セミが鳴いている。生まれたことを後悔しているかのように。

白井ソラ

 暴力的なまでの日差しの中、日陰を見つけて少し休憩する。前期の終業式が終わり、夏休みを前にした学校にはもうほとんど人はいない。空いていたベンチを見つけ、そこに腰をかけた。しかし、隣の空席に不思議な物悲しさを感じて、立ちあがろうとしたとき、「ソラ、お待たせ。」と鋭い声が響く。
驚いて声の方向を見上げてみると、たくさんの荷物を持ったハルが立っていた。
 「待ってない」
 「まあ良いじゃん。どうせ一緒だし」
 「部活は?」
 「さっき引退してきた」
へえ、なんて興味のない返事をしながら立ち上がり、隣に並ぶ。ハルも特に気にしていないらしく、バス停まで無言で2人はただひたすら歩き続けた。

 バスに乗り込むが乗客は誰もいない。汗を吸ったワイシャツが肌へと纏わりついてくるのを不快に思いながら、エアコンの風がちょうど当たる席に座り込む。当たり前かのようにその隣にハルも座った。
 「ソラ、髪伸びたな。暑くねえの?」
 「別に」
めんどくさくて伸ばしっぱなしにしていた髪の毛は、いつの間にか肩につきそうになっている。女の人と間違われるのは不本意だが、慣れてしまえば気にならない。
 「ハルはまた短くなった」
 「先生が」
 「ああ。うるさい人」
 「そう!」
ハルがくすくす笑う。
 「そういえば、ソラは夏休みどうする?」
 「バイト」
 「俺もだ〜。受験は?」
 「就職だから」
 「そうだった。どっか良いとこあった?」
 「まあ、今のバ先から声はかけてもらってる」
 「まじかー」
 「おう」
 「いいじゃん」
一人呑気に東京に行ってしまう彼には、こちらの気持ちすら分からないだろ、なんて幼稚な嫉妬心を隠すように外の景色を睨んでいた。どうせ明日からは、お前も俺も交わることもなく、九月の始業式まで日常をこなしていくだけなのだから。


 ―中学3年生の時、進路希望書に「就職」と記入し、学校の先生から呼び出しをくらった。外面を気にする両親は、先生に言われるまま進学させることを決意したが、進学先は祖母が住む田舎へと強制的に決められた。祖母とは幼稚園生の頃会ったきりだったため、気まずさを感じながら田舎へ引っ越した。祖母と暮らし始め、温かい料理が目の前に現れた時、なぜか気恥ずかしい気持ちと痛みを感じた。今思えばそれは、生まれて初めて愛されていることを実感した瞬間だったのかもしれない。しかし、そんなささやかな幸せはすぐに消えてしまった。2年生の最後の冬休み、祖母がいきなり倒れた。すぐに病院へと運ばれたが、そのあとすぐに天へと昇ってしまった。そこからの記憶はあまりない。ただ気がつけばお葬式が終わり、一人暮らしには広い家だけが残った。両親とも久しぶりに顔を合わせたが、特に言葉はなかった。

祖母がいなくなり、友達もいない、両親もいないこの場所には何も悔いがなくなった。

冬の夜、波の音が聞こえる。ざあざあと囁くその音を聴きながら、海の中へと歩みを進めいてく。
 「おい、あんた!何やってんだ!」
手首を強く掴まれる。波がじゃぶじゃぶと音を立てながら、奥へと連れて行こうとする流れを逆らっていく。
やがて砂浜に二人で倒れ込んだ。
 「何してんだ!死ぬところだったぞ!」
肩を掴まれ、その力の強さに思わず顔を顰めた。
 「別に。そのつもりだったし」
 「お前な…」
 「てか、あんた誰?」
 「はあ」
深いため息をついたその人は、俺の肩から手を離し、そしてそのまま砂浜を枕に倒れこんだ。その隣に、膝を抱えて座り込む。
 「ほっといてくれてよかったのに」
 「ばかか。そんなん無理に決まってんだろ」
なぜそこまで人のために熱くなっているのか分からない。隣で横になっているその人にバレないように観察する。メガネをかけており、痩せていて、自分と同じくらいの年齢。
 「名前は?」
 「……」
 「俺は、ハル。高二。」
 「…。俺は、ソラ。あんたと同じ」
 「なんで死のうとした?」
 「なんなの。ヒーローにでも憧れてんの?」
 「別に。ただ、それだけ辛いことがあったんだったら、初めて同士だし、話してみれば良いじゃんって」
 「逆に初めて同士だから、話したくないんだけど」
 「あ、まじ?」
冷たい空気と波の流れる音だけが聞こえる砂浜で、喋らずに星だけを眺めていた。
どのくらいの時間が経ったか分からないが、寒さに凍え始めた体に気付き「風邪引くから帰ろうか」とハルが言った。
なぜかそのまま2人で俺の家へと帰った。久々に家の中に、温かい空気が流れたような気がした。

 退屈な夏休みが始まり、毎日バイトに向かう日々が続いていた。体も心も疲れ始めてきた頃、久しぶりの休みになった。
 「ソラ。俺。開けて」
インターホンがなり、玄関に向かうとハルが立っていた。パンパンに詰まったリュックを背負い、片手にはコンビニの袋を持っている。
 「どうした、ってなんか荷物多いな」
 「お菓子たくさん買ってきた」
 「それ以外もあるだろ、それは」
 「あ、バレた?泊まらせて」
 「なんかあった?」
 「いやあ、まあ、受験勉強疲れ的な?」
 「あっそ」
 「とにかく上がりなよ」と声を掛けながら、ハルに背を向けてリビングへと戻る。
 「なあ、ソラ」
振り返るとハルが靴も脱がずにそのまま玄関に突っ立ていた。
 「どうした」
 「俺と一緒に逃げない?」
目に涙を溜めながら、掠れた声でハルが話続ける。
 「俺さ、もう、ダメかもしれない。本当に、もう…」
最後の方はもう、涙で言葉が潰れてしまっていた。ただその涙を掬ってあげたくて、ハルを抱きしめる。
 「どこまでも一緒だから。逃げよう」

 普段降りるバスのその先を知ることはできない。厳密に言えば知っている、しかしその先があることをこの目で確認したことはない。この先に何があるのか、どんな世界が広がっているのか、それを知ることはできないと思っていた。
ハルを抱きしめた後、荷物をまとめた。ありったけの貯金と、服を数枚だけ持った。それ以外は家に置いていき、いつものバスに乗り込んだ。
 「なあ、どこまで行く?」
ハルが聞く。赤くなった目を隠しながら。
 「ずっと先。このまま最後のバス停まで乗って、そしたら次は電車で行く」
 「どこに?」
 「俺たちのことを誰も知らない場所」
そのまま無言になってしまったハルを横目に、外を見る。ただどこまでも続く森林。山をずんずん下っていくバスは、知らなかった場所を教えてくれる。

 終点を伝えるアナウンスが流れる。バスを降り、周囲を見渡す。バス停の周りには家と店がポツポツと立っているだけだった。その中に一際大きな建物が建っている。木造のくすんだ緑色の屋根が特徴的な無人駅だった。日が暮れ、藍色に染まりかかった空気の中、そこから溢れるオレンジ色の光がとても心地よいものに見えた。
 「ごめんな」
隣から小さな声が聞こえる。
 「何が」
 「こんなところまで」
 「別に。俺も、退屈してたから」
 「そんな軽いノリなのかよ」
 「うん」
ハルが笑う。今日になって初めての笑顔。

 駅の中に入り、時刻表を見る。10分後に来るのが終電らしかった。駅のホームにあったベンチに座り、ハルが買ってきたお菓子を食べる。

 電車の中にも人はいない。1両のみの電車に乗り、このまま知らない場所へと向かっていく。心地良い振動を感じながら、陽が落ちていく様子を眺めていた。
やがてトンネルの中に入り込み、長い長い暗闇を抜けたその先、たくさんの家の光と海が広がった。
ハルと初めて会った海とは違って、月に照らされて輝く青色の大きな海は、俺たち2人を歓迎しているように見えた。お互い何も言わずに、次の駅で自然と降り立った。
「なあ」ハルが声をかける。
「海、行こうか」その続きを俺は乱暴に紡ぐ。
 「いいじゃん」
嬉しそうな表情を横目に歩き出す。数メートルおきにある街灯が道を照らしていて、まっすぐ行ったその先に先ほど見た海があった。
「すっげー。めちゃ綺麗」ハルが騒ぐ。
 「もっと近くまで行こう」
 「いいね」
砂浜に荷物を置いて、海へと近づく。夏の夜の蒸し暑さが少し和らいで、涼しい潮風が肌を撫でる。靴の中に砂が入ってくるのすら気にならないほどに、心地良い空間がここにはあった。
「なあ、その…」ハルが言い淀む。
俺はその先をわかっていた。いや、知っていた。
 「入る?」

菊池ハル

 2人で手を繋いで、膝下まで海の中へ沈めていく。水面で乱反射する光がゆらゆらと揺蕩っていた。
もう全部嫌になって、何もかも捨てたくなった。荷物をまとめて、途中コンビニで好きなお菓子だけを買って、ソラの家に向かった。ソラは何も聞かずに一緒にこんなところまで逃げてくれた。今、隣に立つ男は死にたいのだろうか。死んでいたかったのだろうか。きっと、生きていたかったのだろうか。こちらの思考を読んだかのように、ソラが呟く。
 「俺は別に、死にたいわけじゃない。あの日に失敗しているし」
ソラが苦笑する。俺はあの時、どうかしていた。でも目の前で死にに行こうとする人間を、黙って見過ごせるほどの勇気はなかった。
 「でも今は、ハルがそばにいるし、それでいいと思った」
 「うん」
目の前には光を纏った暗い死が待っている。後ろには、貝殻が埋まった生が待っている。どちらに進んでも痛くて苦しい気がしてしまって、今この生死の狭間、2人だけでいるこの場所だけが心地良く感じてしまう。ソラの言葉を、ゆっくりと頭の中で反芻する。潮風と水の冷たさで体中冷え切っているのに、手を繋いでいるところだけとても暖かく感じる。この手を離さないで欲しい。この手を離したくない。
 「ソラ」
ソラがこちらに顔を向けた気配がする。
 「俺は、やっぱり生きていたくないよ」
ソラに向き合い、つい息を呑む。いつもの無表情が嘘のように、迷子の子どものような、泣きそうな表情でこちらを見ているソラがそこにはいた。それに少し、笑ってしまった。
 「なんで笑ってる」
あ、怒った。涙ぐんだ声で、そう静かに言われる。何かを言いそうな雰囲気に、言葉を重ねる。
 「でもさ、あんな熱烈な告白されちゃったら、もう生きるしかねえな」
ソラの顔が緩む。初めて見る表情。ソラの手を離して、首に腕を回す。そして、触れるだけのキスをした。
 「え…」
 「いやだった?」
 「別に」
ふいと顔を背けられる。体を離して、ずっと言いたかった言葉を伝える 。
 「一緒に逃げてくれてありがとう」

白井ソラ

 一緒に逃げたのは、隣が空白なのは寂しいから。だから、別に優しさとかではないのに、感謝を伝えてくるハルに少し罪悪感を感じる。
 「ていうか、俺、片想いだと思ってた」
 「え」
 「え?違った?まじ?」
 「いや…。俺、ハルのこと好きだったのか?」
そう言っているうちに体温が急上昇していることが分かる。水にさらした後の足を、潮風が冷やしていくのに。両親に捨てられ、祖母が亡くなったあの時、もうすでに死んでいたと思っていた心臓がバクバクと音をたて始める。
 「え⁈それ俺に聞くの⁈」
やけにうるさい声で話しかけてくるやつのせいで、この鼓動の音が向こうにはバレないだろうと安心した。
 「なあ、本当に俺のこと好きじゃないの?」
ハルが顔を覗き込んでくる。やめてくれ、顔が近い。
 「好きじゃなかったら、キスはしない」
 「お前…。まじでなんなの」
月の光ぐらいしか明かりは無いのに、ハルの顔が赤くなっていくのが分かる。
 「うん。俺、ハルのこと好き」
 「…そう」
 「ハルは?」
 「俺も…」
とても小さな声で「好き」という言葉が聞こえた。妙に嬉しくなり、手を絡める。泣きそうな声でハルが伝えてくる。
 「ほんとに好きだよ。好き。」
そんな彼に、心からの想いを音にする。
 「ありがとう。一緒に生きてくれて」

 太陽の光が、街全体を優しく包み込む。それに起こされたセミが鳴いている。また今日を生きられたことに感謝しているかのように。
 「それじゃあ、帰ろうか」
 「うん」