「――くそっ!」

 一歩の差で、エイディの叫びは波のさざめきに掻き消され、あっけなく深淵に呑み込まれてしまった。

 水上集落での暮らしは、海の民と共に、海が常に息づく中で成り立っていたエイディにとって、海の流れや動きは、日々の呼吸と同じように自然に体得されるものであった。衝動的に飛び込んでしまったが、目標との距離や遊泳速度、海の環境を考慮しても助けられると信じていたのに、無情にも目標を見失ってしまった。

「――邪魔すん、なっ! 見えねぇ、つってんだろ!」

 周囲を見渡すと、散在する木片や布切れが視界に入り込む。これらは先ほど炎上した船の残骸であろうと推測され、散乱する破片が視界を次第に曇らせ、全体の見通しを遮っていた。エイディは残骸を手でかき分けながら、姿の見えない漂流者を必死に捜索していた。

 その時、エイディは視界の隅に、何かの動きが捉えた。その影は海底から矢のように急速にエイディに迫っていき――。



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「はぁぁぁぁぁ」

 氷の上にエイディは、大の字に無造作に横たわっていた。そのすぐ近くには、先ほど矢のような速さで駆けつけてくれたパニーによって、辛うじて救出された漂流者――年齢は三十代から四十代で、筋骨隆々とした体格の男性――もまた、同様に横たわっている。海面から引き上げた直後は彼が息絶えているのではないかと焦燥感が募ったが、迅速な応急処置が功を奏し、飲み込んだ海水を吐き出させることに成功したのは、つい先ほどのことだった。彼の顔色は依然として青白く、薄い呼吸を繰り返しながら目を閉じたまま意識は戻っていないものの、確かに脈は感る。


「あー、まじで助かった。ありがとな、パニー」
「いえいえ――エイディは? 大丈夫?」
「んー大丈夫ー、じゃねぇなー。なんかすっげー気が抜けた」

 エイディは土の民であり、チャソタパスとの共生に由来する"幻贖の力"を宿している。土の民は海や空の民と比較して、五感が卓越し、腕力や脚力においても比類なき力量を誇る。日常生活においては体力の限界を超える経験がなかったため、この程度、容易に乗り越えられると高を括っていた。しかし、未踏の水域や緊迫した状況の影響か、エイディの動きは自身の予想を超えて鈍く、その体力は著しく消耗していた。

「――は――」
「――ん?」

 ふと、エイディが音のする方に視線を向けると、気絶していた漂流者が意識を取り戻し始めた様子が窺えた。彼の唇が微かに動き、かすかな声が漏れたが、その言葉は意味を成さぬまま、かろうじて耳に届く程度だった。

「――んー? エイディ、今なんて言ったー?」
「いや、今のは俺じゃなくて――」
「――え、じゃぁ?! 今の漂流者のおじさん? 意識戻った?!」
「――だ――」

 サリーにセルーノたちへの伝言を託したパニーは、彼の微かな反応に気づき、彼の傍らに膝をついて心配そうに顔を覗き込んだ。目は薄く開かれ、唇は動きながらも何かを伝えようと試みていたが、その言葉の輪郭は依然としてぼんやりとしていた。意識が完全には回復していないのか、視線はどこか定まらない。

「――え? 何? 聞こえなかった。もう一回言って?」

 耳を寄せてみるものの、パニーはその言葉が理解できず、困惑の表情を浮かべるばかりだった。唇が再び動いた気配を感じたものの、瞼はそのままゆっくりと降りていった。
 
「え――漂流者のおじさん? ねぇ、ちょっと聞こえてる? おーい! ねぇってば、起き――え? うそでしょ、まさか――」
「いや、パニー落ち着けって、たぶん大丈夫だから。脈、脈確認して――」
「え?! あ、そっか、そうだよね――脈はー、ある! 生きてました! あー、今焦った。 な、なんだよも――よかったよ――」
「いや、焦りすぎだって」



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「バカバカバカバカバカー!!」
「ごめんね?」
「悪かったよ――」
「うっ、うっよかったよー!もうー! エイディも、パニーも、二人のこと、本当に本当に心配したんだから!」
「――ウェナってば、ごめんね? 心配かけて」
「ばかばかばか! パニーのバカ―!エイディもバカ―! ふたりのおばかー!」
「――悪かったって」
「ほんとに心の奥底から真剣に反省して! すっごく、すっごく不安だったんだから!」
「わかった、わかった」
「ウェナ? 私は、ほら、この通り本当に反省してるよ?ね?」
「――パニーは許してあげる。でも、エイディはだめ! 心が籠ってない!やり直し!」
「悪かったって、本当に――」
「もう二度としない?」
「――しません」
「じゃぁ、今回だけ、許してあげる――で、この漂流者のおじさん?は? ちゃんと息してる? 生きてるの?」
「気絶しちゃってるけど、大丈夫、生きてるよ」
「そう? なら、よかったけど――」

 何とかウェナたちと合流し、再び船上に戻ったパニーたちは、ようやく安堵の息をつくことができた。ウェナからは熱烈な歓迎というよりもむしろ叱責が浴びせられたものの、その口調とは裏腹に、彼女の表情には明らかに安堵と喜びが溢れていた。その姿を目にしたパニーとエイディは、自然と彼女の感情に引き寄せられるように、心からの笑みを浮かべた。

「――でも、このおじさんどうするの?」
「それなんだよなー。助けられたのはいいものの、なーんも考えてなかった――そうだ、オーラは? 大丈夫か?」
「大丈夫だと思う。まだ起きてないけど――」
「え? なんでオーラ?――オーラに何かあったの? そういえばいないね?船室?」
「――あーそっか。パニーいなかったもんね。ま、今は寝てるから大丈夫だよ、パニー。あとでちゃんと説明するから――先に、このおじさんをどうにかしたいんだけど――」
「え、ちょっと待って。おじさんよりオーラが心配! 私ちょっと様子みてくる――」
「――ちょっと待って、パニー。今はだめ! 寝てるからさ、そっとしておいてあげて。今のオーラに余計な刺激を与えたくないの、だからオーラが起きる前に、このおじさんをどうにかするのー!」

 パニーは姿の見えないオーラの安否を案じ、落ち着かない様子を見せていたが、ウェナに諭されると、頻繁に船室の方へと視線を送るだけで、しかたなく話題を戻すことにした。

「どっか最寄りの島とか行く?――あそこは?」
「寄ってからどうすんだよ。そこら辺に置いておくわけにもいかないだろ?」
「――誰かが見つけてくれるといいんだけど」
「――でもそんな人がいるかも、わからなくない?」
「そんな時間は、さすがにねぇぞ?」
「――つまり、合流地点までの進行方向上の島で、都合よくこのおじさんをどうにかしてくれそうな人がいる、と――」
「――いや、難易度高すぎか」

 エイディは言葉を紡ぎながら、視線を遥か彼方へと投じた。マクリスとの合流が刻々と迫る中で、今からどこかの島に立ち寄り、彼を安全な場所に預ける余裕は、果たしてあるのだろうか。結果的に助けられたこと自体は良かったものの、現在の状況を顧みず無鉄砲に動き出してしまったことを、エイディはひっそりと反省していた。

「じゃぁ、どうする? まさか、このまま連れてくの?」
「連れて行きたいわけじゃねぇけどさー――けどなー、それしかなくないか?」
「――えーでも、今のオーラに会わせたくないしな――ねぇ、あと時間どのくらい?」
「このまま何事もなく順調ならー、えーっと、ねぇ――あと二時間くらい? 結構ギリギリだと思うよ?」
「だなー」
「うん、やっぱそんな余裕ないから、今からどっか寄るってのは現実的じゃないね」
「だなー。とりあえず、このままマクリスと合流するしかねぇか」
「――本当にそれしかない?」
「と思うなー」

 オーラが目覚め、未知の漂流者と対面する際の反応には依然として不安が残るものの、ウェナは他に良い案が思い浮かばず、しぶしぶながらもエイディの提案に頷いた。これにより、次の行動がひとまず決定した。

「しょうがないよね――うん、じゃぁ、おじさんのことはこれで、決まりね! じゃぁ、オーラの話に戻るけど――」
「よかった、待ってた! ねぇ、オーラはどうしたの?何があったの?」
「あー、うん。パニー落ち着いて? とりあえず、今は大丈夫だから、ね?」
「ほんとに? 見てきちゃダメ?」
「じゃぁ、ちょっとだけ――あ、オーラ寝てるんだから静かにね」



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「あ、やばっ――ニウスのことすっかり忘れてた」
「――あー、パニーそこからだったか」

 できるだけ音を立てぬように船室の扉を慎重に開け、オーラの様子を伺おうとしたその瞬間、予想だにしない光景がパニーの視界に飛び込んできた。思わず大声を上げそうになったが、数刻前に別れたはずの――とはいえ実際に姿を見たわけではないが――ニウスが、なぜかそこにいたのだ。エイディは素早く手を伸ばし、パニーの口を押さえ込み、その叫びをかろうじて抑えることができた。

「◆〇×★△☆◇――!!!」
「しっー!あとで説明するから」
「???」

 ニウスがなぜここにいるのか、説明もないままにウェナの手招きに従い、その先を見やると、確かに言葉通り、オーラは眠っていた。外傷を負った様子もないその姿に、一度は安堵したものの、直後に目に飛び込んできたのは、オーラの傍らで眠るリリーの姿であった。今度も叫び声が喉の奥から込み上げるのを抑えきれずにいるパニーに、ウェナとエイディが素早く協力し、口を押さえ込むことでようやくその声を抑えることができた。オーラの様子に安堵の余韻も束の間、パニーは混乱と驚愕の中で、ただただ状況を把握できずに呆然とするばかりであった。

「???」
「??」

 吐き出したい気持ちを何とか飲み込み、もう一度オーラの様子を確認したパニーは、ニウスに説明を求めるべく手招きの合図を送った。ニウスの代わりに、今度はウェナがオーラの傍らに留まり、パニーたちは再びできるだけ音を立てないようにして船室を後にした。



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「――なるほどねー。すごいわ、ニウスの行動力も、エルの頭脳も」
「――ありがと、パニー」
「いや、感心するところじゃないからな? ニウスもそこで照れんなよ」

 パニーに続き、今度はニウスが、甲板で横たわる見知らぬ男の出現に心底驚愕し混乱していた。その中で、唯一全体の状況を把握していたエイディが中心となり説明を進めた。パニーとニウスは、事の経緯をなんとか理解し、ようやく状況を把握することができた。

 その後、新たなトラブルに見舞われることもなく、航海は平穏無事に進行し、ただただ穏やかな海の景色を背景に、談笑のひとときを楽しむことができた。

 パニーは、セルーノとサリーと共に軽食を摂り――予定していた半分ほどの休憩時間しか確保できなかったが――時折、パニーが船の先導を交代しながら、時間は穏やかに流れていった。

 また、何度かオーラとおじさんの様子を確認しては――彼らは依然として意識を取り戻していないが――顔色の改善を確認しては安堵の息をつくことを繰り返していた。

 

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「――ねぇ、もしかして、あれじゃない? マクリスの船。もう着いてるみたい、ほら――」
「あ、ほんとだ!」
「おお! やっとか!」
「デザインも――うん、ばっちり! 間違いない!」

 ついに船の前方に、一隻の船影が視界に浮かび上がった。特徴的な流線型の白いフォルムの輪郭が、祖父から事前に共有されていた通りであることを確認したパニーは、興奮のあまり声を上げた。エイディもまた、視線を合わせて船の特徴を確認し、隣にいるニウスと喜びのハイタッチを交わした。

「「「おーい!」」」
「こんにちはー!マクリスー! 聞こえますかー? こちら、パニーでーす!」
「こんにちはー! こちら、エイディー!」
「――こんにちは、えっと、勝手についてきたニウスです」

 パニーは船の上で大きく手を振り上げ、力強く声を張り上げた。エイディもまた声を上げ、ニウスはかなり遠慮がちに声をかける。彼らの呼び声が波を越えてマクリスの船に届くと、その船上からも手を振る姿が確認できた。

「――聞こえてるよー。いやー若いっていいねー。元気いっぱいで。はい、はい、私がマクリスです。どーも、こんにちは」

 約六時間にわたる、パニーたちだけの初めての航海は、予期せぬ事態がなんとか乗り越え、こうして終幕を迎えるのだった。