―――幻贖のランプの育て方――――――
1.新月の翌日の太陽が沈むまでの間に"祈捧の雫"を植物に注ぐ
("祈捧の雫"を植物に注ぐことで、次の新月の夜までに幻贖の力を持つ"幻贖のランプ"が育つ)
2.太陽が沈んだ新月の夜に"幻贖のランプ"を探す
3."幻贖のランプ"の周囲(半径約2メートル以内)の植物を採取する
4."祈捧の雫"を作る
5.手順1に戻る
—―—―—―—―—―—―—―—―—―—
新しい朝が、カーテンを引いた。波が岸を撫でては戻り、空の色と光が水面に揺れながら映り込んでいる。朝の光が部屋へと滑り込み、おはようと告げる。波音を伴奏に海鳥が唄った。
---
「ニミー、おはよう!」
「おはよう――ニミー」
「エル、ニウス、二人ともおっはよーう!」
草木は露をまとい、朝の光で眩しそうに目を覚ました。しずくが葉先から落ち、大地へと吸い込まれていく。エルを先頭に、まだ夢の余韻を引きずるニウスが兄の後ろを歩き、ニミーはその隣を軽やかなステップでついていく。
「ねぇねぇ、ねぇねぇ、聞いて聞いて!」
「どうしたの?」
「前よりね、もっーと大きくてね、ふわっふわにね、作れるようになったの! ふわっふわの、もっこもこだよ! すっごーく、上手くなったんだから!」
「ほんと? 早くみたいなぁ。楽しみ!」
「ぼくも――たのしみ――」
「いくよー! ちゃーんと、見ててね!」
畑に着くと、ニミーは足を止め、空に向かって掌を広げた。すると指先からじわりと白い靄が立ち上がる。ふんわりと揺れる靄は少しずつ密度を増しながら空気をまとい、掌の上で渦を巻き始めた。彼女が意識を集中させると、靄は呼応しゆっくりと凝縮し、その輪郭が次第に明確になっていく。
ゆらゆらと膨らむ靄が整うと、そこには小さな白雲が生まれていた。浮かび上がった雲はふわりと宙に浮き、ニミーの掌からするりと離れ、目の高さほどの位置に漂う。前よりも一回り大きな雲がふわふわと漂い、ニミーは満足そうな顔を浮かべた。同じ手順で次々と雲を作り出し、彼女の周囲は雲たちで賑やかになっていく。目をこすっていたニウスも、すっかり目が覚めたようにその光景に見入っていた。
「どーだ! すごいでしょ!」
「――ほんとだ!前より大きい! さすが、ニミー!」
「すごい、すごい、すごいよ!」
「でしょー! いっぱい練習したんだもんね!」
「すごいなー!かっこいいなー!――僕もやりたいなぁ」
「ニウスは飛ぶんでしょー。雲は私の専門よ!」
「――ぼく、まだ飛べないもん」
幾つもの雲を次々と浮かばせた後、ニミーは"祈捧の雫"を取り出し、雲の中へ注ぎ込んでいく。一滴が触れるたび、全体に色がじんわりと染み渡り、淡くも鮮やかに広がっていく。溶け込んだ雲は、柔らかい光に包まれて、やがて黄金色の光をたたえ始めた。
エルとニウスも、それぞれ準備を整えていた。エルは雲の前で一瞬目を閉じ、集中する。彼の手のひらから風が生まれ、渦を巻くように雲を持ち上げ、空中へと送り出す。足元でも小さな風のうねりが巻き起こり、彼の体もわずかに宙へ持ち上がる。だ不安定ながらも、体勢を崩さないよう懸命に両腕でバランスを取る姿は、気迫に満ちていた。
「――じゃぁ、僕は、――うわっ。真ん中に行ってくるねっ――っちょ、あれっ」
「――わかった。僕は、また端っこかぁ」
「拗ねっないっでよっ――おっとっ。終わったら、一緒に練習しようよっと」
「――また飛べないかもしれない」
「やってみなきゃわかんっ――ないっだろっ。水やり終わったら――れ、練習するよ! じゃ、行ってっくるー」
「――行ってらっしゃい」
「ほんとに、気を付けてね―!」
エルと小さな雲の群れが、畑の中心へと吸い寄せられ進んでいく。エルが腕を大きく広げ、円を描くように動かすと、雲たちは一斉に応え収束を始めた。それぞれが間合いを詰め、ついには一つの大きな塊へと融け合っていく。
エルの仕草に合わせて、その雲は畑の上空でふわりと漂い、しっとりとした雨を畑に撒き始めた。雨粒は光を纏いながら降り注ぎ、土はその輝きを飲み込み、地上に命が吹き込まれた。
---
畑の端で、ニウスとニミーは如雨露を手にしたまま黙々と作業を続けていた。ふと、ニウスの視線がエルへと吸い寄せられた。あの姿に、憧れと苛立ちが混じり合い、瞳の奥に陰りが滲む。少し経ってようやく自分に戻り、手元に意識を戻すが、気づけば水は一部分にばかり注がれ、畑の一角がしっとりと濡れていた。慌てて如雨露を持ち直したものの、軽くなった如雨露とは対照的に、彼の心にはずしりと重みが増していくのだった。
---
"祈捧の雫"が、畑の風景を一変させた。
雨を降らせ終えた雲がすっと形を失い、エルは風を収めて地上に戻ってきた。彼は畑全体を見渡して満足そうに頷く。
「終わったー!」
「エル―! こっちも終わったよー!」
作業の完了を祝い、三人は畑に向かって祈りを込めて、揃って大声を上げた。
「心を込めて、せーのっ」
「「「元気に育つんだよー!」」」
「「「いつも、ありがとうー!」」」
---
「――あ、エル、前より上達したんじゃない? 安定してきた気がする!」
「わかる?僕もそう思うんだー! ニミーもさ、大きな雲作ってたよね!すごいことだよね!」
「でっしょー!」
「――ねぇ、兄ちゃん、練習」
「わかってるって。あ、ニミーはどうする?」
「うん! 私も練習するー!」
エルはまず風の流れを掴む練習から教え始める。ニウスは兄の言葉に従い、目を閉じて周囲の音に集中する。彼の周りを通り抜ける風のささやき、地面を滑るように通るその音が、ニウスの感覚を次第に引き寄せていった。葉のさざめき、空気のわずかな震え――その一つ一つが風の向きと勢いを教えてくれる。ニウスはさらに意識を澄ませ、風の筋を掴むように手元に誘導しようとする。
「――どんな感じ?」
「葉っぱが揺れてる。風はね――さわさわした感じ?」
「どこら辺が一番強く感じる?」
「膝くらいのところかな――たぶん」
「じゃぁ、ちょっとしゃがんで膝あたりに手を当てて」
ニウスは言われた通り身を低くして手を膝に当てる。風がそこを撫でる確かな感触、言葉にできないが、今度こそ掴めた気がする。
「よし、そしたら、手のひらに乗せて、渦巻きのイメージするんだ」
教わった通り、渦巻くイメージを心で反復する。けれども、どうしてもその先に到達できない。風が渦を巻く。その感覚が一体どんなものなのか、まるで掴める気がしない。どれだけ繰り返しても、自分には届かないところにあるもののようだ。
「――今日もだめだ。手のひらなんかに乗らないよ。――いつもと同じだ」
気づけば、膝裏には軽い痺れが広がり、汗ばむ掌はしっとりとしていた。挑戦を重ねるたび、掴めそうで掴めない感覚に苛立ちを覚え、その重みが心をじわじわと沈めていく。目の前が曇り、焦点がぼやけ、気力が薄れていく。
「――どう?」
「――今日もだめだ。全然。わかんない」
「ちょっと休憩する?」
「しない――絶対しない」
震えが混じる声と、迷いを含む瞳にエルは言葉を飲み込む。胸の奥で何かがもつれ、次の言葉が出てこない。
---
一方で、少し離れた場所ではニミーが黙々と雲を作る練習を続けていた。そろそろ昼時を告げるように、腹の奥で小さな虫が鳴く。
「――ねぇ、ニウスの調子はどう?」
「頑張ってるんだけどね――なかなか難しいみたい」
「まだ、続けそうだね。どうする? 今日はここでランチ食べる?」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
「おっけー! 今日は何かなー楽しみ!」
畑を後にし、道を駆け上がっていくニミー。その姿が小さくなっていくにつれ、エルは再びニウスの方に視線を戻した。
---
「おーい! お昼だよー!」
太陽が真上に迫る頃、ニミーが草を踏みしめ、籠バッグを携えて走り寄ってきた。その姿に、ニウスの張り詰めていた心がふっと緩む。
「――つーかーれーたー」
ニウスはその場に大の字になり、冷たい地面に背中を預けたまま空を眺める。ひんやりした心地が全身を包む。
「頑張ってたねー」
「――へとへとでペコペコだよ」
「今日のランチはパニー作だよー」
「「野菜たっぷりサンドウィッチだ!!」」
「だーいせいかーい!」
ニミーがバッグを開けると、色とりどりのサンドウィッチが顔を出した。
「「「虹色だーーーー!」」」
パニーはサンドウィッチの芸術家。赤いパプリカ、橙の人参、黄色のズッキーニ、緑のレタス、青のブルートマト、藍のブルーベリーソース、そして紫キャベツ――全色が詰まったその姿に、自然と心が弾む。瞳に映る鮮やかな色は、彼らの気力を取り戻す魔法だ。
さらにニミーは、生搾りのリンゴジュースの瓶を取り出した。黄金色に透けるそれは、太陽に似ている。
ニウスはサンドウィッチにかぶりつき、シャキシャキとした野菜の感触が口いっぱいに広がると、疲労を吹き飛ばす。エルもまた、その絶妙なハーモニーを味わいながら、その昼食の温かさに、ふと目を細めた。
「ありがとう、ニミー」
「――うまっ。ありがと!」
「パニーもありがとうー!」
「帰ったら伝えようね」
ニウスはサンドウィッチに夢中でかじりつき、エルは喉を鳴らしてジュースを一気に飲み干す。三人はその場で談笑を続け、笑い声がさざめいた。
---
「――ニミーは練習どうだった?」
「ちょっとだけ大きい雲ができた気がする!」
「いいなー」
「ニウスは?」
「――僕はぜんぜんだめ。才能ないんだよ。きっと」
「そうかなー?――エルは去年から飛べるようになったんだよね?」
「そう、だからニウスも今年中にはできるよ思うんだよなー」
「でも一度も、風をまーったく動かせられないんだよ? エルが飛べるようになったのは確かに去年だけど――風を動かせるようになったのは、もっと前だったよ」
エルが初めて掌で風を掴んだのは、もう一年半も前のこと。それまで毎日空に向かって何度も挑戦し、思うようにいかない日々にくじけそうになっていた。今のニウスのように。
ある日、エルは療養していた海鳥を空へ帰す時を迎えた。小さな命に大空を羽ばたけるよう、祈りを込めたその瞬間、ふと掌に何かが触れた。何度も試してきたが、今回は何かが違う。掌の中で風が生きて舞い踊り始めた。海鳥はその風に乗り、エルの手から空へ舞い上がっていった。
---
ランチを終え、再び話が練習へと戻ると、ニウスの肩が少し落ちた。しばし忘れていた焦りと不安が戻り、表情に影が落ちる。
「ニウスはさ、空飛べたら何したい?」
「――え?」
「私は、風使えないから、飛べないじゃない?だから直接的なアドバイスはできないけど――私はね、おっきな雲作って、その上に乗って浮かんでみたいなー! って思いながら作ってるの!」
ニミーは落胆気味のニウスを覗き込みながら問いかけた。ニウスは少し考え、ぽつりと答えた。
「僕は空に近づきたい。それに――」
その時、サイデンフィルたちがひらりと近づいてきた。ニウスは手を伸ばし、一番近くにいたリリーに掌を向けると、リリーは軽やかにちょこんと乗り、満足げに目を細めた。ニウスはそっとリリーを頭の上に持ち上げた。柔らかな羽が陽光を浴びきらめく。彼の頭で安定すると、安堵したかのように、次々と彼の周囲に寄り添い親しげに集まってきた。
「――リリーたちと遊びたいんだ」
サイデンフィルたちは、小さな身体に淡青から紫紺へのグラデーションの羽毛をまとい、オニキスの瞳を持つ。飛べない彼らは空の民の力を借りて風に乗り、舞うことを好む。ニウスは、彼らと共にこの色彩の舞台で風に触れ、空を巡りたいと願っている。
リリーがぴょんと肩に飛び移り、さりげなく彼に寄り添った。小さなぬくもりが彼の肩からじんわりと心にしみわたる。リリーは彼が風を掴むその日が来ると信じている。
1.新月の翌日の太陽が沈むまでの間に"祈捧の雫"を植物に注ぐ
("祈捧の雫"を植物に注ぐことで、次の新月の夜までに幻贖の力を持つ"幻贖のランプ"が育つ)
2.太陽が沈んだ新月の夜に"幻贖のランプ"を探す
3."幻贖のランプ"の周囲(半径約2メートル以内)の植物を採取する
4."祈捧の雫"を作る
5.手順1に戻る
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新しい朝が、カーテンを引いた。波が岸を撫でては戻り、空の色と光が水面に揺れながら映り込んでいる。朝の光が部屋へと滑り込み、おはようと告げる。波音を伴奏に海鳥が唄った。
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「ニミー、おはよう!」
「おはよう――ニミー」
「エル、ニウス、二人ともおっはよーう!」
草木は露をまとい、朝の光で眩しそうに目を覚ました。しずくが葉先から落ち、大地へと吸い込まれていく。エルを先頭に、まだ夢の余韻を引きずるニウスが兄の後ろを歩き、ニミーはその隣を軽やかなステップでついていく。
「ねぇねぇ、ねぇねぇ、聞いて聞いて!」
「どうしたの?」
「前よりね、もっーと大きくてね、ふわっふわにね、作れるようになったの! ふわっふわの、もっこもこだよ! すっごーく、上手くなったんだから!」
「ほんと? 早くみたいなぁ。楽しみ!」
「ぼくも――たのしみ――」
「いくよー! ちゃーんと、見ててね!」
畑に着くと、ニミーは足を止め、空に向かって掌を広げた。すると指先からじわりと白い靄が立ち上がる。ふんわりと揺れる靄は少しずつ密度を増しながら空気をまとい、掌の上で渦を巻き始めた。彼女が意識を集中させると、靄は呼応しゆっくりと凝縮し、その輪郭が次第に明確になっていく。
ゆらゆらと膨らむ靄が整うと、そこには小さな白雲が生まれていた。浮かび上がった雲はふわりと宙に浮き、ニミーの掌からするりと離れ、目の高さほどの位置に漂う。前よりも一回り大きな雲がふわふわと漂い、ニミーは満足そうな顔を浮かべた。同じ手順で次々と雲を作り出し、彼女の周囲は雲たちで賑やかになっていく。目をこすっていたニウスも、すっかり目が覚めたようにその光景に見入っていた。
「どーだ! すごいでしょ!」
「――ほんとだ!前より大きい! さすが、ニミー!」
「すごい、すごい、すごいよ!」
「でしょー! いっぱい練習したんだもんね!」
「すごいなー!かっこいいなー!――僕もやりたいなぁ」
「ニウスは飛ぶんでしょー。雲は私の専門よ!」
「――ぼく、まだ飛べないもん」
幾つもの雲を次々と浮かばせた後、ニミーは"祈捧の雫"を取り出し、雲の中へ注ぎ込んでいく。一滴が触れるたび、全体に色がじんわりと染み渡り、淡くも鮮やかに広がっていく。溶け込んだ雲は、柔らかい光に包まれて、やがて黄金色の光をたたえ始めた。
エルとニウスも、それぞれ準備を整えていた。エルは雲の前で一瞬目を閉じ、集中する。彼の手のひらから風が生まれ、渦を巻くように雲を持ち上げ、空中へと送り出す。足元でも小さな風のうねりが巻き起こり、彼の体もわずかに宙へ持ち上がる。だ不安定ながらも、体勢を崩さないよう懸命に両腕でバランスを取る姿は、気迫に満ちていた。
「――じゃぁ、僕は、――うわっ。真ん中に行ってくるねっ――っちょ、あれっ」
「――わかった。僕は、また端っこかぁ」
「拗ねっないっでよっ――おっとっ。終わったら、一緒に練習しようよっと」
「――また飛べないかもしれない」
「やってみなきゃわかんっ――ないっだろっ。水やり終わったら――れ、練習するよ! じゃ、行ってっくるー」
「――行ってらっしゃい」
「ほんとに、気を付けてね―!」
エルと小さな雲の群れが、畑の中心へと吸い寄せられ進んでいく。エルが腕を大きく広げ、円を描くように動かすと、雲たちは一斉に応え収束を始めた。それぞれが間合いを詰め、ついには一つの大きな塊へと融け合っていく。
エルの仕草に合わせて、その雲は畑の上空でふわりと漂い、しっとりとした雨を畑に撒き始めた。雨粒は光を纏いながら降り注ぎ、土はその輝きを飲み込み、地上に命が吹き込まれた。
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畑の端で、ニウスとニミーは如雨露を手にしたまま黙々と作業を続けていた。ふと、ニウスの視線がエルへと吸い寄せられた。あの姿に、憧れと苛立ちが混じり合い、瞳の奥に陰りが滲む。少し経ってようやく自分に戻り、手元に意識を戻すが、気づけば水は一部分にばかり注がれ、畑の一角がしっとりと濡れていた。慌てて如雨露を持ち直したものの、軽くなった如雨露とは対照的に、彼の心にはずしりと重みが増していくのだった。
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"祈捧の雫"が、畑の風景を一変させた。
雨を降らせ終えた雲がすっと形を失い、エルは風を収めて地上に戻ってきた。彼は畑全体を見渡して満足そうに頷く。
「終わったー!」
「エル―! こっちも終わったよー!」
作業の完了を祝い、三人は畑に向かって祈りを込めて、揃って大声を上げた。
「心を込めて、せーのっ」
「「「元気に育つんだよー!」」」
「「「いつも、ありがとうー!」」」
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「――あ、エル、前より上達したんじゃない? 安定してきた気がする!」
「わかる?僕もそう思うんだー! ニミーもさ、大きな雲作ってたよね!すごいことだよね!」
「でっしょー!」
「――ねぇ、兄ちゃん、練習」
「わかってるって。あ、ニミーはどうする?」
「うん! 私も練習するー!」
エルはまず風の流れを掴む練習から教え始める。ニウスは兄の言葉に従い、目を閉じて周囲の音に集中する。彼の周りを通り抜ける風のささやき、地面を滑るように通るその音が、ニウスの感覚を次第に引き寄せていった。葉のさざめき、空気のわずかな震え――その一つ一つが風の向きと勢いを教えてくれる。ニウスはさらに意識を澄ませ、風の筋を掴むように手元に誘導しようとする。
「――どんな感じ?」
「葉っぱが揺れてる。風はね――さわさわした感じ?」
「どこら辺が一番強く感じる?」
「膝くらいのところかな――たぶん」
「じゃぁ、ちょっとしゃがんで膝あたりに手を当てて」
ニウスは言われた通り身を低くして手を膝に当てる。風がそこを撫でる確かな感触、言葉にできないが、今度こそ掴めた気がする。
「よし、そしたら、手のひらに乗せて、渦巻きのイメージするんだ」
教わった通り、渦巻くイメージを心で反復する。けれども、どうしてもその先に到達できない。風が渦を巻く。その感覚が一体どんなものなのか、まるで掴める気がしない。どれだけ繰り返しても、自分には届かないところにあるもののようだ。
「――今日もだめだ。手のひらなんかに乗らないよ。――いつもと同じだ」
気づけば、膝裏には軽い痺れが広がり、汗ばむ掌はしっとりとしていた。挑戦を重ねるたび、掴めそうで掴めない感覚に苛立ちを覚え、その重みが心をじわじわと沈めていく。目の前が曇り、焦点がぼやけ、気力が薄れていく。
「――どう?」
「――今日もだめだ。全然。わかんない」
「ちょっと休憩する?」
「しない――絶対しない」
震えが混じる声と、迷いを含む瞳にエルは言葉を飲み込む。胸の奥で何かがもつれ、次の言葉が出てこない。
---
一方で、少し離れた場所ではニミーが黙々と雲を作る練習を続けていた。そろそろ昼時を告げるように、腹の奥で小さな虫が鳴く。
「――ねぇ、ニウスの調子はどう?」
「頑張ってるんだけどね――なかなか難しいみたい」
「まだ、続けそうだね。どうする? 今日はここでランチ食べる?」
「うん、ありがとう。そうしてくれると助かるよ」
「おっけー! 今日は何かなー楽しみ!」
畑を後にし、道を駆け上がっていくニミー。その姿が小さくなっていくにつれ、エルは再びニウスの方に視線を戻した。
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「おーい! お昼だよー!」
太陽が真上に迫る頃、ニミーが草を踏みしめ、籠バッグを携えて走り寄ってきた。その姿に、ニウスの張り詰めていた心がふっと緩む。
「――つーかーれーたー」
ニウスはその場に大の字になり、冷たい地面に背中を預けたまま空を眺める。ひんやりした心地が全身を包む。
「頑張ってたねー」
「――へとへとでペコペコだよ」
「今日のランチはパニー作だよー」
「「野菜たっぷりサンドウィッチだ!!」」
「だーいせいかーい!」
ニミーがバッグを開けると、色とりどりのサンドウィッチが顔を出した。
「「「虹色だーーーー!」」」
パニーはサンドウィッチの芸術家。赤いパプリカ、橙の人参、黄色のズッキーニ、緑のレタス、青のブルートマト、藍のブルーベリーソース、そして紫キャベツ――全色が詰まったその姿に、自然と心が弾む。瞳に映る鮮やかな色は、彼らの気力を取り戻す魔法だ。
さらにニミーは、生搾りのリンゴジュースの瓶を取り出した。黄金色に透けるそれは、太陽に似ている。
ニウスはサンドウィッチにかぶりつき、シャキシャキとした野菜の感触が口いっぱいに広がると、疲労を吹き飛ばす。エルもまた、その絶妙なハーモニーを味わいながら、その昼食の温かさに、ふと目を細めた。
「ありがとう、ニミー」
「――うまっ。ありがと!」
「パニーもありがとうー!」
「帰ったら伝えようね」
ニウスはサンドウィッチに夢中でかじりつき、エルは喉を鳴らしてジュースを一気に飲み干す。三人はその場で談笑を続け、笑い声がさざめいた。
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「――ニミーは練習どうだった?」
「ちょっとだけ大きい雲ができた気がする!」
「いいなー」
「ニウスは?」
「――僕はぜんぜんだめ。才能ないんだよ。きっと」
「そうかなー?――エルは去年から飛べるようになったんだよね?」
「そう、だからニウスも今年中にはできるよ思うんだよなー」
「でも一度も、風をまーったく動かせられないんだよ? エルが飛べるようになったのは確かに去年だけど――風を動かせるようになったのは、もっと前だったよ」
エルが初めて掌で風を掴んだのは、もう一年半も前のこと。それまで毎日空に向かって何度も挑戦し、思うようにいかない日々にくじけそうになっていた。今のニウスのように。
ある日、エルは療養していた海鳥を空へ帰す時を迎えた。小さな命に大空を羽ばたけるよう、祈りを込めたその瞬間、ふと掌に何かが触れた。何度も試してきたが、今回は何かが違う。掌の中で風が生きて舞い踊り始めた。海鳥はその風に乗り、エルの手から空へ舞い上がっていった。
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ランチを終え、再び話が練習へと戻ると、ニウスの肩が少し落ちた。しばし忘れていた焦りと不安が戻り、表情に影が落ちる。
「ニウスはさ、空飛べたら何したい?」
「――え?」
「私は、風使えないから、飛べないじゃない?だから直接的なアドバイスはできないけど――私はね、おっきな雲作って、その上に乗って浮かんでみたいなー! って思いながら作ってるの!」
ニミーは落胆気味のニウスを覗き込みながら問いかけた。ニウスは少し考え、ぽつりと答えた。
「僕は空に近づきたい。それに――」
その時、サイデンフィルたちがひらりと近づいてきた。ニウスは手を伸ばし、一番近くにいたリリーに掌を向けると、リリーは軽やかにちょこんと乗り、満足げに目を細めた。ニウスはそっとリリーを頭の上に持ち上げた。柔らかな羽が陽光を浴びきらめく。彼の頭で安定すると、安堵したかのように、次々と彼の周囲に寄り添い親しげに集まってきた。
「――リリーたちと遊びたいんだ」
サイデンフィルたちは、小さな身体に淡青から紫紺へのグラデーションの羽毛をまとい、オニキスの瞳を持つ。飛べない彼らは空の民の力を借りて風に乗り、舞うことを好む。ニウスは、彼らと共にこの色彩の舞台で風に触れ、空を巡りたいと願っている。
リリーがぴょんと肩に飛び移り、さりげなく彼に寄り添った。小さなぬくもりが彼の肩からじんわりと心にしみわたる。リリーは彼が風を掴むその日が来ると信じている。