あなたの隣が私の居場所です

 「これで、今日は終わりだ」


 城へ来て何日か経ったある日、詩織は勉強から解き放たれる合図を聞いて、


 「では、鍛錬してきますね!」


 すぐに部屋から出ようとしたが、待ったをかける人物がいた。


 「駄目だ。今日は文がやって来る日だ。昨日言ったはずだが、覚えていないのか?」


 目の前に座る神楽は何故か詩織の予定を知っていた。

 (神楽様は私の予定までご存じなんですか。これで、私が覚える必要は無さそうですね)

 知識の面を夫である神楽に全て頼ることを決めた瞬間だった。


 「そうでしたね」

 「そうでしたねって......。詩織、おそらく文は君を知的な人と思っているだろう。話しの話題もきっと教養が試されるものばかりだ。この数日でいくらか叩き込んだが、全く知識は足りない。分からないことが来たら、流せ。いいな?」


 言葉はきついが詩織のことを思っているのは伝わった。

 不器用な優しさを身にしめながら、詩織は


 「はい。流すのは自信があるので、大丈夫です!」


 心配かけまいと答えたが、神楽は頭に軽く手を当てた。

 何故だろう?


 「......そうだな。詩織は見た目だけで誤魔化せるのだからな。これで脳筋とは残念過ぎるな」

 「それほどでも」

 「いや、褒めてないから。ほら、ここを片づけるぞ。もう文が」

 「義姉上、いらっしゃいますか?って私ったらすみません」


 神楽の言葉が言い終わらない内に、文が来てしまった。

 二人でいたことに文は何か感じたのだろう。

 申し訳なさそうに部屋から出ようとするところを神楽は止めた。


 「いや、大丈夫だ。女子の話に俺はいらないからな。文、詩織を頼んだ」

 「兄上が女性のことを考えるなんて不思議ですね。任せて下さいな」


 文が神楽を見送ると詩織の方を向いて頭を下げた。


 「義姉上、兄上に嫁いでいただきありがとうございます。いつも人を排斥する雰囲気が漂っていた兄上があれほど穏やかになるなんて、妹として兄の変化が嬉しいのです」

 「頭を上げて下さい。私は何もしていませんよ。むしろ神楽様にはお世話になりっぱなしです」


 今日だって神楽から華道について教わったばかりだ。

 昨日は琴で、その前は茶道。

 付きっきりで教えてもらっている詩織は何も返していなかった。


 「兄上が誰かのお世話をすることなどないのですよ。兄上は常に忙しくて、わたくしも構ってもらったことなどあまりないのですよ」

 「そうなのですか⁈」


 あの面会時、神楽は詩織に教えると確かに言っていたはずだ。

 初対面の人に学を教えるほどお人好しな方だと思っていたが、どうやら違うらしい。


 「ええ。あの、義姉上と双葉は仲が良いのですか?」

 「「え⁉」」


 詩織と文の後ろで控えている双葉の声が揃った。


 「仲は良いと思いますよ。双葉は優秀な側仕えですので」


 詩織は神楽と同じように答えた。

 兄妹揃って聞くとは、何かあるのだろうか?

 (でも、その答えはきっと双葉が見つけてくれるでしょうけど)


 「姉上......!わたくしも姉上のことは尊敬してますよ。止まることなく、更なる境地に向かって努力する様はわたくしにはできませんから」


 姉が難題を吹っかけてきたことには知らず、双葉ははにかみながら姉に対する賞賛を送った。

 普段はほとんど褒めない双葉の言葉に詩織は大興奮だ。


 「双葉!そんなこと思っててくれたの!私、もっと頑張るから!」


 (武の道を!)

 強くなるために早く城の鍛錬に参加したい。

 そのためには神楽からお免状を貰わないといけないが、本気になった今、直ぐに取れるだろう。


 「剣以外にもその頑張りを分けて下さいね」

 「こう見えても、今、茶道と華道と歌学と礼法を学んでいるのですよ」

 「まあ!姉上がお勉強だなんて......!きっと、父上も母上も喜ぶでしょうね」


 これまでの態度から両親や双葉は詩織の勉強は諦めていた。

 しかし、詩織が勉強をするようになったと双葉は涙ぐむほど喜んでいた。

 妹でこれなら両親はどれほど喜ぶだろう。


 「少し羨ましいですね。わたくしは兄上とこのような会話をしたことがないので」

 「文様......」

 「文様は神楽様のことを慕っているのですよね?」

 「はい。兄上に褒められるために知識を深め、礼法は指先まで意識していますし、師からお免状もいただきました」


 (さすが、領主の姫様......)

 勉強から逃げて武に走った詩織とは大違いである。


 「ですが、これは努力さえすれば誰にでもできること。わたくしには兄上のようなまじないの才能がないのです。きっと、わたくしが弱いから兄上は見る価値ないと関わらないのでしょうね......」


 弱々しく微笑んだ文の顔にはもう諦めと葛藤を映していた。

 自分では否定しても現実は変わらない。

 諦めたら楽になれるのに、諦められない。

 (こんなになるまで文様をほっといたのですか......!)


 「可愛らしい文様を放置するなんて許せません!私が神楽様に伝えてきます!」

 「義姉上?」

 「文様、少々お待ちください。双葉、文様のこと頼んだよ」

 「かしこまりました。いってらっしゃい、姉上」


 これから何が起こるのか予想がつく双葉は姉を送り出した。

 詩織は襖を出て、目的の地へと足早に向かった。
 「あの双葉、義姉上は大丈夫なの?」


 何も状況を知らない文は側近の双葉にそう問いた。


 「大丈夫ですよ。姉上はきっと神楽様を呼びに行ったのでしょうね」

 「兄上、ですか⁈どうして?」

 「神楽様と文様の関係を直すため、でしょうね、きっと」


 確たる証拠はないが、きっとそうだろう。

 香取詩織という人物はそういう人間だ。

 双葉がお手上げなことも姉の詩織は本能と感情に従って突拍子もない行動で全てを解決してきた。

 (きっと姉上なら大丈夫)


 「わたくし達の仲を変えても、義姉上には全く利がありませんよ?」

 「姉上は利なんて気にしませんよ」


 気にするというよりも、詩織は利なんて考えていない。

 ただ助けたいという感情だけで、いろんなことに首を突っ込んでいるのだから。

 当然ながら、詩織は事務関連は全くできないので、一手に率いるのは双葉であった。

 詩織が動くせいで双葉は目を回すほどの忙しさに覆われるが、そんな日々も楽しさを感じてしまう。

 (なんとなく神楽様が姉上を選んだ理由が分かってしまいます)

 常識や教養など知らない詩織との日々は尋常ではないほどの忙しさを与えてくるが、それ以上に退屈しない毎日がやってくるのだ。

 詩織が嫁いだせいでもうこんな日が来ることはないと思ってしまうと悲しくなってしまうが、顔には表さない。

 その時、襖が開く音がした。


 「詩織から緊急事態だと呼び出されたのだが、何があったんだ?」

 「緊急事態なのは神楽様と文様の関係ですよ」


 襖から入って来たのは、詩織と神楽だった。

 神楽の顔は無表情だったが、詩織のことを見つめていた。

 (姉上がこれほど愛されていると分かっただけで十分......)

 双葉は側仕えらしく雑念を排した詩織と似ているその顔に笑みを浮かべた。
 詩織と双葉は性格こそ反対だが、仲は良かった。

 だからこそ、お互いがすれ違っている神楽と文の関係に耐えられなかった。

 まだ城の中がどうなっているのかは分からない。

 神楽がどこにいるのか分からない。

 だけど、なんとなく神楽の居場所は分かった。

 とある襖を礼法など無視して思いっきり開けると、中にいた神楽は勢いよくこちらを振り向いた。


 「詩織、今は仕事中なのだが」

 「神楽様、緊急事態です!ほら、行きますよ」


 詩織は神楽の抗議を無視して、神楽を連れて元の部屋へと戻った。


 「詩織から緊急事態だと呼び出されたのだが、何があったんだ?」

 「緊急事態なのは神楽様と文様の関係ですよ」

 「俺と文の関係が緊急事態?」


 全く分かっていない神楽の様子に詩織は、


 「双葉、説明よろしく」


 双葉に任せた。


 「おい。自分で起こしているのだから、自分で説明しなさい」

 「姉上、わたくしも助言いたしますから、たまには姉上から説明したらどうでしょうか?」


 神楽と双葉からそう言われてしまったら、説明するしかない。

 (でも、これ私が説明すると余計こじれるのでは?)

 今までの詩織が仲立ちして余計に場を乱した記憶が蘇る。

 (私が入るよりも当事者たちに解決してもらいましょう)


 「申し訳ありません。私、急用ができたみたいです。双葉、外に行きましょう。伝えないと分からないこともあるのですよ」


 詩織は誰にとは言わずに言葉を送って外に出た。

 (伝えないと伝わらないこともあるのですよ)

 家族だから、兄妹だからこそ、言葉で伝えないと分からないこともあることを神楽はしっているのだろうか?

 その答えは再び襖が開くときに知ることとなるだろう。
 「......」


 突然二人きりとなった部屋には静寂が訪れていた。


 「......兄上はわたくしのことがお嫌いなのでしょう?」

 「は?」


 (何故そんなことを聞くのだ?)

 戸惑っている神楽を置いて、文はぽつぽつと話出した。


 「わたくし、どうやら兄上のお荷物のようです。わたくしは領主一族の中でもまじないが弱いから、知らず知らずのうちに負担になっていたのでしょうね......」

 「何でこうなっているのかよく分からないが、文のことは荷物などではない。誰かに言われたのか?文が俺の荷物だって」

 「言われていませんけど、そうでしょう⁉だって、わたくしにはあのような......義姉上に向けられるような顔を見たことがありませんもの......。わたくしに向けられるのは興味なんてないただの冷たい視線ですから......」


 必死にこぼさないように耐えているが、瞳には涙が溜まっていた。

 (俺は文をこんなになるまで放置していたんだな......)

 詩織の言う通りだ。

 兄妹だからって伝わらないこともある。

 そんなことさえ分かっていなかった。


 「文が頑張っていることは知っている」

 「え......どうして、知っているのですか?わたくし、一度も言ったことないですよ?」


 文が見ると神楽はいつも忙しそうな後ろ姿だった。

 だから、伝えたことなかった。

 褒められたいけど、忙しい兄の時間を奪いたくなかったから。


 「文がたくさんの知識を深めているのも、先生からお免状をとっくに貰っていることも知っている。......文、よく頑張ったな」


 顔は一切変わらないが、声は慈愛に満ちていた。

 文のこれまでの努力がようやく報われた気がした。



 「......正直、俺は文に恨まれていると思っていた。俺のせいで文が領主となる道が途絶えたからな」


 一般的に領主となるのは嫡男だが、ここは違う。

 領主の子ども誰もが領主となる可能性を持っているので、下の子でも領主となることができる。

 実際、末の姫であった女性が領主となった事例も存在する。

 しかし、神楽が他の者と一線を画す力を持って生まれてしまった。

 そのため、文を含めた後から生まれてきた者達の可能性を無にしてしまった。


 「......そんなことないですよ。わたくしは兄上を恨んだことなど一度もございませんから」

 「そうか」


 再び訪れる静寂は話会う前と違って、空気が明るかった。


 「義姉上と双葉にお礼をしなければいけませんね。わたくしが意見を言えたのはあの姉妹のおかげですから」

 「そうだな。何が喜ぶのだろうな?」


 (武器を渡すのが一番喜びそうだが、女子に武器はな.........)

 詩織に何を与えようか悩んでいると


 「兄上、恋する乙女は殿方からの物を頂くだけで嬉しいのですよ」


 文から助言が来た。

 だが、詩織は神楽がこれまであって来た女性と全く違った。

 それに神楽が女性に物を渡すこと自体初めてだった。


 「文、詩織はそなたが思っているような者ではないぞ。かなり変わっている」

 「え?ですが、義姉上は双葉の姉なのでしょう?香取家なら書物とか喜びそうな気がしますけど」

 「妹の双葉は喜ぶだろうが、詩織は絶対に喜ばない。なんせ、勉強が嫌いなのだからな」


 文の目が大きく見開いた。

 それはそうだろう。

 文官や側仕えの家出身の女性が勉強嫌いだなんて誰が思うのだろうか?


 「そうなのですか......。なら、わたくしはあれを渡しましょう。兄上は決まりましたか?」

 「分からないから、詩織と一緒に見ようと思う」

 「良い殿方というのは姫君が欲しいものを予想して渡すものですよ、兄上」

 「もう俺には詩織がいるからな」


 (文とこんな会話をするとはな......)

 先程までは全く話さずぎこちなかった関係が一瞬で変わった。

 こんな日が来るなんて夢にも思っていたなかった。

 それもこれも詩織が来てくれたおかげ。

 どうしようもないほど知識もなくて、教養もなくて、常識もないけど、自分を変えてくれた人が詩織(初めて恋した人)だと思うとまんざらでもなかった。
 神楽と文が話している一方で外に出た詩織と双葉はというと、


 「姉上、この後どうするのですか?」

 「どうしようか?」


 この後のことを何も考えていなかった。


 「姉上ったら.........。でもらしいですね。こういう姿を見ると安心します。姉上、お城にきても鍛錬はしていますか?」

 「もちろん。せっかくだし、見ていく?」

 「ではお言葉に甘えて」


 城の外へと出ると、屈強な男達が練習に励んでいた。


 「おや、双葉様ですか。お隣にいらっしゃる方は?」

 「神楽様の正室となったわたくしの姉です」

 「詩織と申します。これからよろしくお願いいたしますね」


 男達は妻がいる者もいるというのに、微笑んだ詩織の姿にたじたじとなった。


 「は、はい。これからよろしくお願いいたします!」

 「あ、あのどうしてこちらに?」

 「体を動かそうと思って来ました。お邪魔にならないように端の方で練習いたしますね」

 「いやいやいや。詩織様はどうぞ、中心で」

 「詩織様を端にやったなんて神楽様の耳に入ったらどうなるのか分からないんで、どうぞ中心に」


 突如あいた空間を詩織は使うことになってしまった。


 「姉上、頑張って下さいね」


 (妹に頑張ってと言われたら、頑張らないとですよね)

 双葉に良いところをみせようと詩織が選んだものは形でもなく、素振りでもなく、剣舞だった。

 剣舞とは吟詠に合わせて刀を持って舞う舞踊。

 武道の形を芸術的に昇華したのが剣舞なので、唯一詩織ができる舞だった。

 今は外にいるので楽器も歌もない。

 剣技だけではどうにも華やかさが足りない。

 でも詩織にはまじないがあった。

 刀に込めることで、刀身が青く光り、漏れ出るほのかに青い光が飛び散った。

 まじないとは身体に使うものであって、武器のような物に使うべきではないというのがこの国の常識だった。

 しかし、まじないが込められた剣を手に取って、自由自在に振り回す美少女は見ている者を釘付けにする魅力があった。

 見慣れている双葉も言葉を失うほどの美しさは始めている男達のどう映ったのだろうか?


 「おぉ......」


 感嘆な言葉が口から洩れていく。

 詩織の動きが止まり、刀身が鈍い金属の光沢を放っても、誰も動くことができなかった。


 「あ、あの、双葉、どうだった?私、何かしちゃった?」

 「まさか。姉上の剣舞に動けなくなってしまっただけですよ」

 「その通りだな」

 「義姉上、素晴らしかったですよ」


 そう言って詩織の前にやって来たのは、神楽と文だった。

 ようやく現実に戻った男達は現れた領主一族に跪いた。


 「詩織のおかげで文との関係が変わった。感謝する」

 「双葉、ありがとう。兄上との仲が修復されました」


 突然、感謝の言葉を述べる神楽と文に目を瞬せながらも、


 「役に立って良かったです」

 「文様を心地よくさせることが側仕えの仕事ですし、わたくしは何もしていないので、礼には及びませぬ」


 詩織は儚い微笑を浮かべながら、双葉は側仕えらしく答えた。

 (神楽様は答えを見つけられたみたいね)

 神楽と文に流れる空気が殺伐とせず、人の温かみを感じることができるようになったことを、詩織は慈愛に満ちた瞳でそっと見つめていた。
 神楽と文の関係が変わったことで、詩織の周りも変わった。

 領主夫妻からも感謝され、文からは慕われて、家臣からは恩人のように拝められていた。

 そんな慣れない日々が続いたある日のこと


 「詩織、市に行かないか?」


 神楽に誘われた。

 心なしか神楽の耳が赤くなっている気がする。


 「分かりました。では準備してきますね」

 「それなら、町民と同じ格好の方が助かる。お忍びで行くからな」

 「お忍びですか?」


 今まで詩織は町の人と同じ格好をして市に出歩いたことなかった。


 「ああ。この恰好では目立つからな」

 「はぁ......。では着替えてきますね」


 全く分かっていなさそうな顔をして、詩織は部屋を出た。

 与えられた自分の部屋に着くと既に町民の着物が準備されていた。

 (この着物は裕福な商家のお嬢さんが着るようなものですけど......)

 今着ている着物よりは落ちるが、手触りが良いので一品であることは違いない。

 詩織と違って、手仕事をする町の女性はこのような高価な着物を着ない。

 町歩く女性の着物の多くが麻や木綿で作られた薄汚れた着物であることを知らないのだろうか?

 しかし、詩織は思考をどこかに捨てて与えられた着物を身にまとった。

 (あ、お忍びで行くなら武器とか置いていった方が良いよね)

 詩織は着物に隠しこんでいた刀に短刀、毒薬を自分の部屋に置いていった。

 部屋から出ると、神楽が待っていた。


 「お待たせしてすみません」

 「いや、いい。ほら、行くぞ」


 視線は合わず、そっぽを見ている神楽から差し出された手を詩織は取った。
 たった一つの門だけで目に入るものが変わる。

 市に出た瞬間に聞こえるのは、砕けた言葉。

 見えるのは砂埃にまみれた姿。

 (こうして見ると城と市って結構違うな)

 普段何気なく見ている風景を改めて見ていると


 「詩織、あそこの店に入らないか?」


 隣を歩く神楽に誘われた。

 神楽が示したのは、今話題のお店だった。

 他の店では見ない繊細さで若い女性を掴んでいるそうだ。

 詩織は入ったことないが、最近その店の商品を付けている人が増えている気がする。


 「分かりました」


 暖簾を上げて入ると商品棚には数多の細工が入ってあった。

 日用的に使える櫛から特別な時にしか使えないような豪奢な簪まで。

 (そういえば私、櫛壊れたんだっけ。ここで買っちゃおっかな)

 詩織が使っている櫛の歯がこの間折れてしまった。

 一本折れるとその周りも折れていく。

 只今詩織の櫛は合計四本折れていた。

 (折れにくい櫛と言ったらみねばりよね)

 みねばりが心材が非常に硬くて折れにくい木材。


 「詩織、何を悩んでいるんだ?」

 「どの櫛にしようかなって。みねばりの櫛にこんなにも種類があるなんて思いませんでしたから」


 詩織の視線の先にはみねばり製の櫛が一面に飾られていた。

 意匠が凝っている物。

 木目を生かした物。

 似ている商品はあるが、同じものは一つもなかった。


 「これとかどうだ?」


 神楽が手に取ったのは、持ち手に桃の花が彫られているものだった。


 「ではそれにいたします」


 詩織は特に模様に関しては気にしない。

 使いやすくて動きやすい物だったら何でも良い。

 詩織の好みを知っている両親が準備した着物はどれも簡素で余計な模様が描かれていなかった。

 そのせいで、神楽から華美すぎない物が好きと認識されていることを詩織は知らない。


 「分かった。では買ってこよう」

 「え⁉私が買いますよ」

 「お嬢さん、旦那さんに良いとこ見せてあげな」


 生暖かい目でみる店主に詩織は止められてしまった。

 詩織が手持ち無沙汰になっている間に神楽はさくっとお会計を済ませてきた。

 お店から出ると市を再び歩いていく。

 目的地がないので、ゆっくりと店先に並ぶ野菜やお菓子をじっくり見ることができた。


 「こうしてみるとどれも買いたくなってしまうな」

 「お城がいっぱいになってしまいますね」


 神楽は冗談で言ってみただけだが、詩織には通じることもなかった。

 言葉通りに受け取って物で溢れる城を想像していると、


 「きゃああああ⁈」


 金切り声が聞こえた。

 悲鳴を上げた女性の先には刃物を持った男がいた。

 そして男の先には


 「神楽様⁉」


 (しまった。武器は全部置いてきちゃった)

 男を押さえようとも武器がない。

 いくら鍛錬をしている詩織でも我を失って突っ込んで来る男を止められるほどの力はない。

 このままでは神楽が刺されてしまう。

 (そんなことさせない)

 詩織は神楽を押して、神楽を正面から動かした。

 不敬極まりないが、きっと上で許してくれるだろう。

 詩織が前を見るのと一緒に体が熱くなって重心を失った。

 詩織が最後に見たのはこちらに掛けこんで来る神楽の姿だった。
 突然の声と共に見えたのは刀を持った男の姿だった。

 理性を失った男の瞳には神楽が映っていた。

 領主一族の神楽は一瞬で死ぬような攻撃を受けない限り命を落とすことはない。

 だから、致命傷を避けて刺された後、男を押さえようとした。

 でも、そうはいかなかった。

 詩織が神楽の代わりになろうと飛び込んでしまった。

 弾き飛ばされた神楽が見たのは詩織が倒れる瞬間だった。


 「詩織!」


 慌てて詩織を抱きかかえるとべっとりとした温かみを感じる液体に触れた。

 くすんだ桃色が腹の所から止まることを知らない流動体によって赤黒く染まり上げる。

 (こうなったのも俺のせいだ。俺が詩織を危険な目に合わせた......)

 神楽に向かったものか男に向かったのか分からない後悔と激しい怒りが溢れてくる。

 だが、あふれ出す感情を包み込んで押さえてくれる何かがあった。

 理性ではない。

 もっと別の暖かい何か。

 下を向く視線が捕らえるのは固く瞳を閉じている詩織の姿。


 「今、助けるからな。それまで天に上がることないように」


 再び瞳が開いたら、

 頓珍漢なことを言って呆れさせてくれ

 誰にでも伸ばす手で多くの者を拾い上げてくれ

 城内にいる男を魅了してやれ

 (......またあの笑顔を見せてくれ......)

 全ての願い込めて紡ぐのは奇跡を起こす祝詞


 「祓え給い 清め給え 神ながら守り給い 幸え給え」


 一月も経っていないが、神楽はもう詩織がいない日々を想像できなかった。

 神楽から溢れ出す神の祝福は詩織に降り注いだ。
 気が付くと真っ暗な暗闇にいた。

 燃えるような痛みも震えるような寒さもない。

 でもその代わり何も感じなかった。

 (神楽様は大丈夫でしょうか?まあ、でもきっと私の代わりはいますよね)

 子どもの致死率が高いこの時代。

 お家断絶から逃れるために殿方は正妻である正室の他に側室を迎える。

 そして、正室がいなくなったら後室を迎えたり、側室から正室に上げたりしていた。

 そのことに不満はない。

 至って普通なこと。

 それなのに、どこか苦しくて痛かった。

 (刺されたところは痛くないのに変ね......)

 神楽と結婚することも特に気にすることなかった。

 剣の鍛錬さえできれば良かった。

 このまま真っすぐ歩けばきっと幸せに満ちた世界が広がっている。

 それなのに、疲れているはずないのに、歩くのは遅くなっていく。

 そんな時だった。

 どこからか淡い光が降り注がれた。

 温かい雨は真っ暗な世界に降り注いだ。

 (この気配は知っている......)

 人を覚えるのが苦手な詩織はまじないで判断していたから誰なのか分かる。

 いつも隣にいて

 どうしようもないほど愛情表現に不器用で

 それなのに優しくて......

 (神楽様、今参ります)

 詩織は出口から背中を向けて淡い光で輝く道を歩き出した。

 痛みも苦しみもない暖かな光に包まれた。