私の名はリリー。サイデンフィルと呼ばれる、空の民と共に息づく小さな一族である。成鳥してもなお、体長は十センチ足らず。茶褐色の羽毛に包まれ、朝ごとに目覚めては、その羽毛を整え、声を調律する。こうした美意識を育むことは、私が私たる所以と言えるだろう。
もっとも、羽根を持ちながらも、その小ささゆえに自由に空を舞うことは叶わない。空に向かう私の手は届かないが、地上や枝を跳び歩くのは得意技である。俊敏であることは、私の誇りだ。
そんな私の一日は、かつて仲間のもとを離れ、この未知の地に足を踏み入れたあの日から、決まってオーラの歌声で始まる。
私の拠点は、ツリーハウスの二階にあるニウスの部屋の窓際に作られた小さな家。朝、オーラの歌声が聞こえると、まだ眠りの中にいるニウスを横目に、体を使って窓を押し開け、外へと飛び出す。目の前には、いつもの木の枝。私にとっての定番の通り道だ。そこへひょいと飛び乗り、専用の階段を駆け降りる。
「おはよう、リリー。今日も素敵ね」
オーラは私がいつ訪れても良いように、朝の目覚めとともに窓を開けておいてくれる。私はその隙間から入って、頭を下げ、羽を震わせて挨拶を返す。オーラもいつも輝いているよ、と。
「おは、よう、リリー。今日は――何の当番だっけぇ」
「ウェナおはよう! 今日は一緒に果樹園だよー」
「オーラ、おはよう。そっかぁ、そうだったぁ――」
この挨拶が届くころ、隣室のウェナがぼんやりとした目で窓から顔をのぞかせる。まだ覚めきらない朦朧とした声に、私も挨拶を返す。
耳を澄ますと、家の奥から朝の支度をする音が。キッチンからの小気味良い音が、活気に満ちた一日の幕開けを告げている。今日はエイディとパニーが朝食の当番で、すでに準備が進んでいるようだ。
---
再びニウスの枕元に舞い降ると、私は羽で肩をつついた。彼は少し眉をひそめ、体をくるりと寝返りを打つばかり。そう簡単には目覚めてくれそうにない。私は足で再度、彼の肩をトントンと叩く。すると、やっと寝言が漏れた。
「――あと、五分ー」
出た、朝の定番。毎朝、繰り返されるニウスの呪文。しかし、その五分が実際は三十分以上であることを私は知っている。
とはいえ、任務を途中で放り出すわけにはいかない。今日はニウスはカフェの当番がある。さらに根気よく肩をトントン、またトントンとつつき続ける。数度目の攻撃で、ニウスの瞼がかすかに震え、ついに不満そうに目を開けてこちらを見上げた。
「わかったってばぁ――おはよう、リリー」
ついにお目覚めか、と内心で安堵するも、その言い方はまるで無理やり起こされたように聞こえる。実際にはこちらが親切で起こしてやっているというのに、少しばかり腑に落ちない。
彼が背を伸ばしてようやく完全に目覚めると、これで任務完了、と私は心の中で呟く。何倍も大きいニウスが、眠気を引きずりながら間延びした背伸びをする姿には愛嬌があり、いつの間にかさっきの不満がふっと消えていった。
---
「ニウスー、先行くな―」
「ちょ、ちょっと待って! 急ぐから」
「急かしてねぇから、ゆっくり食えって。先行ってるだけだって」
「もう終わるから、ちょっとだけ待って」
「――はいはい」
朝食が済むと、皆それぞれの持ち場へ散っていく。マクリス、オーラ、ウェナは果樹園に向かい、エイディとニウスはカフェの当番へ。テウシィ―は学校だ。今日はパニーが休みらしく、どこかへ出かける準備をしている。そして私は、こうした日はお決まりとしてニウスの後をついていく。これには、私と彼との秘かな約束があるからだ。
それはかつてニウスが私に託した言葉であり、私の胸に宿る一縷の夢でもある。いずれ目覚めるであろう彼の風の力で一番最初に私を風に乗せ、空へと誘うという約束。私はその言葉を受けた者として、そばにいてその瞬間を見届けると決めたのだ。
「ねぇ、リリーまだ怒ってるのー? ごめんって言ったでしょー?」
「何? 何やらかしたんだ?」
「――朝、僕が全然起きなかったから」
「なんだそれ、いつものことじゃん。リリー、それがニウスだぞ?」
「フォローになってないんだけど」
「フォローしてねぇもん」
とはいえ、私には一つ根に持っていることがある。あの日、ニウスが故郷を離れ、この未知の地へ旅立とうとしたとき、彼は言葉だけで別れを告げ、ひとり船に忍び込んだことだ。約束があるにもかかわらず、ひとりで船出した彼には、今も少なからぬ不満を抱いている。そばにいなくてどうして約束を守れるのか、と小さな憤りを胸に秘めつつ、最近では起こす手段が多少強引になりがちで、たびたび苦言を呈されているが、ここは甘んじて受け入れてほしい。約束とは、何があろうとも守るものだから。
「ねぇ、リリー、今日は雨が降りそうかな? ――テラスは出さないほうがいいかなー」
外に出たニウスが問うので、私は遠くの空を見やり、湿った空気に注意を払う。厚い雲の動きからすると、昼頃には雨が降り出しそうと頷く。私は天気予報にかけては一目置かれる存在であり、最近ではマクリスやテウシィーまでが真っ先に私の予報に頼るようになった。
こうしてテラス席は見送り、店内の準備に集中する。掃除は前日の店じまいで済ませているため、朝はセッティングと簡単な清掃だ。ニウスは手馴れた手つきでテーブルを整え、エイディはキッチン周りをきびきびと準備する。私はディスプレイの果物の傷みや異物の混入を確認し、清潔で清々しい店内を保つために任務に励む。
---
「「こんにちはー!」」
「こんにちは。あら、今日はエイディとニウスにリリーも担当なのね。豪華だわ」
ドアが開き、一組目の客が入店する。私は歓迎の意を込め、小さな羽をひと振りした。訪れたのは毎週欠かさず通ってくれる近所の常連さんで、リムンにとっても心強い味方である。
「今日は何になさいますか?」
「いつものジャムをいただくわ。――飲み物は何にしようかしら」
「あ! そういえば風邪は大丈夫ですか?」
ニウスが彼女と顔を合わせたのは、二週間前が最後だった。先週は来店がなかったが、マクリスから聞いた話では、彼女の家族が風邪をひき、彼女も来られなかったとのこと。気にかけていたニウスの問いかけに、彼女の表情が和らいだ。
「あら、そうだったわね。幸い私には移らなかったわ。心配してくれてありがとうね――でも免疫力はつけておかないとね」
常連さんはメニューをじっと見つめ、指先で項目をたどりながら思案する。やがて、『免疫力向上:ビタミンCが感染症予防をサポートし、回復を促進』と記された一文で手が止まり、満足げに頷いた。
「では、グアバジュースをいただくわ」
---
「まだかなー」
ニウスがぽつりとつぶやく。
「ったくー。午前中に取りに来るって言ってたのによー」
私たちはぽつぽつと訪れる客を迎えているうちに、気がつけばお昼の賑わいも和らぎ、ゆったりとしたひとときが流れていた。通常ならここで昼食に入るところだが、今日は少々事情が異なる。理由は至って明快。見逃せない予約が控えているからだ。
その予約とは、孫のために特別に注文された誕生日ケーキである。ヒーローに憧れるその子のため、ケーキには“ヒーローケーキ”という名前が付けられ、冷蔵庫の中でその姿を崩さぬよう冷やされている。今朝、午前中に受け取りに来ると聞いていたのだが、定刻を過ぎても常連客の姿が現れず、少しばかり気がかりでならない。
---
「こんばんは――」
事の発端は、あの後マクリスが常連客に連絡を試みるも、電話は通じず、やむなくエイディ、ニウス、そして私が買い出しを兼ねて様子を見に行くこととなった。常連――名はアマヤという――の家に着くと、室内から微かな物音は聞こえるものの、応答は一向にないという妙な状況である。
「――誰?」
不意に背後から声がかかる。振り向けば、ニウスと同じくらいの年頃の少年が立っていた。
「こんにちは! カフェリムンの者です」
「こんにちは――リムン?――あっ、ケーキだ! 僕のケーキでしょ? できたの?どれどれ?」
「そうそう、ケーキの――でも、今は持ってきてないんだ」
「――持ってきてないの?」
「取りに来るって話だったんだけど、いつまで経っても来ないし、電話も通じないから、様子を見に来たんだ」
「そうなんだ?! おばあちゃん、どこ行ったんだろ? 出かけたのかな――」
「でも、音はしてるし、誰かはいるはずだよ?」
「え?!――今はおばあちゃんだけのはずなんだけど――ただいまー! おばあちゃーん?」
少年は首をかしげつつも、玄関から声をかけながら家の奥へと進んでいった。そしてリビングに差しかかると、ソファに横たわる女性の姿が見えてきた。
「――おばあちゃん? どうしたの?」
「ティランおかえりね――ごめんね、腰を痛めて動けなくてねぇ。誕生日の準備まだできてないの、ごめんねぇ」
「――えぇ!?大丈夫なの? 病院行く?」
「そうだね、連絡してもらえるかい?」
「ちょっと待って、電話する!」
---
「いやー、一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなってよかったなー」
「だね、ティランはもうヒーローだったね!」
その後、近隣に住むアマヤさんの息子夫婦が駆けつけてくれたおかげで、無事に病院まで送り届けることができ、私たちはようやく肩の力を抜いてカフェへ戻ることができた。
今回の事態が早めに発覚したのは、何を隠そうティランの誕生日ケーキ――ヒーローケーキのおかげである。ティランは友達の家で遊んでいる最中、窓から自宅の前をうろうろするニウスたちの姿が目に入ったそうだ。不審者かと思い警戒しながら家に戻り、祖母の異変に気づくことができたというわけだ。アマヤさんは祝いの準備ができなかったことを悔やんでいたが、ティランはそれどころか、祖母が無事だったことを心から喜んでいた。なんとも優しい、思いやりのある子だ。
実は、このケーキにはニウスの秘かな気持ちが込められている。ヒーロー好きのための誕生日ケーキということで、ニウスはマクリスに協力を申し出た。そして作業に取りかかる前、故郷の習わしに従って"祈捧の雫"を飲み、この子がいつかヒーローになれますようにと、心から願いを込めてケーキを仕上げたのだ。そしてその願いが叶ったかのように、ティランはその日、アマヤさんにとって立派なヒーローになっていた。
ニウスたちの耳にはまだ届いていないが、リムンの商品は幸運をもたらす、そういう噂は少しずつ広がっているのだ。これは鳥たちの情報網から得た私だけが知る情報だ。
カフェの営業が終わり、店じまいを済ませると、自由な時間が始まる。ニウスの場合は大抵サッカーの自主練だ。今日はテウシィーが所属するサッカーチームの練習日でもあるが、ニウスは残念ながら当番と重なったため不参加に。それでも彼は一人でボールを追いかける。
ボールよりも小さな私は応援することしかできないが、それでも彼がいつか試合に出場する日を心から祈っている。そんなことを想いながら練習風景を見つめていると、気づけば夢の中へと引き込まれていた。
---
「ねぇ、リリー。明日、僕休みなんだ。また僕の練習に付き合ってくれる? いいとこ見つけたからさ、そのままピクニックしよーよ!」
夕食を終え、寝支度が終わったころを見計らい、私は再びニウスの部屋へ足を運ぶ。彼は寝相が悪く、そばで眠ろうものなら無防備な寝返りに巻き込まれる恐れがある。それでも彼は幼い頃から寂しがり屋で、眠りに落ちるその瞬間まで私がそばにいることを望んでくる。そんな彼の甘えには、つい応えてしまうのだ。彼が深い眠りについたのを見届けてから、そっと自分の寝床へ戻るのが常である。
両親を失い、孤独な心で私を頼りにしてきた彼。何をするにもどこへ行くにも私を必要とし続けた姿は、今も胸に深く焼き付いている。そして彼は、いつか自らの力が目覚める日が来たなら、その最初のひとときを私に捧げたいと誓ってくれたのだ。彼の過去も、未来も、傍にいるのはこの私。
「おやすみ、リリー」
彼の夢路が、明日が、そしてその先の果てしない未来が、すべて彼の喜びで満たされるように。そう小さく祈りながら、私は彼の額にそっと口づけた。
もっとも、羽根を持ちながらも、その小ささゆえに自由に空を舞うことは叶わない。空に向かう私の手は届かないが、地上や枝を跳び歩くのは得意技である。俊敏であることは、私の誇りだ。
そんな私の一日は、かつて仲間のもとを離れ、この未知の地に足を踏み入れたあの日から、決まってオーラの歌声で始まる。
私の拠点は、ツリーハウスの二階にあるニウスの部屋の窓際に作られた小さな家。朝、オーラの歌声が聞こえると、まだ眠りの中にいるニウスを横目に、体を使って窓を押し開け、外へと飛び出す。目の前には、いつもの木の枝。私にとっての定番の通り道だ。そこへひょいと飛び乗り、専用の階段を駆け降りる。
「おはよう、リリー。今日も素敵ね」
オーラは私がいつ訪れても良いように、朝の目覚めとともに窓を開けておいてくれる。私はその隙間から入って、頭を下げ、羽を震わせて挨拶を返す。オーラもいつも輝いているよ、と。
「おは、よう、リリー。今日は――何の当番だっけぇ」
「ウェナおはよう! 今日は一緒に果樹園だよー」
「オーラ、おはよう。そっかぁ、そうだったぁ――」
この挨拶が届くころ、隣室のウェナがぼんやりとした目で窓から顔をのぞかせる。まだ覚めきらない朦朧とした声に、私も挨拶を返す。
耳を澄ますと、家の奥から朝の支度をする音が。キッチンからの小気味良い音が、活気に満ちた一日の幕開けを告げている。今日はエイディとパニーが朝食の当番で、すでに準備が進んでいるようだ。
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再びニウスの枕元に舞い降ると、私は羽で肩をつついた。彼は少し眉をひそめ、体をくるりと寝返りを打つばかり。そう簡単には目覚めてくれそうにない。私は足で再度、彼の肩をトントンと叩く。すると、やっと寝言が漏れた。
「――あと、五分ー」
出た、朝の定番。毎朝、繰り返されるニウスの呪文。しかし、その五分が実際は三十分以上であることを私は知っている。
とはいえ、任務を途中で放り出すわけにはいかない。今日はニウスはカフェの当番がある。さらに根気よく肩をトントン、またトントンとつつき続ける。数度目の攻撃で、ニウスの瞼がかすかに震え、ついに不満そうに目を開けてこちらを見上げた。
「わかったってばぁ――おはよう、リリー」
ついにお目覚めか、と内心で安堵するも、その言い方はまるで無理やり起こされたように聞こえる。実際にはこちらが親切で起こしてやっているというのに、少しばかり腑に落ちない。
彼が背を伸ばしてようやく完全に目覚めると、これで任務完了、と私は心の中で呟く。何倍も大きいニウスが、眠気を引きずりながら間延びした背伸びをする姿には愛嬌があり、いつの間にかさっきの不満がふっと消えていった。
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「ニウスー、先行くな―」
「ちょ、ちょっと待って! 急ぐから」
「急かしてねぇから、ゆっくり食えって。先行ってるだけだって」
「もう終わるから、ちょっとだけ待って」
「――はいはい」
朝食が済むと、皆それぞれの持ち場へ散っていく。マクリス、オーラ、ウェナは果樹園に向かい、エイディとニウスはカフェの当番へ。テウシィ―は学校だ。今日はパニーが休みらしく、どこかへ出かける準備をしている。そして私は、こうした日はお決まりとしてニウスの後をついていく。これには、私と彼との秘かな約束があるからだ。
それはかつてニウスが私に託した言葉であり、私の胸に宿る一縷の夢でもある。いずれ目覚めるであろう彼の風の力で一番最初に私を風に乗せ、空へと誘うという約束。私はその言葉を受けた者として、そばにいてその瞬間を見届けると決めたのだ。
「ねぇ、リリーまだ怒ってるのー? ごめんって言ったでしょー?」
「何? 何やらかしたんだ?」
「――朝、僕が全然起きなかったから」
「なんだそれ、いつものことじゃん。リリー、それがニウスだぞ?」
「フォローになってないんだけど」
「フォローしてねぇもん」
とはいえ、私には一つ根に持っていることがある。あの日、ニウスが故郷を離れ、この未知の地へ旅立とうとしたとき、彼は言葉だけで別れを告げ、ひとり船に忍び込んだことだ。約束があるにもかかわらず、ひとりで船出した彼には、今も少なからぬ不満を抱いている。そばにいなくてどうして約束を守れるのか、と小さな憤りを胸に秘めつつ、最近では起こす手段が多少強引になりがちで、たびたび苦言を呈されているが、ここは甘んじて受け入れてほしい。約束とは、何があろうとも守るものだから。
「ねぇ、リリー、今日は雨が降りそうかな? ――テラスは出さないほうがいいかなー」
外に出たニウスが問うので、私は遠くの空を見やり、湿った空気に注意を払う。厚い雲の動きからすると、昼頃には雨が降り出しそうと頷く。私は天気予報にかけては一目置かれる存在であり、最近ではマクリスやテウシィーまでが真っ先に私の予報に頼るようになった。
こうしてテラス席は見送り、店内の準備に集中する。掃除は前日の店じまいで済ませているため、朝はセッティングと簡単な清掃だ。ニウスは手馴れた手つきでテーブルを整え、エイディはキッチン周りをきびきびと準備する。私はディスプレイの果物の傷みや異物の混入を確認し、清潔で清々しい店内を保つために任務に励む。
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「「こんにちはー!」」
「こんにちは。あら、今日はエイディとニウスにリリーも担当なのね。豪華だわ」
ドアが開き、一組目の客が入店する。私は歓迎の意を込め、小さな羽をひと振りした。訪れたのは毎週欠かさず通ってくれる近所の常連さんで、リムンにとっても心強い味方である。
「今日は何になさいますか?」
「いつものジャムをいただくわ。――飲み物は何にしようかしら」
「あ! そういえば風邪は大丈夫ですか?」
ニウスが彼女と顔を合わせたのは、二週間前が最後だった。先週は来店がなかったが、マクリスから聞いた話では、彼女の家族が風邪をひき、彼女も来られなかったとのこと。気にかけていたニウスの問いかけに、彼女の表情が和らいだ。
「あら、そうだったわね。幸い私には移らなかったわ。心配してくれてありがとうね――でも免疫力はつけておかないとね」
常連さんはメニューをじっと見つめ、指先で項目をたどりながら思案する。やがて、『免疫力向上:ビタミンCが感染症予防をサポートし、回復を促進』と記された一文で手が止まり、満足げに頷いた。
「では、グアバジュースをいただくわ」
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「まだかなー」
ニウスがぽつりとつぶやく。
「ったくー。午前中に取りに来るって言ってたのによー」
私たちはぽつぽつと訪れる客を迎えているうちに、気がつけばお昼の賑わいも和らぎ、ゆったりとしたひとときが流れていた。通常ならここで昼食に入るところだが、今日は少々事情が異なる。理由は至って明快。見逃せない予約が控えているからだ。
その予約とは、孫のために特別に注文された誕生日ケーキである。ヒーローに憧れるその子のため、ケーキには“ヒーローケーキ”という名前が付けられ、冷蔵庫の中でその姿を崩さぬよう冷やされている。今朝、午前中に受け取りに来ると聞いていたのだが、定刻を過ぎても常連客の姿が現れず、少しばかり気がかりでならない。
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「こんばんは――」
事の発端は、あの後マクリスが常連客に連絡を試みるも、電話は通じず、やむなくエイディ、ニウス、そして私が買い出しを兼ねて様子を見に行くこととなった。常連――名はアマヤという――の家に着くと、室内から微かな物音は聞こえるものの、応答は一向にないという妙な状況である。
「――誰?」
不意に背後から声がかかる。振り向けば、ニウスと同じくらいの年頃の少年が立っていた。
「こんにちは! カフェリムンの者です」
「こんにちは――リムン?――あっ、ケーキだ! 僕のケーキでしょ? できたの?どれどれ?」
「そうそう、ケーキの――でも、今は持ってきてないんだ」
「――持ってきてないの?」
「取りに来るって話だったんだけど、いつまで経っても来ないし、電話も通じないから、様子を見に来たんだ」
「そうなんだ?! おばあちゃん、どこ行ったんだろ? 出かけたのかな――」
「でも、音はしてるし、誰かはいるはずだよ?」
「え?!――今はおばあちゃんだけのはずなんだけど――ただいまー! おばあちゃーん?」
少年は首をかしげつつも、玄関から声をかけながら家の奥へと進んでいった。そしてリビングに差しかかると、ソファに横たわる女性の姿が見えてきた。
「――おばあちゃん? どうしたの?」
「ティランおかえりね――ごめんね、腰を痛めて動けなくてねぇ。誕生日の準備まだできてないの、ごめんねぇ」
「――えぇ!?大丈夫なの? 病院行く?」
「そうだね、連絡してもらえるかい?」
「ちょっと待って、電話する!」
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「いやー、一時はどうなることかと思ったけど、なんとかなってよかったなー」
「だね、ティランはもうヒーローだったね!」
その後、近隣に住むアマヤさんの息子夫婦が駆けつけてくれたおかげで、無事に病院まで送り届けることができ、私たちはようやく肩の力を抜いてカフェへ戻ることができた。
今回の事態が早めに発覚したのは、何を隠そうティランの誕生日ケーキ――ヒーローケーキのおかげである。ティランは友達の家で遊んでいる最中、窓から自宅の前をうろうろするニウスたちの姿が目に入ったそうだ。不審者かと思い警戒しながら家に戻り、祖母の異変に気づくことができたというわけだ。アマヤさんは祝いの準備ができなかったことを悔やんでいたが、ティランはそれどころか、祖母が無事だったことを心から喜んでいた。なんとも優しい、思いやりのある子だ。
実は、このケーキにはニウスの秘かな気持ちが込められている。ヒーロー好きのための誕生日ケーキということで、ニウスはマクリスに協力を申し出た。そして作業に取りかかる前、故郷の習わしに従って"祈捧の雫"を飲み、この子がいつかヒーローになれますようにと、心から願いを込めてケーキを仕上げたのだ。そしてその願いが叶ったかのように、ティランはその日、アマヤさんにとって立派なヒーローになっていた。
ニウスたちの耳にはまだ届いていないが、リムンの商品は幸運をもたらす、そういう噂は少しずつ広がっているのだ。これは鳥たちの情報網から得た私だけが知る情報だ。
カフェの営業が終わり、店じまいを済ませると、自由な時間が始まる。ニウスの場合は大抵サッカーの自主練だ。今日はテウシィーが所属するサッカーチームの練習日でもあるが、ニウスは残念ながら当番と重なったため不参加に。それでも彼は一人でボールを追いかける。
ボールよりも小さな私は応援することしかできないが、それでも彼がいつか試合に出場する日を心から祈っている。そんなことを想いながら練習風景を見つめていると、気づけば夢の中へと引き込まれていた。
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「ねぇ、リリー。明日、僕休みなんだ。また僕の練習に付き合ってくれる? いいとこ見つけたからさ、そのままピクニックしよーよ!」
夕食を終え、寝支度が終わったころを見計らい、私は再びニウスの部屋へ足を運ぶ。彼は寝相が悪く、そばで眠ろうものなら無防備な寝返りに巻き込まれる恐れがある。それでも彼は幼い頃から寂しがり屋で、眠りに落ちるその瞬間まで私がそばにいることを望んでくる。そんな彼の甘えには、つい応えてしまうのだ。彼が深い眠りについたのを見届けてから、そっと自分の寝床へ戻るのが常である。
両親を失い、孤独な心で私を頼りにしてきた彼。何をするにもどこへ行くにも私を必要とし続けた姿は、今も胸に深く焼き付いている。そして彼は、いつか自らの力が目覚める日が来たなら、その最初のひとときを私に捧げたいと誓ってくれたのだ。彼の過去も、未来も、傍にいるのはこの私。
「おやすみ、リリー」
彼の夢路が、明日が、そしてその先の果てしない未来が、すべて彼の喜びで満たされるように。そう小さく祈りながら、私は彼の額にそっと口づけた。