「それでは俺はもう行く。時生、澪のことを宜しく頼む」

 食後、そのように告げると、優しい微笑で澪の柔らかそうな髪を撫でてから、偲が洋間を出て行った。立ち上がり、大きく何度も頷いて時生が見送る。澪も丁度食事を食べ終えた。

 そこへ真奈美が食器類を片付けに来る。真奈美に伴い、一人の老齢の女性が入ってきた。

「時生さん、こちらが小春さんよ」

 真奈美がそう言いながら、女性へと視線を向ける。白髪を後ろでお団子にまとめている小春は、目尻の皺をさらに深くして笑顔を浮かべ、時生の前に立った。

「宜しくお願いしますね。時生さんだったかねぇ?」
「は、はい! 宜しくお願いします」
「澪坊っちゃんのお部屋に案内するからついておいで」

 小春の声に、おずおずと時生が頷く。するとひょいと澪が椅子から飛び降りた。

「行くぞ!」
「これ! 坊っちゃん。椅子からは静かに降りねばダメですぞ」

 語調を強めた小春だったが、澪は何処吹く風で、顔を背けるだけだ。

「時生、行くぞ!」

 澪はそう言うと、時生の腕の袖を掴み、歩きはじめた。溜息を零してから、小春が並んで、一緒に進む。目を丸くしつつも、時生も後に従った。

 よく磨き上げられた木の床の上を進んでいき、自分にあてがわれた部屋があるのと同じ二階へと、階段を進んで向かう。ただ先程時生が降りてきたのとは別の階段で、こちらは緩やかな段差であり、急ではない。だから澪にも上がるのが、そう困難ではなさそうだった。

 階段のを登り切り、奥の角部屋へと着くと、小春が扉を開ける。
 そこもまた洋間であり、白いレースのカーテン越しに、柔らかな秋の日射しが降り注いでくる。洋風の寝具があり、その上には、クマのぬいぐるみがあった。ぬいぐるみは首から銀の飾りを提げている。

「時生さんや。ここで澪坊っちゃんの相手をお願いしますよ」

 道中も和やかに声をかけてくれた小春が、穏やかに語る。
 コクコクと頷いた時生の腕を、澪が引っ張る。

「おれがいっぱい楽しい遊びを教えてやるからな!」
「坊っちゃん。時生さんにご迷惑をおかけしないように」
「迷惑じゃないよな? おれと遊びたいだろ?」

 澪が唇を尖らせて、小首を傾げた。時生は両頬を持ち上げて、唇で弧を描く。明るく温かな気持ちが胸に溢れてくる。だから小さく頷いた。

「そこの机の上に、偲坊っちゃ……旦那様が学ばせたいと置いている勉学の本があるのですよ。何分私達には難解で。こればかりは、澪坊っちゃんの方が分かるほどでしてね。時生さんや。分かるようなら、澪坊っちゃんに教えてあげて下され」

 小春の声に、窓際の学習机を見ると、子供向けの異国語の本や、あやかし辞典などが置いてあった。あやかしに関しては、時生は見鬼の才が無いから見えないし、多くの人間がそうではあるが、『存在する』というのは庶民の間にも広がっている知識なので、こうして書物が流通している。ただ半信半疑であったり、信じない者も多いのが実情だ。

「では。また後で様子を見によこしますからの。あまり気を張らず、時生さんもゆったりと相手をするとよいですよ」

 笑顔でそう述べると、小春が部屋を出て行った。それを見送っていると、澪が再び時生の服の袖を引く。

「そこのソファに座れ!」

 長椅子を指さした澪を見て、時生は小さく頷く。
 ベッドの脇、学習机の手前に、テーブルと横長の椅子が二つある。柔らかそうな素材で出来ており、これも異国から入ってきた品で、ソファというのだということは、時生にも知識としてあった。裕介の部屋に類似の品があったからだ。

「なにをして遊ぶ?」
「澪様……お勉強をしませんか?」
「いやだ! おれはもういっぱい知ってるもん」

 頬を膨らませた澪の声が愛らしくて、時生はくすりと笑った。

「じゃあ、僕に教えて下さい」
「え?」
「澪様が知っていることを」
「おれが知っていること?」
「ええ。たくさんご存じなら、僕に、代わりに色々教えてほしいなって」

 時生の提案に目を丸くしてから、澪がパチパチと瞬きをした。
 それから誇らしそうに唇の両端を持ち上げると、大きく頷いた。

「いいぞ!」

 時生は微笑を返す。
 実はこれには、きちんと二つ意図がある。

 まず、学校を出ていないから、時生本人は己には学が無いと考えている。だからそんな自分が、本当に勉強を見ることが出来るのかも分からず、澪の知識の程度を知ることで、教えることが可能か否かを判断するのが、一つ目の意図だ。

 二つ目は知識の程度から、何が欠けていて、何が秀でているのかを知ることで、己が教えられる場合、何を教えていくか検討する材料としたかったからである。

「では、いくつか質問してもいいですか?」
「もちろんだ!」

 時生の正面のソファに座り、大きく時生が頷く。

 こうして質疑応答が始まった。