「皆、待たせたね――マクリスから返書が届いたよ」
「――ほ、ほんと!?」
声に期待を託して、パニーはヌプトスの掌中の手紙を眺めた。横に並ぶウェナ、オーラ、エイディの顔を順に見渡し、緊張の面持ちで受け取った。
「――ほら、読んでごらん」
パニーたちが旅立ちの準備を本格的に始めてから、早くも三週間が経過していた。荷物の整理に、旅先での計画に、必要な物資の調達にと奔走し、毎日は瞬く間に過ぎ去った。そんな中、彼女たちがひと際待ち焦がれていたもの――それはマクリスからの返書であった。それが今、目の前にある。内容次第で、彼女たちの未来が大きく左右されるのだ。
------------------------------
ヌプトスへ
四人とも受け入れ可能だ。
十四日、太陽が天頂に達する時刻に、例の場所に。
追加で幻贖の雫を用意してもらいたい。
同封したリストを確認してほしい。
それでは、また
マクリス
------------------------------
四人は読み終えると、自然と口角が上がり、そのまま顔を見合わせた。目の前には、待ち焦がれていた返書が、期待通りの内容を記し、確かに存在している。胸中に堆積していた不安や緊張が一気に解き放たれた。
「じゃあ――本当に?」
「見ての通りだよ――よかったね」
その言葉が放たれると、パニーたちの興奮が一気に高まった。喜悦が彼らの体を駆け巡り、湧き上がるエネルギーとなって溢れ出る。
「――おっし!」
エイディが両手を大きく振り上げると、パニーもその興奮に引き込まれるように、両手を高く掲げた。二人の掌は空中で合わさり、力強い音を奏でた。
「――ねぇ、ウェナ!信じられない! 本当に行けるんだ!」
「ね! やったね、オーラ!」
ウェナとオーラも互いに抱きしめ合い、言葉を超えて喜びを共有した。少しの間、四人は手紙の内容を噛みしめながら、喜悦を分かち合った。
---
以前の家族会議では、“あの日”の状況の共有、そしてリルファーとマクリスという二人の人物についても語られていた。
リルファーは、かつてこの集落に住まう海の民であった。自由な精神を持つ男で、彼の心は常に外へと向かっていた。外界での経験は、知識と視野を広げる貴重なものであり、彼は自らの手でこの集落に新風を吹き込みたがった。集落での技術や思考様式が時折|旧態依然と感じられる中、彼の目には外界の進歩と変革が新たな可能性として映っていた。
しかし、リルファーの行動は、保守的な性質を持つ海の民には殆ど理解されることはなかった。自由に行き来が許されていたものの、外界からの影響を制限するという方針が根強く、彼の姿勢はそれに反するものであった。海の民は、彼が外界の技術や文化を持ち込むことを快く思わず、試みはしばしば敬遠され、こうした反発の積み重ねが、次第に彼の孤立を深め、周囲との軋轢を生んでいた。
それでも、彼は自由な男であった。まずは住居を外界へ移転するという決断を下し、さらに、海の民と外界を繋ぐ仲介者としての道を切り拓いたのである。時の移ろいとともに、彼の不断の努力が徐々に実を結び、集落には新たな知識と技術がもたらされることが少なからずあった。
さらに多くの歳月が流れ、リルファーが逝去し、その遺志はやがて息子のマクリスに継承された。
---
海の民には昔から、遊泳区域の境界線を越えてはならないという掟がある。それは、特定のエリアに留まることで、外界からの発見を防ぎ、集落の安寧を確保するための措置であった。しかし、その設けられた措置の陰で、マクリスとヌプトスの交流は密かに続けられていたのだ。いくら相手が海の民であったとしても、外界との交流が完全に禁じられていると信じていたパニーたちにとって、これは寝耳に水の話であった。
「ねぇ、海の民とマクリスについての関係は前に聞いたけど、性格は? どんな人?」
「そうだな、彼は――」
オーラの問いに、ヌプトスは指先で顎の髭を撫でながら記憶を辿り、しばし思案に耽った。
「――といっても、数年の付き合いがあるとはいえ、会うのも物資を交換するときだけだからね。会話も挨拶と要件の伝達に留まってる。だから、性格まで推し量るのは難しいが――まぁ、そうだね。印象としては、寡黙で真面目な人だよ」
物資を手渡すときの眼差しや、挨拶を交わす際のマクリスの控えめな笑みが、彼の記憶に深く刻まれていた。
---
「ここが私たちの住む場所だ」
「――ち、ちいさい」
ヌプトスは広げた外界の地図上にある、青い丸で囲まれた箇所を指し示した。この地図上では指で隠れるほどに小さかった。この世界は果てしなく広大だ。彼の指は、そのまま滑るようにして移動した。
「そうだね――私も初めてこの地図を目にした時は驚いたよ。そして――ここが、マクリスと私が落ち合っていた地点だ」
ヌプトスは今度は赤い丸で囲まれた一点を指し示した。その場所は広漠たる海の中に点として浮かび上がるだけで、周囲には目立った地形や特異な特徴は一切見当たらない。
「――海の上、だね?」
「――その通り、海の上で落ち合う。大丈夫。この地点までは、スコットリスが案内してくれるよ――ここを選んだ理由はね、外界人に万が一見つかりそうになったとしても、私たちならいつでも姿を隠せるからね」
「――な、なるほど」
彼はそう言いながら、地図上の集落から待ち合わせ場所に至る経路を指で辿った。
「ここでマクリスと合流できれば、その後は彼が案内を引き受ける手筈になっている」
パニーはじっくりと地図を眺めた。以前、エイディと密かに見つけた外界の地図よりも、こちらの方がさらに広域を示していた。世界の広大さに、ただ目を丸くするばかりだった。
「この区域は外界の船が航行することもある――進む際には常に周囲の状況に細心の注意を払うようにするんだ。わかったね?」
彼は地図上に引かれた線やマークについて解説し、特に注意すべき部分を指し示した。
「ねぇ、皆ちゃんとわかって――ないね?」
ちらりと目線を移すと、オーラはぽかんと口を開け放ち、ウェナは首を傾げ、エイディに至っては頭を抱えていた。スコットリスが案内役を務めるとはいえ、パニーの心中には漠然たる不安が徐々に募り始めていた。
---
「――家に食事に、お世話になるんだよね? どんな御礼したらいいかな?」
「あぁ、そのことなんだけどね、頼まれごとがあるんだ」
「――そうなの?」
「あぁ、マクリスは一人で農地を耕しながら暮らしていてね。その傍ら小さなカフェを開いているそうだよ」
「――カフェ?それってパニーが好きな、あの?」
「そう、そのカフェだ――彼のカフェではね、自ら栽培したフルーツを用いたスイーツを提供しているそうだ」
「もしかして、アプフェルシュトゥルーデルもある!?」
「さぁ、それは、どうだろうね――詳細までは把握していないんだ」
パニーの脳裏で、フルーツをふんだんに使ったスイーツのイメージが勝手に膨らんでいく。今でも時折思い出す、アプフェルシュトゥルーデルが絶品であった、白壁にオレンジ色の屋根を持つ懐かしのカフェ。どのような光景が広がっているのだろうかと思い描きつつ、心を躍らせていた。
「滞在中には、少しばかりカフェの手伝いをしてほしいそうだ」
「カフェの手伝い?!――何それ!素敵!」
「――どんなことするんだ?」
「さっきも言った通り、マクリスは寡黙でね。あまり詳細なことは聞き出せていないんだ――四人とも料理が得意だと伝えたらね、調理を手伝ってほしいそうだ。それと――」
ヌプトスは、リストを取り出しながら、パニーたちに説明を続けた。
「――記載されていた通り、このリストの幻贖の雫を用意しないとだね」
そこには、幻贖の雫の名前がずらりと記されており、数量といくつかの注意事項が併記されていた。
「あと、数日しかないが――問題はなさそうかい?」
パニーたちはリストを受け取ると、その内容を記憶と照合し始めた。リストに記載された大半の項目は、この三週間で着々と準備を進めてきた中に既に含まれている。
「うん――既に作ったのも結構あるから問題ない、かな?」
「そーだなー、足りないやつは――よしっ、割とすぐ作れるやつばっかだな」
「時間もないし、足りないもの今から作りに行く?」
「いいね! そうしよっか」
「うん! じゃぁ、おじいちゃん、私たち――」
「――皆、もう少し話せるかな」
その声に応じて、四人は足を止めて振り返った。彼らをじっと見つめていたヌプトスは、ゆっくりと歩み寄り、彼らの前に佇んだ。
「パニーには何度も伝えたから、繰り返しにはなるけどね――もう一度聞いてほしい」
話す前に間を置き、言葉を選びながら、ヌプトスはゆっくりと話し始めた。
「世界はね、君たちが想像する何十倍、いや、何百倍も広大だ――外に出れば、いかにここが、小さく、そして――穏やかで平和であることに気付く時が訪れるかもしれない」
ヌプトスは手を広げ、広漠たる海の広がりを示すように、思いを込めて語り続けた。アイガや他の反対者たちと幾度も話し合いを重ね、何とかパニーたちを応援し、支えていこうという決断に至った。しかし、地図を見る度に、外界がいかに広大であるかを痛感させられる。本当に四人を送り出してよいのか。その答え合わせは、生きているうちにできるのだろうか。
「――思っている以上に遠い場所だよ。私の遊泳速度でも落ち合う地点に到達するまでには最低でも五時間を要する。パニーは泳げるとはいえ、さっき説明した通り、一人では危険な海域もある。エイディも、ウェナも、オーラも――わかっているね? 航行するとなると、さらに時間がかかるだろう――容易には帰ってこれない距離だ」
生まれてからずっと傍で成長を見守ってきたパニー。家族同然として暮らしてきたエイディ、ウェナ、オーラ。彼らの物語は、果たしてこれから何ページ続くのだろうか。そこに再び、私たちが加わる日は来るのだろうか。
「私は、この場所を何よりも――愛している。変わらないものは何よりも美しいと、そう思ってきた。けどね――」
深く息をつき、ヌプトスは再び地図を一瞥した。ここからマクリスの家までは、地図の上なら今の自分の片手で収まる距離だ。こんなにも近いのに、どこまでも遠い。彼の胸中にある複雑な感情が四人のもとへと向かっていく。
「ここから飛び出したのがリルファーで――そして次に君たちが現れた。リルファー一人では成し遂げられなかったことでも、君たち四人なら叶えられるのかもしれない」
これまでの悠久の歴史を決して軽視しているわけではない。先代が紡いできた道の上を、今、私たちは尊重しながら歩んでいる。
「変わりたくはないんだ。でも――君たちが作る未来もね――楽しみなんだ」
足元の道の延ばし方なら教えてきた。上手く道を築けず、誰かが落ちそうになったとしても、この四人なら互いに支え合えるだろうという信頼はある。ヌプトスの不安に寄り添う言葉は期待で、四人の隣に並ぶ言葉は希望だ。
「厳しいことを言ってしまったね――日付が決まってしまうと、急に現実味を帯びてきてね――恥ずかしい話だ。この歳になっても感情が上手く制御できないなんて――」
ヌプトスの潤んだ瞳、震える声を真正面から受け止めたパニーも、感情が溢れ出し、視界が霞んできた。
「いつでも帰っておいで――ここで、私たちは待っているから」
その言葉を最後に、パニーはじっとしていられなくなり、ヌプトスの元へと駆け寄った。彼の逞しい体にしっかりと抱きつき、顔を埋めるようにしてその温もりを感じ合った。
「ありがとう、おじいちゃん。」
「――なぁ、パニー。みんなも――やっぱり行かないでおくれ」
「――おじいちゃん?」
最後に小さく呟いた一言に、ヌプトス自身が愕然とした。応援し、支えていこうという意志の陰に潜んでいた、心の深奥から湧き上がる声。それは彼自身でさえも気づかぬうちに、抑え切れないほど膨れ上がり――。
「――すまないね。冗談だよ――行っておいで。忘れないでおくれ。いつでも私、いや私たちは――君たちの味方だ」
ヌプトスの潤んだ瞳に映し出された葛藤、その言葉の一つ一つが、四人の心に深く刻まれる。ウェナとオーラも彼に思い切り抱き、彼女たちの頬を伝う想いが衣服を湿らせた。仰ぎ見ていたエイディも、少し遅れて加わる。
「背中を押してくれて、本当にありがとう。おじいちゃん――愛してる」
「――ほ、ほんと!?」
声に期待を託して、パニーはヌプトスの掌中の手紙を眺めた。横に並ぶウェナ、オーラ、エイディの顔を順に見渡し、緊張の面持ちで受け取った。
「――ほら、読んでごらん」
パニーたちが旅立ちの準備を本格的に始めてから、早くも三週間が経過していた。荷物の整理に、旅先での計画に、必要な物資の調達にと奔走し、毎日は瞬く間に過ぎ去った。そんな中、彼女たちがひと際待ち焦がれていたもの――それはマクリスからの返書であった。それが今、目の前にある。内容次第で、彼女たちの未来が大きく左右されるのだ。
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ヌプトスへ
四人とも受け入れ可能だ。
十四日、太陽が天頂に達する時刻に、例の場所に。
追加で幻贖の雫を用意してもらいたい。
同封したリストを確認してほしい。
それでは、また
マクリス
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四人は読み終えると、自然と口角が上がり、そのまま顔を見合わせた。目の前には、待ち焦がれていた返書が、期待通りの内容を記し、確かに存在している。胸中に堆積していた不安や緊張が一気に解き放たれた。
「じゃあ――本当に?」
「見ての通りだよ――よかったね」
その言葉が放たれると、パニーたちの興奮が一気に高まった。喜悦が彼らの体を駆け巡り、湧き上がるエネルギーとなって溢れ出る。
「――おっし!」
エイディが両手を大きく振り上げると、パニーもその興奮に引き込まれるように、両手を高く掲げた。二人の掌は空中で合わさり、力強い音を奏でた。
「――ねぇ、ウェナ!信じられない! 本当に行けるんだ!」
「ね! やったね、オーラ!」
ウェナとオーラも互いに抱きしめ合い、言葉を超えて喜びを共有した。少しの間、四人は手紙の内容を噛みしめながら、喜悦を分かち合った。
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以前の家族会議では、“あの日”の状況の共有、そしてリルファーとマクリスという二人の人物についても語られていた。
リルファーは、かつてこの集落に住まう海の民であった。自由な精神を持つ男で、彼の心は常に外へと向かっていた。外界での経験は、知識と視野を広げる貴重なものであり、彼は自らの手でこの集落に新風を吹き込みたがった。集落での技術や思考様式が時折|旧態依然と感じられる中、彼の目には外界の進歩と変革が新たな可能性として映っていた。
しかし、リルファーの行動は、保守的な性質を持つ海の民には殆ど理解されることはなかった。自由に行き来が許されていたものの、外界からの影響を制限するという方針が根強く、彼の姿勢はそれに反するものであった。海の民は、彼が外界の技術や文化を持ち込むことを快く思わず、試みはしばしば敬遠され、こうした反発の積み重ねが、次第に彼の孤立を深め、周囲との軋轢を生んでいた。
それでも、彼は自由な男であった。まずは住居を外界へ移転するという決断を下し、さらに、海の民と外界を繋ぐ仲介者としての道を切り拓いたのである。時の移ろいとともに、彼の不断の努力が徐々に実を結び、集落には新たな知識と技術がもたらされることが少なからずあった。
さらに多くの歳月が流れ、リルファーが逝去し、その遺志はやがて息子のマクリスに継承された。
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海の民には昔から、遊泳区域の境界線を越えてはならないという掟がある。それは、特定のエリアに留まることで、外界からの発見を防ぎ、集落の安寧を確保するための措置であった。しかし、その設けられた措置の陰で、マクリスとヌプトスの交流は密かに続けられていたのだ。いくら相手が海の民であったとしても、外界との交流が完全に禁じられていると信じていたパニーたちにとって、これは寝耳に水の話であった。
「ねぇ、海の民とマクリスについての関係は前に聞いたけど、性格は? どんな人?」
「そうだな、彼は――」
オーラの問いに、ヌプトスは指先で顎の髭を撫でながら記憶を辿り、しばし思案に耽った。
「――といっても、数年の付き合いがあるとはいえ、会うのも物資を交換するときだけだからね。会話も挨拶と要件の伝達に留まってる。だから、性格まで推し量るのは難しいが――まぁ、そうだね。印象としては、寡黙で真面目な人だよ」
物資を手渡すときの眼差しや、挨拶を交わす際のマクリスの控えめな笑みが、彼の記憶に深く刻まれていた。
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「ここが私たちの住む場所だ」
「――ち、ちいさい」
ヌプトスは広げた外界の地図上にある、青い丸で囲まれた箇所を指し示した。この地図上では指で隠れるほどに小さかった。この世界は果てしなく広大だ。彼の指は、そのまま滑るようにして移動した。
「そうだね――私も初めてこの地図を目にした時は驚いたよ。そして――ここが、マクリスと私が落ち合っていた地点だ」
ヌプトスは今度は赤い丸で囲まれた一点を指し示した。その場所は広漠たる海の中に点として浮かび上がるだけで、周囲には目立った地形や特異な特徴は一切見当たらない。
「――海の上、だね?」
「――その通り、海の上で落ち合う。大丈夫。この地点までは、スコットリスが案内してくれるよ――ここを選んだ理由はね、外界人に万が一見つかりそうになったとしても、私たちならいつでも姿を隠せるからね」
「――な、なるほど」
彼はそう言いながら、地図上の集落から待ち合わせ場所に至る経路を指で辿った。
「ここでマクリスと合流できれば、その後は彼が案内を引き受ける手筈になっている」
パニーはじっくりと地図を眺めた。以前、エイディと密かに見つけた外界の地図よりも、こちらの方がさらに広域を示していた。世界の広大さに、ただ目を丸くするばかりだった。
「この区域は外界の船が航行することもある――進む際には常に周囲の状況に細心の注意を払うようにするんだ。わかったね?」
彼は地図上に引かれた線やマークについて解説し、特に注意すべき部分を指し示した。
「ねぇ、皆ちゃんとわかって――ないね?」
ちらりと目線を移すと、オーラはぽかんと口を開け放ち、ウェナは首を傾げ、エイディに至っては頭を抱えていた。スコットリスが案内役を務めるとはいえ、パニーの心中には漠然たる不安が徐々に募り始めていた。
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「――家に食事に、お世話になるんだよね? どんな御礼したらいいかな?」
「あぁ、そのことなんだけどね、頼まれごとがあるんだ」
「――そうなの?」
「あぁ、マクリスは一人で農地を耕しながら暮らしていてね。その傍ら小さなカフェを開いているそうだよ」
「――カフェ?それってパニーが好きな、あの?」
「そう、そのカフェだ――彼のカフェではね、自ら栽培したフルーツを用いたスイーツを提供しているそうだ」
「もしかして、アプフェルシュトゥルーデルもある!?」
「さぁ、それは、どうだろうね――詳細までは把握していないんだ」
パニーの脳裏で、フルーツをふんだんに使ったスイーツのイメージが勝手に膨らんでいく。今でも時折思い出す、アプフェルシュトゥルーデルが絶品であった、白壁にオレンジ色の屋根を持つ懐かしのカフェ。どのような光景が広がっているのだろうかと思い描きつつ、心を躍らせていた。
「滞在中には、少しばかりカフェの手伝いをしてほしいそうだ」
「カフェの手伝い?!――何それ!素敵!」
「――どんなことするんだ?」
「さっきも言った通り、マクリスは寡黙でね。あまり詳細なことは聞き出せていないんだ――四人とも料理が得意だと伝えたらね、調理を手伝ってほしいそうだ。それと――」
ヌプトスは、リストを取り出しながら、パニーたちに説明を続けた。
「――記載されていた通り、このリストの幻贖の雫を用意しないとだね」
そこには、幻贖の雫の名前がずらりと記されており、数量といくつかの注意事項が併記されていた。
「あと、数日しかないが――問題はなさそうかい?」
パニーたちはリストを受け取ると、その内容を記憶と照合し始めた。リストに記載された大半の項目は、この三週間で着々と準備を進めてきた中に既に含まれている。
「うん――既に作ったのも結構あるから問題ない、かな?」
「そーだなー、足りないやつは――よしっ、割とすぐ作れるやつばっかだな」
「時間もないし、足りないもの今から作りに行く?」
「いいね! そうしよっか」
「うん! じゃぁ、おじいちゃん、私たち――」
「――皆、もう少し話せるかな」
その声に応じて、四人は足を止めて振り返った。彼らをじっと見つめていたヌプトスは、ゆっくりと歩み寄り、彼らの前に佇んだ。
「パニーには何度も伝えたから、繰り返しにはなるけどね――もう一度聞いてほしい」
話す前に間を置き、言葉を選びながら、ヌプトスはゆっくりと話し始めた。
「世界はね、君たちが想像する何十倍、いや、何百倍も広大だ――外に出れば、いかにここが、小さく、そして――穏やかで平和であることに気付く時が訪れるかもしれない」
ヌプトスは手を広げ、広漠たる海の広がりを示すように、思いを込めて語り続けた。アイガや他の反対者たちと幾度も話し合いを重ね、何とかパニーたちを応援し、支えていこうという決断に至った。しかし、地図を見る度に、外界がいかに広大であるかを痛感させられる。本当に四人を送り出してよいのか。その答え合わせは、生きているうちにできるのだろうか。
「――思っている以上に遠い場所だよ。私の遊泳速度でも落ち合う地点に到達するまでには最低でも五時間を要する。パニーは泳げるとはいえ、さっき説明した通り、一人では危険な海域もある。エイディも、ウェナも、オーラも――わかっているね? 航行するとなると、さらに時間がかかるだろう――容易には帰ってこれない距離だ」
生まれてからずっと傍で成長を見守ってきたパニー。家族同然として暮らしてきたエイディ、ウェナ、オーラ。彼らの物語は、果たしてこれから何ページ続くのだろうか。そこに再び、私たちが加わる日は来るのだろうか。
「私は、この場所を何よりも――愛している。変わらないものは何よりも美しいと、そう思ってきた。けどね――」
深く息をつき、ヌプトスは再び地図を一瞥した。ここからマクリスの家までは、地図の上なら今の自分の片手で収まる距離だ。こんなにも近いのに、どこまでも遠い。彼の胸中にある複雑な感情が四人のもとへと向かっていく。
「ここから飛び出したのがリルファーで――そして次に君たちが現れた。リルファー一人では成し遂げられなかったことでも、君たち四人なら叶えられるのかもしれない」
これまでの悠久の歴史を決して軽視しているわけではない。先代が紡いできた道の上を、今、私たちは尊重しながら歩んでいる。
「変わりたくはないんだ。でも――君たちが作る未来もね――楽しみなんだ」
足元の道の延ばし方なら教えてきた。上手く道を築けず、誰かが落ちそうになったとしても、この四人なら互いに支え合えるだろうという信頼はある。ヌプトスの不安に寄り添う言葉は期待で、四人の隣に並ぶ言葉は希望だ。
「厳しいことを言ってしまったね――日付が決まってしまうと、急に現実味を帯びてきてね――恥ずかしい話だ。この歳になっても感情が上手く制御できないなんて――」
ヌプトスの潤んだ瞳、震える声を真正面から受け止めたパニーも、感情が溢れ出し、視界が霞んできた。
「いつでも帰っておいで――ここで、私たちは待っているから」
その言葉を最後に、パニーはじっとしていられなくなり、ヌプトスの元へと駆け寄った。彼の逞しい体にしっかりと抱きつき、顔を埋めるようにしてその温もりを感じ合った。
「ありがとう、おじいちゃん。」
「――なぁ、パニー。みんなも――やっぱり行かないでおくれ」
「――おじいちゃん?」
最後に小さく呟いた一言に、ヌプトス自身が愕然とした。応援し、支えていこうという意志の陰に潜んでいた、心の深奥から湧き上がる声。それは彼自身でさえも気づかぬうちに、抑え切れないほど膨れ上がり――。
「――すまないね。冗談だよ――行っておいで。忘れないでおくれ。いつでも私、いや私たちは――君たちの味方だ」
ヌプトスの潤んだ瞳に映し出された葛藤、その言葉の一つ一つが、四人の心に深く刻まれる。ウェナとオーラも彼に思い切り抱き、彼女たちの頬を伝う想いが衣服を湿らせた。仰ぎ見ていたエイディも、少し遅れて加わる。
「背中を押してくれて、本当にありがとう。おじいちゃん――愛してる」