終わりのチャイムが鳴り響き、教師が教室から去ると途端にざわつきが大きくなる。次の授業の準備をする、教室を出ていく、友達との会話を楽しむ。各々が動き始めるなか、幸人は安堵の息を吐いた。居眠りのせいで、あの後はいつもより緊張をしてしまった。強張った肩の力を抜き、軽く動かしていると「真壁」と後ろから声がした。

「大丈夫か、お前」

 長谷部。下の名前は覚えていない。よく中田や池谷といるのを見かける男子生徒。精悍な顔立ちをしている彼は心配そうな顔で幸人を見つめていた。

「居眠りなんて、勉強のし過ぎなんじゃねぇの。無理すんなよ」

 こういうとき、どんな言葉を返せばいいのだろう。久しぶりにクラスメイトから話しかけられて、幸人は内心戸惑った。相手は心配してくれているのは分かる。だから、なんとなくその気持ちを無下にするような返答はしたくないと思った。素直に気持ちを伝える。それを実践しようと思った。

「……ありがとう」
「えっ」

 礼を言えば、長谷部は目を丸くして固まった。そういえば、クラスメイトとまともに会話すらしたことがなかったのを幸人は今更ながらに思い出す。

「さっき、助けてくれたの、ありがとう。本当に助かった」
「……あ、おう。うん」

 長谷部は気の抜けたような返事で答えた。そうこうしていると次の教科の教師が入って来たので幸人は前を向く。長谷部の様子はそれ以上分からなかった。
 きちんと礼を言うことができた。その事実は幸人を晴れやかな気持ちにする。思っているほど難しくない。ほんの少しだけ、世界が色付き始め、動き出したかのような気がした。
 そんな嬉しそうな幸人の様子を、刀真はただただ見つめていた。


 授業が終わり、皆それぞれに目的の場所へ向かっていくなか、教室には刀真と幸人の二人だけが残された。刀真はすぐに幸人の机に向かっていき、いつものように本を広げる幸人に声をかける。

「幸ちゃん、本ちゃんと読んできたよ」

 その声を合図に、幸人は本から顔を上げる。授業が終わってからずっと期待と不安でドキドキしていたが、それを隠すために幸人は「そう」とそっけなく答える。どうしてか、刀真を前にすると、急に恥ずかしさがこみあげてきて、思いを素直に言葉にできなかった。読んできてくれて嬉しい。そんな言葉が出かかっていたのに、喉に引っかかった。素直になれない。

「……感想、聞きたい」

 そう言うと、刀真は「もちろん」と、柔らかく微笑んだ。

「すごく重厚なストーリーだったよ。何世代にもわたって人間関係を追うのが大変だったけど、受け継がれる思いとか願いがあって、最後ハッピーエンドで良かった。最初は文字の多さに圧倒された。でも読み進めていくうちの読むのがしんどくなくなって、気がついたら引き込まれてた、って感じ。俺は普段こういう物語……ファンタジーとか読まないけど、楽しいなって思えたよ。幸ちゃん、読み応えのあるいい本を紹介してくれてありがとう」

「……うん」

 きちんと読んでくれていることが嬉しかった。彼があまり読書を好まないのは知っている。それでも自分の為に時間を費やして、幸人の趣味を理解して合わせようとしてくれた。幸人の無茶苦茶な試し行為にも律儀に付き合って、返答を待ってくれている。
 刀真の優しさが好きだ。誰に対しても優しい、冴えない幼馴染に対してすら優しい。その暖かさをすぐそばで感じることができたなら、きっと幸せなことだろうと思う。

「これで付き合うこと、考えてくれる?」

 控えめな声で刀真は問いかけた。

「君の優しさは好ましい。僕の為に頑張ってくれたのはよく分かった」
「だったら……」
「だけど、君のことを好きかというとまだ何とも言えない。自分の気持ちが分からない。だから……」

 幸人はまっすぐに刀真を見た。恥ずかしさはある。でも、一歩踏み込まないと自分の気持ちは伝わらない。

「早崎のこと、もっと知りたい。それに僕のことも……知って欲しい。だから、付き合いたい」
「幸ちゃん」
「僕が君のことを好きになるまで付き合ってもらうから。君を好きになる理由を探して、好きだと言えるように……努力する」

 そう告げると刀真は一際嬉しそうに微笑んだ。それにつられて、幸人も口角を少し上げた。嬉しいと楽しいと誇らしい。刀真を笑顔にできた自分が好きになる。誰かを喜ばせたい、笑顔にしたい。そんな気持ちがようやく叶えられた幸せは幸人を暖かく包み込んだ。

「幸ちゃん」

 刀真の甘い声。名前を呼ばれただけで心が震える。これはきっともう。彼のことが好きなのだろう。でも、言わない。もっと彼の好きなところを見つけてからでもそれはきっと遅くない。

「それ、もう言ってるみたいなものだけど、楽しみにしてる」

 とはいっても。彼にはすっかり見透かされているようだった。