井戸から広がる黒い靄。
 その中央から白い頭部がまずは覗いた。それは金色の目をしている、大蛇の頭部だった。すぐに首、胴体と巨体が出現する。うねるそれらが、広い部屋いっぱいに広がっていく。白い体躯には鱗が見える。所々に紺色の模様が見える。暫く体躯を部屋中に広げてから、その頭部が隆治と時生の前に近づき、口を開けば尖端が二つに割れた赤い舌と、牙が見えた。黄味がかかった唾液が線を引いている。

 このように巨大な生き物など、存在しない。空中に体を浮遊させるような蛇はいない。
 ――これ、は。
 全身に怖気が走り、思わず息を呑んだ時生は目を見開く。
 紛れもなく、人知を超えた、あやかしと呼ばれるような、そんな存在だ。

「軍の連中は、近年では『高圓寺には破魔の技倆の持ち主が生まれない』などと誤解しているが、そんなわけがあるまい。古より、生まれる運命にあるから、特別視されている四将だというのに」

 嘲笑するような、隆治の声が響く。

「蛇神様の命令で、数代前からは、力がある者は皆、供物として捧げてきたんだ。そうすれば、蛇神様は高圓寺家に富をもたらして下さると、約束して下さった。永遠の繁栄、それを保証して下さる。よって供物の管理をできる者が当主となり、技倆の持ち主は蛇神様に捧げる。それこそが、破魔の技倆を持つ者にとっても最高の誉れだ。時生、お前も嬉しいだろう?」

 そう述べると、時生から手を離した隆治が、短刀を取り出した。

「血を、肉を、全てを。ああ、どのように蛇神様の食べやすい大きさにしたものか。生肉の方がお喜びになるから、命を奪うわけにはいかぬが。まずは、動けぬよう、足の腱をきるとしようか。いいや、血を飲んで頂けるよう、首を裂くか」

 恍惚としている隆治の声に、震える体で、時生は後ずさろうとした。

「お父様……?」
「なんだ? お前も高圓寺の繁栄を当然願うだろうな? なにより、蛇神様の一部になれるという最高の名誉を拒絶するわけではあるまいな?」

 愉悦たっぷりの顔で嗤うと、隆治が短刀を振り上げた。
 そして、振り下ろす。
 両腕を顔の正面で交差させて、時生がギュッと目を閉じる。
 衣が切り裂かれ、右手の腕に鋭い熱が走る。じわりと白い着物が重くなり、血が流れたのだと分かる。熱がすぐに痛みへと変化し、怯えながら時生は後退した。

 目を開ければ、父が迫ってくる。蛇の威嚇するような声が響くから、井戸の方を見れば、大蛇の口が迫っていた。その先が割れた舌が、時生の頬をねっとりと舐める。

「ああ、蛇神様もお気に召したか。私の子が、供物になるとはなんたる栄誉だ」

 隆治が再び短刀を振りかぶる。

「止めて、止めて下さ……っ!」

 大口を開けた大蛇と、紫色の靄を纏った刀身が光る短刀を持つ父。
 時生は上手く現実を認識できない。

 ――助けて。
 ――誰か、助けて。

 胸元をギュッと押さえ、恐怖に耐えようとしながら、時生はギュッと目を閉じる。
 すると脳裏に、家を追い出されてから出会った様々な人の顔が浮かんできた。
 小春、渉、毅然と対応してくれた真奈美、行くなと言って守ろうとしてくれた澪。
 そして、なにより偲。

「護り神様の一部となれ」

 父のせせら笑うような声に、目を開く。震えた体では、声が喉に閊え、酸素も喉元で凍りついたかのようになり、呼吸が苦しい。父が再び短刀を振り上げる。

「そんなものは、護り神などではない」

 その時、強い語調ながらも冷徹な声がその場に響き渡った。
 時生の目の前で、短刀を持っていた隆治の右腕が、切断され宙に跳んだ。
 綺麗に斬られた断面には、骨と肉、脂肪の線が見えた。
 時生がそれを認識した直後、血飛沫が上がる。

 その前で、地を蹴る姿が見えた。そちらを見れば、軍刀を構えた偲が、大蛇に向かい刀を振り上げていた。周囲には風が吹き荒れている。

 重く鈍い音が響き、大蛇の首が切り落とされたのは、その時だった。
 落下した頭部は、床にたたきつけられると、黒い靄となって消失していく。
 胴体もそのまま宙に溶けていく。

「なっ、蛇神様になんという事を!!」

 腕を押さえながら、隆治が目を見開いている。高い音を立てて、軍刀を鞘に閉まった偲が、険しい顔で隆治を睨めつけながら、時生に歩みより、腕で抱き寄せる。

「あれは物の怪だ。そうか魅入られていたのだな」
「なんと、なんということを……必ず、祟られるぞ!」
「祟り? そのようなものを恐れて、あやかし対策部隊の軍人が務まると思うのか? そもそも俺は、大切な者を守れるのならば、祟りを受けても構わない。時生を守ることが出来たのだからな」

 偲はつらつらとそう述べると、時生を見た。その腕の感触で、やっと時生は呼吸が出来た気がした。

「遅くなってすまなかった」
「偲様……」
「連れて行かれたと知り、すぐにこちらへ向かったら、禍々しい気に館中が支配されていたから、勝手に立ち入らせてもらったのだが、正解だった。大丈夫か? いいや、愚問だな。大丈夫ではないな。安心しろ、これからは俺が時生を守る」

 偲はそう言って時生をより強く抱きしめてから、強く隆治を睨めつけた。

「既にあやかし対策部隊には連絡を入れている。先に医官にかかれるよう手配はするが、ただでは済まないと覚悟するがいい」

 偲は糾弾してから、時生を一度腕から離し、地を蹴った。
 そして隆治の背後に回ると、一瞬で気絶させた。
 ぐらりと傾いた隆治の体を受け止め、床に横たえると、懐から取り出した布紐で、腕の止血をする。そして落ちている切断された手を見据えてから、軽く首を振る。

「時生、命には別状は無いが――奪っても構わない。どうする?」

 いつも優しい偲の冷酷な声音が、湿った地下室に響き渡る。
 ハッとして、時生は思わず首を振った。

「それだけは……」
「そうか。時生がそう望むのならば、ここで手を下すことはせず、法に任せることとしよう。だが、俺は生涯、隆治卿を赦すことはない」

 偲はそう言うと戻ってきてから、改めて時生を抱きしめた。
 そして後頭部に手を回し、自分の体に押しつける。

「本当に無地でよかった」

 その言葉を耳にしたら、一気に恐怖が解けて、時生はきつく目を閉じる。ボロボロと涙が零れ始めた。このように心配されたことが、なにより胸に響いてくる。体が震え始めた時生は、ギュッと偲の胸元の服を掴んだ。

「ありがとうございます……」