「――大丈夫、次こそできる。だから――だから、泣くな、ニウス」
ニウスは独り、風を操る修練に没頭していた。葉の間を縫う音、地面を撫でる音、落ち葉が舞い上がり、再び地に帰る音。その一つ一つが森の奏でる調べの一部として彼の意識に浸透する。風と一体化することを志向し、全神経を集中させた。
「――よし、いまだ」
手を翳し、指先から掌へと伝わる動きを捉えようとするも、風は彼の意志を嘲笑うかのように、無情にも彼の手を避け、その儚い感触だけを残して消え去った。
「どうして――」
幾度も試みても避けるように通り抜ける風が、彼の努力を嘲笑った。
「また、だめか」
風の動きを捉えることはついに叶わず、彼にはその資格が無いと暗示しているかのようだった。
---
少しばかりの休息を挟み、ニウスは低い枝へと足を掛け、上に立ち、両手を大きく広げた。
「――大丈夫」
ここ数か月、彼は週の大半をこの森に籠り修練に励んでいた。かつては、ラリスやナットに指導を仰いでいたが、自身の進展の無さに次第に惨めさを感じるようになり、兄のエル以外との練習を極力避けるようになっていた。
「大丈夫、怖くない――大丈夫」
視線を下げると、落下の衝撃を緩和するための土の山に、使い古され、綻びた布団が敷かれていた。練習のたびに凹むため、毎回土を積み直さねばならない。この瞬間こそが、彼にとって最も屈辱的な思いに囚われる瞬間であった。
「いけっ!」
勢いをつけて枝から跳躍し、風に乗ろうと試みるも、風は彼の意図に反して自由に吹き抜けていった。
「はぁぁぁぁ、なんでだよー」
地面に着地すると、何度目かわからぬ嘆息を洩らし、立ち上がって衣服に付着した土を払った。そして、再び枝に登るのである。
再び、全身を高い枝へと投げ出した。宙に浮かぶ感覚も束の間、重力の無慈悲な引力に従い、再び地面に押し戻された。迫り来る地面に向け、咄嗟に体を丸めて衝撃を和らげたが、その振動は全身に響き渡り、膝や肘には試行錯誤の痕跡として傷や青痣が絶え間なく増えていった。
「ねぇ、風さん。もしかして、僕のこと――嫌い?」
風は依然として答えを返さず、沈黙を貫いた。それでも諦めず、再び立ち上がる。彼の短い空中滞在と地面に降り立つ音が、絶え間なく繰り返された。
---
空の民の子どもたちは、初めて自らの力で立つ際にサイデンフィルの祝福を受け、幻贖の力を授かる。その発現時期には個体差があり、ラリスの場合、嫌悪していたブロッコリーを食べさせられそうになり、必死に拒絶した際に初めて風を操ったという逸話が残っていた。宙を舞うブロッコリーの光景は、混沌とした情景として今なお語り草となっている。
しかし、ニウスは十一歳になっても、飛翔どころか何一つ浮遊させることすら成し得ていなかった。兄のエルも風を操れなかった時期には、二人は互いに慰め合い、支え合いながら歩んできた。しかし、エルが風を自在に操れるようになった今、彼は孤立し、取り残された感覚に苛まれている。追いかけるべき相手はいても、共に支え合う仲間がいなくなってしまったという現実が、彼から笑顔を奪った。
無念の思いを胸中に抱えつつ、幾度も空へ跳躍する修練を続けるしかなかった。彼の心は、飛翔する日を夢見て、その一瞬のために全ての痛苦に耐えているのである。
---
「ニウスー、お昼だよ! サンドウィッチ持ってきたー!一緒に食べよー!」
修練に熱中するニウスのもとへ、エルが歩み寄り声をかけた。ニウスはエルの呼びかけに一瞬反応したものの、すぐに再び身体を投じ、修練を中断する気配は微塵も見られなかった。
「――まだいい!」
短く返事をし、再び高い枝へと跳躍を試みたニウスを見て、エルは苦笑を浮かべた。
「僕、先に食べてるからね」
ニウスの頑なな姿勢を目にしたエルは、無理強いを避け、少し離れた場所に腰を下ろした。サンドウィッチを取り出して一口、ゆっくりとその風味を味わった。
「――お疲れ」
「兄ちゃんが? 作ったの?」
「そ、僕が作ったの。おいしいよ。栄養ちゃんととらないとだよ」
「うん。ありがとう――」
ニウスが戻ってきたのは、エルが食事を終え、喉を潤している頃だった。エルはタオルを取り出して彼に手渡し、包みからサンドウィッチを差し出した。
「ねぇ、ニウス。やっぱりラリスたちにも教えてもらわない?」
「なっ! ――やだよ!絶対にやだ!」
ニウスの即答に、エルは眉をひそめ、困惑の色を浮かべた。
「――なんでそんなこというの。教えるの面倒になった?」
「そんなことない! そうじゃなくて――だって、ニウスが飛べないのは――僕の教え方がうまくないのかもしれないって思って」
「それこそ、そんなことないよ――だって実際、兄ちゃんは、力、使えてるじゃないか」
その言葉に、ニウスは視線を落とし、何かを思案するように沈黙した。
「考えてたんだけどさ――」
ニウスはサンドウィッチを膝上に置き、俯き加減で言葉を続けた。
「――僕もパニーたちについていこうかな」
「――え?」
突如として発せられたその言葉に、エルは瞠目し、飲み物を噴き出してしまい、大袈裟に咳き込んだ。
「――兄ちゃんの教え方のせいじゃないよ。ただ僕がダメなんだ。きっと才能がないんだ。だから、自分が嫌なんだ――ラリスも、ナットも見てるだけで、本当に時々嫌な気持ちになるんだ――兄ちゃん、も。こんなに練習に付き合ってくれてるのに――」
エルは沈黙を守りながら、ただ耳を傾けた。ニウスはさらに言葉を重ねた。
「知ってるでしょ?ペオもさ、もうかなり泳げてるよ――皆ができるのに、どうして僕だけができないのかな――」
「ニウス――」
最年少のペオが海の民として幻贖の力を授かり、その力を使いこなし始めている現実が、ニウスの焦燥感を一層煽り立てているようだった。彼の瞳は揺れ動き、唇と肩が微かに震えていた。
「――だから、だからね――僕すっごく、今、苦しいんだ。ラリスも、ナットも大好きなのに、顔見たくない、なんて――」
幼い頃、既に幻贖の力の片鱗を見せたラリス、そしてニウスより年下のナットも既にその力を自在に操っている。今や彼の肩には背負いきれない感情が重くのしかかり、その心身を蝕んでいるのだ。
「――だから、パニーたちについていけば、ぼく、ぼく――」
その心境を理解してしまえることがエルには尚更辛かった。先に進んでしまったエルの言葉は、もはやニウスには届かない。
「パニーたちと一緒に行けば、少しはこの気持ちが楽になる気がするんだ」
パニーは海の民であり、エイディとウェナは土の民である。オーラは空の民だが、風を操る能力は持たない。彼らの力を羨望することもあるが、ニウスが真に渇望する力とは異なる。
「――そっか」
「逃げて、ごめんね」
ニウスは膝を抱え、視線を地面に落としつつ語った。それは、彼がこれまで感じてきた重圧から解放されるための一つの手段だった。
「謝らないでよ」
エルは言葉を慎重に選びつつ、ニウスと対面するように座り直し、その肩に手を置いた。
「だって、酷いことも言った。顔を見たくないなんて、ごめんね。」
「謝らないでってば」
それでもエルは兄として何ができるかを真剣に考えたかった。簡単な慰めの言葉が求められていないことは理解している。懸命に追いつこうと努力するニウスが、本当に望んでいるもの、それは――。
「――行きなよ。パニーたちと」
「行けたら、いいな。でも、どうしようもないよね――おじいちゃんも、おばあちゃんも絶対に許してくれないし」
以前の家族会議では、好奇心に駆られて一度は行きたいと願い出たものの、年齢を理由に却下され、僕たちは行かないという結論に至った。
「兄ちゃんは?」
「僕も行きたい、けど――」
「――?」
「うん、でも今回はニウスに譲るよ。気分転換は大事だよ思う!」
ニウスの言葉にエルは頷き、何かを思索するように視線を落とした。地面に転がる枝や石に目を留め、手を伸ばしてそれらを拾い上げた。
「――パニーたちは船で出発する予定だよ。四人で行くし、荷物も相当量あるから――たぶん、あの一番大きい船で行くと思う」
エルの意図を解しかねたニウスは首を傾げながらその話に耳を傾けた。エルは悪戯めいた笑みを浮かべながら、次の言葉を紡ぎ出した。
「あの大きさなら、ニウスがうまく隠れるスペースがある」
「――え?」
「そうだ! まずは、プランA――今日このあと、直接おばあちゃんたちにもう一度訴えてみようよ! 外界に行きたいって! きっと断られるだろうけど、何度もお願いすれば、折れるかもしれない、でしょ?――まぁ、もしそれでもだめだったら――」
「――だめだったら?」
「プランB。全身全霊で――拗ねる」
「――へ?」
突如として饒舌になったエルは、枝で地面に船の絵を描きながら、さらに手を使って船内での動きを示しつつ、興奮気味に話を続けた。
「いい? プランBは――当日決行する。こっそり船に忍び込むんだ。パニーたちを見送りしたりで皆は忙しくなる。だろ?その隙を狙う――誰かに、ニウスがいないこと聞かれたら、僕が、拗ねて部屋から出てこないってフォローする。それで、納得してもらう」
「――そんなことで、納得するかな?」
「それは――事前のニウスの演技力に懸かってる。何が何でも行きたいんだって全力で駄々を捏ねるんだ。――あー、あの様子なら確かに、部屋から出てこなくても仕方ない、って思わせるんだ。おじいちゃんたちだけじゃなくて――いっそのこと、皆に言いふらすぐらいの勢いが必要だと思う」
突拍子もない計画は続き、エルは枝の先で船の絵を描きながら、記憶を頼りに細かい動きや配置を説明していった。
「――で、ここからも重要なポイント。出発してすぐに姿を見せると引き返されるかもしれない。だから、しばらくは息を潜めてじっとしてるんだ。船が出航して、引き返せない地点まで来たら姿を現しても大丈夫――ただ、タイミングの見極めが難しいな」
エルは小枝を手に取り、地面に図を描きながら、船内の動線や隠れ場所を検討していた。試行錯誤を繰り返し、何度もアイデアを修正しながら、計画を練り上げようとしていた。
「いい? 出発の日付と時間とかは僕が確認しておくから、ニウスは気にせず作戦続行すること」
「――わ、わかった」
エルの計画を頭の中で反芻しながら、ニウスは一瞬戸惑いを見せるも、エルの決意に満ちた眼差しに押されるようにして、彼もまた心を決めた。やっとのことで理解が追いついたニウスの表情に浮かぶ陰りが晴れ渡っていった。
「僕たちは子どもだからって止められた、だろ? だからこそ――子どもらしく無邪気な純粋さで対抗するんだ。おじいちゃんもおばあちゃんも、僕たちに弱いからね――いい?しっかりと目を見つめて、うん、ほら、今やってみて――そう、そんな感じ。目を潤ませるのもありだよ。大丈夫。涙は強力な武器になるって、おばあちゃんがオーラに教えてたの聞いたことあるんだ――本格的に泣くのは、最後の切り札として取っておこう」
エルの計画を何度も頷きながら聞いていたニウスは、兄が瞬く間に練り上げた巧妙な策略に尊敬の眼差しでエルを見つめた。
「――ニウス?」
「兄ちゃんって、策士だね! かっこいいよ! 僕には思いつかなかった!」
「――そ、そうかな?」
ニウスに称賛され、エルは誇らしげに鼻を擦りながら、得意満面の表情を浮かべた。彼は地面に描いた船の絵を指でなぞりながら、さらに詳細な計画を加えて語り続けた。
「それから――」
「――それから?」
「あ! ねぇ、言葉が見つかったら、さっきの話に戻っていい?」
「――さっきの?」
「逃げてないよ」
「――?」
「新しい場所に行くなら、それは挑戦だよ」
「――!! さっきのって、そこ? そんなの、ただの言葉遊びじゃん」
「言葉遊びもまた一興だよ」
「ニウスは逃げてないよ! 挑戦者だ!――ほら、この言葉かっこいいだろ?」
エルは誇らしげにニウスに向かって声を張り上げた。ニウスが何か言おうとする前に、背後から微かな音が聞こえた。振り返ると、草陰からリリーが顔を覗かせていた。
「リリー! 君もそう思うでしょ?」
リリーは小さな頭をかしげると、同意するかのようにニウスの手をつつき始めた。
ニウスは独り、風を操る修練に没頭していた。葉の間を縫う音、地面を撫でる音、落ち葉が舞い上がり、再び地に帰る音。その一つ一つが森の奏でる調べの一部として彼の意識に浸透する。風と一体化することを志向し、全神経を集中させた。
「――よし、いまだ」
手を翳し、指先から掌へと伝わる動きを捉えようとするも、風は彼の意志を嘲笑うかのように、無情にも彼の手を避け、その儚い感触だけを残して消え去った。
「どうして――」
幾度も試みても避けるように通り抜ける風が、彼の努力を嘲笑った。
「また、だめか」
風の動きを捉えることはついに叶わず、彼にはその資格が無いと暗示しているかのようだった。
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少しばかりの休息を挟み、ニウスは低い枝へと足を掛け、上に立ち、両手を大きく広げた。
「――大丈夫」
ここ数か月、彼は週の大半をこの森に籠り修練に励んでいた。かつては、ラリスやナットに指導を仰いでいたが、自身の進展の無さに次第に惨めさを感じるようになり、兄のエル以外との練習を極力避けるようになっていた。
「大丈夫、怖くない――大丈夫」
視線を下げると、落下の衝撃を緩和するための土の山に、使い古され、綻びた布団が敷かれていた。練習のたびに凹むため、毎回土を積み直さねばならない。この瞬間こそが、彼にとって最も屈辱的な思いに囚われる瞬間であった。
「いけっ!」
勢いをつけて枝から跳躍し、風に乗ろうと試みるも、風は彼の意図に反して自由に吹き抜けていった。
「はぁぁぁぁ、なんでだよー」
地面に着地すると、何度目かわからぬ嘆息を洩らし、立ち上がって衣服に付着した土を払った。そして、再び枝に登るのである。
再び、全身を高い枝へと投げ出した。宙に浮かぶ感覚も束の間、重力の無慈悲な引力に従い、再び地面に押し戻された。迫り来る地面に向け、咄嗟に体を丸めて衝撃を和らげたが、その振動は全身に響き渡り、膝や肘には試行錯誤の痕跡として傷や青痣が絶え間なく増えていった。
「ねぇ、風さん。もしかして、僕のこと――嫌い?」
風は依然として答えを返さず、沈黙を貫いた。それでも諦めず、再び立ち上がる。彼の短い空中滞在と地面に降り立つ音が、絶え間なく繰り返された。
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空の民の子どもたちは、初めて自らの力で立つ際にサイデンフィルの祝福を受け、幻贖の力を授かる。その発現時期には個体差があり、ラリスの場合、嫌悪していたブロッコリーを食べさせられそうになり、必死に拒絶した際に初めて風を操ったという逸話が残っていた。宙を舞うブロッコリーの光景は、混沌とした情景として今なお語り草となっている。
しかし、ニウスは十一歳になっても、飛翔どころか何一つ浮遊させることすら成し得ていなかった。兄のエルも風を操れなかった時期には、二人は互いに慰め合い、支え合いながら歩んできた。しかし、エルが風を自在に操れるようになった今、彼は孤立し、取り残された感覚に苛まれている。追いかけるべき相手はいても、共に支え合う仲間がいなくなってしまったという現実が、彼から笑顔を奪った。
無念の思いを胸中に抱えつつ、幾度も空へ跳躍する修練を続けるしかなかった。彼の心は、飛翔する日を夢見て、その一瞬のために全ての痛苦に耐えているのである。
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「ニウスー、お昼だよ! サンドウィッチ持ってきたー!一緒に食べよー!」
修練に熱中するニウスのもとへ、エルが歩み寄り声をかけた。ニウスはエルの呼びかけに一瞬反応したものの、すぐに再び身体を投じ、修練を中断する気配は微塵も見られなかった。
「――まだいい!」
短く返事をし、再び高い枝へと跳躍を試みたニウスを見て、エルは苦笑を浮かべた。
「僕、先に食べてるからね」
ニウスの頑なな姿勢を目にしたエルは、無理強いを避け、少し離れた場所に腰を下ろした。サンドウィッチを取り出して一口、ゆっくりとその風味を味わった。
「――お疲れ」
「兄ちゃんが? 作ったの?」
「そ、僕が作ったの。おいしいよ。栄養ちゃんととらないとだよ」
「うん。ありがとう――」
ニウスが戻ってきたのは、エルが食事を終え、喉を潤している頃だった。エルはタオルを取り出して彼に手渡し、包みからサンドウィッチを差し出した。
「ねぇ、ニウス。やっぱりラリスたちにも教えてもらわない?」
「なっ! ――やだよ!絶対にやだ!」
ニウスの即答に、エルは眉をひそめ、困惑の色を浮かべた。
「――なんでそんなこというの。教えるの面倒になった?」
「そんなことない! そうじゃなくて――だって、ニウスが飛べないのは――僕の教え方がうまくないのかもしれないって思って」
「それこそ、そんなことないよ――だって実際、兄ちゃんは、力、使えてるじゃないか」
その言葉に、ニウスは視線を落とし、何かを思案するように沈黙した。
「考えてたんだけどさ――」
ニウスはサンドウィッチを膝上に置き、俯き加減で言葉を続けた。
「――僕もパニーたちについていこうかな」
「――え?」
突如として発せられたその言葉に、エルは瞠目し、飲み物を噴き出してしまい、大袈裟に咳き込んだ。
「――兄ちゃんの教え方のせいじゃないよ。ただ僕がダメなんだ。きっと才能がないんだ。だから、自分が嫌なんだ――ラリスも、ナットも見てるだけで、本当に時々嫌な気持ちになるんだ――兄ちゃん、も。こんなに練習に付き合ってくれてるのに――」
エルは沈黙を守りながら、ただ耳を傾けた。ニウスはさらに言葉を重ねた。
「知ってるでしょ?ペオもさ、もうかなり泳げてるよ――皆ができるのに、どうして僕だけができないのかな――」
「ニウス――」
最年少のペオが海の民として幻贖の力を授かり、その力を使いこなし始めている現実が、ニウスの焦燥感を一層煽り立てているようだった。彼の瞳は揺れ動き、唇と肩が微かに震えていた。
「――だから、だからね――僕すっごく、今、苦しいんだ。ラリスも、ナットも大好きなのに、顔見たくない、なんて――」
幼い頃、既に幻贖の力の片鱗を見せたラリス、そしてニウスより年下のナットも既にその力を自在に操っている。今や彼の肩には背負いきれない感情が重くのしかかり、その心身を蝕んでいるのだ。
「――だから、パニーたちについていけば、ぼく、ぼく――」
その心境を理解してしまえることがエルには尚更辛かった。先に進んでしまったエルの言葉は、もはやニウスには届かない。
「パニーたちと一緒に行けば、少しはこの気持ちが楽になる気がするんだ」
パニーは海の民であり、エイディとウェナは土の民である。オーラは空の民だが、風を操る能力は持たない。彼らの力を羨望することもあるが、ニウスが真に渇望する力とは異なる。
「――そっか」
「逃げて、ごめんね」
ニウスは膝を抱え、視線を地面に落としつつ語った。それは、彼がこれまで感じてきた重圧から解放されるための一つの手段だった。
「謝らないでよ」
エルは言葉を慎重に選びつつ、ニウスと対面するように座り直し、その肩に手を置いた。
「だって、酷いことも言った。顔を見たくないなんて、ごめんね。」
「謝らないでってば」
それでもエルは兄として何ができるかを真剣に考えたかった。簡単な慰めの言葉が求められていないことは理解している。懸命に追いつこうと努力するニウスが、本当に望んでいるもの、それは――。
「――行きなよ。パニーたちと」
「行けたら、いいな。でも、どうしようもないよね――おじいちゃんも、おばあちゃんも絶対に許してくれないし」
以前の家族会議では、好奇心に駆られて一度は行きたいと願い出たものの、年齢を理由に却下され、僕たちは行かないという結論に至った。
「兄ちゃんは?」
「僕も行きたい、けど――」
「――?」
「うん、でも今回はニウスに譲るよ。気分転換は大事だよ思う!」
ニウスの言葉にエルは頷き、何かを思索するように視線を落とした。地面に転がる枝や石に目を留め、手を伸ばしてそれらを拾い上げた。
「――パニーたちは船で出発する予定だよ。四人で行くし、荷物も相当量あるから――たぶん、あの一番大きい船で行くと思う」
エルの意図を解しかねたニウスは首を傾げながらその話に耳を傾けた。エルは悪戯めいた笑みを浮かべながら、次の言葉を紡ぎ出した。
「あの大きさなら、ニウスがうまく隠れるスペースがある」
「――え?」
「そうだ! まずは、プランA――今日このあと、直接おばあちゃんたちにもう一度訴えてみようよ! 外界に行きたいって! きっと断られるだろうけど、何度もお願いすれば、折れるかもしれない、でしょ?――まぁ、もしそれでもだめだったら――」
「――だめだったら?」
「プランB。全身全霊で――拗ねる」
「――へ?」
突如として饒舌になったエルは、枝で地面に船の絵を描きながら、さらに手を使って船内での動きを示しつつ、興奮気味に話を続けた。
「いい? プランBは――当日決行する。こっそり船に忍び込むんだ。パニーたちを見送りしたりで皆は忙しくなる。だろ?その隙を狙う――誰かに、ニウスがいないこと聞かれたら、僕が、拗ねて部屋から出てこないってフォローする。それで、納得してもらう」
「――そんなことで、納得するかな?」
「それは――事前のニウスの演技力に懸かってる。何が何でも行きたいんだって全力で駄々を捏ねるんだ。――あー、あの様子なら確かに、部屋から出てこなくても仕方ない、って思わせるんだ。おじいちゃんたちだけじゃなくて――いっそのこと、皆に言いふらすぐらいの勢いが必要だと思う」
突拍子もない計画は続き、エルは枝の先で船の絵を描きながら、記憶を頼りに細かい動きや配置を説明していった。
「――で、ここからも重要なポイント。出発してすぐに姿を見せると引き返されるかもしれない。だから、しばらくは息を潜めてじっとしてるんだ。船が出航して、引き返せない地点まで来たら姿を現しても大丈夫――ただ、タイミングの見極めが難しいな」
エルは小枝を手に取り、地面に図を描きながら、船内の動線や隠れ場所を検討していた。試行錯誤を繰り返し、何度もアイデアを修正しながら、計画を練り上げようとしていた。
「いい? 出発の日付と時間とかは僕が確認しておくから、ニウスは気にせず作戦続行すること」
「――わ、わかった」
エルの計画を頭の中で反芻しながら、ニウスは一瞬戸惑いを見せるも、エルの決意に満ちた眼差しに押されるようにして、彼もまた心を決めた。やっとのことで理解が追いついたニウスの表情に浮かぶ陰りが晴れ渡っていった。
「僕たちは子どもだからって止められた、だろ? だからこそ――子どもらしく無邪気な純粋さで対抗するんだ。おじいちゃんもおばあちゃんも、僕たちに弱いからね――いい?しっかりと目を見つめて、うん、ほら、今やってみて――そう、そんな感じ。目を潤ませるのもありだよ。大丈夫。涙は強力な武器になるって、おばあちゃんがオーラに教えてたの聞いたことあるんだ――本格的に泣くのは、最後の切り札として取っておこう」
エルの計画を何度も頷きながら聞いていたニウスは、兄が瞬く間に練り上げた巧妙な策略に尊敬の眼差しでエルを見つめた。
「――ニウス?」
「兄ちゃんって、策士だね! かっこいいよ! 僕には思いつかなかった!」
「――そ、そうかな?」
ニウスに称賛され、エルは誇らしげに鼻を擦りながら、得意満面の表情を浮かべた。彼は地面に描いた船の絵を指でなぞりながら、さらに詳細な計画を加えて語り続けた。
「それから――」
「――それから?」
「あ! ねぇ、言葉が見つかったら、さっきの話に戻っていい?」
「――さっきの?」
「逃げてないよ」
「――?」
「新しい場所に行くなら、それは挑戦だよ」
「――!! さっきのって、そこ? そんなの、ただの言葉遊びじゃん」
「言葉遊びもまた一興だよ」
「ニウスは逃げてないよ! 挑戦者だ!――ほら、この言葉かっこいいだろ?」
エルは誇らしげにニウスに向かって声を張り上げた。ニウスが何か言おうとする前に、背後から微かな音が聞こえた。振り返ると、草陰からリリーが顔を覗かせていた。
「リリー! 君もそう思うでしょ?」
リリーは小さな頭をかしげると、同意するかのようにニウスの手をつつき始めた。