怪異小説家、蔦見千尋。この大正の世、大ヒットを飛ばした小説家であった。しかし、蔦見は人前に一切現れることなく、ただひたすら作品を発表し続けていた。花里家に生まれながらしにて横暴な婚約者がいて、将来の自分なんて考えることなんかなかった時に、雨音は蔦見に出会った。
雨音は女学校の図書室で『蜜少女』という本を読んだ。蔦見の処女作『蜜少女』は死体の男と恋する物語だ。不思議な世界に迷い込んだ主人公は、かつての現実の世界ではとても口では言えない禁忌を犯していた。雨音はあの日を忘れない。日が暮れるまで『蜜少女』を夢中になって読んだのを──。
今、雨音も死体の男に恋をする少女の物語を書いている。それはいわゆる模写のようであって、初めて自分が書く拙い小説だ。恋する相手の死体の男は、会ったこともない蔦見を妄想している。
「……あ、もうこんな時間だわ」
窓から差し込む日差しが落ち、夜になる。夕餉をかきこむように食べたあと、雨音は執筆に戻っていた。仕事から帰ってきた父が何か婚姻について話していたような気がしたが、頭に入ってこなかった。今すぐ自分の空想を原稿におさめたくてそればかり考えていた。
怜司と婚約が破談できるかもしれない。そうすれば自分は作家を目指すのも許されるのかもしれないのだから。
──でも、さすがに眠くなってきた。いい加減、寝なくちゃ。
明日の女学校に支障が出る。でも女学校にいられるのもいつまでなのだろう? 布団に入りながら思う。同じ女学校のクラスメイトで退学する子が多い。皆、嫁入りに行くのだ。逆に退学するまでに婚約者がいない者は、女として失格とも言われた。いわゆる女学校は華族たちの嫁探しの場になっているとも聞いた。
いかに、雨音の作家になりたいという夢が虚しいか分かる。
そんなこと考えながらゆっくりと眠りに就いた。
だが、外の物音で目が覚めた。
「おやめください。久遠様。雨音様はもう就寝になっております」
「ええい。たかが女中がいちいち指図するな! お前の主には許可をもらっている。いいか。雨音の父親からだぞ。意味は分かっているな」
「しかし……雨音様はまだ十五ですよ!」
怜司の声が聞こえた。怜司が女中と外で揉めている声がする。自分の話をしているようだが、何の話なのだろう?
たちまち襖がガラッと勢いよく開いた。月明かりを背に怜司が雨音を見下ろした。
「……婚約は破談になった」
怜司は部屋に入ってくるなり、ぼそりと呟いた。やっぱり。雨音は心の中で思った。
「ただし、雨音、お前のことは愛人にしていいとなった」
──は? 雨音はそう言い放ちそうになった。
愕然としている間に怜司が雨音に近付いてきた。頬に手を当てると唇同士が触れそうになった。雨音はびっくりして顔を逸らした。
「納得がいきません!」
雨音は叫んだ。生まれて初めて心のうちを明かした気がした。今まで何を思っても怜司には逆らわないでいた。でも、もう限界だ。
「お前が納得いかなくても、お前の父親の公認だ」
「……え? お父様がそんなこと言うわけがない」
「馬鹿め。お前は本当に何も知らないのだな」
怜司は鼻で笑った。
「花里家はじきに潰れる。花少女も生まれなくなった家などもう価値がない。お前の父親には莫大の借金がある。それを久遠家が肩代わりする。つまり──雨音、お前は売られたんだよ」
唇の端の震えが止まらない。心の整理をする時間が欲しかった。呆然としている間に、怜司が雨音を布団の上に押し倒した。首筋に怜司の冷たい唇が当たる。
「今日も寝室に入るのをお前の父親は許可した。その意味がわかるな?」
怜司は熱い吐息を吐きながら雨音の耳元で囁いた。雨音は小説の知識でしか知らないが、意味をやっと理解した。全身が冷水でも浴びたようにぞっとし、雨音はつい思いっきり怜司を突き飛ばした。
怜司は文机にごつん、と打つかった。文机から書いている途中だった原稿用紙がはらりと床に落ちる。雨音はしまった! と両手で口を覆った。怜司の体の心配をしたのではない。原稿用紙を置きっぱなしだったのを忘れていたのだ。
「……ん? なんだ? これは」
怜司は首を傾げながら床に落ちた原稿用紙を取った。暗くて読めないから行灯に近付けて文字を読もうとする。雨音は恥ずかしくて体から火が出そうだった。事が終わるのを頭を抱えてじっとしている。
「……ははは、時々、なにをこそこそやっていると思ったら、小説なんぞ書いていたか」
怜司は原稿用紙をごみのようにぽいっと捨てた。
「女のくせに、くだらんったらありゃしない」
怜司の言葉が頭を殴られたように響いた。くだらない。その言葉だけが雨音の耳に何度も残る。
「だが、まあいいだろう。生活に困らないくらいの金銭は思う存分与えてやる。一生、小説なんぞ書き続けていればいい。その代わり、俺が与えた部屋からは出るな。男の情報なんか入れられたら困るからな。どうだ。お前にとっても好条件だろう。ははは……」
と怜司が大きく笑ったところで雨音の手が伸びた。怜司の頬に平手打ちをした。
「貴方のそういうところ、昔からだいっきらい!」
雨音は声が潰れそうになるくらいに叫んだ。怜司は打たれた頬を触りながら、雨音を恐ろしいほど冷たい目で見る。打たれ返されると思って奥歯を噛みしめて耐えていたが、何も起きない。
怜司は溜息を深く吐くと、すっと立ち上がった。
「無理やりやるのは趣味じゃない。今日はこのへんでいいだろう。時間はたっぷりある」
怜司は襖の前に行った。
「また会いに来る。まあ、もう会いに来なくてもずっとそばにいれるがな」
口角をくっと上げて笑いながら怜司は部屋から出て行った。
雨音は捨てられた原稿用紙を拾った。畳の床に落ちた涙がじんわりと滲んでいた。
雨音は女学校の図書室で『蜜少女』という本を読んだ。蔦見の処女作『蜜少女』は死体の男と恋する物語だ。不思議な世界に迷い込んだ主人公は、かつての現実の世界ではとても口では言えない禁忌を犯していた。雨音はあの日を忘れない。日が暮れるまで『蜜少女』を夢中になって読んだのを──。
今、雨音も死体の男に恋をする少女の物語を書いている。それはいわゆる模写のようであって、初めて自分が書く拙い小説だ。恋する相手の死体の男は、会ったこともない蔦見を妄想している。
「……あ、もうこんな時間だわ」
窓から差し込む日差しが落ち、夜になる。夕餉をかきこむように食べたあと、雨音は執筆に戻っていた。仕事から帰ってきた父が何か婚姻について話していたような気がしたが、頭に入ってこなかった。今すぐ自分の空想を原稿におさめたくてそればかり考えていた。
怜司と婚約が破談できるかもしれない。そうすれば自分は作家を目指すのも許されるのかもしれないのだから。
──でも、さすがに眠くなってきた。いい加減、寝なくちゃ。
明日の女学校に支障が出る。でも女学校にいられるのもいつまでなのだろう? 布団に入りながら思う。同じ女学校のクラスメイトで退学する子が多い。皆、嫁入りに行くのだ。逆に退学するまでに婚約者がいない者は、女として失格とも言われた。いわゆる女学校は華族たちの嫁探しの場になっているとも聞いた。
いかに、雨音の作家になりたいという夢が虚しいか分かる。
そんなこと考えながらゆっくりと眠りに就いた。
だが、外の物音で目が覚めた。
「おやめください。久遠様。雨音様はもう就寝になっております」
「ええい。たかが女中がいちいち指図するな! お前の主には許可をもらっている。いいか。雨音の父親からだぞ。意味は分かっているな」
「しかし……雨音様はまだ十五ですよ!」
怜司の声が聞こえた。怜司が女中と外で揉めている声がする。自分の話をしているようだが、何の話なのだろう?
たちまち襖がガラッと勢いよく開いた。月明かりを背に怜司が雨音を見下ろした。
「……婚約は破談になった」
怜司は部屋に入ってくるなり、ぼそりと呟いた。やっぱり。雨音は心の中で思った。
「ただし、雨音、お前のことは愛人にしていいとなった」
──は? 雨音はそう言い放ちそうになった。
愕然としている間に怜司が雨音に近付いてきた。頬に手を当てると唇同士が触れそうになった。雨音はびっくりして顔を逸らした。
「納得がいきません!」
雨音は叫んだ。生まれて初めて心のうちを明かした気がした。今まで何を思っても怜司には逆らわないでいた。でも、もう限界だ。
「お前が納得いかなくても、お前の父親の公認だ」
「……え? お父様がそんなこと言うわけがない」
「馬鹿め。お前は本当に何も知らないのだな」
怜司は鼻で笑った。
「花里家はじきに潰れる。花少女も生まれなくなった家などもう価値がない。お前の父親には莫大の借金がある。それを久遠家が肩代わりする。つまり──雨音、お前は売られたんだよ」
唇の端の震えが止まらない。心の整理をする時間が欲しかった。呆然としている間に、怜司が雨音を布団の上に押し倒した。首筋に怜司の冷たい唇が当たる。
「今日も寝室に入るのをお前の父親は許可した。その意味がわかるな?」
怜司は熱い吐息を吐きながら雨音の耳元で囁いた。雨音は小説の知識でしか知らないが、意味をやっと理解した。全身が冷水でも浴びたようにぞっとし、雨音はつい思いっきり怜司を突き飛ばした。
怜司は文机にごつん、と打つかった。文机から書いている途中だった原稿用紙がはらりと床に落ちる。雨音はしまった! と両手で口を覆った。怜司の体の心配をしたのではない。原稿用紙を置きっぱなしだったのを忘れていたのだ。
「……ん? なんだ? これは」
怜司は首を傾げながら床に落ちた原稿用紙を取った。暗くて読めないから行灯に近付けて文字を読もうとする。雨音は恥ずかしくて体から火が出そうだった。事が終わるのを頭を抱えてじっとしている。
「……ははは、時々、なにをこそこそやっていると思ったら、小説なんぞ書いていたか」
怜司は原稿用紙をごみのようにぽいっと捨てた。
「女のくせに、くだらんったらありゃしない」
怜司の言葉が頭を殴られたように響いた。くだらない。その言葉だけが雨音の耳に何度も残る。
「だが、まあいいだろう。生活に困らないくらいの金銭は思う存分与えてやる。一生、小説なんぞ書き続けていればいい。その代わり、俺が与えた部屋からは出るな。男の情報なんか入れられたら困るからな。どうだ。お前にとっても好条件だろう。ははは……」
と怜司が大きく笑ったところで雨音の手が伸びた。怜司の頬に平手打ちをした。
「貴方のそういうところ、昔からだいっきらい!」
雨音は声が潰れそうになるくらいに叫んだ。怜司は打たれた頬を触りながら、雨音を恐ろしいほど冷たい目で見る。打たれ返されると思って奥歯を噛みしめて耐えていたが、何も起きない。
怜司は溜息を深く吐くと、すっと立ち上がった。
「無理やりやるのは趣味じゃない。今日はこのへんでいいだろう。時間はたっぷりある」
怜司は襖の前に行った。
「また会いに来る。まあ、もう会いに来なくてもずっとそばにいれるがな」
口角をくっと上げて笑いながら怜司は部屋から出て行った。
雨音は捨てられた原稿用紙を拾った。畳の床に落ちた涙がじんわりと滲んでいた。