夜、家に帰宅すると老夫婦に泣きつかれた。あやかし(邪鬼)にでも襲われて帰ってこれなくなったのかと思ったと。確かに実際、知頼に誘拐されたようなものだが、それは黙っておいた。
 あれから雨音は畑仕事を終えると、あやかしの世界に連れて行ってもらっていった。
 ある日、妖帝の屋敷に行くと何やら騒がしかった。
「蛍ちゃんが消えた?」
 妖帝の部屋で事情を聞いた雨音は驚いた声を上げた。
「知頼によると、前から少し帝都に憧れているような言動をしていたそうだよ。もしかしたら一人で帝都に行ったのかもしれない、ってね」
「でも、帝都には反帝国軍がいます。あやかしを見つけ次第、人間の血を飲ませて邪鬼化させている」
「それって、知頼くんも被害にあったっていう──」
「……はい、何もなければいいのですが」
 と三人で話していると「おい!」と誰かが屋敷に入ってきた。
「蛍が帰ってきた! でも──帝国軍を連れてきやがった!」
 全員、息を呑んだ。特に雨音は大きく心臓が鳴った。
(──帝国軍? なんだか嫌な予感が)
 屋敷の外に出た。雨音は驚きの光景に目を見張った。
 軍服を着た男たちがぞろぞろと屋敷の前に集まっている。思わず雨音は妖帝の後ろに隠れた。
「……雨音?」
 聞き間違いかと思った。ふと、昔よく聞いた声がした。
「……貴様。そこをどけ。その後ろの女を見せろ!」
 顔がさーっと青ざめていくのが自分で分かった。雨音は妖帝の着流しの裾をぎゅっと握り締めた。だがそれはすぐに離された。声を呼ぶ男に腕を思いっきり引っ張られた。
「……怜司、様」
 雨音は目の前の男の名前を呼んだ。
 信じられないことにそこには軍服を着た怜司がいた。
 ぱちん、と高い音が響いた。
 気付くと怜司に頬を叩かれていた。
「──この女! 二年も一体どこにくらましていた! 当主もどれだけ心配したと……」
「はい? 心配? 私を売った父親が私の心配? ふざけないで!」
 雨音は激昂して、怜司の頬を叩き返した。怜司がぽかんとした顔をしている。
「……私は妖帝様のお嫁さんになることにしたの。もう何もかも遅いわ」
 雨音は思わず嘘を吐いた。わざと妖帝の腕を組んでそっと寄り添った。
「──雨音さんは僕の花嫁だ。勝手に手出しされては困る。雨音さんに叩いたのを謝ってくれ」
 妖帝は空気を読んでくれた。空気を読む以上のことをしてくれた。
 妖帝の唇が雨音の打たれた頬に触れた。
 周りがざわっと騒ぎ始める。怜司は端正な顔が歪んで、耳まで真っ赤になった。
「……隊長、寝取られたんすか?」
 部下の一人がぼそりと呟いた。怜司はその部下の頭を叩いた。
「貴様ら、この俺に向かって舐めた真似をしやがって……予定通り此処は摘発対象にする! 反帝国軍組織〝霧雨〟から捕らえた猫の邪鬼を連れてこい!」
 怜司が命じると部下たちは動いた。そこには縄で縛られて俯いている蛍がいた。
 一目散に知頼が駆け寄った。
「蛍! おい、どうしたんだ、俯いてないでしっかりしろ!」
 知頼が蛍に話し掛ける。
 刹那、蛍は目を真っ赤にして牙を向けた。
「……邪鬼化している!」
「この猫の邪鬼を帰してほしくば、此処の主を引き換えにしろ」
 怜司が冷たく言い放つ。此処の主って言えば──妖帝しかいない。
「蛍を帰してもらえるなら、いいだろう」
 妖帝はあっさり身を差し出した。不安しかない。
「──妖帝とやら、人間の血を飲め。貴様が妖怪なのかどうか、確かめる」
 怜司は口角を上げてニヤリとしながら言った。懐から試験管を取り出すと中に赤い液体が入っていた。
「反帝国軍組織〝霧雨〟からちょうだいした代物だ。まあ、俺たちが摘発したのは末端だったが」
 怜司は試験管を妖帝に差し出した。
「飲め。猫の邪鬼との引き換えだぞ」
「妖帝様! 駄目です! 怜司様の言いなりになってはいけない!」
「さあ、どうする」
 怜司が妖帝に迫った。妖帝はゆっくり怜司から試験管を受け取ると、ぐいっと人間の血を飲んだ。