目が合い、吸い込まれそうなその瞳にドキッとする。


「ハ……、ハル…?」


あまりにも衝撃的で、わたしは思わず声を漏らした。

そんなわたしの声に気づいた光晴様が、黒目だけをわたしに向けて見下ろす。


その表情のなんとも冷たいこと…。


「なんだ、その顔は。どうしてそれほどまでに汚れている」


そう言われてはっとした。

自分の顔が泥で汚れていることに。


あまりにも冷たい態度と口調に、わたしは慌てて周りの花嫁候補と同じようにおずおずと頭を下げる。

それを見ていた周りからは、クスクスといったかすかな笑い声が聞こえた。


「高宮のご令嬢よね?あの子はもうダメね」

「お早いお帰りで、ご家族もさぞかし驚かれるでしょうね」


だれが言っているのかはわからないけど、周りはわたしが初めの花嫁候補脱落者と思っているようだ。

わたしだって、今のでそう悟った。


みなきれいな身なりをしているのに、わたしだけ泥だらけ。

最悪の第一印象の娘をだれが喜んで花嫁に迎え入れるだろうか。


その日中に実家に帰らされたら、そりゃもう快く送り出した家族からすれば驚くことだろう。


しかし、わたしにはそんな家族などもういない。

ここでダメだった場合、わたしはこの屋敷で一生女中として働く運命にあるのだから。


そのあと、この屋敷での生活について説明がされた。


ここでの暮らしは2ヶ月間。

その間、光晴様の花嫁にふさわしくないと判断された者は即刻返されるのだそう。


集められた花嫁候補は、わたしを含めて30人。

1人の男から見初められるために、女たちはいかに自分をよく見せようと奮闘することだろう。


まるで人気の恋愛リアリティ番組のような構図だ。


ただ、この中のだれか1人が花嫁に選ばれるとは限らない。

光晴様がだれも気に入らない場合もあるのだ。


それなのに、ここでの暮らしの決まりとして、夜伽として光晴様と夜をともにする相手が毎晩1人ずつ順番に巡ってくる。

その説明を聞いて、わたしは1人で顔を真っ赤にしていた。


もちろんそのような経験はないし、転生前でも経験なし。


ここに集まる人たちだって、みな嫁入り前の生娘たち。

なのに、光晴様と一晩過ごせというなんて――。


と思いながら、周りをチラチラ見てみたけど、なんと恥ずかしがっているのはわたしだけだった。


みなそれを覚悟してここへきているようで、神と崇められる陰陽師に触れられることはむしろ誉れ高きことと思っているようだ。

しかも、もし光晴様の子を身籠ることができれば、妻となるのはほぼ確実。


みなの表情を見る限り、虎視眈々とその地位を狙っているように見えた。


バイタリティ溢れる花嫁候補たちに、わたしはさっそく圧倒されていた。

ただ花江さんもわたしと同じような反応をしていたから、1人でも仲間がいてよかった。


ここまでの説明はすべて光晴様の側近の方がされていた。

その間、光晴様はひと言も発することなく実に不機嫌そうな表情をされている。


さっきの冷たい言動もそうだけど、顔はハルにそっくりなだけで、あとはまったく違う。

ハルはいつでもやさしくて、クールだけど見ていてほがらかな気持ちになる笑顔が素敵だったから。


阿部光晴(あべみつはる)』と『阿部光晴(あべのこうせい)』。

名前の読みが違うだけで、漢字も同じ。


…だけど、…当たり前だけど。

あの人は、決してハルではないんだ。


遠くから光晴様の横顔を眺めていると、思わずじわりと目の奥が熱くなった。


そのときなにかに気づいたのか、ふと光晴様がこちらに顔を向けた。

また目が合って、わたしはとっさにうつむく。


「というわけで、これからここで暮らしていただくにあたり――」

「少しいいか」


すると、突然光晴様が側近の話を遮った。


「そこの女」


落ち着きのある低い声。

声もハルそっくりだ。


「おい、聞こえているのか」

「は、はい…!」


ぼうっとしていたから、わたしは慌ててその場に立ち上がった。


「見ろ、お前たち。このような場にふさわしくない、泥まみれの女がいるぞ」


光晴様がそういうものだから、花嫁候補たちはあからさまに笑っている。

唯一笑っていないのは、花江さんだけ。


わたしはみなの前で辱めを受け、唇を噛んで下を向いた。

家族からも虐げられ、初対面の人たちからも虐げられ、この世界でのわたしの人生はずっとこうなのだろうか。


「さっさと出ていけ」


そう言われるのを覚悟して、わたしはぎゅっと目をつむった。

――ところが。


「だれだ。あの女をそのように汚した者は」


そんな光晴様の声が聞こえて、わたしはゆっくりと顔を上げた。

見ると、眉間にしわを寄せ花嫁候補たちを順に睨みつける光晴様のお姿があった。


「今名乗り出るのであれば、事の成り行きについては目をつむってやろう。しかし、嘘を突き通すのであれば許しはしない」


光晴様の鋭い瞳に、花嫁候補たちは思わずごくりとつばを飲む。


「光晴様、よろしいでしょうか」


すると、1人の花嫁候補が手を上げた。


「お言葉ですが、私どもを疑うのは心外にございます。あの者は、自らあのようなことになったのではないのでしょうか」

「自ら…と申すと?」

「はい。昨夜の雨で地面はぬかるんでおりました。それで、ここにくるまでの間につまずいて転んでしまったという場合もございます」


光晴様にそう説明するあの人はわたしを直接貶めた人ではないけれど、あんな騒ぎになったのだから、ここにいた人は全員知っているはず。

なぜわたしがこんなにも汚れているのかということを。


それを聞いて、光晴様はすとんと座り直した。


「そうか」


光晴様はあの人の言葉を信じたんだ。


ハルならきっとわたしの味方をしてくれるだろうけど、光晴様はハルじゃないだもの。

わたしってば、なにを期待して――。


「だが、事実はそうでないと言っているぞ?」


……えっ。


「なにやら黒い着物の女が、あの者を異能により跪かせたようだな」


それを聞いて、大広間内がざわつく。


どうしてあの場にいなかった光晴様がそんなことを――。


驚いて顔を上げると、光晴様の人差し指に小さな白い小鳥がとまっていた。


いや、違う。

鳥のような姿で鳥のような動きをしているけれど、あれは折り紙だ。


「こいつは俺の力を折り紙に込めた、陰陽師家系にしか扱うことのできない式神の一種だ。こいつが事の一部始終を見ていたようだ」


鳥の形をした折り紙の式神は、光晴様の肩にとまって頰をつつく。

まるで、なにかを耳打ちしているかのような動きだ。


「そうか、そうか。他にも2人…、なるほどな」


光晴様は式神の頭を指で撫でると、瞬時にわたしたちのほうへ視線を向けた。

その瞬間、津波のように覇気が押し寄せてきて、気づいたら花嫁候補の中から3人が庭に弾き飛ばされていた。


驚いて目を向けると、それはわたしに重力の異能をかけた黒い着物の人と、同じように笑っていたあとの2人だった。


「…い、痛い。いきなりなにをされるのですか!」


3人はよろよろと立ち上がる。

それを見て、光晴様は意地悪く笑った。


「よいではないか。その顔、お前たちに似合っているぞ」


3人は着物だけでなく、顔にも泥がべったりとついていた。


「…なっ!こ、こんな仕打ちを受けたと知ったら、わたくしのお父様が黙ってはいないわ!」

「だったらなんだ?文句があるなら、今度はそのお父様とやらをこさせればいい。相手になるぞ」


その言葉に、黒い着物の女性はぐうの音も出ない。


帝に一番近いとされる“神”と崇められる阿部家には、まず財力で勝てるわけがない。

さらに、光晴様は異能と星の力の才に恵まれた申し子と言われ、歴代の陰陽師の中で最強の力を誇る。


つまり、どんなに財力がある優秀な異能家系といっても、阿部光晴に勝る者など今の世にはいないのだ。


「この屋敷で、性悪女と同じ空気を吸うかと思うだけで吐き気がする。今すぐ出ていけ」


こうしてわたしをいじめた3人と、事の成り行きを知っていたにも関わらず光晴様に嘘の説明をした花嫁候補の合わせて4人は、即刻屋敷から追い出されたのだった。


「話は以上だ。俺は部屋に戻る」


光晴様はそれだけ言って立ち上がると、呆気に取られていた花嫁候補たちの間を割って足早に歩く。

そして、部屋から出ようとしたところで、一番後ろに座っていたわたしの前で足を止めた。


「さっさとその顔をどうにかしろ」


顔を上げなくとも、光晴様の鋭い視線が刺さっているのがわかりギクリとする。


「は…はい。申し訳ございませ――」


とわたしが言い終わるよりも先に、光晴様は背中を向けていってしまった。


そんなわたしの膝の上になにかがとまる。

見ると、それは光晴様の式神の折り紙の鳥だった。


しかも、くちばしに自分の体よりも大きな四つ折りの白いハンカチをくわえていた。

そして、それをそっとわたしの膝の上に置く。


「あの…、これは――」


式神はわたしのところから飛び立つと、光晴様のあとを追って飛んでいった。

光晴様に追いつくと、右肩にちょこんと降り立ったのが見えた。


もしかして、このハンカチは光晴様が…?


わたしはハンカチを握りしめ、光晴様の後ろ姿を見届ける。

その凛々しいお背中を見て、さっきのわたしのことを庇ってくださったような言動を思い出すと、思わずわたしの頬がぽっと熱くなったのがわかった。


ハルと瓜二つの顔の光晴様。

冷酷非道という噂通りのお方だったけれど、少しだけやさしさも垣間見たような気がした。



その後、わたしたち花嫁候補は透渡殿(すきわたどの)を歩いて、寝殿の西側にある対屋(たいのや)西(にし)(たい)に案内された。

ここにはいくつもの部屋があり、好きな部屋を自室として使っていいと言われた。


寝殿から近い部屋が次々と埋まっていき、わたしと花江さんは一番隅に近い部屋を使うこととなった。

多少他と比べて日当たりは悪いけれど、花江さんと隣同士だからそれでいい。


早いもの勝ちで決まった部屋の割り当てだったけど、なんと一番寝殿に近い部屋の花嫁候補から、さっそくその日の夜伽に呼ばれていた。

次の日はその隣の部屋、そのまた次の日はその隣の部屋――。


わたしはというと、後ろから数えて花江さんの次だから、夜伽となるのはまだずいぶんと先だ。


だけど、いつかはわたしもハル――いや、光晴様と…。


想像するだけで顔から火が出そうだった。

なぜなら、ハルのことは好きだったけど、それは見ているだけで胸がいっぱいになって十分だから、それ以上のことを望んだことはなかった。


なのに、ハルと同じ顔の光晴様と――。

それ以上の関係に…。


そんなわたしと光晴様なんて想像したくもなかった。

しかし、光晴様が他の花嫁候補に触れているところを想像するのも嫌だった。


…まるで、ハルがしているみたいに思えて。


「あれ?佳月さん、元気ない?」

「…あ、い…いえっ。そんなことないです…!」


わたしの顔を花江さんが心配そうに覗き込む。


あれから、花江さんとはお互いの部屋を行き来するような仲になった。

気が合って、毎日楽しくおしゃべりをしているけれど、ふとしたときに光晴様のことが頭をよぎる。


とくに、夜。

今頃、光晴様は他の花嫁候補の方と――。


毎晩毎晩そんなことを考えるたびに胸が苦しくなったのだった。


ところが、ここへきて10日ほとがたった頃。


「佳月さん、佳月さん!」

「あら、花江さん。いらっしゃい」


昼食後、部屋で読書をしていたわたしのところへ花江さんがやってきた。


「今、いい?ちょっと小耳に挟んだのだけれど」

「どうかしましたか?」


聞くと、それは光晴様との夜伽のことだった。

毎夜毎夜、違う花嫁候補が光晴様の部屋へ行くけれど、みなすぐに自室に返されているのだとか。


「昨日の夜遅く、すすり泣く声が聞こえたから部屋から顔を覗かせてみたら、夜伽のはずの花嫁候補の方が泣きながら自室に戻っていくのが見えたの」


それでさっきその人に直接話を聞いてみたところ、「見知らぬ女とおちおち寝られるか!」と光晴様に言われ、追い返されたのだそう。

そこで、すでに夜伽を終えた他の花嫁候補からも話も聞くと、みななにをすることもされることもなく、きてすぐに自室に返されたと話した。


わたしはここでは無能として相手にされていないけど、花江さんは他の花嫁候補ともコミュニケーションを取っていて、いろんな話を教えてくれる。


どうやら、阿部家や朝廷が将来の陰陽師家系存続のために花嫁候補を集めたものの、当の本人である光晴様はそのことに未だに納得していないようだ。

この様子だと、だれも花嫁候補に選ばれないのではないだろうか。


普段からのわたしたちに対する光晴様の態度を見ていても、そう思わざるを得ない。


光晴様はわたしに対しても変わらず冷たい。

でも、それはわたしだけではないし、光晴様がまだだれとも夜をともに過ごされていないと知って、…少しだけ安心した。


「えっと、今日があの部屋の方が夜伽の番だから…。私たちは――」


花江さんはそうつぶやきながら、向こうのほうから部屋を数えていく。


「私があと11日後だから、佳月ちゃんはちょうど10日後かしら」


あと10日で、わたしが光晴様の夜伽――。


変な想像をしてしまって、胸がドキドキとうるさく鳴る。


「でもきっと、私たちもすぐに部屋に返されることになりそうね」

「そうですね」


わたしたちは安心したように笑った。


それからも、光晴様は立て続けに夜伽を拒んでいると聞き――。

そして、ついにわたしの番がまわってきた。


きっとわたしも追い返されることだろう。

とわかっていても、夜伽の支度はしなければならない。


真っ白な寝間着に袖を通し、髪を後ろでひとつに結う。


しかし、うまく結えない。

後ろの髪をうまくつかめないというか――。


はっとして鏡に目を向けると、わたしの髪が徐々に短くなっていた。

柔らかなもちもちした体型も、次第に筋張った筋肉質な体型へと変化していく。


まさかと思い、わずかに開けた障子から目だけを覗かせると、空には月の姿はなくいつにも増して真っ暗な夜だった。

わたしの額から嫌な汗が一筋流れ落ちる。


――新月だ。


夜伽のためそろそろ屋敷の方が呼びにくるというのに、こんなときに限ってわたしは男体化してしまったのだ。


わたしが新月の夜だけ男になるというのは、家族以外に絶対知られてはいけない秘密。


なにも知らない屋敷の方が見たら、花嫁候補の部屋に忍び込んだ曲者と思われるかもしれない。

最悪、人間ではなく花嫁候補に化けた男のあやかしと間違われて対峙される可能性だってある。


どちらにしても、こんな姿をだれかに見られるわけにはいかなかった。


――ところが。


「高宮佳月様」


障子越しにわたしを呼ぶ声がした。


屋敷の方だ…!


返事をしなければ異変を感じて障子を開けられることだろう。

ここは返事をしなければ…。


「…は、はい」


声も低くなっていて、わたしは最大限に高い声で返事をした。


「夜伽のご支度、整いましたでございましょうか」


き…きたっ…!


「それは…、できましたが…」


…どうしよう、もうダメだ。

この姿を見られてしまう…。


そう覚悟していた、――そのとき。


「申し訳ございませんが、今宵の夜伽、明日に成り代わりましたことをお伝えに参りました」


…えっ?


わたしの体から一気に冷や汗が引くのがわかった。


「それは、どういう…」

「先程、都に凶悪な鬼が出現したとの報告を受け、光晴様がその対峙に向かわれました」


あやかしの出現は珍しいことではない。

しかし、異能を持たない庶民には対処できるものではなく、代わりに異能者があやかし対峙に向かう。


ところがまれに、異能者でも苦戦するおぞましい邪気を持つあやかしが現れる。

そういうときは、異能者よりも力ある陰陽師が応戦しに行くのだ。


という緊急事態のため、わたしの夜伽は明日へ変更となった。


…よ、よかった。


余程気疲れしてしまったのか、その夜わたしは気絶するように眠ってしまった。



次の日。


「佳月さん、聞いたわ。昨夜、都に鬼が出たせいで光晴様との夜伽が流れたんですってね」

「さすが花江さん。もう耳に入っているんですね」


わたしの姿を見かけた花江さんがさっそく話しかけにきた。


「でも、光晴様のご活躍により、被害は最小限に食い止められたとか」


“最強の陰陽師”と称えられるだけあって、光晴様の力は異能者の百人力とも言われているらしい。

だからこそ、力ある光晴様を狙おうとするあやかしもいるとは聞く。


緊急事態のおかげで、夜伽が次の日に変わったのはよかったが、どちらにしても初めての夜伽にわたしはその日まったく落ち着かなかった。



――そして、その夜。

昨夜同様に白い寝間着に身を包み、長い髪を後ろでひとつに結って、案内されるままに緊張した面持ちで光晴様のお部屋へと向かった。


今までに感じたことがないくらい、心臓がバクバクと鳴っている。

そんな胸に、わたしはそっと手を当てる。


…大丈夫。

他の花嫁候補と同じように、入ってすぐに突き返されるだけだから。


そう自分に言い聞かせると、少しだけ気持ちが軽くなった。


「し、失礼…します」


わたしは緊張で小刻みに震える手でゆっくりと襖を開けた。


行灯(あんどん)のぼんやりとした明かりに包まれた部屋の中には1組の布団が敷かれいて、それを見たわたしはごくりとつばを飲み込んだ。

その布団の傍らに、わたしに背を向けあぐらをかいて座る光晴様の姿が。


その冷たい背中がすべてを語っている。

「早く出ていけ」と。


でも、その後ろ姿もハルにそっくりだ。


「…お、お初にお目にかかります。高宮家長女、佳月と申します」


わたしは光晴様の背中に向かって深々と頭を下げた。

すでに殺伐とした空気が漂っていて、色めかしい雰囲気でも、ましてやロマンティックなムードでもない。


「佳月と申すのか。あの泥まみれの女だな?」

「は…はい!」


驚いた。

他人には一切興味のなさそうな光晴様が、わたしのことを覚えてくださっていたことに。


「悪いが、俺はだれとも夜をともにするつもりはない。さっさと部屋へ帰れ」

「…承知致しました」


よかった。

思ったとおり、すぐに返される。


「しかしながら、せめてこれだけでも受け取っていただけないでしょうか」


そう言って、わたしが懐から取り出したのは白いハンカチ。


これは、ここへきた初日、顔が泥で汚れていたわたしに光晴様が式神に託してわたしに渡してくださったものだ。

次にお会いしたときにお返ししようと思って、冷たい水にさらされながらも泥汚れもきれいに落とした。


「変わったやつだな。そんなものを大事に持っていたのか」


初めて、光晴様がこちらを向いた。

声もその横顔もすべてがハルそっくりで思わず見惚れてしまった。


「返されたところで不要でしかない」


でもやはり、言葉も態度も冷たくハルとは大違い。


「でしたら…!わたしが持っていてもよろしいでしょうか」

「好きにしろ。だから、それを持ってさっさと――」


言われたとおりわたしが下ろうとしたとき、突然光晴様がハンカチを握っていたわたしの手首を取った。


「…きゃっ……!」


そして、予想だにしなかったことに小さな悲鳴しか上げることができなかったわたしは、気づいたら布団の上に押し倒されていた。

そのわたしの上には、光晴様が覆いかぶさる。


光晴様の美しすぎる顔を間近に見つめ、わたしは息を呑んだ。


それにこのシチュエーション…。

まるでハルがわたしを押し倒しているような。


光晴様は夜伽の花嫁候補を指一本触れることなく突き返していると聞く。

だから、こんな展開…聞いてない。


「こっ…光晴様――」

「お前、何者だ?」


唸るようなその低い声に、わたしは思わず体がこわばった。


…ま、まさか。

新月は昨日だというのに、光晴様はこのわずかな間でわたしの秘密にお気づきに…?


「あの…。光晴様、これはどういう――」

「俺の命でも狙いにきたか?」


その言葉に、わたしは目を見開いた。


…命を狙う?

わたしが…?


「光晴様、…突然なにを言われるのですか。わたしは――」

「隠しても無駄だ。お前からあやかしの匂いがするぞ」


上からそう吐き捨て、光晴様が鋭い瞳でわたしを捕らえる。

まるでその瞳に刺し殺されてしまうかのように、深く鋭くわたしの心をえぐった。


光晴様は…ハルじゃない。

わかっている。


わかっているけど――。

ハルは、そんな目でわたしのことは見ないっ…。


わたしが好きだったハルの笑った顔を思い出したら、自然と涙がポロポロと溢れ出した。

こんなときに…、泣くつもりなんてないのに…勝手に涙が。


「泣いたら見逃してもらえるとでも思っているのか。今すぐ、その化けの皮を剥がしてやる」


光晴様は、青白い異能の光をまとった手をわたしに向けた。

――次の瞬間!


その手のひらから青白い炎を形作ると、それを襖に向かって投げ飛ばした。

その威力に、吹っ飛んだ襖の中央には焼け焦げて丸くなった跡がついていた。


突然の異能にわたしは目を丸くした。

てっきりわたしが攻撃されるかと思いきや、直前でなにかを察知したかのように光晴様の目尻がわずかにピクリと動いたかと思ったら、光晴様はその異能を襖へと放った光。


見ると、焦げた倒れている襖がカタカタと動いていた。

下になにかいる…!


光晴様が風の異能で襖を取っ払うと、襖の下に隠れるようにしていただれかがゆっくりと顔を上げた。

その人物を見て、わたしは思わず目を丸くした。


なんと、それは花江さんだった。


「花江…さん?どうしてこんなところに…」


この時間、この部屋に近づくことは光晴様と夜伽の女性以外許されていないはず。


「そんなことよりも…大丈夫ですか!?」


光晴様の異能を受けてボロボロの花江さんに、すぐさまわたしは起き上がって駆け寄ろうとした。

しかし、またしてもその手首を後ろから光晴様に握られ、後ろへと引っ張られた。


ストンと収まるところに収まったような気がしたと思ったら、わたしは光晴様に片手で抱き寄せられていた。

硬い胸板に顔を押しつけられ、思わず頬が熱くなる。


「行くな。あいつは化け物だぞ」


そんな光晴様の言葉を聞いて、わたしは一瞬にして我に返った。


光晴様はいったいなにを言い出すのか。

花江さんが化け物なわけ――。


「…そうか。やはり気づイテイタカ」


花江さんは不気味な声でつぶやくと、急に口の両端が裂けだした。

体は銀色の毛に覆われはじめ、頭には大きな耳が現れ、渦巻くように太い尾まで生えてきた。


到底人間とはかけ離れた姿になった花江さんに、わたしは呆然として言葉を失った。


「こ…、光晴様…。花江さんは……」

「あれは女狐のあやかし。花嫁候補の1人に化けてここへ忍び込み、俺の命を狙いにきたのだろう」

「ソノトオリダ!オマエノイノチ、ワレガイタダク!」


女狐はそう言うやいなや、体の毛を逆立てて針のように飛ばしてきた。

無数の矢のように飛んでくる毛を、光晴様は自らに結界のようなものを張り、そのすべてを弾き落とした。


なおも容赦なく攻撃してくる女狐に異能で対抗する光晴様。

わたしはただそれを見守ることしかできないけど、ふとしたときに思いきり光晴様に後ろへ突き飛ばされた。


勢い余って、わたしは床に尻もちをつく。


…痛い。

お父様に早く蔵に入るように突き飛ばされたことを思い出す。


だけど、これはそのときとは違う。


「お前は早くここから逃げろ!」


光晴様はわたしの身を案じてくださっての行動だった。


「ですが…」

「俺の心配など無用だ。それに、お前は異能を使えないのであろう。ここにいても、ただの足手まといになるだけだ。行け!」

「…は、はい!」


光晴様の言う通り、無能のわたしが最強の陰陽師であらせられる光晴様の心配をするほうが恐れ多いこと。

光晴様に従って、ここから離れよう。


そう思ったのだけれど、突如として現れた青白い炎が部屋から出ようとするわたしの行く手を阻んだ。


「エサハオオイホウガイイカラナ。オマエモニガシハシナイ!」


これは女狐による狐火で、どうやらわたしのことも食べるつもりのようだ。


しかし、女狐は中級のあやかし。

光晴様に勝てるはずもなく、光晴様の異能であっという間に首の付け根あたりから縦半分に体を裂かれていた。


「オ…、オノレ…」


驚いたことに、女狐は体が真っ二つになっても頭のついたほうの片方でまだ動いていた。


「しぶといな」


涼しい顔をして、光晴様は瀕死状態の女狐に最後のとどめを刺そうとする。

――そのとき。


なにやら床でうごめくものをわたしは見つけた。


目を凝らすと、それは真っ二つに裂かれた女狐の体の片側だった。

てっきりあちらはもう再起不能動とばかり思っていたが、なんと暗闇の中でゆっくりと立ち上がりはじめたのだった。


そして、鋭い爪を立て光晴様の背後を狙う。

その位置は、ちょうど光晴様の死角になっていて、頭のついたほうの体と戦っている光晴様は気づいていない。


「…光晴様!」


気づいたら、わたしは光晴様の名前を呼んで駆けていた。


わたしには異能が使えない。

だから、背後から光晴様を狙おうとするあの体の片側を倒すこともできない。


でもわたしには、この身がある。

あのときハルを助けたときのように、わたし自身が盾となって――。


「光晴様!危ない…!!」


わたしは、なんとか光晴様の背後に回り込んだ。

――次の瞬間。


女狐の片割れの体の鋭い爪によって、寝間着ごとわたしは身を切り裂かれたのだった。