拝啓、花少女になれなかった天国のお母様へ。
 そちらでは元気にしていますか? お母様が生きていたら私を久遠家に売り飛ばすなんてことは止めたのでしょうか。私もお母様のように最後まで花少女になれそうにありません。実の父親に売られた私なんぞなんの価値もありません。一度、お母様のいる世界へ自分も行こうかと思いましたが、私には小説がありました。蔦見先生の小説だけが、私を現世へ繋ぎ止めています。
 私が家を出て行って二年が経ちました。辛いこともたくさんあるけれど、上手くやれています。

 雨音は机の上で書いていた天国の母への手紙を書き終えた。それは手紙のようで、昔に書いていた小説のようでもあった。
 手紙に書いた通りだ。雨音が怜司から逃げるように家出をし、二年が経った。
 雨音は十七才になっていた。
 家も女学校も怜司も何もかもを捨て、辿り着いたのは帝都から離れた大山であった。祭壇から蔦見の『蜜少女』だけを持っていき、家を出て思いついたのは蔦見の故郷と言われている大山だった。何度か小説にも登場したのもあって雨音は覚えていた。
 無一文の身の雨音を受け入れたのは大山の麓の住民だった。十五才という若さで帝都からやってきたとあれば曰く付きと住民は察してくれた。雨音は何でもやりますからいさせてくださいと申し出た。雨音に畑仕事と住む場所を与えてくれた。二年間、毎日慣れるように畑仕事につつしんだ。一生懸命なそのうち蔦見のことや小説のことが頭から離れた。小説を夢中で書く時間もなくなり、仕事して寝るだけの日々を過ごしていた。
 今日は、母の命日だった。久しぶりに筆をとってみようとなった。帝都の実家からわずかに持ってきた原稿用紙を広げて二年ぶりに書いてみた。もう、あの頃のような小説に対しての情熱が薄れているかもしれない。
「雨音ちゃん、おつかい頼まれてくれる?」
 背後からゆったりとした声がした。畑仕事を与えてくれている老夫婦の老婦だった。雨音は急いで原稿用紙を畳んで隠した。はは、と苦笑いする雨音に老婦は首を傾げる。
「大山を登っていった先の家なんだけれどね。私の小さい頃はあやかしが出るから気を付けなさいと言われていて」
「あやかしって……邪鬼のことですか?」
「帝都ではそう言うのかしらね。でもあやかしも悪いのばかりじゃないと思うけれどねえ」
 帝都で育った雨音はあやかしと言うと討伐対象となる。帝都で現れるあやかしは大体邪鬼化していて、邪鬼でないあやかしはあまり目撃されていない。これも風聞なだけで雨音は一度もあやかしに会ったことはないが。
 雨音は老婦から野菜の束を受け取っておつかいに出た。
 家は大山を少し登った先にあった。家の主はまたしても老人であった。住みにくくとも先祖代々から受け継いだ家で、いつも麓の人たちに食糧を届けてもらっているとのことだった。
 田舎は助け合いだ。何かしら不便なことが多いからいつも近所の人たちが気に掛けてくれる。帝都とはどこか違うところだ。それが雨音の性に合うのか心を落ち着かせる場所になっていた。
 雨が降りそうだ。
 曇天の山道を歩いていて感じた。風が大きくなってきて木々の葉が縦横に揺れる。夜のように暗い雲が山を覆っていたが雨はまだ振りそうにない。大雨になる前に帰らないと。雨音は山道を歩く足が少し小走りになった。
「グォォ……」
 しかし、道の途中で雨音は鳴き声を耳にした。その声は今までで聞いたことのない不思議な音だった。鳥のような動物のような声であるがそれともまた違うと思った。
「グォォ! グォォ!」
 声がどんどん大きくなる。雨音は思わず足を止めた。
 山道からずれて木々を抜けて声がするほうへ歩いて行った。そこは崖の先だった。先のほうに真っ黒な物体があった。
 ──虎だ。虎がいる。
 と思ったがよく見たら違った。
 虎のような物体は、猿の頭に、虎の四肢、蛇の尾を持っている。
 雨音は、はっとして両手を口で覆った。
 ──あれは、あやかし?
 そう思っていると虎のようなあやかしは、男に変身した。
 目の前に現れたのは、血だらけの男だった。
「うそ……! 人が血だらけに!」
 雨音はびっくりしながら男に駆け寄った。
「大丈夫ですか?! どうしてそんなけがを……」
 雨音は男に寄り添った。男のそばに寄って雨音は目を見張った。
 黒髪の短髪に白皙な顔立ち。筋肉質な体躯であるが青い着物が際立って見える。帝都でもあまり見たことないような美しい男だった。