その後澪が昼寝から起きてから、時生は再び澪の部屋で相手をする事になった。
「澪様は、干支は全部分かる?」
「分かるぞ! 今年はうさぎの『う』だから、ええと、子・丑・寅・卯・辰……えっと……」
指折り数えてから、悔しそうに澪が頬を膨らませた。
「教えろ!」
「明日からお勉強しましょうか?」
「今、教えろ!」
「――いいですよ。ええと、辰の次は巳です。それから午・未・申・酉・戌・亥と続きます」
「な、なるほど。わ、わかってたんだ、本当は!」
「ふぅん」
澪の可愛らしい嘘を、追求することなく時生はニコニコしながら聞いていた。
するとばつが悪そうな顔をして、じっと澪が時生を見た。
「う、嘘をついた……ごめんなさい」
「そうなんですね」
「うん。だけど、教わったから、もう言えるようになったぞ! 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥だ!」
誇らしげに笑った澪を見て、つい時生はその髪を撫でてしまった。すると澪が目を丸くする。そしてふっくらとした両頬を持ち上げて、嬉しそうに頷く。
「おれ、すごいだろ?」
「うん。澪様は、とってもすごいですよ」
「――かたいぞ!」
「え?」
「時生はおれの先生なんだから、もっと堂々と喋ればいいのに。どうして敬語なんだ?」
「えっ……僕は先生と言うより、澪様の子守り……お世話を頼まれているだけなので」
「今、子守りと言いかけたな? おれは子供じゃないから、そんなのいらない。お世話はして欲しいけど小春がいる! 真奈美もいる! 渉もいる! 時生はやらなくていいだろ!」
澪の声に、それでは己がここにいる理由が無くなってしまうと思い、澪にそういった意図が無いのは分かったが、時生の胸がズキリと痛んだ。しかしこのようにあどけない子供をダシにして居座ろうとしている自分自身が一番許せなくて、そちらの方に苦しくなる。
「どうしてそんなに悲しそうな顔するの……? おれ、いじめたか?」
「う、ううん。なんでもないです」
「そっか? うん。お腹痛いのか?」
「平気です」
時生は必死で作り笑いをしたが、澪は心配そうな顔のままだ。どこかしょんぼりして見える。
「おれ、時生にはずっと先生でいてほしいから、病気にはなるなよ?」
「っ、先生……」
「うん。おれの先生は、お父様と時生だ。お父様からは書道と剣道とあとあやかしの事を習ってるんだぞ。おれ、お父様には負けるけど、強いんだからな。それで時生には、その机の上の本のことを教わるんだ。そうだろ? 教えてくれるって朝言ってた」
「……本当に、僕が先生でもよいのでしょうか?」
「うん。おれはいいぞ! お父様が連れてきたんだから、お父様もいいって言う!」
断言してから、澪がひょいとソファから飛び降りて、テーブルの横をまわり、時生のそばに来てから、隣に座った。そして時生の腕を、己の両腕で抱く。
「あのな、時生は、おれの先生だから、あ、朝は教わらなくていいって言ったけど、あれも嘘だ。全部嘘だ」
澪は少々気性が荒いようにこれまで感じていた時生だったが、必死にそう言う澪を見て、気を遣ってくれているのだとありありと分かり、胸がギュッと締め付けられたようになる。
「だからっ、おれが言いたかったのは……時生は敬語じゃなくていいってお話で……っ」
すると澪が泣きそうな顔で、時生を見上げた。すぐに瞳が潤みはじめる。
ハッとして息を呑み、慌てて時生は澪を横から抱き寄せた。
「ありがとう、澪様」
「うん……うん……っ」
涙声で頷いた澪は、ギュッと時生に抱きついている。額を時生の胸にぐっと押しつけて、俯いて泣いている。その温もりに、時生は優しさを感じた。しっかりしなければ――自己憐憫に浸っている場合ではないと、そう決意しなおす。
「わかりまし……わかったよ。明日からと言わず、今日からビシビシ行くからね」
笑顔を取り戻して時生が言うと、顔を上げた澪はこれでもかと目を見開き、まん丸にしていた。そして二度ほど瞬きをする。どうやら涙は乾いてしまった様子だ。
「なにからやりたい? 希望はある?」
「う、うん……で、でも、もうすぐお父様が帰ってくる! あ、明日でいいぞ! 時生はもう休め!」
「僕の雇い主は偲様だから、澪様のご命令は聞けないよ」
「なんだとー!?」
澪が唇を尖らせる。
扉が開く音がして、クスクスと笑う声がしたのは、その時の事だった。
「扉の外まで聞こえていたぞ。随分と親しくなったようだな」
そこには偲が立っていた。帰ってきたばかりのようで、軍服を纏ったままである。
「どうぞ、ビシビシと躾けてやってくれ」
「は、はい……えっと……その……」
慌てて時生は居住まいを正す。その横から絨毯の上に飛び降りて、澪は駆けていき、偲に飛びつく。それを両腕で迎え、そのまま抱き上げた偲は、微笑しながら首を傾げた。
「その、なんだ? なにか問題か?」
「――いえ。僕、明日からも頑張らせて頂きます」
「俺に対しても敬語でなくとも構わないのだが」
「えっ、どこから聞いていらしたんですか……? そんなわけには参りません……」
「さて、どこからだろうな。今、真奈美が配膳をしてくれている。まずは、夕食としよう」
こうして偲は澪を抱き上げたままで踵を返した。おずおずと立ち上がり、時生も後に従う。三人で朝食を共にした洋間へと向かうと、偲の先程の言葉通り、真奈美が料理を並べていた。
「さぁ、座ろうか」
偲の言葉に、時生は頷いた。
「澪様は、干支は全部分かる?」
「分かるぞ! 今年はうさぎの『う』だから、ええと、子・丑・寅・卯・辰……えっと……」
指折り数えてから、悔しそうに澪が頬を膨らませた。
「教えろ!」
「明日からお勉強しましょうか?」
「今、教えろ!」
「――いいですよ。ええと、辰の次は巳です。それから午・未・申・酉・戌・亥と続きます」
「な、なるほど。わ、わかってたんだ、本当は!」
「ふぅん」
澪の可愛らしい嘘を、追求することなく時生はニコニコしながら聞いていた。
するとばつが悪そうな顔をして、じっと澪が時生を見た。
「う、嘘をついた……ごめんなさい」
「そうなんですね」
「うん。だけど、教わったから、もう言えるようになったぞ! 子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥だ!」
誇らしげに笑った澪を見て、つい時生はその髪を撫でてしまった。すると澪が目を丸くする。そしてふっくらとした両頬を持ち上げて、嬉しそうに頷く。
「おれ、すごいだろ?」
「うん。澪様は、とってもすごいですよ」
「――かたいぞ!」
「え?」
「時生はおれの先生なんだから、もっと堂々と喋ればいいのに。どうして敬語なんだ?」
「えっ……僕は先生と言うより、澪様の子守り……お世話を頼まれているだけなので」
「今、子守りと言いかけたな? おれは子供じゃないから、そんなのいらない。お世話はして欲しいけど小春がいる! 真奈美もいる! 渉もいる! 時生はやらなくていいだろ!」
澪の声に、それでは己がここにいる理由が無くなってしまうと思い、澪にそういった意図が無いのは分かったが、時生の胸がズキリと痛んだ。しかしこのようにあどけない子供をダシにして居座ろうとしている自分自身が一番許せなくて、そちらの方に苦しくなる。
「どうしてそんなに悲しそうな顔するの……? おれ、いじめたか?」
「う、ううん。なんでもないです」
「そっか? うん。お腹痛いのか?」
「平気です」
時生は必死で作り笑いをしたが、澪は心配そうな顔のままだ。どこかしょんぼりして見える。
「おれ、時生にはずっと先生でいてほしいから、病気にはなるなよ?」
「っ、先生……」
「うん。おれの先生は、お父様と時生だ。お父様からは書道と剣道とあとあやかしの事を習ってるんだぞ。おれ、お父様には負けるけど、強いんだからな。それで時生には、その机の上の本のことを教わるんだ。そうだろ? 教えてくれるって朝言ってた」
「……本当に、僕が先生でもよいのでしょうか?」
「うん。おれはいいぞ! お父様が連れてきたんだから、お父様もいいって言う!」
断言してから、澪がひょいとソファから飛び降りて、テーブルの横をまわり、時生のそばに来てから、隣に座った。そして時生の腕を、己の両腕で抱く。
「あのな、時生は、おれの先生だから、あ、朝は教わらなくていいって言ったけど、あれも嘘だ。全部嘘だ」
澪は少々気性が荒いようにこれまで感じていた時生だったが、必死にそう言う澪を見て、気を遣ってくれているのだとありありと分かり、胸がギュッと締め付けられたようになる。
「だからっ、おれが言いたかったのは……時生は敬語じゃなくていいってお話で……っ」
すると澪が泣きそうな顔で、時生を見上げた。すぐに瞳が潤みはじめる。
ハッとして息を呑み、慌てて時生は澪を横から抱き寄せた。
「ありがとう、澪様」
「うん……うん……っ」
涙声で頷いた澪は、ギュッと時生に抱きついている。額を時生の胸にぐっと押しつけて、俯いて泣いている。その温もりに、時生は優しさを感じた。しっかりしなければ――自己憐憫に浸っている場合ではないと、そう決意しなおす。
「わかりまし……わかったよ。明日からと言わず、今日からビシビシ行くからね」
笑顔を取り戻して時生が言うと、顔を上げた澪はこれでもかと目を見開き、まん丸にしていた。そして二度ほど瞬きをする。どうやら涙は乾いてしまった様子だ。
「なにからやりたい? 希望はある?」
「う、うん……で、でも、もうすぐお父様が帰ってくる! あ、明日でいいぞ! 時生はもう休め!」
「僕の雇い主は偲様だから、澪様のご命令は聞けないよ」
「なんだとー!?」
澪が唇を尖らせる。
扉が開く音がして、クスクスと笑う声がしたのは、その時の事だった。
「扉の外まで聞こえていたぞ。随分と親しくなったようだな」
そこには偲が立っていた。帰ってきたばかりのようで、軍服を纏ったままである。
「どうぞ、ビシビシと躾けてやってくれ」
「は、はい……えっと……その……」
慌てて時生は居住まいを正す。その横から絨毯の上に飛び降りて、澪は駆けていき、偲に飛びつく。それを両腕で迎え、そのまま抱き上げた偲は、微笑しながら首を傾げた。
「その、なんだ? なにか問題か?」
「――いえ。僕、明日からも頑張らせて頂きます」
「俺に対しても敬語でなくとも構わないのだが」
「えっ、どこから聞いていらしたんですか……? そんなわけには参りません……」
「さて、どこからだろうな。今、真奈美が配膳をしてくれている。まずは、夕食としよう」
こうして偲は澪を抱き上げたままで踵を返した。おずおずと立ち上がり、時生も後に従う。三人で朝食を共にした洋間へと向かうと、偲の先程の言葉通り、真奈美が料理を並べていた。
「さぁ、座ろうか」
偲の言葉に、時生は頷いた。