ぴちょん、と雫が水たまりに落ちる音が聞こえる。
身体中がギシギシと悲鳴を上げる感覚に意識が徐々に覚醒する。辺りは目を凝らせば辛うじて数歩先が見える程度の薄暗さで、どこにいるのかは検討も付かない。
身じろぎしようと肩を動かして思うように身体が動かない事に気付いた。動こうとすれば頭の上でギィと何かが軋む。重たい首を動かすと、麻縄で手首を縛られた自分の腕が見えた。

「え……?」

目を点にした誉は縛られた手首を凝視した。ギッという音が足元からも聞こえて目線を下ろすと、ご丁寧に足首にも縄が硬く結ばれている。

「どういう状況……?」
「誉ってホントいちいち反応が面白いよね」

そんな声が響いて、遠くからぼわっと灯ったオレンジ色の光が近付いてくる。そのお陰で自分がまた格子の奥に閉じ込められているのが分かった。
火のついた蝋燭を片手に歩み寄るその人物に、誉は息を飲んだ。

「雲居、さん……?」
「はーい、雲居さんです」

もうおちゃらけた口調に親しみは感じなかった。震える喉で静かに尋ねる。

「雲居さんが、私を攫ったんですか」
「うん、そう。見られてたのは気付いてたんだけど無害だと思って放っておいたら、まさかこんな事になるなんてね」

雲居は壁の燭台の蝋燭に一つ一つ火をつけた。ぼんやりと部屋の中が映し出される。壁と思っていたそこはつるりとした岩肌だった。どうやら洞窟のような場所に連れてこられたらしい。
格子の扉を押し開けて中へ入ってきた雲居。距離を取ろうと慌てて身じろぐも、繋がれた縄が音を立てるだけだった。

「ごめんねぇ、まだ毒も抜けきってない身体なのにこんなとこに縛って」
「わ、悪いと思うなら解いてください!」
「それはできない」

ぐ、と誉は言葉を詰まらせた。雲居が誉の前にしゃがみ込んだ。

「誉には天慶を誘き寄せる餌になってもらう」

え、餌?と聞き返した。

「誉、依代の明があるんだってね? 天慶が死ぬのを確認してから去ろうと思って裏から見てたら、予想外の展開が始まってびっくりしたよ」

こいつは人の心がないのか、と誉は愕然とした。いや、人ではなく妖だから元々人の心はないのだけれど。

「あいつは義理堅いからね。自分を助けた女の子が攫われたとなったら必ず助けにくる。助けに来たところを殺す」

細い目を弓形にしていつも通りに楽しげな顔でそう告げた雲居に誉は言葉を失った。

どうして……だって二人は友人だったんじゃなかったの? あの気難しい顔がデフォルトの天慶が、雲居さんと話すときは柔らかい表情を浮かべていた。雲居さんだって天慶と楽しそうに話していたじゃないか。盗み聞きした二人の会話から、長い時間を共に過ごしてきたことは分かった。その日々も全部偽りだったということ?

「なんでそんな事ッ……」
「俺らの会話聞いてたんでしょ? 俺は大天狗になりたいの。そのためには天慶が邪魔なの。だから殺すの」
「だから殺すって……人の命をなんだと思ってるわけ!? 厳密には人じゃないけどさ! いちいち面倒臭いなこの訂正!」

あはは、と腹を抱えた雲居は目尻の涙を拭った。

「ほんと誉って面白いね、最高だよ」
「話逸らしてんじゃないわよ!」
「ごめんごめん、でも仕方ないんだよ」
「仕方ないって何!? 友達を殺す事が仕方ない事なの!?」

雲居の表情が笑ったまま固まった。しばらくして雲居は項垂れるように俯いて深く息を吐く。痛いところついてくるなぁ、と消え入りそうな声で呟く。その呟きから雲居の本心は違う場所にあることに気づいた。

「……雲居さんは本当に友達を殺したいの? 違うよね?」

畳み掛けるように尋ねた。雲居は項垂れたまま顔を上げない。

「だって親友なんでしょ? 親友を殺さなければならない理由って何?」
「……ちょっとうるさいよ。自分が人質だってことわかってる?」
「天慶を誘き出したいなら、私に手は出せないでしょ!」

次の瞬間、プッと吹き出した雲居はケラケラ笑いながら顔を上げた。

「あーあ、誉には負けるよ。確かに理由は別にあるし俺の意思じゃないけど、結論は”天慶から大天狗を奪うために殺す”で間違いないんだよね」

そんな、と眉を寄せる。

「じゃあ雲居さんの気持ちは……? 本当にそれでいいの? 本当にそれが後悔しない選択なの? 好みのお酒の銘柄を覚えるくらいは、仲良いんだよね?」
「あのねぇ誉、俺君を攫ったんだよ? なんでそんなに俺のことばっかり考えてんの? もっと泣き喚いて助けを乞うとかないの?」
「だって……今の雲居さんは私以上に追い詰められた顔してるように見えたから」

雲居は目を丸くして誉を見つめた。まるで未知の生物にでも遭遇したような顔だ。ゆっくり手を伸ばした雲居が誉の頬に触れた。その指先が震えていることに気付いた。

「ねぇ……もしかしたら、誉なら……」

どこか今にも泣き出しそうな雰囲気でそう呟く。「雲居さん……?」恐る恐る名前を呼べば、雲居の瞳にふっと影が差して手が離れる。勢いよく立ち上がった雲居は誉に背を向けた。

「誉、俺が大天狗になったら俺のものにならない? 不自由はさせないよ」
「ふざけないで!」
「ふざけてないよ〜……っと、”待ち人来たる”だね」

次の瞬間、耳をつん裂く爆発音と共に地面が激しく揺れた。