『――ここを、今よりも、もっと、広い世界にするんだ!――シェルトたちが、自由に過ごせる世界にする!――もっと、もっとみんなが楽しく過ごせる。そんな世界にするんだ!――僕はみんなが大好きだから!――それが僕の、決意だ!』
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『三年後のペオへ――』
最初の一筆を記し終えたパニーは、一旦筆を置き、窓枠に頬杖をついた。視線を広がる海景に移し、寄せては返す波に魅入る。その変わらぬ美しさに心を馳せ、行く末を思索した。指先で窓ガラスを軽く叩きながら、思慮に沈んでいった。
「本当にこれでよかったのかな――」
彼女は再びペンを執り、紙に向き直った。先日のペオの誕生日に耳にした彼の決意が、折に触れ、脳裏を掠める。彼の夢は、自分の夢と多くの点で共鳴しているのに、パニーの夢は自らの意思で歩を進め、ペオの夢は他者の意思に押し流されている。
『元気にしてるかな? この手紙を見てるってことは、私が迎えに来てないってことだよね。まずは、謝らせて。迎えにいけてなくてごめんね』
彼の心を抑え込むことが果たして正当なのだろうか。いっそ一緒に旅立てたらよかったのに、そう考えるのは、パニーが未だ幼く、青臭いからであろうか。その夢を阻むことの無念さを、パニーは切に感じる。彼の瞳に宿っていた、あのどこまでも透き通った意志を思い浮かべ、その未来を心に描く。
『この手紙はね、ペオが夢に向かって旅立ちを決めた時、もし私が迎えに行けなかった場合、ペオの道標となるように書いているよ』
続けてマクリスの住所や今後の計画などを綴る。時折、波音が彼女の思考を攫い去り、筆を留めさせることもあったが、何とか文面を仕上げ、その内容を反芻した。最終的に名前を認めると、手紙を畳み、蝋で封を施し、その上に海の民の誇りを捺して、未来への希望を託した。
明日、私は旅に出る。
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パニーはエムスタ、ロロ、ロディ、ペオと共に、秘密基地にて寛いでいた。ここは、高く聳える巨木が林立する深遠なる森の中である。枝葉は空高く繁茂し、四方八方に広がる様は壮観である。それらの枝は空中で橋で繋がり、巨大な蜘蛛の巣の如き複雑なネットワークを形成していた。
「「――あ、流れ星!」」
パニーとロロが声を揃えて叫び、同時に天を指し示すと、エムスタたちもつられて視線を送ったが、既に流れ星は天空を駆け抜け、彼方へと消え去っていた。
「――あー!見逃した! もっと早く教えてよ!」
「流れる前に? 難易度高すぎない?」
ロディは悔恨の声を上げつつ布団の上で身を捻った。
「ついに、明日だー」
「ねー、あっという間だったねー」
「――本当にねー」
頭を静かに後方へ傾け、パニーが視界全体を無窮の星空に捧げると、彼女の瞳に煌めきが移った。大自然の懐に抱かれたパニーは、日々の生活を自然の美と共に享受していた。
「どうなるんだろうなー」
あれほど待ち望んでいた新天地への旅立ちであったが、時が迫るにつれて、パニーの心には慣れ親しんだこの生活への名残惜しさが募り始めていた。
「――ねぇ、パニー姉」
「んー?」
ロロはふと口を開き、視線を横に移し、パニーを見つめた。パニーは依然として、無限に広がる星々の輝きに心を奪われていた。
「――どう? 心境は?」
「そーだなー。楽しみ八割、不安二割、かな」
「えー、寂しさは割り当てないの?」
「――あ、寂しさ十割追加で」
「なにそれ、雑じゃん。愛が足らない」
「うそ、愛してる」
「だから、それが雑なの」
ロロの指摘に、パニーは肩を竦め、口角を僅かに上げた。ロロもまた、その答えに思わず笑い声を漏らした。
「大丈夫かなー?ちゃんとできるかなー!――あー!もうっ! 緊張する!」
「料理の手伝いするんでしょ?しかもスイーツ! パニー姉、お菓子作り得意じゃん!大丈夫じゃない?」
「作るのは好きだけどさー」
「憧れのカフェでしょ?」
「それはそうなんだけど、違うんだよー! ここ最近はずっと本とか読み込んではいるんだけど、そもそもここにある外界の情報全部古いでしょ? ――変なこと言ったり、ボロ出そうで不安なの」
「たしかに」
「――」
「――え、なに?」
「――フォロー待ちなんだけど」
「えー?」
「パニー姉は賢いし素敵だから大丈夫だよ! とかなんかないわけ? 麗しのお姉さまでしょ?」
「じゃぁ、そんな感じで」
「せめて口に出してよ!」
パニーとロロのやり取りを見つめ、エムスタは微笑を湛えつつ、ふと隣で頬を膨らませているペオに視線を移した。ペオは星空から視線を外し、さっきから頬を膨らませていた。ここ最近の不機嫌な様子は、今日は特に顕著であった。
「ほら、ペオ――ずっと不貞腐れてないで、ね? 笑って」
「だって――」
パニーは頬をつつきながら、ペオに微笑を促すも、彼は依然として頬を膨らませたまま、必死に顔を反らせようとしている。
「ねぇ、ペオ」
「――なに?」
「待ってるから。ね? 許可が出たらおいで」
「――うん」
パニーが再び頬をつつき、空気を抜こうとすると、ペオはくすぐったそうに身を捩った。その様子を見て、ロディがペオの上に勢いよく圧し掛かった。二人は戯れ合い、布団の上で揉み合った。ペオは最初こそ不満げな表情を保とうとしたが、擽りに堪えかねて、笑い声を洩らした。しばしの戯れの後、パニーはそっと手を懐に入れ、小さな鍵を取り出した。
「これ、預けておくね」
「――なにこれ?」
「私の部屋の机の引き出しにね、箱が入ってるんだけど――その鍵」
「パニーの? 箱?」
ペオは鍵を受け取り、首を傾げて尋ねた。
「そう――ペオ宛に手紙を書いたんだ」
「――僕に?」
「うん。ペオに――ま、ペオだけじゃなくて、皆にも書いたんだけどね」
「ぼくにも?」
「うん、もちろんロディにも書いたよ! ロロにもエム姉にも」
視線を鍵からパニーの顔へと移し、ペオは不可解そうな表情を浮かべつつも、しばし考え込んだ末に頷いた。ロディもまた、その存在を心に留めている様子だった。
「もし、もしもだよ? ペオが外界に行くって決めたとき、私が迎えに来られなかったら――この手紙を読んで。住所とか計画とか書いてあるから、それを頼りに会いに来てね」
「――何で迎えに来られないの?」
「んー、ほら、まだわからないけどさ。私たちがお世話になるマクリスのことは聞いたでしょ? 忙しいみたいだし、万が一ってこともあるでしょ?」
「――でも、今までもおじいちゃんとは会ってたんだよね?」
ペオは眉をわずかに寄せ、怪訝そうにさらに尋ねた。
「それはそうなんだけど、でも一年に一回、多くて半年に一回みたいよ? だから、例えば、ペオがよしっ!行くぞー! ってなっても、タイミングが悪ければ、一年後に、ってなっちゃうこともあかもよ?」
「――それはやだ! わかった、手紙読む!」
しばし考えた後、ペオは納得した様子で頷いた。パニーはペオの頭を優しく撫で、その柔らかな髪の感触を確かめるようにしつつ、再び言葉を紡いだ。
「――エム姉もそれでいいよね?」
「うん、それで大丈夫」
ペオの心情を知って以来、途方に暮れていたエムスタは、ついに意を決して決断を下した。ペオはこれまで以上にシェルトとロディの手厚い付き添いを受けながら、稽古に励み、遊泳速度や冷気の修練も着実に向上させていた。このまま鍛錬を積めば、数年以内にその力を自在に駆使できるようになるであろう。
あの日、もしペオを宿していなかったならば、エムスタは両親と夫と共に外界へ旅立っていたかもしれない。彼らが亡くなったという報せを受けても、今でもパニーと同じように信じることができず、どこかで生きていると信じている。
本当は一人でも探しに行きたいという衝動に駆られることもあったが、エムスタにはこの地を離れられぬ理由があった。無論、その一つはペオの存在である。もう一つは、他の子どもたちであった。彼らはエムスタに母の影を見出し、エムスタもその役割を受け入れてきた。故に、皆の姉であり母親代わりでもあるエムスタまでいなくなってしまったら、彼らの心の拠り所が失われてしまう。それが何よりも恐ろしかった。
ゆえに、あと数年は皆の母親としての役割を全うし、その後はペオの夢を支えるために共に旅立つことを心に決めたのである。
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「やっほー!」
「エム姉たち早いねー!」
「待ってたよー!」
「――あれ? ニウスたちはー?」
「まだー!」
聞こえてくる声に、パニーたちは顔だけを下に向けて見下ろすと、リンディ、エイディ、ケイ、ウェナ、リア、そしてメリーの六人が姿を現した。
ここ数日、ニウスは自らも旅に加えてほしいと幾度も訴えていた。時には瞳を潤ませ、必死に懇願するも、彼の祖父母は頑なに首を縦に振らず、その願いは叶わなかった。しかし、せめて最後の夜くらいは皆で一緒に過ごしたいと請うたとき、皆は一も二もなく頷き、その願いを叶えることにしたのである。
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「お待たせしましたー!」
「おそーい!」
しばらくすると、ナット、ラリス、オーラ、ニミー、エル、そしてニウスも姿を現した。
「では、第11回目のパジャマパーティーといきますか!」
エイディの掛け声を合図に、場の空気は一層の賑やかさを帯びた。最近の出来事を語り出す者、明日の冒険に胸を躍らせる者、迫り来る別れに涙をこぼす者、さまざまな感情が渦巻いていた。話題は多岐にわたり、笑いと涙が交錯するその夜、彼らは共に過ごす最後の夜の記憶を胸に刻もうとしていた。
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「――さて、そろそろ始めましょうか」
「はーい! 皆さま、ご注目!」
彼らは地に足をつけ、湖畔に集結していた。そこには、幾重にも連なる湖が階段状に広がり、滝の轟音と共に互いに繋がる壮麗な光景が広がっていた。この湖群は海と連結し、潮の干満によって湖の水位は繊細に変化する。その結果、海水と淡水が絶妙に交じり合い、独特な生態系が織り成され、豊穣な自然が息づいている。
「ねぇ、エム姉、あと何個?」
「んっと、これで――十五個ね」
「じゃあ、あと二個か」
パニーたちは湖面に手を差し伸べ、一人分の重みを支え得る平滑な円形の氷へと湖水を変容させていく。彼らは氷の上に身を乗せ、再び湖水を手に掬い取り、同様の作業を反復しつつ、次々と氷を錬成していった。
「ほらメリー。手、掴んで」
「ありがと、リンディ」
リンディたちも氷塊の上にそっと身を委ね、その一つ一つに蝋燭を慎重に据え置いた。ラリスたちもまた氷塊に足を踏み入れ、十七人全員がそれぞれの氷の上に乗り込んだ。彼らは、小さな火種を手に携え、蝋燭の芯にそっと近づけて火を灯した。蝋燭の儚げな炎は、氷の上で静かに揺らめき始め、冷ややかな水面に温かな光を淡く映し出した。
「皆、しっかり掴まっててよ」
ラリスとナットが掌を広げ、そっと風を起こして氷塊の並びを整えると、湖面には美しい円形の光が浮かび上がった。
これは、土の民によって長きにわたり受け継がれてきた、由緒ある儀式である。新しき年を迎えるにあたり、祈りを込めた祈捧の雫を蝋燭に灯し、その火が消えるまで歌を捧げることが慣例となっている。土の民がこの水上集落に移住して以来、海・空の民も加わり、皆で行う恒例の行事となった。今年は特に、明日新たな門出を迎える四人のために執り行われている。
「――私たちからね」
蝋燭の灯火に託された願いが、歌声に乗って天まで届くよう祈念されるこの儀式。海の民は平和を祈る歌を謳い、土の民は大地の恩恵に感謝を捧げる歌を謡い、空の民は未来を願う歌を順に奏でた。各々の民が故郷の歌を口ずさむ中、蝋燭の淡い光は次第に揺らめきながら、天へと昇っていくかの如く見えた。
歌い終わると、灯りは静かに消え、星草灯の幽かな光が夜にほのかな輝きを放っていた。
「――そいじゃぁ、寝ますか」
「――寝れるかな?」
「全く眠くない!」
「チャソタパスを数えると寝られるよ」
「みんな、おやすみ」
明日は黎明の光が射す前に出発する手筈である。合流地点までは最低でも六時間を要する計算であり、連絡手段の欠如から遅延は許されない。未だ話し足りない思いが胸中に渦巻くが、そろそろ眠りに就かねばならない時刻が刻々と迫っていた。
「皆、おやすみ。良い夢を」
そう告げると、彼らは布団に身を委ねた。夜空には十七回の流れ星が瞬き、彼らが眠りにつくまでその光が静かに揺らめいていた。その星々の光は、彼らの夢の中でも淡く輝き、明日の新たな旅立ちに希望を灯していた。