『私は白い唇に吸い寄せられるように口付けた。冷たい彼の胸板に触れ着物を脱がせる。半身だけ裸になった彼の肌を舌でちろちろと舐めた。彼はそれでも目を醒ます気配はない。私はもっともっとと彼の下半身に触れ……』
原稿に染みるこめかみから流れた汗で、我に返った。万年筆に入った力がぐっと抜けるのが分かった。濡れ場に入ったシーンで文章を読み直す。それまで傑作のように思えていた小説が、急に陳腐になった気がした。何度も読んでいると単語の意味が分からなくなったり、何が美しい文章か判断がつかなくなった。
頭の先がカッと熱くなって、雨音は目の前の原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めた。自室の畳の上で大の字になって目を瞑る。
(──近付けない。とてもじゃないけれど、蔦見先生には近付けない)
雨音は顔も知らない小説家のことを思い浮かべた。くしゃくしゃに丸めた原稿用紙は屑籠に行かずに、部屋の押し入れに向かった。周囲をきょろきょろと見渡して誰もいないのを確認するとそっと押し入れの戸を引いた。押し入れの中にあったのは神棚だった。それと書物がどっさりと重なっていた。書物にはどれも〝著者 蔦見千尋〟と書いてある。神棚には『蜜少女』という本が飾られていた。雨音は本をじっと見詰めるとその前で両手をぽん、と合わせた。
「雨音様、久遠様がいらっしゃいました」
襖がガラッと音を立てて開いた。雨音の女中が部屋に顔を出した。雨音は急いで押し入れの戸を勢いよく閉めた。
「……? どうかなさいましたか? 雨音様」
「何でもないの。もうそんな時間なのですね」
「はい。久遠様は広間でお待ちしております」
雨音は小さく溜息を吐いた。女中が「大丈夫ですか?」と心配の声を告げる。気を遣う女中に雨音は大丈夫と首を縦に振る。
女中の後をついて雨音は広間に向かった。広間のちゃぶ台の前に胡座で座って茶と茶菓子を頂いている男がいた。錆色の髪と同じ色の瞳が雨音を貫いた。陽によく当たった健康的な肌色に漆黒の軍服に腰には刀を添えている。男──久遠怜司は口角をぐっと上げると雨音を手招きした。
「ご機嫌いかがかな。〝花少女〟よ」
くつくつと笑いながら言う怜司に雨音はぐっと堪えた。雨音はどうにか苦笑しながら怜司の前に端座で座った。
「その名はよしてください。怜司様」
「まあいいじゃないか。かつてはこの家も〝花少女〟が生まれるところだったんだ。さっきお前のことを〝無能者の娘〟と揶揄する若い女中を見つけた。さっさとクビにするよう命じておいたさ」
「……別にわざわざそんなことを。もう慣れっこです」
「お前を揶揄していいのはこの世で俺だけだ。こっちに来給え。その美しい手を見せておくれ」
怜司は早くこっちにこいと言わんばかりにもう一度、手招きする。雨音はまた溜息を吐きたくなるのを堪えながら、そっと立ち上がった。怜司の隣に行くと、白い手袋をしている右手を取られた。右手の手袋をそっとはがされる。雨音の右手の手の甲には花の形をした紋章があった。
「ふむ。いつ見ても美しいな。この手は……はは、何そう拗ねるな。顔も女らしくなってきて俺は好きだぞ」
「……怜司様は、何だかいつも一人で楽しそうですね」
「そうか? まあ、お前と違って暗い性格ではないからな」
怜司は満足したように雨音の手の甲を見詰めると、手袋を戻した。雨音の肩をぐっと寄せると茶を酒のようにぐいっと飲んでいた。「菓子を食うか?」と口元に砂糖菓子を持って行かれて、雨音は首を横に振った。下唇に砂糖の甘い味が残った。
時は大正。
世はあやかしがまだごく僅かに残っており、近年ではあやかしが悪と化した邪鬼で溢れていた。
花の紋章を宿す一族、花里家の一人娘の雨音。手の甲にある花の紋章はかつて花里一族が持っていた〝治癒能力〟である。手をかざせば治しにくい怪我をも治す力だったが、ある祖先からその能力は失われた。
能力のあった頃は〝花少女〟と崇められ、現在は〝無能者の娘〟と呼ばれる雨音だが、花里一族の名はまだ名が高く、帝国軍邪鬼討伐隊の隊長、久遠家の息子怜司と婚約関係であった。
帝国軍邪鬼討伐隊とは、邪鬼と化したあやかしを祓う隊であった。帝国軍陸軍大将が父にいる怜司は邪鬼討伐隊隊長であった。怜司の腰に差している刀は異能が宿っており、それで邪鬼を祓うという。
「父がもうろくした。君との婚約は破談だ」
怜司は茶を飲み終わると深く溜息を吐いた。破談。雨音はその言葉を口の中で反芻する。
「やった!」
と飛び上がって喜びたいのを抑え、雨音は衝撃にぷるぷると肩を震わしていた。
「どういうことですか? 怜司様」
「父ももう年だ。陸軍大将であろう者が、詐欺のようなものにあってな。今、帝都で流行の占い師に騙されている。占い師が花里一族は邪鬼の血が混じっているとか言い始めて、それを信じた父は怯えて花里家当主、つまり君の父君に破談を申し入れた」
「なんと」
「お義父様、ありがとう」と心の中で呟いて雨音はびっくりしたような素振りを見せた。
「とても残念です。いきなり独身の身になりましたがきっといつか怜司様以外の人ともご縁があることを願って……」
「いや、そんなことをしなくていい。俺がどうにか説得する。すぐに元通りになるだろうから、お前は今まで通りに過ごしていていい」
雲行きが怪しくなってきた。せっかく破談になったというのに当の本人が異様に粘り強い。
「そろそろ任務の時間だ。用件のみになったが、これで」
怜司は懐中時計で時間を確認すると立ち上がった。雨音は急いでお見送りの準備をする。縁側の廊下を一緒に通って玄関まで見送る。
「また会いに来る」
怜司は囁きながら雨音の頭をポンポンと撫でた。満足げに微笑むと怜司は門の外に出て行った。
雨音は何の名残惜しくもなく自室に戻った。すぐに押し入れを開け、さきほどぐしゃぐしゃに丸めた原稿用紙をまた開いた。
「怜司様とはいえ、流石に陸軍大将のお義父様には逆らえないわよね……」
雨音は丸めた原稿用紙を平らに整え、文机からもう一枚、原稿用紙を取り出した。
「……小説の続き、書かないと」
雨音は腕まくりをし万年筆にインクを入れた。
原稿に染みるこめかみから流れた汗で、我に返った。万年筆に入った力がぐっと抜けるのが分かった。濡れ場に入ったシーンで文章を読み直す。それまで傑作のように思えていた小説が、急に陳腐になった気がした。何度も読んでいると単語の意味が分からなくなったり、何が美しい文章か判断がつかなくなった。
頭の先がカッと熱くなって、雨音は目の前の原稿用紙をぐしゃぐしゃに丸めた。自室の畳の上で大の字になって目を瞑る。
(──近付けない。とてもじゃないけれど、蔦見先生には近付けない)
雨音は顔も知らない小説家のことを思い浮かべた。くしゃくしゃに丸めた原稿用紙は屑籠に行かずに、部屋の押し入れに向かった。周囲をきょろきょろと見渡して誰もいないのを確認するとそっと押し入れの戸を引いた。押し入れの中にあったのは神棚だった。それと書物がどっさりと重なっていた。書物にはどれも〝著者 蔦見千尋〟と書いてある。神棚には『蜜少女』という本が飾られていた。雨音は本をじっと見詰めるとその前で両手をぽん、と合わせた。
「雨音様、久遠様がいらっしゃいました」
襖がガラッと音を立てて開いた。雨音の女中が部屋に顔を出した。雨音は急いで押し入れの戸を勢いよく閉めた。
「……? どうかなさいましたか? 雨音様」
「何でもないの。もうそんな時間なのですね」
「はい。久遠様は広間でお待ちしております」
雨音は小さく溜息を吐いた。女中が「大丈夫ですか?」と心配の声を告げる。気を遣う女中に雨音は大丈夫と首を縦に振る。
女中の後をついて雨音は広間に向かった。広間のちゃぶ台の前に胡座で座って茶と茶菓子を頂いている男がいた。錆色の髪と同じ色の瞳が雨音を貫いた。陽によく当たった健康的な肌色に漆黒の軍服に腰には刀を添えている。男──久遠怜司は口角をぐっと上げると雨音を手招きした。
「ご機嫌いかがかな。〝花少女〟よ」
くつくつと笑いながら言う怜司に雨音はぐっと堪えた。雨音はどうにか苦笑しながら怜司の前に端座で座った。
「その名はよしてください。怜司様」
「まあいいじゃないか。かつてはこの家も〝花少女〟が生まれるところだったんだ。さっきお前のことを〝無能者の娘〟と揶揄する若い女中を見つけた。さっさとクビにするよう命じておいたさ」
「……別にわざわざそんなことを。もう慣れっこです」
「お前を揶揄していいのはこの世で俺だけだ。こっちに来給え。その美しい手を見せておくれ」
怜司は早くこっちにこいと言わんばかりにもう一度、手招きする。雨音はまた溜息を吐きたくなるのを堪えながら、そっと立ち上がった。怜司の隣に行くと、白い手袋をしている右手を取られた。右手の手袋をそっとはがされる。雨音の右手の手の甲には花の形をした紋章があった。
「ふむ。いつ見ても美しいな。この手は……はは、何そう拗ねるな。顔も女らしくなってきて俺は好きだぞ」
「……怜司様は、何だかいつも一人で楽しそうですね」
「そうか? まあ、お前と違って暗い性格ではないからな」
怜司は満足したように雨音の手の甲を見詰めると、手袋を戻した。雨音の肩をぐっと寄せると茶を酒のようにぐいっと飲んでいた。「菓子を食うか?」と口元に砂糖菓子を持って行かれて、雨音は首を横に振った。下唇に砂糖の甘い味が残った。
時は大正。
世はあやかしがまだごく僅かに残っており、近年ではあやかしが悪と化した邪鬼で溢れていた。
花の紋章を宿す一族、花里家の一人娘の雨音。手の甲にある花の紋章はかつて花里一族が持っていた〝治癒能力〟である。手をかざせば治しにくい怪我をも治す力だったが、ある祖先からその能力は失われた。
能力のあった頃は〝花少女〟と崇められ、現在は〝無能者の娘〟と呼ばれる雨音だが、花里一族の名はまだ名が高く、帝国軍邪鬼討伐隊の隊長、久遠家の息子怜司と婚約関係であった。
帝国軍邪鬼討伐隊とは、邪鬼と化したあやかしを祓う隊であった。帝国軍陸軍大将が父にいる怜司は邪鬼討伐隊隊長であった。怜司の腰に差している刀は異能が宿っており、それで邪鬼を祓うという。
「父がもうろくした。君との婚約は破談だ」
怜司は茶を飲み終わると深く溜息を吐いた。破談。雨音はその言葉を口の中で反芻する。
「やった!」
と飛び上がって喜びたいのを抑え、雨音は衝撃にぷるぷると肩を震わしていた。
「どういうことですか? 怜司様」
「父ももう年だ。陸軍大将であろう者が、詐欺のようなものにあってな。今、帝都で流行の占い師に騙されている。占い師が花里一族は邪鬼の血が混じっているとか言い始めて、それを信じた父は怯えて花里家当主、つまり君の父君に破談を申し入れた」
「なんと」
「お義父様、ありがとう」と心の中で呟いて雨音はびっくりしたような素振りを見せた。
「とても残念です。いきなり独身の身になりましたがきっといつか怜司様以外の人ともご縁があることを願って……」
「いや、そんなことをしなくていい。俺がどうにか説得する。すぐに元通りになるだろうから、お前は今まで通りに過ごしていていい」
雲行きが怪しくなってきた。せっかく破談になったというのに当の本人が異様に粘り強い。
「そろそろ任務の時間だ。用件のみになったが、これで」
怜司は懐中時計で時間を確認すると立ち上がった。雨音は急いでお見送りの準備をする。縁側の廊下を一緒に通って玄関まで見送る。
「また会いに来る」
怜司は囁きながら雨音の頭をポンポンと撫でた。満足げに微笑むと怜司は門の外に出て行った。
雨音は何の名残惜しくもなく自室に戻った。すぐに押し入れを開け、さきほどぐしゃぐしゃに丸めた原稿用紙をまた開いた。
「怜司様とはいえ、流石に陸軍大将のお義父様には逆らえないわよね……」
雨音は丸めた原稿用紙を平らに整え、文机からもう一枚、原稿用紙を取り出した。
「……小説の続き、書かないと」
雨音は腕まくりをし万年筆にインクを入れた。