カメラにストロボ、レフ板やライト。機材の合間を縫うように動きながら、次々に飛んでくる先輩の指示をこなしていく。
大学を卒業して、カメラスタジオにアシスタントとして就職した。始まったばかりの新しい日々は、目まぐるしいほどに忙しい。でもそれが不思議と清々しい。
やりがいを噛みしめる時、いつだってオレはあの冬を思い出す。
“拝啓 遠い海で出逢った少年へ。
君はどんな今を過ごしていますか。
オレは……一歩踏み出せたばかりの夢の道で、あちこち駆け回っています”
あれは、大学二年の冬のことだった。
簡単に荷造りをしたリュックサックと、手にはカメラをひとつ。東京から遠く離れた、海のある町。旅行先にこの地を選んだ恋人はもう隣にいない、ひとり旅。バスの窓に映る景色はどこまでも新鮮なのに、ぽっかりと穴の空いた心にはどうにも重たかった。
耳馴染みのないイントネーションのアナウンスが、ここで終点だと海辺でオレを吐き出した。吹きすさぶ風がモッズコートを突き抜けてくる。寒いね、と共感しあう相手もいないから、深く吸った息をただただ持て余した。
さて、どうしようか。新幹線を下りた駅で、適当なバスに飛び乗っただけだった。
目の前にはだだっ広い海と、誰もいない砂浜。とりあえず、とシャッターを押してみる。モノクロフィルムで撮ったかと錯覚するような、色のない写真。味気ないな、と思ったのは、だが一瞬のことだった。空っぽの心の底で、ふつりとひとつの泡が上がる。その感覚を直視するのに躊躇って、首をちいさく横に振った。
ここで突っ立っていても仕方ない。海沿いを少し歩くと、砂浜へと下りる階段が設けられていた。ほんの数段のそれを下りたオレは、びくりと肩を跳ね上げる。誰もいないと思ったそこに、先客がいたからだ。
階段を下り切ったところ、上からは見えなかった死角に、膝を抱いて顔を突っ伏している、男の背中。肩が少し震えているようだ。ただならぬ様子に、呼吸音さえ漏らしてはならない気がしてくる。
そろそろと片手で口を押え、階段をゆっくり後ずさる。だが、コンクリートに散らばる砂粒を靴底ですりつぶしてしまった。じゃり、と嫌な音が立つ。頭を抱えつつ、気づかれていませんように……と願いながら、恐る恐る人影のほうへと目を向ける。祈りも虚しく視線がぶつかり、オレは静かに息を呑んだ。男がぐしゃぐしゃに泣いていて、それから――とびきりうつくしい顔をしていたから。
「こ、こんにちは……」
「…………」
つい挨拶をすると、無言で顔を逸らされてしまった。そりゃそうだろう、こんな寒い冬の海で、ひとり影に隠れて泣いているのだ。余程のことがあったに違いない。ネイビーのコートの下に見えるのは学ラン。おそらく高校生であろう彼を、これほど悲しませるような出来事が。
どうしたものかと考えて、彼がいるのとは反対側の、階段の端っこに腰を下ろした。
去っていった彼女は、オレのこういうところが嫌になったのかもしれない。優しさが押しつけがましい、なんて言葉はさすがに堪えたけれど。確かになぁ、と自嘲が漏れる。
「なぁ、タオルとティッシュ、どっちがいい?」
「……は?」
「うーん、他人のタオルって嫌か。いやもちろん洗ってあるけどさ。はい、ティッシュあげる。駅前でもらったばっかの新品」
「いや、別にいいっす」
「えー。じゃあ今使わなくてもいいからさ。オレがあげたいの、な?」
「……じゃあ、もらいます。どうも」
渋々といったように受け取ったそれを、けれど彼は一枚取り出して顔を拭った。
ひっそりと安堵していると、立ち上がった彼は階段に腰を下ろした。オレとは反対の端っこに。
「この辺の人っすか?」
「オレ? いや、旅行で来てるよ」
「どこから?」
「東京」
「東京……都会からこんな何もないとこ来て、おもしろい?」
「はは、今日着いたばっかだしこれからかな」
「ふーん……」
会話が途絶え、波の音だけが響く。沈黙の気まずさは、目が合った瞬間に比べればどうってことはない。急いで立ち去る気にもなれずぼんやりと海を眺めていると、風に攫われてしまいそうな、か細い声が耳に届いた。
「……んで」
「え?」
「なんで泣いてんの、って聞かないんすか」
「…………」
「……あー、いや、今のは違くて」
つい零してしまった、という風だが、どこか縋られているようにオレには聞こえた。本音であろうそれを、必死に誤魔化そうとしているのが見ていられない。心を痛めている彼に、通りすがりの自分相手にまでそんな顔をさせたくなかった。
「聞いていいんなら聞く。何があったんだ?」
「…………」
「ほら、オレは旅人だし。なに聞いたって全部持って帰るからさ。話し相手にうってつけじゃない?」
「……迷惑じゃないっすか」
「全然」
「……じゃあ、聞いてほしいっす」
その返事に、オレは彼とのすき間を少し詰めた。海のリズムより、風の気まぐれより、彼の心をいちばんに拾えるように。
「好きなヤツがいるんです」
「うん」
「親友で……いつの間にか、そういう意味で好きになってて。『付き合ってみる?』って、向こうから言ってくれたんすよ。すげー嬉しくて、毎日がもっと楽しくなった。でも……最近よそよそしいなって思ってたら、昨日、女子と手を繋いでるとこに鉢合わせしちゃって。『俺たちやっぱり友だちでいよう』って……今朝、連絡がありました」
「それは辛いな」
「ちょっと間違っただけ、みたいな、まるで巻き戻してなかったことに出来る、みたいな言い方にすげー腹立ったのに……まだ好きな自分もムカつく。今更友だちに戻れるわけねーじゃん」
「……うん」
ぐすっと鼻を啜って、彼は灰色の空を仰ぐ。かっこわりー、とぐずぐずに崩れた声が、あまりに哀愁に満ちていて。共鳴するように、オレの胸にも熱いものがこみ上げはじめる。
「えー……なんでおにーさんも泣いてんの」
「あー、はは、ごめん。ちょっと……君の気持ちが分かるんだよね」
「…………?」
「最近フラれたんだ、オレも」
「……マジっすか」
「マジマジ。ここに来るって決めたのも、ホテル予約してくれたのも彼女でさ。キャンセルしても良かったんだけどなぁ」
「……まだ好き?」
「……ん、好き。あーあ、かっこわりぃ~」
上手くいっていると思っていたのに、それはオレだけだったらしい。彼女は一体いつから、不満を降り積もらせていたのだろう。ごめん、とどれだけ伝えても、過去の彼女までは届かない。オレの中で、全ての想い出が色鮮やかでも。
強い意志で首を横に振る彼女を見て、関係の修復は無理だとようやく気づいた。何もかもが遅かったのだ。
つい自分のことを話してしまった。だが似た傷を見せ合ったことで、心が少し近づいたような感覚がしている。
「なぁ、付き合ってる時ってさ、この先ずっと一緒にいるんだって思ってなかった?」
「っ、思ってた」
「だよな、オレも。死ぬまで一緒で、絶対幸せなんだって思ってた」
「……うん」
「なのに……相手の中では違ったんだよな。一緒に笑ってたのになぁ……あー、また泣けてきた」
「はい、ティッシュ」
「はは、さんきゅ」
さっきあげたティッシュが一枚、オレの手に返ってくる。ありがたくそれで涙を拭って、同じようにしている少年を横目に、首に提げていたカメラを海に向けてみる。シャッターを押すと、やはり色のない寂しい風景が切り取られる。傷心旅行によく似合う写真だと思う、思うのに――ふと胸を過ぎるのは、違和感だった。
いつかのオレが、この海を振り返る時。そこにあるのはきっと感傷だけじゃない、そんな気がしているからだ。
「ねぇ、君の写真撮ってもいい?」
「え、俺っすか?」
「うん」
足りないのはこの少年だとすぐに分かった。この旅を思い出す時は、彼の姿が一緒に思い浮かぶに決まっているから。
だがもちろん、彼からは想像どおりの反応が返ってくる。
「えー……泣いたばっかの顔っすよ?」
「う……やっぱ嫌だよな。うん、変なこと言ってごめん」
「……誰にも見せないなら、まぁ」
「え……えっ、いいの?」
「SNSもなしで」
「っ、もちろん! 約束する!」
まさかの展開に、オレは大いに驚いた。彼に深く感謝しながら、カメラは意識しないでいいからと告げる。それがいちばん難しいよ、と苦笑いしつつ、彼は海を瞳に写しながら鼻をひとつ啜った。
どう撮っても美しい少年を被写体に、オレは夢中になった。まずは、座ったままの位置から見える横顔。海も一緒にフレームに収めたくて、立ち上がって斜め後ろから。砂浜に下りて、正面からもシャッターを切る。
湿気た砂が靴の裏でぎゅうぎゅうと鳴いていて、ああ、この海はオレたちに共鳴してくれているのかもと、そんなことを思った時。レンズ越しの彼が、肩を揺らしながらくすりと笑ったのが見えた。
「撮りすぎじゃないっすか」
「……え?」
「もう何十枚とかになってません?」
「あ……はは、ほんとだ」
その笑顔にも抜かりなくシャッターを押してから、彼の隣へと戻る。確かめてみると、彼の言うとおり膨大な枚数を撮っていたことに気づく。
こんな日が来るとはなと、今度はオレの口元が緩む。
「……やっぱカメラ好きだなぁ」
「やっぱ?」
「高校生の時にバイトして、これ買ったんだけどさ。風景専門だったのが、彼女と付き合うようになって、人物も撮るようになって。でも別れてからはもうぱったりでさ、風景も滅多に撮らなくなってた。特に、人物は二度とないかなって」
「……うん」
「カメラそのものに彼女との思い出も染みついてる気がして、自分の気持ちを直視出来てなかったんだよな。でもやっぱ、撮るの好きだわ。君に出逢わなかったら、撮ってもいいって言ってくれなかったら、きっと気づけなかった。ありがとな」
「……いや、俺はなんも」
それからオレたちは、元恋人との想い出をひとしきり語り合った。フラれてしまったのだから、愚痴のひとつやふたつ出てきそうなものなのに。オレも少年も、楽しかったことだけ。それしかオレたちの中には残っていなかった。胸が狭くなるような苦しい想いは、終わりだけ。
彼と話していると、不思議なこともあるものだな、とふと思う。彼女との別れをよかったなんて微塵も感じない、今も付き合えていたならそれがいいに決まっている。だが一方で、こうも思うのだ。
体が引き裂かれるような悲しみの先にしか、この今はなかったのだな、と。運命と呼ぶのはくすぐったくても、例えばそう、巡り合わせなんて言って、大切にしたいこの出逢いは絶対になかった。
そしてきっと、オレの胸に“夢”が還ることもなかったはずだ。
「なあ、歳いくつ? オレは21。大学三年生」
「16、高1っす」
「高1かぁ。若いな」
「大して変わんないじゃないすか」
「うん、オレもそう思う。ハタチ過ぎても全然、想像してたみたいな大人になんてなれてないから。でもさ、やっぱこの歳になると、この先のこととか色々考えるようになるんだよな」
「就職とか?」
「うん。オレなりに将来の設計図、みたいなのは一応、出来上がってて。でも……それは彼女ありきだったから。考え直さなきゃな、って」
カメラを仕事に出来たらな、との淡い想いが、高校生の頃からずっとあった。でも彼女と出逢って、趣味でいいと思うようになった。後ろ向きなものじゃなくて、将来を真剣に考えた結果だ。安定した職に就いて、きっといつか結婚して。それでもカメラは必ずそばにある。それでいい、それがオレの望む人生なのだと、本気で思っていた。
でも彼女は去ってしまった。設計図も白紙に戻った。今はやり直す時、オレの人生をもう一度、オレの手で書き換える時なのだ。
「人生やり直し! もう1回夢みてみることに決めた、今決めた!」
「……夢」
「うん。カメラを仕事にしたい。君を撮らせてもらって、決心した。はは、オレ全然諦められてなかったらしい。君に逢えてよかったよ。本当にありがとう」
「責任重大すぎません? 俺」
「そうかもな。そう簡単になれるもんじゃないだろうしなぁ、苦労するかも」
「う……」
「はは。それでも全然構わないくらい、感謝しかないんだよ、オレは」
「…………」
どこか気まずそうな顔をして、少年は唇を瞬かせた。頬にはほんの少し赤が差している。何か言おうとしているようで、それをゆっくり聞いていたかったのに。
タイムリミットを告げるかのように、ちいさな雨粒が頬に落ちてきた。
「うわ、雨降ってきたな。ちょっと待って、オレ折りたたみ傘持ってる」
「俺は大丈夫っす。これ多分すぐ止むやつだし、そろそろ帰ります」
「あ、そう?」
「……ふ」
「え、なんで今笑ったの?」
「いや」
「オレの顔見て笑ったじゃん!」
「さみしそうにするから、つい?」
「…………」
恥ずかしながら図星で、オレは閉口するしかない。じとりとした目を向けるとそれも笑いながら、彼は立ち上がった。階段をゆったりと上がる足に、同じリズムでついていく。
「オレも良かったなって思ってます」
「ん? なにが?」
「ひとりだったら多分、雨が降ったくらいで帰ろうと思わなかっただろうし。それで風邪ひいて、でもそのくらいお前が好きなんだぞって、アイツに言えもしないのに意地張ってたかも」
「うわー、分かる。オレもやりそう」
「はは。だから良かったです、俺もおにーさんに逢えて」
「……マジ?」
「マジっす」
「それは嬉しいな」
歩道へと出て、向かい合う。それじゃあね、と手を振る気に中々なれないオレに、彼が言葉を続ける。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「俺、まだ全然立ち直れそうにないけど……前を向ける気がしてます」
「おお、そうなんだ」
「そうなんだ、って。それもおにーさんのおかげっすよ」
「え、そうなの?」
「うん。最初はマジかよって思ったけど、なんかすげー楽しかったし。ワクワクしたの今も残ってる」
「うん……え、なにが?」
彼との時間は、オレにとって宝物みたいだった。だがそれを彼が振り返って、楽しかったと言えるような何かがあっただろうか。
首を傾げるオレに、彼は少し顎を上げて勝ち気に微笑む。どうしたって美しいのだが、その仕草は年相応に無邪気に見えて、オレは思わずシャッターを切った。
「あ、また撮った」
「ごめん、つい」
「全然いいっすよ」
「ありがとう。えっとそれで、なにが楽しかった?」
「それは……内緒です」
「え、そんなのあり? 気になるじゃん!」
「じゃあ、ずっと気にしててください」
「いつまで?」
「さあ」
「さあって……」
「責任重大ってことっすよ、おにーさんも」
「え? えーなに!? マジで全然わからん!」
「ははっ!」
解けそうにない謎をオレに残し、大きな口で笑いながら、彼は少しずつ後ずさる。
ああ、本当にお別れだ。名残惜しくて、でも引き止めるわけにもいかなくて。それでもオレは、必死に声を張り上げる。
「なー! 名前! 名前聞くの忘れてた!」
「俺はカナタって言います、カナタ!」
「カナタくんな! 覚えたー!」
「おにーさんはー?」
「オレはー! 恵ー!」
「恵さん! またねー!」
「ふ、またって……おー! またなー!」
連絡先も交換していないのに、また会えるかのように言う彼につい笑ってしまった。笑えるのに、鼻の奥がツンと痛む。それを誤魔化しながら、オレはまたレンズを彼へと向けた。
降り続ける小粒の雨がキラキラと輝いている。雲のすき間から細く射す太陽はまるで、彼だけを照らすスポットライトのようだった。
大学を卒業して、カメラスタジオにアシスタントとして就職した。始まったばかりの新しい日々は、目まぐるしいほどに忙しい。でもそれが不思議と清々しい。
やりがいを噛みしめる時、いつだってオレはあの冬を思い出す。
“拝啓 遠い海で出逢った少年へ。
君はどんな今を過ごしていますか。
オレは……一歩踏み出せたばかりの夢の道で、あちこち駆け回っています”
あれは、大学二年の冬のことだった。
簡単に荷造りをしたリュックサックと、手にはカメラをひとつ。東京から遠く離れた、海のある町。旅行先にこの地を選んだ恋人はもう隣にいない、ひとり旅。バスの窓に映る景色はどこまでも新鮮なのに、ぽっかりと穴の空いた心にはどうにも重たかった。
耳馴染みのないイントネーションのアナウンスが、ここで終点だと海辺でオレを吐き出した。吹きすさぶ風がモッズコートを突き抜けてくる。寒いね、と共感しあう相手もいないから、深く吸った息をただただ持て余した。
さて、どうしようか。新幹線を下りた駅で、適当なバスに飛び乗っただけだった。
目の前にはだだっ広い海と、誰もいない砂浜。とりあえず、とシャッターを押してみる。モノクロフィルムで撮ったかと錯覚するような、色のない写真。味気ないな、と思ったのは、だが一瞬のことだった。空っぽの心の底で、ふつりとひとつの泡が上がる。その感覚を直視するのに躊躇って、首をちいさく横に振った。
ここで突っ立っていても仕方ない。海沿いを少し歩くと、砂浜へと下りる階段が設けられていた。ほんの数段のそれを下りたオレは、びくりと肩を跳ね上げる。誰もいないと思ったそこに、先客がいたからだ。
階段を下り切ったところ、上からは見えなかった死角に、膝を抱いて顔を突っ伏している、男の背中。肩が少し震えているようだ。ただならぬ様子に、呼吸音さえ漏らしてはならない気がしてくる。
そろそろと片手で口を押え、階段をゆっくり後ずさる。だが、コンクリートに散らばる砂粒を靴底ですりつぶしてしまった。じゃり、と嫌な音が立つ。頭を抱えつつ、気づかれていませんように……と願いながら、恐る恐る人影のほうへと目を向ける。祈りも虚しく視線がぶつかり、オレは静かに息を呑んだ。男がぐしゃぐしゃに泣いていて、それから――とびきりうつくしい顔をしていたから。
「こ、こんにちは……」
「…………」
つい挨拶をすると、無言で顔を逸らされてしまった。そりゃそうだろう、こんな寒い冬の海で、ひとり影に隠れて泣いているのだ。余程のことがあったに違いない。ネイビーのコートの下に見えるのは学ラン。おそらく高校生であろう彼を、これほど悲しませるような出来事が。
どうしたものかと考えて、彼がいるのとは反対側の、階段の端っこに腰を下ろした。
去っていった彼女は、オレのこういうところが嫌になったのかもしれない。優しさが押しつけがましい、なんて言葉はさすがに堪えたけれど。確かになぁ、と自嘲が漏れる。
「なぁ、タオルとティッシュ、どっちがいい?」
「……は?」
「うーん、他人のタオルって嫌か。いやもちろん洗ってあるけどさ。はい、ティッシュあげる。駅前でもらったばっかの新品」
「いや、別にいいっす」
「えー。じゃあ今使わなくてもいいからさ。オレがあげたいの、な?」
「……じゃあ、もらいます。どうも」
渋々といったように受け取ったそれを、けれど彼は一枚取り出して顔を拭った。
ひっそりと安堵していると、立ち上がった彼は階段に腰を下ろした。オレとは反対の端っこに。
「この辺の人っすか?」
「オレ? いや、旅行で来てるよ」
「どこから?」
「東京」
「東京……都会からこんな何もないとこ来て、おもしろい?」
「はは、今日着いたばっかだしこれからかな」
「ふーん……」
会話が途絶え、波の音だけが響く。沈黙の気まずさは、目が合った瞬間に比べればどうってことはない。急いで立ち去る気にもなれずぼんやりと海を眺めていると、風に攫われてしまいそうな、か細い声が耳に届いた。
「……んで」
「え?」
「なんで泣いてんの、って聞かないんすか」
「…………」
「……あー、いや、今のは違くて」
つい零してしまった、という風だが、どこか縋られているようにオレには聞こえた。本音であろうそれを、必死に誤魔化そうとしているのが見ていられない。心を痛めている彼に、通りすがりの自分相手にまでそんな顔をさせたくなかった。
「聞いていいんなら聞く。何があったんだ?」
「…………」
「ほら、オレは旅人だし。なに聞いたって全部持って帰るからさ。話し相手にうってつけじゃない?」
「……迷惑じゃないっすか」
「全然」
「……じゃあ、聞いてほしいっす」
その返事に、オレは彼とのすき間を少し詰めた。海のリズムより、風の気まぐれより、彼の心をいちばんに拾えるように。
「好きなヤツがいるんです」
「うん」
「親友で……いつの間にか、そういう意味で好きになってて。『付き合ってみる?』って、向こうから言ってくれたんすよ。すげー嬉しくて、毎日がもっと楽しくなった。でも……最近よそよそしいなって思ってたら、昨日、女子と手を繋いでるとこに鉢合わせしちゃって。『俺たちやっぱり友だちでいよう』って……今朝、連絡がありました」
「それは辛いな」
「ちょっと間違っただけ、みたいな、まるで巻き戻してなかったことに出来る、みたいな言い方にすげー腹立ったのに……まだ好きな自分もムカつく。今更友だちに戻れるわけねーじゃん」
「……うん」
ぐすっと鼻を啜って、彼は灰色の空を仰ぐ。かっこわりー、とぐずぐずに崩れた声が、あまりに哀愁に満ちていて。共鳴するように、オレの胸にも熱いものがこみ上げはじめる。
「えー……なんでおにーさんも泣いてんの」
「あー、はは、ごめん。ちょっと……君の気持ちが分かるんだよね」
「…………?」
「最近フラれたんだ、オレも」
「……マジっすか」
「マジマジ。ここに来るって決めたのも、ホテル予約してくれたのも彼女でさ。キャンセルしても良かったんだけどなぁ」
「……まだ好き?」
「……ん、好き。あーあ、かっこわりぃ~」
上手くいっていると思っていたのに、それはオレだけだったらしい。彼女は一体いつから、不満を降り積もらせていたのだろう。ごめん、とどれだけ伝えても、過去の彼女までは届かない。オレの中で、全ての想い出が色鮮やかでも。
強い意志で首を横に振る彼女を見て、関係の修復は無理だとようやく気づいた。何もかもが遅かったのだ。
つい自分のことを話してしまった。だが似た傷を見せ合ったことで、心が少し近づいたような感覚がしている。
「なぁ、付き合ってる時ってさ、この先ずっと一緒にいるんだって思ってなかった?」
「っ、思ってた」
「だよな、オレも。死ぬまで一緒で、絶対幸せなんだって思ってた」
「……うん」
「なのに……相手の中では違ったんだよな。一緒に笑ってたのになぁ……あー、また泣けてきた」
「はい、ティッシュ」
「はは、さんきゅ」
さっきあげたティッシュが一枚、オレの手に返ってくる。ありがたくそれで涙を拭って、同じようにしている少年を横目に、首に提げていたカメラを海に向けてみる。シャッターを押すと、やはり色のない寂しい風景が切り取られる。傷心旅行によく似合う写真だと思う、思うのに――ふと胸を過ぎるのは、違和感だった。
いつかのオレが、この海を振り返る時。そこにあるのはきっと感傷だけじゃない、そんな気がしているからだ。
「ねぇ、君の写真撮ってもいい?」
「え、俺っすか?」
「うん」
足りないのはこの少年だとすぐに分かった。この旅を思い出す時は、彼の姿が一緒に思い浮かぶに決まっているから。
だがもちろん、彼からは想像どおりの反応が返ってくる。
「えー……泣いたばっかの顔っすよ?」
「う……やっぱ嫌だよな。うん、変なこと言ってごめん」
「……誰にも見せないなら、まぁ」
「え……えっ、いいの?」
「SNSもなしで」
「っ、もちろん! 約束する!」
まさかの展開に、オレは大いに驚いた。彼に深く感謝しながら、カメラは意識しないでいいからと告げる。それがいちばん難しいよ、と苦笑いしつつ、彼は海を瞳に写しながら鼻をひとつ啜った。
どう撮っても美しい少年を被写体に、オレは夢中になった。まずは、座ったままの位置から見える横顔。海も一緒にフレームに収めたくて、立ち上がって斜め後ろから。砂浜に下りて、正面からもシャッターを切る。
湿気た砂が靴の裏でぎゅうぎゅうと鳴いていて、ああ、この海はオレたちに共鳴してくれているのかもと、そんなことを思った時。レンズ越しの彼が、肩を揺らしながらくすりと笑ったのが見えた。
「撮りすぎじゃないっすか」
「……え?」
「もう何十枚とかになってません?」
「あ……はは、ほんとだ」
その笑顔にも抜かりなくシャッターを押してから、彼の隣へと戻る。確かめてみると、彼の言うとおり膨大な枚数を撮っていたことに気づく。
こんな日が来るとはなと、今度はオレの口元が緩む。
「……やっぱカメラ好きだなぁ」
「やっぱ?」
「高校生の時にバイトして、これ買ったんだけどさ。風景専門だったのが、彼女と付き合うようになって、人物も撮るようになって。でも別れてからはもうぱったりでさ、風景も滅多に撮らなくなってた。特に、人物は二度とないかなって」
「……うん」
「カメラそのものに彼女との思い出も染みついてる気がして、自分の気持ちを直視出来てなかったんだよな。でもやっぱ、撮るの好きだわ。君に出逢わなかったら、撮ってもいいって言ってくれなかったら、きっと気づけなかった。ありがとな」
「……いや、俺はなんも」
それからオレたちは、元恋人との想い出をひとしきり語り合った。フラれてしまったのだから、愚痴のひとつやふたつ出てきそうなものなのに。オレも少年も、楽しかったことだけ。それしかオレたちの中には残っていなかった。胸が狭くなるような苦しい想いは、終わりだけ。
彼と話していると、不思議なこともあるものだな、とふと思う。彼女との別れをよかったなんて微塵も感じない、今も付き合えていたならそれがいいに決まっている。だが一方で、こうも思うのだ。
体が引き裂かれるような悲しみの先にしか、この今はなかったのだな、と。運命と呼ぶのはくすぐったくても、例えばそう、巡り合わせなんて言って、大切にしたいこの出逢いは絶対になかった。
そしてきっと、オレの胸に“夢”が還ることもなかったはずだ。
「なあ、歳いくつ? オレは21。大学三年生」
「16、高1っす」
「高1かぁ。若いな」
「大して変わんないじゃないすか」
「うん、オレもそう思う。ハタチ過ぎても全然、想像してたみたいな大人になんてなれてないから。でもさ、やっぱこの歳になると、この先のこととか色々考えるようになるんだよな」
「就職とか?」
「うん。オレなりに将来の設計図、みたいなのは一応、出来上がってて。でも……それは彼女ありきだったから。考え直さなきゃな、って」
カメラを仕事に出来たらな、との淡い想いが、高校生の頃からずっとあった。でも彼女と出逢って、趣味でいいと思うようになった。後ろ向きなものじゃなくて、将来を真剣に考えた結果だ。安定した職に就いて、きっといつか結婚して。それでもカメラは必ずそばにある。それでいい、それがオレの望む人生なのだと、本気で思っていた。
でも彼女は去ってしまった。設計図も白紙に戻った。今はやり直す時、オレの人生をもう一度、オレの手で書き換える時なのだ。
「人生やり直し! もう1回夢みてみることに決めた、今決めた!」
「……夢」
「うん。カメラを仕事にしたい。君を撮らせてもらって、決心した。はは、オレ全然諦められてなかったらしい。君に逢えてよかったよ。本当にありがとう」
「責任重大すぎません? 俺」
「そうかもな。そう簡単になれるもんじゃないだろうしなぁ、苦労するかも」
「う……」
「はは。それでも全然構わないくらい、感謝しかないんだよ、オレは」
「…………」
どこか気まずそうな顔をして、少年は唇を瞬かせた。頬にはほんの少し赤が差している。何か言おうとしているようで、それをゆっくり聞いていたかったのに。
タイムリミットを告げるかのように、ちいさな雨粒が頬に落ちてきた。
「うわ、雨降ってきたな。ちょっと待って、オレ折りたたみ傘持ってる」
「俺は大丈夫っす。これ多分すぐ止むやつだし、そろそろ帰ります」
「あ、そう?」
「……ふ」
「え、なんで今笑ったの?」
「いや」
「オレの顔見て笑ったじゃん!」
「さみしそうにするから、つい?」
「…………」
恥ずかしながら図星で、オレは閉口するしかない。じとりとした目を向けるとそれも笑いながら、彼は立ち上がった。階段をゆったりと上がる足に、同じリズムでついていく。
「オレも良かったなって思ってます」
「ん? なにが?」
「ひとりだったら多分、雨が降ったくらいで帰ろうと思わなかっただろうし。それで風邪ひいて、でもそのくらいお前が好きなんだぞって、アイツに言えもしないのに意地張ってたかも」
「うわー、分かる。オレもやりそう」
「はは。だから良かったです、俺もおにーさんに逢えて」
「……マジ?」
「マジっす」
「それは嬉しいな」
歩道へと出て、向かい合う。それじゃあね、と手を振る気に中々なれないオレに、彼が言葉を続ける。
「ありがとうございました」
「こちらこそ」
「俺、まだ全然立ち直れそうにないけど……前を向ける気がしてます」
「おお、そうなんだ」
「そうなんだ、って。それもおにーさんのおかげっすよ」
「え、そうなの?」
「うん。最初はマジかよって思ったけど、なんかすげー楽しかったし。ワクワクしたの今も残ってる」
「うん……え、なにが?」
彼との時間は、オレにとって宝物みたいだった。だがそれを彼が振り返って、楽しかったと言えるような何かがあっただろうか。
首を傾げるオレに、彼は少し顎を上げて勝ち気に微笑む。どうしたって美しいのだが、その仕草は年相応に無邪気に見えて、オレは思わずシャッターを切った。
「あ、また撮った」
「ごめん、つい」
「全然いいっすよ」
「ありがとう。えっとそれで、なにが楽しかった?」
「それは……内緒です」
「え、そんなのあり? 気になるじゃん!」
「じゃあ、ずっと気にしててください」
「いつまで?」
「さあ」
「さあって……」
「責任重大ってことっすよ、おにーさんも」
「え? えーなに!? マジで全然わからん!」
「ははっ!」
解けそうにない謎をオレに残し、大きな口で笑いながら、彼は少しずつ後ずさる。
ああ、本当にお別れだ。名残惜しくて、でも引き止めるわけにもいかなくて。それでもオレは、必死に声を張り上げる。
「なー! 名前! 名前聞くの忘れてた!」
「俺はカナタって言います、カナタ!」
「カナタくんな! 覚えたー!」
「おにーさんはー?」
「オレはー! 恵ー!」
「恵さん! またねー!」
「ふ、またって……おー! またなー!」
連絡先も交換していないのに、また会えるかのように言う彼につい笑ってしまった。笑えるのに、鼻の奥がツンと痛む。それを誤魔化しながら、オレはまたレンズを彼へと向けた。
降り続ける小粒の雨がキラキラと輝いている。雲のすき間から細く射す太陽はまるで、彼だけを照らすスポットライトのようだった。