮のものかもしれないと気づいてから、それまではおどおどしていて気の弱そうな奴だという認識がある程度で、ほとんど意識したことのなかった大宮の存在が、妙に気になるようになった。そして葉山はひそかな観察を通して、大宮悠太という人物を少しずつ知っていった。
実際のところ、大宮はもともと葉山が抱いていた印象とは、異なるタイプの人間だった。引っ込み思案だとか人が苦手だとかいうわけではないし、意思表示がうまくできないわけでもない。物静かで穏やかなだけだ。意外にも陽気で賑やかな奴と仲が良かったりもする。思った以上に表情が豊かで、よくはにかんだように笑っている。
それなのに葉山が関わると、彼の様子は一変してしまうのだ。葉山とすれ違うとき、大宮は一瞬身体を強張らせる。葉山と言葉を交わす必要のあるとき、その声は上擦って、つっかえがちになる。葉山が何かを手渡そうとするとき、彼の手は震える。そんなとき、いつもきまって彼の目はちょっと潤んでいて、葉山はそんな大宮の表情を可愛いと思ってしまうのだった。
大宮はきっと、うまく言葉にできない気持ちを自転車のハンドルに乗せているのだろう。
大宮の自転車を動かし終えた葉山は、両手を離すと、最後に改めてそのハンドルに、左手でそっと触れた。
いつも自分の前で明らかに緊張して、すぐにいっぱいいっぱいになってしまう大宮を、宥めて落ち着かせるような、そんな気持ちを込めた優しい手つきで。
(やってることほんと意味わかんないけど……なんかいじらしいっていうか……)
笑いがわずかに込み上げたあとは、いつもなんとなく胸が温かくなり、そのあとで心の奥に淡い切なさがかすかに残る。
(でもまあ、そりゃ、口には出せないよな……)
もしも葉山が想像しているように、大宮悠太は葉山のことが好きなのだとして。実際のところ葉山はいま、彼に想いを向けられることに対して嫌悪感を抱いてはいないし、むしろ彼の様子を案外可愛いと思ったりもしているけれど――、それでももし大宮がその想いを声に出して伝えてきたなら、そのときはきっと返す言葉に困る。
たぶん大宮もそれを分かっていて、だから何も言えずにこんなことを続けているのだろう。
気持ちを切り替えるように息を吐いて、大宮の自転車から自分の自転車へと手を移し、スタンドを蹴り上げる。
自分の区画から出した自転車を押して駐輪場内を歩きながら、校門へと向かう。その途中で、葉山はふと足を止めた。
何か気配を感じた気がして振り返ると、駐輪ポートの柱の影に身を寄せるようにして立っている人影が目に入った。
「え……大宮?」
咄嗟の印象だけで思わず声をかけてから、葉山はうっすら白く曇る眼鏡レンズの奥で目を眇めて、改めてその人物の顔を確かめた。屋根に取り付けられている照明の明かりも届きにくい薄暗い場所だが、間違いない。
大宮は驚いたように目を瞬かせ、少し居心地悪そうに葉山を見返した。その視線はまっすぐではなく、どこか微妙に逸れている。
「なにしてんの、そんなとこで」
葉山が尋ねると、ようやく大宮はおずおずと、柱の影から一歩前へ進み出てきた。
「あ、あの、驚かせてごめん……ちょうど、タイミング被って……。葉山が自転車出すのに、邪魔になるかなって、ちょっとよけてた……」
大宮は小さな声でそう言い終えると、急にハッとして口もとを押さえ、俯いて震えた。まずいことを口走ってしまったと自分で気づいたかのように。
そんな反応の理由が分からなくて、葉山は首を傾げた。
「あぁ、そう……ごめんな待たせて」
困惑しつつも大宮を気遣いながら口にしたはずの言葉も、響きは意図せず淡々としたものになる。
たぶん表情も上手く作れていない。というより、そもそも葉山は表情の作り方など知らない。
「そ、そんな……それは、全然……」
大宮の途切れがちな声は、もう消え入りそうだった。
(なんだこれ。いつも以上にびくびくして……)
これでは自分が怯えさせているみたいだ、と葉山は複雑な気持ちになった。
微妙な空気をどうにかしたくて、焦りながら取り繕うように言葉を探して、口を開く。できるだけ口調を優しく、怖がらせないように……、だけど表情の乏しい自分が話しかけ続けても、もしかして逆効果か……などと、話しかける内容そのものよりも、そんなことにばかり気を取られながら――
「大宮って、毎日帰り遅いよな。俺が部活終わって帰る時も、いつも自転車あるし、」
言葉を紡いている最中に、大宮が驚いたように顔を上げた。直後、その顔が真っ赤になって、大きく見開かれた目が、みるみるうちに潤んでいく。
そして、葉山は自分の失敗に気づかされた。
(しまった……今の……)
同時に、今の自分と同じく先ほど大宮が失言していたことにも思い至り、彼の様子が急におかしくなったことに、今更ながら納得がいった。
自分も大宮も、動揺のあまり咄嗟に、自分たちの自転車が隣同士に並んでいることを前提に、話してしまっていた。
せっかく今までずっと、あのハンドルを重ねてくる銀色の自転車が大宮のものだと気づきながら、あえて知らないふりで何も言わずにきたというのに。
焦りが込み上げて言葉が出なくなって、一瞬の沈黙ののちに先に口を開いたのは、意外にも大宮の方だった。
「もしかして、葉山……俺の自転車の場所、前から知ってた……?」
大宮は、もう今にも泣き出しそうだ。
こんな状態の大宮に尋ねられながら、それに返事をしないわけにもいかず、葉山は観念して口を開いた。
「俺の、左隣……」
ぼそっと呟いて答え、背後を振り返って大宮の銀色の自転車に視線をやった。
そこから見える景色に、はっとした。
屋根に取り付けられている照明に照らされた駐輪区画まで、視線を遮るものはない。
大宮が身を潜めていた場所からも、角度からして、いま葉山が見ているのとほぼ同じ視界が得られるだろう。先ほどまで停められていたターコイズブルーの自転車は、よく見えていたはずだ。もちろんその隣の、葉山が優しく触れた、大宮の自転車も。
(うわ……これって……)
葉山は無言で思考を巡らせた。
大宮は葉山が自転車を触っていた瞬間を目撃していたのかもしれない。
いや、自分の背中に隠れて、手元までは見えなかったかも――
声をかけた時の、あの微妙に逸れていた視線を思い出す。振り返ってみれば、あの時の大宮の目は、見ていたものを知られまいと隠す様子ではなかったか。それとも単に、自分の重ねたハンドルを葉山が退かしているところを見てしまったことへの、罰の悪さの表れだったのか。
(どっちだ……見られた? 見られてない?)
もし見られていたのだとしたら、大宮は……気持ちに応えてもらえるかもしれないと、期待を持ってしまっただろうか。
そうだとしたら、なんと答えればいい?
あのハンドルを重ねる無言の合図を、いじらしいとは思っているけれど――
「あの……お、俺、自転車取りに行くね……」
答えは出せないまま、葉山は大宮の声で、再び彼の方に向き直った。
(あぁ、どうしよ、こいつかなり無理してる……)
大宮は泣きそうな顔で、弱々しい笑みを浮かべていた。
「なんかごめん、葉山帰るとこだったのに、足止めさせるみたいになっちゃって……。もう行って……」
そう言って、大宮は葉山に背を向けた。
告げられた言葉が、葉山の胸の奥にひっかかった。
その言葉に従えば、彼を置き去りにしてしまうことになる――そんな感覚がある。
どこか頼りなげで、けれど一途さを感じさせるような大宮の背中に、手を添えて支えてやりたいという気持ちが葉山の中に湧き上がった。
なのに、そこから先はどこに向かっていくべきなのか、その先に踏み出すべき一歩が分からなくて、そうしてやることができない。彼の背中に手を伸ばすことができず、ただ見つめている自分が歯がゆい。
このままこの場に留まったとしても、大宮になんと声をかけたらいいのか。その言葉を見つけられずに、葉山は黙ったまま駐輪場を後にするしかなかった。
そして葉山は、その場を離れてしまった後で、胸の内がひやりと冷たくなっていくのを感じて、あぁこれは後悔だ、と自覚した。