麻痺していた心が動き、焦ったアマリは逃げようとした。だが、例の薬が効いてきた身体は力が入らず、ふらつきを感じ始めている。

「やはり、催眠剤でございますか。健気でなんともお痛わしい事で」

 そんな彼女の状態を愉快そうに眺めている、もう一人の番人が嘲笑混じりに言う。

「い、嫌……‼ お止め下さい……」
「ご心配なさらずとも、命はお助けしますよ。少しばかりその清いお身体で楽しませて頂けたら」
「左様。勿論、純潔を奪うなどという、鬼畜な所業は致しません。我々に何かしらの影響が起こり得るかもと、あの方も仰いましたしねぇ」

 能面の笑みが、そんな恐ろしい思案を言う。背後で手首を掴んでいた方の番人が、白無垢姿のアマリを強引に抱え、乗っていた舟底に横倒した。
 ぎょろり、と見下ろす吊り上がった()が、黄金(こがね)色にぎらついている。飢えた(けだもの)の目だ。彼らは本気だと本能で危険を察知した。

「止めて‼」

 いくら何でもこんな目にまで遭うのは御免だと、必死に渇いた口を開く。

「間もなく……妖厄神様が、いらっしゃるのでしょう? このような、勝手な仕打ちが……赦される訳……」

 震える声で絞り出した切り札だったが、能面から下卑(げひ)た笑みに変わったもう一人の番人が、そんな彼女を更に蹴り落とす事実を告げる。

「案ずる必要はございません。あの方には、雪の為、到着は明日になると伝えております。貴女も尊巫女の務めなど忘れ、我々と楽しみましょうや……」

 押し倒していた方の番人の手が、乱暴に白無垢の襟元をビッ、と引き裂き、切れ目を入れた。逃げ場は完全に無いのだと、映る闇が更に濃くなり、無力感に(おちい)る。

 ――また、こうなるの……? 嫌でも抵抗出来なくて、騙されて、利用されて……
 ――……そうね。始まりも終わりも…… それが『私』の、元々の在り方……宿命……

 『諦め』『自棄』という類いの思いが、疲労と薬で朦朧(もうろう)とした脳裏に、再び(よぎ)った――刹那。
 ヒュン――シュッ――‼ かまいたちのような鋭利な音が、その場を切り裂くように、駆けた。

「早い仕事だったな。ご苦労」

 抑揚の無い、冷淡な音で発された声が、明け出した宵空から降ってきた。途端、番人達がみるみる青ざめ、ガチガチ震え出した。
 今にも襲いかからんばかりの重い殺気が放たれている。眼前の番人の首元に当てられた、ギラリ、と鈍く冴える刃先が、アマリにも向かっていた。
 だが、今の彼女には救いの天啓、天明のように聞こえ、映った。


「けっ、荊祟(ケイスイ)、様……⁉」

 少し離れた場所にいたもう一人の番人が、幻でも見たような声色で叫ぶ。荊祟と呼ばれた青年らしき男は、今度は刃先を彼の額に移動させ、追い立てるようにアマリから離れさせた。一呼吸する間の事だった。
 ようやく開けたアマリの視界に、日本刀らしき物を、へたり込む番人の額に突き付けている黒い人影が映った。
 明らんできた暁の逆光でよく見えないが、濃灰の硬質な長めの前髪は非対称(アシンメトリー)に分けられ、短い方と襟足は後方に逆立てられている。ほのかな光に当たった部分は月白(げっぱく)に透け、銀糸の(ごと)く煌めいていた。
 漆黒の羽織に藍鼠(あいねず)色の長着物の下は、(しのび)装束のような漆黒の履き物と草履。細身の腰には革紐がきつく巻かれ、刀の鞘と小ぶりの巾着袋、数珠玉(じゅずだま)がぶら下がっている。
 人族の世界だと、野武士か忍と判別するような出で立ちだが、耳はやはり笹のように尖っていた。顔下半分を被い隠した、黒地の布で表情は分からない。が、髪の隙間から見え隠れする、黄金(こがね)色に鋭く光る切れ長の眼を、より一層、印象的に魅せている。
 やはり人族とは違う異界の者なのだと、安堵から再び朦朧(もうろう)とし始めた脳で、アマリは思った。


「……(おさ)様、何故こんな、早く……?」

 別人のように狼狽(うろた)え、刀を向けられた番人が、情けない声色で問う。

黎玄(れいげん)を飛ばし、様子を伺わせていた。念のためだったが、賢明だったようだ」

 抑揚のない物言いだったが、声色は重く、激しい怒りが滲んでいるのがアマリにもわかった。威厳という冴えた圧を感じさせるのは、彼が一族の長だからだろうか。
 ギャア、と高らかな鳴き声を上げ、朱色の眼光を放つ(たか)が、バサッ、と焦茶の翼を羽ばたかせ、布が厚く巻かれた彼の腕に止まる。
 荊祟は「よくやった」と呟き、懐に下げた袋から木の実のような物を左手で取り出し、指の空いた漆黒の手袋越しに渡す。長く伸びた指先には、鷹とさして変わらない、鋭く伸びた爪が光っていた。

「この女を喰うなり犯すなりすると、我ら一族の力が失墜するやも知れぬ。その事はお前達も知っているはず」

 鋭利な黄金(こがね)の眼差しで、顔面蒼白の番人二人を交互に睨み付けた。一人には刀を突き付けたまま、じりじり、と詰める。

「長に逆らってまで、珍しい女が欲しかったのか? ……反逆か?」
「とんでもございませぬ!! 我々はそのような謀反(むほん)(くわだ)てたのではございません!」

 赦しを乞おうと、刀を向けられた番人がまくし立て、慌てふためきながら弁解する。

「左様でございます! 人族とはいえ、女でございましょう? 折角の厄界にいない種……少しの()()をしても良いのではないかと伺いました」
如何(いか)にも。要は、契りを交わさなければ良いのですから…… 何なら荊祟(ケイスイ)様が楽しまれた後でも構いません」

 この言葉で、ざわり、と周囲に烈な殺気が満ち、荊祟の眉が吊り上がった。こめかみに青い血管が浮かび上がり、発した眼光が稲妻のそれに変わった。

「……貴様()()、俺を色狂いの(けだもの)とでも思っているのか……?」
「い、いえ‼ 決してそのような事は……‼」

 完全に長の怒りを買ってしまった事を認識し、番人二人は急いで土下座しようとした。

「もう()い。粛清(しゅくせい)する」

 チャキ、と(つば)を整える音が鳴る。と同時に、へたり込んでいる方の番人の首元に、再び刃を強く押し付けた。彼の汗ばんだ皮膚から、今度は一筋の赤い滴が流れる。

 ――私達と同じ、色……

 そんな至極緊迫した状況だったが、完全に茫然としていたアマリの脳は、そんな唐突な感想を浮かび出す。

「戻って仕置きを受けるか、この場で俺に斬られるか、とっとと選ぶが良い。どうする」

 残酷で容赦のない最終警告に、今では哀れに見える位に縮み込んだ番人が、涙声で答えた。

「――仕置きの程を……」
「……この女の処分は、俺が決める。早まった事はするな」

 ようやっと気が鎮まったらしい彼は、ゆらり、と刀を下げて鞘に収めた。死んだ魚の目に変わった番人二人を、木船に備えていた縄で、そのまま易々(やすやす)と縛り上げる。


「……あ、ありがとう、ござい……ました」

 ずっと、一度も自分の方を見ない彼に対し、反射的にアマリは礼を発していた。ようやく、荊祟は彼女の方を向いたが、冷ややかな眼差しで凝視している。
 次第にアマリの思考は曖昧になり、目の前が揺らいでうつ伏せに倒れ込む。抵抗する力はもう無かった。
 今更、自分を贄として一族に渡す事はないだろう……と薄らぐ意識の中、アマリは考えた。自分の一生は何だったのか……と、一瞬思ったが視界は蓋され……意識は彼方に消えた。