半地下へと続くその石段の先には、硝子の開き戸がある。
 細い三日月のその夜は、黒い雲が立ちこめており、しとしとと雨が降っていた。
 その雨脚はすぐに強くなり始める。

「っく」

 楽しげに喉で笑った、黒い短髪の青年は紺色の布を腰に巻いていて、袖を捲った白いシャツから見える逞しい腕を組み、精悍な笑顔でその戸の前に立つ。暖簾には、鴻大屋と書かれている。

 中へと入ろうとした手前で、戸が影のような色の靄になり、視界が二重にブレるように変化した。鴻大晃が通り抜けると、その中には魑魅魍魎が跋扈していた。

 それまで精悍な表情だった鴻大の瞳が、ニヤニヤと嘲笑するような色を浮かべて暗く歪む。視線を下ろした彼は、己の腰布から、いつか時生が白い波線と称し、己は護り神だと嘯いた――大蛇の生死を告げる模様が、すっと溶けるように消えていくのを見た。

「ああ、失敗か。残念だ。長い間、仕込んでおいたというのに」

 周囲にいた悪しきあやかし達がそろって視線を向ける。目が一つだけの存在もいれば、多眼の者、そもそも無い怪異もいる。ここは、人間にとって害在る物の怪の巣窟だ。皆、人間を害する事を生きがいとしている。

「一番脆い高圓寺から崩そうと思ったんだが、さすがに一筋縄ではいかないな」

 大蛇の物の怪を高圓寺家に取り憑かせていた鴻大は、さして困った様子もなく、そう口にして笑う。

牛鬼(ぎゅうき)様、楽しそうですね」

 すると首の長い物の怪が話しかけた。そちらへと首だけで振り返った鴻大は、実際楽しそうに頷く。鴻大屋の本物の四代目を殺害して、成り代わってまだ日が浅い。本質が牛鬼である彼は、この帝都を壊すことを楽しみにしている。

「ああ。白い波線などと暢気に言われたことを思い出すと嗤ってしまってな。全く、人間とは本当に愚かだ」
「そうやって甘く見ていると、足下を掬われるアルヨ」

 そこへ、キョンシーである凛絽雨が声をかけた。
 スッと双眸を眇め、口元だけには笑みを浮かべて鴻大が頷く。

「お前のように俺達にも取り入り、人間にも取り入るものには、あまり言われたくないが、それだけ、あの忌々しいあやかし対策部隊も動いているという情報提供と認識していいのか?」
「好きにすればいいアルヨ。私、何を言われても怖くないアルヨ」

 その言葉に鴻大は笑って見せた。

「それにしても、四将は邪魔だ。特に気になるのは――……高圓寺時生だ。高圓寺家の破魔の技倆の持ち主は全て大蛇に喰らわせたつもりだったんだが」

 冷酷な目をした鴻大は、それから思案するような顔をする。

「礼瀬の息子に放った、突発的な攻撃ではあったとはいえ、死神も撃退され、長期的に策を練ってきた高圓寺の大蛇も撃退され……あーあ。俺達は劣勢だな」

 そうは言いつつ、鴻大の目には、敗北したというような色はない。

「まぁいい、まだ策はある。ああ、だがあの澪という子供は、殺っておいてもよかったかもな。首を絞めてあの時殺せたが……まぁ、だが、それじゃあ退屈だしな」

 鴻大はそう口にすると、ポンっと腰の紺の布を叩く。
 すると波線があった場所に、今度は花の模様が現れた。

「さて、次はどのようにして害してやろうか」

 それから鴻大は、奥の階段に座っている、あやかし対策部隊の軍服姿の人間を見た。

「お前はどう思う?」
「さぁ?」

 答えた軍人の顔は、鴻大の位置からでは陰になり見えなかった。