「早崎のやつ、いきなり何を言ってくるかと思ったら……」
幸人は帰りのバスで参考書を読みながら思わず呟いた。
学習に集中できるようにとわざわざ山の中に作られた高校は、確かに都会の喧騒から離れた静かな場所であったが、当然というべきか交通の便が悪かった。自家用車があればそれほど苦ではないが、学生の身では自転車かバスという選択肢になり、ほとんどの生徒が通学にバスを利用していた。それゆえに特定の時間は学生でバスがいっぱいになるが、こうして放課後と部活が終わるまで間の微妙な時間はそれほど混んでいなかった。
幸人は迷わずいつもの定位置である最後尾の右端に座ってバスが目的地に連れて行ってくれるのを待つ。山道を下るバスに揺られながら、幸人は今日の出来事を思い出す。
早崎刀真。
頭が良くて運動神経も良い、そして容姿も良い。ついでに性格もよく、三拍子どころか四拍子揃った幼馴染。一緒に遊んだという幼い頃のことはあまり覚えていないが、所々覚えていることがある。例えば手作りのホットケーキを初めて食べたのは彼の家だったし、深海生物についての本を初めて読んだのも彼の家だった。
「…………あ」
追憶の果てに、幸人は忘れていた記憶を掘り起こした。
それは小学一年生の時、幸人が母親に成績のことで叱られて家を閉め出され、泣きながら刀真の家に行った時のこと。家に入れず、でもどこに行けばいいのか分からなかった幸人の足は自然と早崎家に向かっていた。そうして早崎家のインターホンを鳴らせば、すぐに刀真と彼の母親が出てきた。
母親に嫌われてしまったという不安と心細さは出迎えられた瞬間に大きく膨れ上がって、幸人の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。止めようとしても涙はあふれるばかりで、視界は滲み目の周りがかっと熱を持つ。喉の奥から吠えるような声があふれて止まらなかった。そうして玄関に佇んだまま大声で泣き始めた幸人を、刀真は突然強く抱きしめた。持てる力の限り、ぎゅうぎゅうと幸人が苦しくなるほどに。そして、耳元で優しく幸人に言い聞かせた。
『ぼくは幸ちゃんの味方だよ。大丈夫、ぼくは幸ちゃんのこと大好きだからね』
柔らかく暖かい言葉はじんわりと心の奥を温めた。震える背をとんとんと優しく叩く手は労りに満ちていて。思わずほっと幸人の口から安堵の吐息が漏れる。触れ合ったところから伝わる心地よさに目を細めれば、溜まっていた涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。
『そうだ、幸ちゃんに魔法をあげるね。元気になれる魔法』
体を包む力が急に消えていき、驚いた幸人の目の前に刀真の顔が近づいてくる。そっと両頬を刀真の両手で包み込まれ、こつんとお互いの額が軽く触れる。すぐに額の熱が伝わってきて、視界には瞳を閉じた刀真の顔が広がった。
『幸ちゃんが元気になれますように』
そんなささやかな祈りが聞こえてきたところで、遠くで目的地到着前のアナウンスが聞こえてきた。驚いた幸人は小さく肩を跳ねさせ、自分が随分と長い間ぼんやりとしていたことを知った。膝に置いたままになっていた参考書は一ページも進んでいなかった。参考書は諦めて、『刀真を好きになる理由』探しに思いを馳せる。
「……好きって、どういうことなんだ」
思い出の中の刀真が言っていた『好き』は刀真の優しさから生まれた思いで、今日聞いた『好き』とは多分種類が違う。なんというか、もっと刀真の深い所にある思いが含まれている気がするが、それが何かまでは分からない。
そもそも誰かを『好き』になるって、どういうことなんだろう。刀真は僕を『好き』だと言うけれど、僕の何が刀真にそう思わせているのだろう。全部が好き、と刀真は言っていたが、全部とは何だろう。
「好かれる理由も曖昧で分からない」
いつも誰かしらと一緒にいる彼と一人で本を読む自分。彼と比べて、自分の成績は国語以外は彼よりも少し下、運動神経は並程度で少し不器用な自覚はある、容姿もおそらく普通。性格は言わずもがな人と関わるのが嫌いな根暗。
そんな自分を早崎が好きになる理由が分からない。男でもいい、選び放題の中から選んだんだと言わせるだけのものが自分の中にあることを自分自身が知らない。幼い頃ならまだしも、今の早崎の隣にいる自分を想像できない。
刀真の『好き』は重い鎖のようなのに、不定形でべったりとした粘性がある。一度囚われたら逃げられなさそうだ。思いは重い。それは物語で触れたことのある宝石のように輝く暖かくて柔らかな『好き』とは違う気がした。もちろん創作と現実という違いがあるとしても、だ。
つまり、刀真は『幸人には刀真以上に優れた何かしらがある』と妄想し、それを過大評価して、勝手に価値を見出している可能性がある。いわゆる妄信、というやつだ。
「……そうだ、それだ」
それなら釣り合わないはずの自分に刀真が執着する理由も説明できる。お前のその思いは勘違いで、一時の気の迷いだと言った方が刀真は時間を無駄にしなくても済む。刀真には彼に釣り合う人がいるはずなのだから。釣り合いが取れないよりも、取れた方がいいに決まっている。
でも、一貫して刀真の根底にある幸人への好意は嘘偽りのないもので、愛されたいという期待めいたものが自分の奥底にあるのも幸人は気がついていた。だから、彼の思いを目に見える形で認識したくなってしまった。それで、あんな試すようなことを彼に押しつけてしまった。
幸人が刀真に一週間で読むように言った本はページ数もさることながら、登場人物が多く、人間関係も複雑な『少々骨の折れる』ファンタジーだ。読み慣れれば波乱万丈な展開に引き込まれ、一気に読み進めることのできる大作なのだが、文字と情報の洪水が読み手を阻む。ある程度読書を嗜むマチでさえ「よぉ分からん。図的なやつ書かんと無理かも」と言わしめた物語だ。それをたった一週間で読み込むのは、本に親しんでいる様子のない刀真には随分と骨が折れるだろう。
読んでくる、と言った時の必死な顔を思い出す。幸人に付き合うかどうかを検討させるために、彼は多大な時間を読書に費やし、感想を言わなければならない。それだけの労力をかけてまで、もう一度付き合いたいと言えるのか。
かぐや姫が求婚相手に無理難題を言いつけた気持ちが少しだけ分かる。到底できないことを言えば、相手は諦めるだろうという思いがある一方で、できないことをなんとかしようとする姿勢を見せて欲しいという期待もある。結果ではなく過程を求めている。
幸人の心の奥底には、もし刀真が成し遂げたら、という期待がなくはない。上辺をなぞったものではなく、しっかりとした感想を言ってほしい。約束は果たした、これで考えてくれるんだろうと言ってほしい。
そうなったら、今度は幸人が約束を果たさなければならない。真摯に、付き合うかどうかを検討しなければならない。付き合うにしても、付き合わないにしても、きちんとした理由を添えて伝える。
「僕は早崎のどんなところが好きなんだろうな」
見慣れた景色が目的地に近づいていることを告げる。この信号が青になって右折すれば到着だ。
ふと、『幸ちゃん』と優しく自分を呼ぶ刀真の顔が思い浮かぶ。いつも誰かに向けられているその視線が、声が、優しさが、今日は自分だけに向けられていた。それはほんの少し優越感があり、思い出すだけで心が震える。
もし、もっと刀真が自分を見てくれたのなら。
そんな思いが小さな芽を出したことに、幸人は気がついてしまった。動揺する頭の中で、あの時の思い出がリフレインする。
『ぼくは幸ちゃんの味方だよ。大丈夫、ぼくは幸ちゃんのこと大好きだからね』
繰り返し思い出すそれはもう幼い頃の無垢な好意だとは思えなくなっていていた。あの頃からずっと、刀真は恋愛感情を持ってくれていたのだと期待したくなった自分がいることに、その日の幸人はずっと囚われていたのだった。
幸人は帰りのバスで参考書を読みながら思わず呟いた。
学習に集中できるようにとわざわざ山の中に作られた高校は、確かに都会の喧騒から離れた静かな場所であったが、当然というべきか交通の便が悪かった。自家用車があればそれほど苦ではないが、学生の身では自転車かバスという選択肢になり、ほとんどの生徒が通学にバスを利用していた。それゆえに特定の時間は学生でバスがいっぱいになるが、こうして放課後と部活が終わるまで間の微妙な時間はそれほど混んでいなかった。
幸人は迷わずいつもの定位置である最後尾の右端に座ってバスが目的地に連れて行ってくれるのを待つ。山道を下るバスに揺られながら、幸人は今日の出来事を思い出す。
早崎刀真。
頭が良くて運動神経も良い、そして容姿も良い。ついでに性格もよく、三拍子どころか四拍子揃った幼馴染。一緒に遊んだという幼い頃のことはあまり覚えていないが、所々覚えていることがある。例えば手作りのホットケーキを初めて食べたのは彼の家だったし、深海生物についての本を初めて読んだのも彼の家だった。
「…………あ」
追憶の果てに、幸人は忘れていた記憶を掘り起こした。
それは小学一年生の時、幸人が母親に成績のことで叱られて家を閉め出され、泣きながら刀真の家に行った時のこと。家に入れず、でもどこに行けばいいのか分からなかった幸人の足は自然と早崎家に向かっていた。そうして早崎家のインターホンを鳴らせば、すぐに刀真と彼の母親が出てきた。
母親に嫌われてしまったという不安と心細さは出迎えられた瞬間に大きく膨れ上がって、幸人の瞳からは大粒の涙が零れ落ちた。止めようとしても涙はあふれるばかりで、視界は滲み目の周りがかっと熱を持つ。喉の奥から吠えるような声があふれて止まらなかった。そうして玄関に佇んだまま大声で泣き始めた幸人を、刀真は突然強く抱きしめた。持てる力の限り、ぎゅうぎゅうと幸人が苦しくなるほどに。そして、耳元で優しく幸人に言い聞かせた。
『ぼくは幸ちゃんの味方だよ。大丈夫、ぼくは幸ちゃんのこと大好きだからね』
柔らかく暖かい言葉はじんわりと心の奥を温めた。震える背をとんとんと優しく叩く手は労りに満ちていて。思わずほっと幸人の口から安堵の吐息が漏れる。触れ合ったところから伝わる心地よさに目を細めれば、溜まっていた涙が一筋頬を伝って流れ落ちた。
『そうだ、幸ちゃんに魔法をあげるね。元気になれる魔法』
体を包む力が急に消えていき、驚いた幸人の目の前に刀真の顔が近づいてくる。そっと両頬を刀真の両手で包み込まれ、こつんとお互いの額が軽く触れる。すぐに額の熱が伝わってきて、視界には瞳を閉じた刀真の顔が広がった。
『幸ちゃんが元気になれますように』
そんなささやかな祈りが聞こえてきたところで、遠くで目的地到着前のアナウンスが聞こえてきた。驚いた幸人は小さく肩を跳ねさせ、自分が随分と長い間ぼんやりとしていたことを知った。膝に置いたままになっていた参考書は一ページも進んでいなかった。参考書は諦めて、『刀真を好きになる理由』探しに思いを馳せる。
「……好きって、どういうことなんだ」
思い出の中の刀真が言っていた『好き』は刀真の優しさから生まれた思いで、今日聞いた『好き』とは多分種類が違う。なんというか、もっと刀真の深い所にある思いが含まれている気がするが、それが何かまでは分からない。
そもそも誰かを『好き』になるって、どういうことなんだろう。刀真は僕を『好き』だと言うけれど、僕の何が刀真にそう思わせているのだろう。全部が好き、と刀真は言っていたが、全部とは何だろう。
「好かれる理由も曖昧で分からない」
いつも誰かしらと一緒にいる彼と一人で本を読む自分。彼と比べて、自分の成績は国語以外は彼よりも少し下、運動神経は並程度で少し不器用な自覚はある、容姿もおそらく普通。性格は言わずもがな人と関わるのが嫌いな根暗。
そんな自分を早崎が好きになる理由が分からない。男でもいい、選び放題の中から選んだんだと言わせるだけのものが自分の中にあることを自分自身が知らない。幼い頃ならまだしも、今の早崎の隣にいる自分を想像できない。
刀真の『好き』は重い鎖のようなのに、不定形でべったりとした粘性がある。一度囚われたら逃げられなさそうだ。思いは重い。それは物語で触れたことのある宝石のように輝く暖かくて柔らかな『好き』とは違う気がした。もちろん創作と現実という違いがあるとしても、だ。
つまり、刀真は『幸人には刀真以上に優れた何かしらがある』と妄想し、それを過大評価して、勝手に価値を見出している可能性がある。いわゆる妄信、というやつだ。
「……そうだ、それだ」
それなら釣り合わないはずの自分に刀真が執着する理由も説明できる。お前のその思いは勘違いで、一時の気の迷いだと言った方が刀真は時間を無駄にしなくても済む。刀真には彼に釣り合う人がいるはずなのだから。釣り合いが取れないよりも、取れた方がいいに決まっている。
でも、一貫して刀真の根底にある幸人への好意は嘘偽りのないもので、愛されたいという期待めいたものが自分の奥底にあるのも幸人は気がついていた。だから、彼の思いを目に見える形で認識したくなってしまった。それで、あんな試すようなことを彼に押しつけてしまった。
幸人が刀真に一週間で読むように言った本はページ数もさることながら、登場人物が多く、人間関係も複雑な『少々骨の折れる』ファンタジーだ。読み慣れれば波乱万丈な展開に引き込まれ、一気に読み進めることのできる大作なのだが、文字と情報の洪水が読み手を阻む。ある程度読書を嗜むマチでさえ「よぉ分からん。図的なやつ書かんと無理かも」と言わしめた物語だ。それをたった一週間で読み込むのは、本に親しんでいる様子のない刀真には随分と骨が折れるだろう。
読んでくる、と言った時の必死な顔を思い出す。幸人に付き合うかどうかを検討させるために、彼は多大な時間を読書に費やし、感想を言わなければならない。それだけの労力をかけてまで、もう一度付き合いたいと言えるのか。
かぐや姫が求婚相手に無理難題を言いつけた気持ちが少しだけ分かる。到底できないことを言えば、相手は諦めるだろうという思いがある一方で、できないことをなんとかしようとする姿勢を見せて欲しいという期待もある。結果ではなく過程を求めている。
幸人の心の奥底には、もし刀真が成し遂げたら、という期待がなくはない。上辺をなぞったものではなく、しっかりとした感想を言ってほしい。約束は果たした、これで考えてくれるんだろうと言ってほしい。
そうなったら、今度は幸人が約束を果たさなければならない。真摯に、付き合うかどうかを検討しなければならない。付き合うにしても、付き合わないにしても、きちんとした理由を添えて伝える。
「僕は早崎のどんなところが好きなんだろうな」
見慣れた景色が目的地に近づいていることを告げる。この信号が青になって右折すれば到着だ。
ふと、『幸ちゃん』と優しく自分を呼ぶ刀真の顔が思い浮かぶ。いつも誰かに向けられているその視線が、声が、優しさが、今日は自分だけに向けられていた。それはほんの少し優越感があり、思い出すだけで心が震える。
もし、もっと刀真が自分を見てくれたのなら。
そんな思いが小さな芽を出したことに、幸人は気がついてしまった。動揺する頭の中で、あの時の思い出がリフレインする。
『ぼくは幸ちゃんの味方だよ。大丈夫、ぼくは幸ちゃんのこと大好きだからね』
繰り返し思い出すそれはもう幼い頃の無垢な好意だとは思えなくなっていていた。あの頃からずっと、刀真は恋愛感情を持ってくれていたのだと期待したくなった自分がいることに、その日の幸人はずっと囚われていたのだった。