「───何でお前がここにいんだよ」

その日の夜。雲居が借りている客間にお邪魔していると、仕事を終えた天慶が現れた。誉を見付けるなり鋭い目付きでぎゅっと睨む。

「雲居さんに、許可貰ったんで……」

恐る恐るそう申し出た誉に、天慶のこめかみの皺が濃くなった。

「雲居はどうした」
「厨からお猪口取ってくるって……」

一度廊下に視線を向けた天慶、深いため息の後部屋の中へ入ってきた。

は、入ってくるんだ。

考えが顔に出ていたらしく「雲居に用があるんだよ」と告げるとどかりと畳の上に座る。気まずい沈黙が流れ出す。やっぱり部屋に戻ろう、そう思い立って腰を浮かせたその時。

「……身体、見つかりそうなのか」

突然話しかけてきた天慶に驚いて顔を見た。面倒くさそうにしかめた顔で格子窓の外を眺めている。

「難しいだろうって」

天慶が「だろうな」と目を細める。

「お前がでたらめに走り回った場所は鬼脈と呼ばれる街道だ。幽世と現世を繋ぐ道とでも思っておけ。お前が鬼脈に着いてから身体を落としたならまだ見つかる可能性はあるが、鳥居から鬼脈の間に落としたなら探す手だてはほぼ無い」

それは探し始めた初日に雲居から説明された。分かってはいるものの、改めてその事実を突きつけられると苦しい。
焦りだけがどんどん大きくなっていく。もし運よく鬼脈で失くしたとしても、ずっとその場にあるとは限らない。前に天慶が言ったように野良犬の餌になっているかもしれないし、誰かに盗まれている可能性もある。

「妖の中には人を喰うやつもいる」

ずっと考えないようにしていた事実を突きつけられてカッと頭に血が上った。ここに来て目を覚ました時、妖たちが話していた会話を思い出す。取り乱していたからちゃんとは覚えていないけれど、私みたいに迷い込む人間は稀にあるような発言をしていた。そして彼らはそんな人間を「帰さない」。もしかしたら私の身体は、もう悪い妖に。

「明日お前の身体が見つからなければ───」
「……なんで平気な顔してそんな事言えるの?」
「あ?」

天慶が怪訝な顔をして誉を見下ろす。うつむいていた誉はぎゅっと唇を結んで勢いよく顔を上げた。

「なにもしてくれないくせに言いたい事だけ言って。そんな事私が一番分かってるよッ!」

悔しい。こんな男の前で泣きたくない。でも目の奥がどうしようもなく熱い。瞬きした次の瞬間、涙がほほを伝った。

「お……お前、泣いてんのか?」

初めて見せたしかめっ面以外の表情は激しく動揺した顔だった。
天慶を怨むのはお門違いだと分かっていても口は勝手に動いた。

「そっちの都合で、私を幽世に攫ったくせに……!」
「はぁ? お前を連れてきたのは俺じゃねぇ」
「分かってるよそんな事!」

分かってる。自分は今無茶苦茶なことを言ってる。でもそうでもしないと不安に押しつぶされてしまいそうなんだ。一度溢れると止まらなかった。次から次に流れる涙を必死に拭う。

「戻ったよ~ん……って何か修羅場?」

酒瓶を担いで戻ってきた雲居は泣きじゃくる誉と顔を顰める天慶に困惑気味にそう尋ねる。

「よしよし、可哀想な誉。この男に泣かされたんだね。も~お前ってホント昔から手が早いんだから」
「ぶっ飛ばすぞテメェ」

苦虫を噛み潰したような顔でそう言った天慶は乱暴に自分の頭を掻く。

「雲居、酒!」
「女の子慰めるのが先でしょ? お前ほんと女心がわかってないね」

雲居から酒瓶をひったくった天慶は鼻を鳴らして顔を背けた。

部屋に戻りますと誉は立ち上がる。送ろうか、という雲居の申し出に天慶が「おい」と襖の外に声をかける。スッと襖が開いて黎栄が現れた。誉は唇を結んで立ち上がる。天慶の横を通り過ぎたその時、どこかで嗅いだことのある香りがふわりと漂ってきて僅かに顔を上げた。振り向くと同時に鼻先でぴしゃりと襖が閉められた。

廊下で控えていた黎栄が「行きますよ」と誉を見下ろす。まだわずかに残る若干苦みを含んだ甘い香りに、香りの記憶を辿りながら歩きだした。