「え? 今、なんて……?」
 と雨音が言っているうちに体がふわっと浮かび上がった。気付くと雨音は妖帝に横抱きにされていた。妖帝は下駄を蹴って蝶々のように二階の部屋に飛んでいく。蛍が後ろで「あー! 雨音お姉ちゃん!」と呼んでいる声がしたけれど、それもバルコニーから部屋に入るとしん、と静まって聞こえなくなった。
 執務机があるだけの殺風景な和洋な部屋で、昼間なはずなのに薄暗い。本当に人ならざる者のような妖怪の部屋のようだ。
 雨音が戸惑ったように上目遣いでそっと妖帝を見上げると、背後にあった臥榻に押し倒された。妖帝の絹糸のような長い髪が雨音の首筋に落ちて擽ったい。互いの唇が触れるか触れまいかの距離で、雨音は妖帝の椿の花のように広がった眼から離せなくなる。
(わ、私、何をされようとしている──? 出会ってすぐになんて蔦見先生の小説じゃあるまいし……)
「この阿呆妖帝! 何しようとしているんだ──ッ!」
 バタン、と扉が大きく開く。焦った顔の知頼がぜえぜえと息を切らしながら部屋に入ってきた。
「妖帝様! その方は例の〝花少女〟様です! いくら妖帝様とはいえ手出し無用ですよ!」
「知っている。僕の〝眼〟で見た。この娘は僕の〝花嫁〟だ」
「は、花嫁?!」
 雨音は素っ頓狂な声を上げた。
「ちょっと! 一旦私に説明してください!」
 と雨音が悲鳴を上げると知頼は場を用意してくれた。
「此処は大山に潜む、妖帝様が作り出したあやかしの世界です。妖帝様は代々続く半妖の一族の者であらせられます。近年、邪鬼化するあやかしを保護したり、邪鬼化しないようにあやかしを見守ったりします。私たちはずっと〝花少女〟様を探していました。あやかしを邪鬼化する前に戻す花少女の力を」
「花少女ってそんな力があるんですか? 私も初めて知りました」
「邪鬼化するあやかしを癒やしてくれる花少女は、あやかしを見守る妖帝様に〝うってつけの花嫁〟です」
「は、はあ……」
 雨音は気の抜けた声を出しながら、さきほど自分を押し倒してきた妖帝を見る。妖帝はじっとあの赤い眼で雨音を見詰めると、にこりと穏やかに笑った。
「いやあ、さっきは悪かったね。つい自我を忘れて暴走した。〝妖帝〟になってからよくあるんだ」
「妖帝様のはいつものことでしょう。蛍のおじいさんが言ってましたよ、現世では女たらしだったって」
「ははは、手厳しいなあ」
 妖帝は腕を組みながら笑った。
「いきなり花嫁なんていうのは君も納得いかないだろうから、考えてもらうだけでいい。良かったら定期的に此処に来てくれたりするかな? 君の力を少し貸してほしい」
 妖帝はまるでさっきとは全然違う穏やかな態度で問うた。これでは本当に何かに取り憑かれたような言動だったと言わざるを得ない。
 ──奇妙な世界だ。まるで蔦見千尋の小説の〝蜜少女〟の世界のような。
「とりあえず、私はおつかいの帰りだったので一旦、うちに帰らせてください……」
「もちろん。知頼。送ってくれるね?」
「承知いたしました。今すぐ準備いたします」
 そんな流れで、雨音は一旦帰宅することとなった。