「――リリー?あれ? どう、して」
「どうして、はこっちのセリフだろ! ニウス、なんでここにいんだよ」
「そうだよ、ニウス!もう! ほんとーにびっくりしたんだから!」
「そうだ、そうだ! 説明責任!」
「えっと――これは」

 エイディ、ウェナ、オーラの三人が声高に詰め寄るその喧騒に、リリーは反応し、眠りから引き戻された。彼女は不満げに一声を発し、なおも半ば眠りに誘われるかのように、ニウスの膝元へと身を寄せた。ようやく覚醒したニウスは、徐々に周囲の状況を把握し始めたものの、その表情には困惑の色が浮かび、言葉を紡ぐ口元はしどろもどろに動いた。

「――あ、えっと、その、ね? 僕も連れてってって、言ったでしょ? だから、その――」
「それは、知ってるよ? けど、おばあちゃんたちに、だめって言われて、納得したんじゃなかったの?」
「だから、旅立ち前の最後だからって、昨日みんなで過ごそうってなったんじゃない――ニウスが言ったんだよ?」
「――でも、でも、僕、どうしても行きたかったんだもん」
「だもんって――もー! どうするのよー」
「まぁ、今更乗り込んだこととやかく言ってもしかたねぇかぁ――はぁ。とりあえず、この後だ。どうする?」
「ほんと、どうする? 今から戻るとか無理じゃない?」
「そしたら、このまま続行? でも、マクリスなんて言うかなぁ」
「とにかく、まずはパニーにも知らせないと」
「――あれ?そういえば、パニーは? いないの?」
「パニーはサリーとお散歩中」
「――はぁ。ニウスがいなくなって皆今頃大騒ぎだぞ」

 ニウスの不在に気づいた仲間たちが、今頃どれほど喧騒の渦中にあるかは、想像に難くなかった。しかし、彼を戻すという選択肢は、即ちマクリスとの約束を守れないことを意味していた。

「ねぇ、ニウス。ちなみにいつ忍び込んだの?」
「――えっと、夜中に」
「夜中?! よくそんなに早起きできたね? 昨日も遅くまで起きてなかった?」
「――僕、寝なかったから」
「寝なかったって――え?! まさか、ずっと起きてたの?! 忍び込むために?!」
「――うん、皆が寝るの待ってて」
「――で、忍び込んだら安心して、寝ちまったってわけか」
「うん――」
「ねぇ、ニウス、私、怒ってるわけじゃないよ? ただ、皆絶対心配してるよ?」
「うん――けど」
「――けど?」
「――」
「もしかして、誰か知ってるの?」
「エルか――」
「――エルだね」
「――うん。兄ちゃんは知ってるから、フォローしてくれてるよ。だから、きっと大丈夫だと、思う」
「全然、大丈夫ではないよね」
「エルは今頃大変だよー?」
「だなー」
「じゃぁ、リリーは?」
「――そうだよ! なんでリリーもここにいるの?」
「え、ニウスが連れてきたんじゃないの?!」
「違うよ! 僕、乗る直前にちゃんと、いってきますってお別れしたよ!」
「え、じゃぁ、どう――ん? ちょっと、待って――ねぇ」
「―ウェナ? どうしたの?」
「船、止まってない?」
「「「――え?」」」

 ウェナが突然、声を上げた。船が水を切り裂く音はすっかりと掻き消え、代わりに、波が船腹を叩く微かな音だけが響いていた。何故セルーノは停止しているのか。やむを得ず停船せねばならぬ理由があったのか――リリーとニウスの件に続き、事態が一層錯綜(さくそう)する中、三人の胸中には不吉な予兆が渦巻き、次第にその不安が募っていった。

「ねぇ、セルーノ! どう――」

 ウェナは不安を抱えつつ、海中を覗き込もうとセルーノに呼びかけようとしたその瞬間、不意に視線が水平線の彼方へと吸い寄せられた。

「ねぇ、あれ――見える?  向こうの方角、なんだろう?」
「――え、どこ?」
「ほら、あっち」

 エイディ、オーラ、そしてニウスも、ウェナの言葉に促されるまま顔を上げ、視線を注いだ。彼らの目に映じたのは、青々と広がる大海原の中にぽつりと孤立し、浮かび上がる得体の知れぬ何かの存在であった。

「――あれか! なんだ?」
「なんだろ?」
「あかい――」
「あかい?」
「外界船? かな――だからセルーノ、船止めたのかも」



---



「ねぇ、あれ――」
「――燃えて、る?」
「うわっ!まじだ! 燃えてる!」

 マクリスとの合流まで、外界船に近づくことを禁止されていたにもかかわらず、ウェナたちはセルーノに促し、その炎に誘われるまま進路を定めてしまった。風に煽られるたびに揺らめく炎の舌は、その不穏さをいよいよ濃厚にし、その異様な存在感を際立たせていった。

「――っ」
「――おい、オーラ! 大丈夫か!」
「オーラ!?」

 どさりと響く音に反応し、ウェナが顔を向けると、蒼白な顔でしりもちをついたオーラの姿が目に飛び込んできた。

「え?! 何があったの!? どうしたの、オーラ? 大丈夫?」
「おい、大丈夫か!」
「ねぇ、何があったの?!」
「わ、わかんないよ。突然オーラが――」

 三人で懸命に呼びかけたが、オーラは一切の反応を示さない。彼女の瞳は炎の揺らめきに囚われ、呆然としたまま、その場に崩れるように座り込んでいた。

「――」
「オーラ、しっかりして!ねぇ、オーラってば! 私の声、聞こえてる?!ねぇってば!」
「おいっ! どうしたんだよ!」

 オーラの口元がわずかに動いたかのように見えたが、言葉は音として形を成す前に、彼女の唇の間で掻き消えてしまった。三人は何をすべきか皆目見当がつかず、ただ互いに顔を見合わせたが、いかなる解を見出すこともできなかった。揺らめく炎の光に照らされる中で、オーラの震えは、一層激しさを増していくばかりであった。

「――う――ん」
「――ん? なんだ?」
「オーラ? なんて言ったの? オーラ――」

 幾度目かの呼びかけの末、オーラが何かを呟いた。しかし、その声音はあまりにも脆弱で、意味を明瞭に捉えることが叶わなかった。彼女の肩が微かに震え、そのまま深く俯いてしまった。手で顔を覆い隠し、全身が小刻みに震え続けている。

「オーラ――ねぇ、私の声だけ聞いて。私だよ。ウェナだよ。ここにいるよ」

 何をすべきか判断がつかず、ウェナは思わずオーラに抱きついた。普段は同等の体躯を持つはずのオーラが、その瞬間、異様に縮こまり、か細く感じられた。その身体を抱きしめるうちに、ウェナの心にも同様の不安が浸透していくのを、溢れ出そうになる涙とともに必死に抑え込む。彼女はオーラに一抹の安寧を与えるべく、さらにその身を力強く抱きしめた。

「ねぇ――オーラがなんでこうなったのか、わかる?」
「ぼく――わかんない。オーラどうしちゃったの」
「いや、俺も――わかんねぇ。でも、原因があるとすれば、あの船以外に考えられねぇ、よな。とにかく、ここから離れるぞ」
「――うん、だよね」
「ねぇ、ニウス、羽織るもの探してくれる? さっき、リリーが寝てたケースに入ってると思う――エイディ、船よろしくね」
「わかった!」
「――おう」



---



「ウェナ、これでいい?」
「――うん、ありがと。」


 赤い炎から遠ざかる中、ウェナはようやくオーラを船室へと誘導することに成功した。依然として震えが残っているオーラだったが、徐々に平静を取り戻しつつあった。ニウスが羽織りを手渡すと、ウェナはそれを受け取り、静かにオーラの頭から被せた。

「オーラ、大丈夫だよ。怖かったら目を閉じてて。私とニウスが居るから、だから大丈夫。ここは、さっきニウスが隠れてた場所。リリーもいるよ」
「オーラ、大丈夫? ぼく、ぼくさっきここでぐっすり眠れてたよ! 安心できる場所だよ!」

 オーラの視界を閉ざし、温もりだけを感じられるよう、包み込むようにしっかりと抱きしめた。ニウスもまた、オーラの背を優しく撫でながら寄り添うと、硬直していた彼女の身体から徐々に力が抜けていく。リリーもずっと心配そうにオーラを見守っている。やがて、彼女の身体から完全に力が抜け、深い眠りへと沈んでいった。

「――オーラ?」
「寝ちゃったみたい。とりあえず、よかった。これでもう怖くない、よね?」
「うん。たぶん――オーラどうしたのかな」
「わかんない――けど、こんなオーラ、私初めて見たよ」
「――ぼくも、初めて見た」
「今更だけど、ニウスは平気?」
「怖かったけど、でも、大丈夫だよ」
「そう? それなら、私船の様子とか見てくるから、オーラについててくれる?」
「うん――ねぇウェナは?」
「――え?」
「ウェナは大丈夫?」
「――ありがと。でも大丈夫。」

 ウェナは胸底にわだかまる不安を抱えたまま、再び船室を後にし、甲板へと足を向けた。遠方でなおも燃え盛る炎の輝きが、再度彼女の瞳に映り込んだが、ここまで距離を置けば、オーラとニウスの眼には不気味な炎の光が届くことはあるまい。

「――ウェナ! どうだった?オーラは?」
「あの調子のままだったけど、寝ちゃった」
「そっか――どうしたんだろうな。船自体が怖いってわけじゃないよな。今も乗ってるわけだし」
「全然わかんないけど、たぶんそう、だと思う。だとしたら、あの船が原因? 確かに私も怖かったけど――」

 その時、ウェナの耳に微かな声が届き、彼女の体は再び硬直した。言葉として明瞭には捉えられないまま、囁くように彼女の耳元をかすめた。今度は何が起こっているのだろうか――予期せぬ事態に備えて出航したものの、この短時間に相次いで降りかかる問題に、ウェナの心は既に疲労の色を濃くしていた。外界の危険は覚悟していたものの、ここまでの過酷さを予見するには至らなかった。

「――た――――」

 風の音と波のざわめきが錯綜し、その声をかき消そうとするが、それでもなお、確かに彼女の耳は拾ってしまう。

「――た――す――け――」

 今度こそ、はっきりと聞こえたそれは、紛れもなく切迫した助命の声であった。ウェナは、これ以上の不測の事態に耐えられないと焦燥に苛まれた。それでも何とか気を奮い立たせ、船縁に身を乗り出して、声の発信源を探ろうと海を見渡した。

「エイディ!」
「――ウェナ、あっちだ! 誰かいる!」

 二人の視線が捉えたのは、波間に幽かに浮かび沈む影だった。遠方に漂泊するその影は、無防備に波の戯れに翻弄され、今にも呑み込まれんとする儚い姿が、二人の瞳に焼きついた。

「え――なんで? なんで泳がないの?――このままだと波にのまれちゃう!」
「知らねぇ! なんでだ!」
「わかんないよ! 溺れちゃう!」
「まじで、なんなんだよさっきから!」
「――エイディ!? 何してるの?!」
「何するって、んなもん、決まってんだろ! 助けに行くんだ!」
「助けにって! そんなのどうやって――」

 パニーを待つ猶予など、もはや微塵も許されない。海の民の技量には遠く及ばぬものの、エイディもまた海で鍛え上げてきたのだ。

「――いいか、ウェナはここにいろ。パニーが戻ってきたら、状況伝えてくれ」
「――ねぇ、ほんとに行くの?」
「行く」
「――わ、わかった。ねぇ、エイディ、ほんとに気を付けて。パニーもうすぐ戻ってくるはずだから、そしたらすぐに伝えるから、だから――」
「落ち着けって、ウェナ」
「無理! 1ミリも落ち着くわけない!」
「いいか? 俺は、絶対、大丈夫。ほら、ウェナも――」
「――エイディは、絶対、大丈夫」
「よしっ、行ってくる!」

 エイディは船に備え付けられたロープに手を伸ばし、それを身体へと巻きつけた。続いて、浮き具を片手に握り締め、海へと身を投じた。彼の身体が深淵へと吸い込まれると、ウェナの胸には不安の波が押し寄せ、ざわめきが広がっていく。



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「くそっ!」

 エイディの進路を阻むように、波が立ちはだかる。漂流者との距離が縮まるにつれ、その姿はますます脆弱さを露わにし、細々とした影が彼の視界に映った。彼の心には焦燥が募り、何とかしてその命を掴み取ろうと、必死に腕をかき続けた。

「つ、かめ――!」

 その切迫した叫びにも応えることなく、動きは次第に鈍化し、糸が断たれたかのように力を失い、漂流者は無力に、ゆっくりと海中へと沈降していった。エイディは息を詰め、即座に潜り込んで全力で手を伸ばした。しかし、冷たく無情な水が手に絡みつくだけだった。

 ほんの少し前まで確かにそこにあった命が、蜃気楼のごとく消え失せ、彼の手の届かぬ彼方へと遠ざかっていった。