「アイリーン、貴様との婚約を――」
「破棄するのですね。かしこまりました、喜んで同意いたします」
パーティーでわたくしの婚約者である第一王子、グレアム殿下から婚約破棄を伝えられることは想定済み。
彼の隣には、ヒロインであるエミリアが付き添っていた。
以前から愛読していた恋愛小説に転生した私は、このときをずーっと待っていたのよ。
恋愛小説の悪役令嬢として生まれ変わったわたくし――アイリーンは、この第一王子が嫌いだった。ヒロインであるエミリアのことも。
真実の愛? ただの略奪愛じゃない。それで盛り上がるのはふたりだけ。周りからどんな目で見られているのか、わからないのかしらね?
もちろん、わたくしは小説とは違う行動をしていたから、エミリアに近付きもしていない。
小説の中のアイリーンだって、エミリアをいじめていたわけではないのよね。注意はしていたけれど。それなのに、グレアム殿下は彼女を追い詰め、王都から追い出した。
原作は悪役令嬢のアイリーンを追い出してハッピーエンド! って感じで終わったけれど、悪役令嬢というには……原作のアイリーンは弱い気がした。
だって本当に注意しただけなのだもの……。それなのに追い出したから、正直悪印象しかないのよね、グレアム殿下に。
「よ、喜んで、だと!?」
自分で婚約破棄を宣言しようとしていたのに、どうしてプライドが傷ついたような顔をするのか、わけがわからん。
……おっと、今のわたくしは公爵令嬢。こんな言葉遣いじゃダメだよね。
「はい、喜んで。わたくし、一途な方が好みですので」
「なんだと!」
「考えても見てくださいませ、グレアム殿下。かたや女遊びを繰り返すダメな男性、かたやひとりの女性のために愛を貫く男性。どちらのほうが女性にとって魅力的でしょうか?」
わたくしはもちろん後者よ。
「……それに、婚約者のいる男性に近付いて、仲良くなろうと思うことっておかしいと思いませんか? 奪うこと前提の行いですわよね? いえ、誰とは口にしておりませんわよ、誰とは」
扇子を広げて口元を隠し、目元だけで微笑む。
エミリアがサァっと顔を青ざめているのを見て、悪いことをしているという意識はあるのかしら? と一瞬考えたけれど……このヒロインにそんな感情があるとは思えない。
「ど、どうしてそんなに怖い顔をするんですか、アイリーンさまぁ……」
その猫なで声やめてもらいたい。ぞわっと鳥肌が立ったわ。
それでも、わたくしは表情を変えずに言葉を続けた。
「わたくしは、わたくしを一途に想ってくださる方が理想ですわ。ですので、婚約破棄を喜んでお受けするとお伝えしております」
ぱちんと扇子を閉じて、自分の胸元に手を置いてにっこりと微笑むと、グレアム殿下がなぜか悔しそうに表情を歪めた。
……どうしてそんなに、悔しそうなのかしら?
「――グレアム殿下。パーティー会場で婚約破棄を宣言するのでしたら、わたくし、徹底的に相手になりましてよ?」
「て、徹底的?」
ピクンと眉を跳ね上げるグレアム殿下に、優雅にうなずいてみせる。
「ええ。こんなにデリケートな問題をわざわざ人前で……なんて、わたくしの今後を少しでも想像したら、できませんわよね?」
「生意気だぞ、アイリーン!」
「で、殿下はアイリーンさまのことも考えていますよぉ。そう、だって、アイリーンさまの新しい婚約者を……」
「……勝手にわたくしの婚約者を見繕った、と?」
パーティー会場がざわめいた。それはそうだろう。わざわざグレアム殿下とエミリアがわたくしの婚約者を見繕う意味なんて……ねぇ?
「それはもしかして、マルコムさまのことでしょうか?」
「な、なぜそれを……!」
わかりやすく、はぁああ、と大きなため息を吐いた。そして、パチンと指を鳴らす。
すると、パッと小型の録音機を持った護衛が現れた。録音機の再生をすると――……
『アイリーンさまには、マルコムさまがぴったりですよぉ。ほら、マルコムさまなら、アイリーンさまの引き立て役になりますしぃ……。エミリアは絶対イヤですけどぉ……』
『はは、確かに天使のように愛らしいエミリアには似合わないな。悪魔のようなアイリーンならともかく』
『うふふ。マルコムさまはぁ、ずぅっとアイリーンさまのことを狙っていたって聞いてますよぉ! ああいうお堅い令嬢を、堕としたいんですってぇ!』
『ならば、マルコムからたくさんの謝礼がもらえるかもしれないな。その金が手に入ったら、エミリアの髪飾りを買ってあげよう』
『きゃー! エミリアは幸せ者ですぅ!』
録音機から流れる、グレアム殿下とエミリアの会話。これを聞いたとき、本気で一発殴ってやろうかと考えたわ。誰が悪魔だ、誰が!
ちなみにマルコムさまは腐敗しきった貴族の中の貴族って感じの人。あ、あとものすごく女好き。彼の屋敷で働いているメイドたちは、全員彼の毒牙にかかっているという噂。他にもいろんな噂が飛び交っている人なのよね……もちろん、悪い意味で。
『ねーぇ、グレアム殿下ぁ。エミリアと一緒に生きてくれる?』
『当たり前だろう。その前に、アイリーンには消えてもらわないといけないな』
『きゃっ、消えてもらわないと、なんて……グレアム殿下、頼もしいですぅ』
甘えたようなエミリアの声。それから砂糖をどろどろに溶かしたようなグレアム殿下の声。
こんな人たちが国のトップに立って大丈夫なんだろうか。いや、大丈夫ではないだろう。
「……あなたたちがどんな会話をしようが、私には関係ありませんが……。勝手に婚約者を決めないでいただけますか?」
「そ、そんなものは知らん! お前が仕組んだ罠だろう!」
「ええ、まぁ、仕組んだといえばそうかもしれませんが。まさかこんなにあっさりわたくしを陥れる証拠が録音されるとは思いませんでしたわ」
頬に手を添えて、わざとらしく肩をすくめる。
確かに、会話が録音できるように仕組んではいたのだけど……こんなにあっさり録音されるとは思わなかった。わたくしのことを心配して、録音機を渡してくれたメイドに感謝しかないわ。
「エミリアさま。婚約者のいる異性に胸を押し付けるなとか、わざとらしく被害者ぶるなと、わたくし……きちんと忠告しましたわよね? それなのに、グレアム殿下とそういう仲になっているのですから……あなたたち、自分の気持ちしか優先できないのですか?」
呆れたような言い方をしてしまった。……いや、実際呆れてはいるのだけど。
「貴様! エミリアをいじめていたのか!」
「いじめ? 忠告しただけですわよ。殿下はご存知ないかもしれませんが、エミリアさまは婚約者のいる異性だけを狙って、アプローチしていたのですから」
ばっとグレアム殿下がエミリアに顔を向ける。彼女はますます顔を青ざめさせた。
エミリアに声をかけられた男性の婚約者たちが、わたくしの近くに集まってきた。それに気付いて、エミリアはむっとしたように唇を尖らせる。
「まぁ、中にはそんなエミリアさまを嫌う男性もいらっしゃるようですが……」
ぽそりとつぶやく。前世でどうしてこの恋愛小説を読んでいたのか――自分の気持ち優先なヒロインとヒーローは正直どうでもよくて、そんなふたりを冷めた目で見ている人を推していたからだ!
「なっ! エミリアを嫌う人間など、人間ではない!」
「……洗脳でもされているのですか?」
エミリアを嫌う人間がいるはずないって、どういう発想? 怖い。
……小説の中の強制力ってやつなのかな?
「洗脳なんてひどいですぅ! アイリーンさまぁ!」
「語尾を伸ばす話し方、やめていただけませんか? そもそも――あなた、本当にエミリアさまですか?」
小説の中のエミリアは、もう少し普通の話し方をしていた。
わたくしの問いかけに、彼女は顔を覆い隠して、くすんくすんと泣き出す。それを庇うようにグレアム殿下がエミリアを抱きしめる。
……呆れてものも言えない。
「――いつまでこんな茶番を続けるつもりだ、グレアム」
――そんな声が、聞こえた。
パーティー会場がざわめく。
まさかここで登場するとは思わなかった。わたくしの推し、グレアム殿下の兄!
「茶番とはなんのことでしょうか、ルイス兄上」
「パーティーで婚約破棄を宣言しようとし、見せつけるかのように婚約者以外を抱きしめることだ。大体、お前とアイリーン嬢の婚約は、生まれる前から決められていたこと。それを破棄するには、きちんとした手順を踏むのが、『人として』当たり前のことだろう」
さすがわたくしの推し! 淡々とした口調でグレアム殿下へ言葉をかけている。鋭い視線に負けたのか、グレアム殿下はさっと視線をそらした。
「本当に、アイリーン嬢には申し訳ないことをした。愚弟に代わり謝罪する」
わたくしに向けて頭を下げる推し――ルイス殿下。彼は側室の子ということもあり、あまり良い扱いを受けていない――と、小説の中の設定ではなっている。
でもね、正直グレアム殿下よりもルイス殿下のほうが人気だった。そりゃあ、あの人たちよりも冷静に物事を判断できる人のほうが、人気になるわよね。
「なっ! ルイス兄上!」
「ルイスさまぁ……、ひどいですぅ……!」
なにがどう酷いのかを、教えてほしい。
「ひどい扱いを受けたのは、わたくしたちのほうなのに……」
ぽつりとつぶやく。
……このパーティーはもう楽しむためのパーティーではなくなってしまった。
ひそひそと話をしている人が多いし、雰囲気は重苦しいし、ね。
「この件に関して、グレアムとエミリア嬢は陛下の謁見室に来るように、との伝言だ。……令嬢たち、彼らになにか伝えたいことはありますか?」
「……たくさんありすぎて、まとまりませんわ」
「わたくしも。ですが、これだけは言えますわ!」
わたくしの近くに集まった令嬢たちは、きっと視線を鋭くしてエミリアを見る。そして、口を揃えてこう言った。
「真実の愛は、段階を踏んだものが言えること!」
……本当にね。思わず同意のうなずきをしてしまう。
グレアム殿下とエミリアとの愛が『真実の愛』というのなら、彼らはきちんと段階を踏まなくてはいけなかった。
きちんとわたくしと婚約を破棄してから、周囲に宣言すれば良かったのよ。
わたくしと婚約したまま、こんなところで見せつけるかのように婚約破棄を宣言しようとしたのだ。しばらく、彼らは有名になるだろう……もちろん、悪い意味で、ね。
「どうして? どうしてそんなに怖い顔をみんな、しているんですかぁ? エミリアはただ、みなさんと仲良くしたかっただけですのにぃ……」
「そうだぞ! エミリアの気持ちを無視するな!」
「……わたくしたちの気持ちは、無視しても良いのですか? ……ああ、でも、グレアム殿下が婚約破棄を伝えられたので、ようやくわたくしも素直になれますわね」
緩やかに口角を上げて、グレアム殿下とエミリアを見る。
怪訝そうに表情を歪めるふたりから、視線を外し……ルイス殿下と向かい合う。
「お慕いしております、ルイス殿下」
「――アイリーン嬢?」
「グレアム殿下との婚約は白紙になるでしょう。……こんなわたくしですが、どうか……ルイス殿下の婚約者にしていただけませんか?」
ルイス殿下に、婚約者がいないことは知っている。
小説の中で、何度もそのことについて触れられていたから。
ざわついていたパーティー会場は、一瞬でしんと静まった。
ルイス殿下は驚いたよう目を丸くしていたけれど、すぐにわたくしの手を取って、手の甲へ唇を落とす。
「……喜んで、お受けします」
正直、フラれると思っていたんだけど、まさかの成就!?
顔に熱が集まってきているのがわかる。それを見たグレアム殿下が、声を荒げて割って入ってきた。
「アイリーン! 俺に対してそんな表情をしたことないじゃないか!」
「なによ、そっちだって浮気していたんじゃない!」
「……いいえ、わたくしはあなたたちと違い、浮気しておりません。この想いは墓場まで持っていく予定でしたから。……それでは、お父さまたちに婚約の許可をいただきに行きましょう、ルイス殿下」
「はい、アイリーン嬢。……グレアム、エミリア嬢。陛下がお待ちなので、早く謁見室に向かうように」
陛下はいったいどんな話をするのかきになるけれど……そこはもう、わたくしには関係ないこと。
そして、婚約を認めてもらおうと両親のもとに向かったら、あっさりと許可がもらえた。
その後――グレアム殿下とエミリアはいろいろあったけれど、結婚は認められたみたい。良かったね。
ただし、結婚後は平民として生きていくことを伝えられたらしい。
もちろん、それに彼らはものすごく抵抗したみたい。
陛下には『真実の愛』をつらぬけ、と言われたらしい。……伝え聞いた話だから、詳しくは知らないのだけど……
「……ルイス殿下、どうしてわたくしのことを婚約者にしてくださったのですか?」
「……あなたがいつも、耐えている姿を見ていたから……では、おかしいですかね?」
わたくしのことを、見守ってくださっていたのね。
それが少し……いえ、とても嬉しくて、心の底から笑顔を浮かべることができた。
……ちなみに、エリミリアが仲良くしていた婚約者のいた男性たちは、軒並みフラれたそうだ。娘を大事にできない男はいらん、とのこと。
貴族の結婚は義務だけど、エミリアに引っかかるような人は……やっぱり不安になっちゃうわよね。当然といえば当然の結果かもしれない。
グレアム殿下とエミリアの頭がもう少し考えれば、計画的に婚約破棄できただろうに。
証拠って大事よね。仕掛けていた良かった、録音機。……いやな予感がしていたとはいえ、本来なら勝手に録音するのは責められることだろう。
……誰にも責められなかったけど。
むしろ「よく証拠を録音した」とお父さまから褒められた。
ちなみに、この件でマルコムさまのところで雇われていたメイドたちは、全員逃げたそうだ。自分の悪行を暴露されたマルコムさまは、ひとりぼっちになったらしい。
これも伝え聞いたことだから、本当かどうかは知らない。
でもまぁ、知らなくてもいいかな。
グレアム殿下とエミリアのことも、どうでもいい。
だって今、わたくし……すっごく幸せだから!
一番の復讐は幸せになることって、前世で誰かが言っていたけど、確かにそうかもしれないわね。
だけどもしも――あの二人が目の前に現れたら、数発殴りそうになるだろうなぁ。
「ルイス殿下、デートしましょう! 幸せを噛み締めたいです!」
「では、王都のカフェで甘い物でも食べに行きましょうか?」
「ぜひ!」
わたくしはルイス殿下と、それこそ『真実の愛』をつらぬこうと思う。
前世からの推しだけど、『アイリーン』としてわたくしは彼に恋をしているのだから。
この愛を、大事に育てていきたいの。
誰にも負けないくらいの愛を、ルイス殿下と育てていくわ。
きっとそれが、わたくしがこの世界に生まれ変わった意味だと思う。
ルイス殿下はわたくしをエスコートしようと、手を差し伸べる。
その手を取って、彼を見上げた。
にこりと微笑む彼に、わたくしも微笑む。
――この幸せを、続けていくの。彼と一緒なら、きっと大丈夫。
そう、確信しているのよ。
「破棄するのですね。かしこまりました、喜んで同意いたします」
パーティーでわたくしの婚約者である第一王子、グレアム殿下から婚約破棄を伝えられることは想定済み。
彼の隣には、ヒロインであるエミリアが付き添っていた。
以前から愛読していた恋愛小説に転生した私は、このときをずーっと待っていたのよ。
恋愛小説の悪役令嬢として生まれ変わったわたくし――アイリーンは、この第一王子が嫌いだった。ヒロインであるエミリアのことも。
真実の愛? ただの略奪愛じゃない。それで盛り上がるのはふたりだけ。周りからどんな目で見られているのか、わからないのかしらね?
もちろん、わたくしは小説とは違う行動をしていたから、エミリアに近付きもしていない。
小説の中のアイリーンだって、エミリアをいじめていたわけではないのよね。注意はしていたけれど。それなのに、グレアム殿下は彼女を追い詰め、王都から追い出した。
原作は悪役令嬢のアイリーンを追い出してハッピーエンド! って感じで終わったけれど、悪役令嬢というには……原作のアイリーンは弱い気がした。
だって本当に注意しただけなのだもの……。それなのに追い出したから、正直悪印象しかないのよね、グレアム殿下に。
「よ、喜んで、だと!?」
自分で婚約破棄を宣言しようとしていたのに、どうしてプライドが傷ついたような顔をするのか、わけがわからん。
……おっと、今のわたくしは公爵令嬢。こんな言葉遣いじゃダメだよね。
「はい、喜んで。わたくし、一途な方が好みですので」
「なんだと!」
「考えても見てくださいませ、グレアム殿下。かたや女遊びを繰り返すダメな男性、かたやひとりの女性のために愛を貫く男性。どちらのほうが女性にとって魅力的でしょうか?」
わたくしはもちろん後者よ。
「……それに、婚約者のいる男性に近付いて、仲良くなろうと思うことっておかしいと思いませんか? 奪うこと前提の行いですわよね? いえ、誰とは口にしておりませんわよ、誰とは」
扇子を広げて口元を隠し、目元だけで微笑む。
エミリアがサァっと顔を青ざめているのを見て、悪いことをしているという意識はあるのかしら? と一瞬考えたけれど……このヒロインにそんな感情があるとは思えない。
「ど、どうしてそんなに怖い顔をするんですか、アイリーンさまぁ……」
その猫なで声やめてもらいたい。ぞわっと鳥肌が立ったわ。
それでも、わたくしは表情を変えずに言葉を続けた。
「わたくしは、わたくしを一途に想ってくださる方が理想ですわ。ですので、婚約破棄を喜んでお受けするとお伝えしております」
ぱちんと扇子を閉じて、自分の胸元に手を置いてにっこりと微笑むと、グレアム殿下がなぜか悔しそうに表情を歪めた。
……どうしてそんなに、悔しそうなのかしら?
「――グレアム殿下。パーティー会場で婚約破棄を宣言するのでしたら、わたくし、徹底的に相手になりましてよ?」
「て、徹底的?」
ピクンと眉を跳ね上げるグレアム殿下に、優雅にうなずいてみせる。
「ええ。こんなにデリケートな問題をわざわざ人前で……なんて、わたくしの今後を少しでも想像したら、できませんわよね?」
「生意気だぞ、アイリーン!」
「で、殿下はアイリーンさまのことも考えていますよぉ。そう、だって、アイリーンさまの新しい婚約者を……」
「……勝手にわたくしの婚約者を見繕った、と?」
パーティー会場がざわめいた。それはそうだろう。わざわざグレアム殿下とエミリアがわたくしの婚約者を見繕う意味なんて……ねぇ?
「それはもしかして、マルコムさまのことでしょうか?」
「な、なぜそれを……!」
わかりやすく、はぁああ、と大きなため息を吐いた。そして、パチンと指を鳴らす。
すると、パッと小型の録音機を持った護衛が現れた。録音機の再生をすると――……
『アイリーンさまには、マルコムさまがぴったりですよぉ。ほら、マルコムさまなら、アイリーンさまの引き立て役になりますしぃ……。エミリアは絶対イヤですけどぉ……』
『はは、確かに天使のように愛らしいエミリアには似合わないな。悪魔のようなアイリーンならともかく』
『うふふ。マルコムさまはぁ、ずぅっとアイリーンさまのことを狙っていたって聞いてますよぉ! ああいうお堅い令嬢を、堕としたいんですってぇ!』
『ならば、マルコムからたくさんの謝礼がもらえるかもしれないな。その金が手に入ったら、エミリアの髪飾りを買ってあげよう』
『きゃー! エミリアは幸せ者ですぅ!』
録音機から流れる、グレアム殿下とエミリアの会話。これを聞いたとき、本気で一発殴ってやろうかと考えたわ。誰が悪魔だ、誰が!
ちなみにマルコムさまは腐敗しきった貴族の中の貴族って感じの人。あ、あとものすごく女好き。彼の屋敷で働いているメイドたちは、全員彼の毒牙にかかっているという噂。他にもいろんな噂が飛び交っている人なのよね……もちろん、悪い意味で。
『ねーぇ、グレアム殿下ぁ。エミリアと一緒に生きてくれる?』
『当たり前だろう。その前に、アイリーンには消えてもらわないといけないな』
『きゃっ、消えてもらわないと、なんて……グレアム殿下、頼もしいですぅ』
甘えたようなエミリアの声。それから砂糖をどろどろに溶かしたようなグレアム殿下の声。
こんな人たちが国のトップに立って大丈夫なんだろうか。いや、大丈夫ではないだろう。
「……あなたたちがどんな会話をしようが、私には関係ありませんが……。勝手に婚約者を決めないでいただけますか?」
「そ、そんなものは知らん! お前が仕組んだ罠だろう!」
「ええ、まぁ、仕組んだといえばそうかもしれませんが。まさかこんなにあっさりわたくしを陥れる証拠が録音されるとは思いませんでしたわ」
頬に手を添えて、わざとらしく肩をすくめる。
確かに、会話が録音できるように仕組んではいたのだけど……こんなにあっさり録音されるとは思わなかった。わたくしのことを心配して、録音機を渡してくれたメイドに感謝しかないわ。
「エミリアさま。婚約者のいる異性に胸を押し付けるなとか、わざとらしく被害者ぶるなと、わたくし……きちんと忠告しましたわよね? それなのに、グレアム殿下とそういう仲になっているのですから……あなたたち、自分の気持ちしか優先できないのですか?」
呆れたような言い方をしてしまった。……いや、実際呆れてはいるのだけど。
「貴様! エミリアをいじめていたのか!」
「いじめ? 忠告しただけですわよ。殿下はご存知ないかもしれませんが、エミリアさまは婚約者のいる異性だけを狙って、アプローチしていたのですから」
ばっとグレアム殿下がエミリアに顔を向ける。彼女はますます顔を青ざめさせた。
エミリアに声をかけられた男性の婚約者たちが、わたくしの近くに集まってきた。それに気付いて、エミリアはむっとしたように唇を尖らせる。
「まぁ、中にはそんなエミリアさまを嫌う男性もいらっしゃるようですが……」
ぽそりとつぶやく。前世でどうしてこの恋愛小説を読んでいたのか――自分の気持ち優先なヒロインとヒーローは正直どうでもよくて、そんなふたりを冷めた目で見ている人を推していたからだ!
「なっ! エミリアを嫌う人間など、人間ではない!」
「……洗脳でもされているのですか?」
エミリアを嫌う人間がいるはずないって、どういう発想? 怖い。
……小説の中の強制力ってやつなのかな?
「洗脳なんてひどいですぅ! アイリーンさまぁ!」
「語尾を伸ばす話し方、やめていただけませんか? そもそも――あなた、本当にエミリアさまですか?」
小説の中のエミリアは、もう少し普通の話し方をしていた。
わたくしの問いかけに、彼女は顔を覆い隠して、くすんくすんと泣き出す。それを庇うようにグレアム殿下がエミリアを抱きしめる。
……呆れてものも言えない。
「――いつまでこんな茶番を続けるつもりだ、グレアム」
――そんな声が、聞こえた。
パーティー会場がざわめく。
まさかここで登場するとは思わなかった。わたくしの推し、グレアム殿下の兄!
「茶番とはなんのことでしょうか、ルイス兄上」
「パーティーで婚約破棄を宣言しようとし、見せつけるかのように婚約者以外を抱きしめることだ。大体、お前とアイリーン嬢の婚約は、生まれる前から決められていたこと。それを破棄するには、きちんとした手順を踏むのが、『人として』当たり前のことだろう」
さすがわたくしの推し! 淡々とした口調でグレアム殿下へ言葉をかけている。鋭い視線に負けたのか、グレアム殿下はさっと視線をそらした。
「本当に、アイリーン嬢には申し訳ないことをした。愚弟に代わり謝罪する」
わたくしに向けて頭を下げる推し――ルイス殿下。彼は側室の子ということもあり、あまり良い扱いを受けていない――と、小説の中の設定ではなっている。
でもね、正直グレアム殿下よりもルイス殿下のほうが人気だった。そりゃあ、あの人たちよりも冷静に物事を判断できる人のほうが、人気になるわよね。
「なっ! ルイス兄上!」
「ルイスさまぁ……、ひどいですぅ……!」
なにがどう酷いのかを、教えてほしい。
「ひどい扱いを受けたのは、わたくしたちのほうなのに……」
ぽつりとつぶやく。
……このパーティーはもう楽しむためのパーティーではなくなってしまった。
ひそひそと話をしている人が多いし、雰囲気は重苦しいし、ね。
「この件に関して、グレアムとエミリア嬢は陛下の謁見室に来るように、との伝言だ。……令嬢たち、彼らになにか伝えたいことはありますか?」
「……たくさんありすぎて、まとまりませんわ」
「わたくしも。ですが、これだけは言えますわ!」
わたくしの近くに集まった令嬢たちは、きっと視線を鋭くしてエミリアを見る。そして、口を揃えてこう言った。
「真実の愛は、段階を踏んだものが言えること!」
……本当にね。思わず同意のうなずきをしてしまう。
グレアム殿下とエミリアとの愛が『真実の愛』というのなら、彼らはきちんと段階を踏まなくてはいけなかった。
きちんとわたくしと婚約を破棄してから、周囲に宣言すれば良かったのよ。
わたくしと婚約したまま、こんなところで見せつけるかのように婚約破棄を宣言しようとしたのだ。しばらく、彼らは有名になるだろう……もちろん、悪い意味で、ね。
「どうして? どうしてそんなに怖い顔をみんな、しているんですかぁ? エミリアはただ、みなさんと仲良くしたかっただけですのにぃ……」
「そうだぞ! エミリアの気持ちを無視するな!」
「……わたくしたちの気持ちは、無視しても良いのですか? ……ああ、でも、グレアム殿下が婚約破棄を伝えられたので、ようやくわたくしも素直になれますわね」
緩やかに口角を上げて、グレアム殿下とエミリアを見る。
怪訝そうに表情を歪めるふたりから、視線を外し……ルイス殿下と向かい合う。
「お慕いしております、ルイス殿下」
「――アイリーン嬢?」
「グレアム殿下との婚約は白紙になるでしょう。……こんなわたくしですが、どうか……ルイス殿下の婚約者にしていただけませんか?」
ルイス殿下に、婚約者がいないことは知っている。
小説の中で、何度もそのことについて触れられていたから。
ざわついていたパーティー会場は、一瞬でしんと静まった。
ルイス殿下は驚いたよう目を丸くしていたけれど、すぐにわたくしの手を取って、手の甲へ唇を落とす。
「……喜んで、お受けします」
正直、フラれると思っていたんだけど、まさかの成就!?
顔に熱が集まってきているのがわかる。それを見たグレアム殿下が、声を荒げて割って入ってきた。
「アイリーン! 俺に対してそんな表情をしたことないじゃないか!」
「なによ、そっちだって浮気していたんじゃない!」
「……いいえ、わたくしはあなたたちと違い、浮気しておりません。この想いは墓場まで持っていく予定でしたから。……それでは、お父さまたちに婚約の許可をいただきに行きましょう、ルイス殿下」
「はい、アイリーン嬢。……グレアム、エミリア嬢。陛下がお待ちなので、早く謁見室に向かうように」
陛下はいったいどんな話をするのかきになるけれど……そこはもう、わたくしには関係ないこと。
そして、婚約を認めてもらおうと両親のもとに向かったら、あっさりと許可がもらえた。
その後――グレアム殿下とエミリアはいろいろあったけれど、結婚は認められたみたい。良かったね。
ただし、結婚後は平民として生きていくことを伝えられたらしい。
もちろん、それに彼らはものすごく抵抗したみたい。
陛下には『真実の愛』をつらぬけ、と言われたらしい。……伝え聞いた話だから、詳しくは知らないのだけど……
「……ルイス殿下、どうしてわたくしのことを婚約者にしてくださったのですか?」
「……あなたがいつも、耐えている姿を見ていたから……では、おかしいですかね?」
わたくしのことを、見守ってくださっていたのね。
それが少し……いえ、とても嬉しくて、心の底から笑顔を浮かべることができた。
……ちなみに、エリミリアが仲良くしていた婚約者のいた男性たちは、軒並みフラれたそうだ。娘を大事にできない男はいらん、とのこと。
貴族の結婚は義務だけど、エミリアに引っかかるような人は……やっぱり不安になっちゃうわよね。当然といえば当然の結果かもしれない。
グレアム殿下とエミリアの頭がもう少し考えれば、計画的に婚約破棄できただろうに。
証拠って大事よね。仕掛けていた良かった、録音機。……いやな予感がしていたとはいえ、本来なら勝手に録音するのは責められることだろう。
……誰にも責められなかったけど。
むしろ「よく証拠を録音した」とお父さまから褒められた。
ちなみに、この件でマルコムさまのところで雇われていたメイドたちは、全員逃げたそうだ。自分の悪行を暴露されたマルコムさまは、ひとりぼっちになったらしい。
これも伝え聞いたことだから、本当かどうかは知らない。
でもまぁ、知らなくてもいいかな。
グレアム殿下とエミリアのことも、どうでもいい。
だって今、わたくし……すっごく幸せだから!
一番の復讐は幸せになることって、前世で誰かが言っていたけど、確かにそうかもしれないわね。
だけどもしも――あの二人が目の前に現れたら、数発殴りそうになるだろうなぁ。
「ルイス殿下、デートしましょう! 幸せを噛み締めたいです!」
「では、王都のカフェで甘い物でも食べに行きましょうか?」
「ぜひ!」
わたくしはルイス殿下と、それこそ『真実の愛』をつらぬこうと思う。
前世からの推しだけど、『アイリーン』としてわたくしは彼に恋をしているのだから。
この愛を、大事に育てていきたいの。
誰にも負けないくらいの愛を、ルイス殿下と育てていくわ。
きっとそれが、わたくしがこの世界に生まれ変わった意味だと思う。
ルイス殿下はわたくしをエスコートしようと、手を差し伸べる。
その手を取って、彼を見上げた。
にこりと微笑む彼に、わたくしも微笑む。
――この幸せを、続けていくの。彼と一緒なら、きっと大丈夫。
そう、確信しているのよ。