「……ついてきて」
「え」

 幸人は佇んだままの刀真を置いて教室を出る。そうして扉から出たところで足を止め、怪訝そうな顔で教室に居残った刀真を見た。

「来ないの?」
「い、行く」

 幸人の考えが分からないまま、刀真は肩を跳ね上げて幸人のもとへ駆け寄る。幸人は飼い主のもとへ一目散に駆け寄ってくる犬を思い浮かべながら、先導して足早に歩き出す。ほんの少し上がってしまった口角を刀真に見られたくなかった。

「……幸ちゃん」
「黙ってついてきて。時間がないから」

 ぴしゃりと鋭く言い放つと刀真はすごすごと黙ったまま少し後ろをついて来る気配がする。そのまま階段を上がり、目的地へ迷いなく進んでいく。

「…………ここは」
「ほら、こっちに来て」

 幸人が向かった先、年季の入った扉を開けばすぐに古い紙とインクの匂いが刀真の鼻孔をくすぐった。本でぎっしり詰まった本棚がいくつもあるその場所は、テスト期間なら空いている席を探す方が難しいのだが、そうでもない今そこにいる生徒はそう多くなかった。閑散とした図書室で、幸人は戸惑う刀真を置いてまっすぐに歩き出す。

「あ、真壁くんやん。あれ、もう塾の時間じゃないん?」

 途中、カウンターごしに揶揄うような声が聞こえてきたが、幸人はそれに小さく鼻を鳴らしただけで無視した。カウンターを過ぎれば、背中越しに「無視なんてひどいなぁ。マーチと真壁くんの仲やのに」と笑い混じりの声が聞こえてくる。
 まぁちと真壁くんの仲。刀真はその聞き捨てならない言葉に一度だけ足を止めたが、幸人の姿が本棚の向こうに消えていくのを捉え、慌てて幸人の後を追うことを再開した。

「なんで図書室?」

 ようやく足を止めて本棚の一か所を凝視する幸人に、刀真は小声で問いかけた。幸人は答えない。少し上にあげた顎のラインに見入っていると、幸人は小さく「あった」と呟いた。そして、刀真をちらりと見る。

「……な、なに」
「あの一番上にある分厚い本を取って」

 幸人は、ん、と本棚の一か所を指で指し示す。その指先になるのは国語辞典を彷彿させる分厚さの本だった。ボリュームゆえに誰も読まないのだろう、その本は本棚の一番上に鎮座していた。

「……これで殴られたらヤバそうだね」
「そうされたくなかったら、早くしてくれ」

 催促され、刀真は手を伸ばし、本を掴む。ずっしりとした重さに耐えながら、ゆっくりと下ろし、軽く手で埃を払ってから幸人の前に差し出す。

「はい、これ。もしかして、この本を取るのがお願いだったの?」
「……? どうして僕に差し出してくる。それは君が借りる本だ」
「…………はい?」

 刀真の頭の中を疑問符がいくつも駆け回った。君が借りる本。ということは俺が、この凶器になりえそうな本を?

「一週間でこの本を読んできて。で、感想を聞かせて。そうしたら付き合うか考える」
「……えっ!? こ、これを一週間で!?」
「うるさい」

 しっ、と厳しい表情で幸人は立てた人差し指を自分の口元にあてて刀真に注意を促す。思わず出てしまった刀真の声は静かな図書室に響き渡り、妙な緊張感を伴う沈黙が広がった。しばらくすると波がひくように元の穏やかな雰囲気に戻り、刀真は安堵に息を吐いた。そんな刀真を見て、幸人は小さく嘆息する。

「無理ならいい、じゃあ、まずは幼馴染という視点から好きになる理由を探すことにする。付き合うのはその後だ」
 幸人は踵を返し、図書室から出ようとする。その背中に慌てて刀麻は声をかける。今度はできるだけ声を潜めて。
「読む。絶対読むから」
「一週間後の放課後。教室」
「分かった! まかせて」

 これは試されていると刀真はすぐに思った。ならば、ここでしっかりとした感想を伝えることができれば。幸人は刀真を好きになる。思わずガッツポーズをする刀真の脳内では頬を赤らめながら上目遣いで『読書のできる君が好き』と言う幸人の姿がイメージされていた。

「……言っておくけど、考えるだけで了承するって意味じゃないから」

 挙動不審な刀真を幸人は怪訝な顔で見つめる。舞い上がっているようだから釘を刺しておかないと後から聞いていないとか言い出し、話がこじれると困るという思いからの言葉だったが、刀真は満面の笑みで敬礼のポーズをとる。

「心得ております!!」
「……うるさい」

 急浮上した気持ちのまま叫んでしまった刀真はまた大声を出してしまい、今度こそ幸人に足を蹴られてしまったのだった。


「いやーすっごい仲良しさんやなぁ、君ら」

 本の貸し出しには図書委員のチェックが必須で、先ほど軽快な声をかけてきた人物を避けるわけにはいかず、刀真は幸人とカウンターに向かう。
 にこにこと楽しそうな図書委員とは裏腹に、むすっとした幸人は視線すら合わせようとせず、刀真の影に隠れている。もし幸人が猫なら毛を逆立てて低く唸っているだろうな、なんて刀真は考える。刀真の知る限り、幸人は幼い頃から基本的に他人には無関心なので、こんなに警戒しているのは珍しい。それゆえに、刀真は幸人とこの生徒との関係性が気になっていた。だが、聞いたところで幸人が素直に話してくれるとも思えず、しばらくは会話の中から関係性を考察してみようと思い立った。

「いっつも一人やのにな。よっぽどお気に入りさんなんやね」

 貸し出しのチェックをしながら図書委員の生徒は笑いを含ませながら、呟く。刀真の後ろで、苛立ちをまとった雰囲気が徐々に鋭さを増していくを感じながら、刀真は愛想笑いをした。
 ニヤニヤしていて胡散臭い。ほんの数回話しかけられただけなのに、そんな印象がばっちりと焼きついてしまった。
 色素の薄い茶色の髪は所々外側に跳ねており、瞳の色も薄茶色で優しげな雰囲気を漂わせている。肌も抜けるような白で、その容姿は日本人離れしていた。刀真の周りにはいないタイプで、まるで不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫のように不思議な図書委員は「はい、どうぞ。貸し出しは二週間、延長は再申請を……って」と流れるように話したあと、刀真の顔を見て言葉を止めた。

「……なんや。君、陽キャの無敵ングやん」
「その呼び方やめてほしいな」

 自分がそう呼ばれていることは知っているが、面と向かって言われると気恥ずかしい。目を丸くしたまま刀真を凝視していた図書委員は数度瞬きをすると、にやりと口角を釣り上げて「やるやん、真壁くん」と刀真の後ろに隠れている幸人にウインクを飛ばした。幸人はふん、と小さく鼻を鳴らし、そっぽを向く。

「どうやってゲットしたん? 無敵ングは誰にも落とせへん難攻不落の王様やって聞いてるんやけど」
「……ただの、幼馴染、だって」

 ようやく幸人が言葉を紡ぐ。心底嫌そうな、面倒くさそうなニュアンス。他人に対してそんな風に本心をそのまま表す幸人を刀真は久しぶりに見たような気がした。大抵無表情に近い、何を考えているのか分からないような顔で黙っていることが多いのに。それに口調が妙に砕けている。ほんの少し嫉妬めいた感情が刀真の胸の奥に渦巻いた。

「真壁くんは他人に興味ないから知らんやろうけど、無敵ングはみんなを平等に愛する王様なんよ」
「それが何だよ。そんなの他人が勝手に言ってるだけだろ。みんなを平等に愛するなんて、さすがに早崎でも無理だろ。それに早崎はそういう奴じゃ……」

 言いかけて幸人は時計を見て目を見開いた。バス停に向かう時間を数分オーバーしている。遅れてもいい、と一度は思ったがもちろん遅れないことが望ましい。今なら走れば間に合う時間だと気がついた幸人は「塾の時間だ。じゃあまた早崎。マーチも」とだけ言い、足早に図書室を出ていった。刀真はその後ろ姿を見送るしかなく、ぼんやりと先ほどの幸人の言葉を思い出す。

『みんなを平等に愛するなんて、さすがに早崎でも無理だろ』

 それは新鮮な感動だった。周囲も家族でさえも、一歩引いた先で刀真を見ていた。近寄りがたい、自分とは違うもの。大抵のことはできるのが早崎刀真。そんな思いが周囲の態度からはあふれ出ていて、刀真自身もそういうものだと思っていたのに。幸人はそうじゃないと言ってくれた。
 特別は孤独で、でも周囲の期待を無下にすれば、もっと孤独になると思えば応え続けるしかない。刀真には周りが思うほどの余裕はないことを、幸人はちゃんと感じ取っていた。
 その事実が、刀真の心を温める。好きな人にちゃんと認識されているということはとても嬉しい。本当の自分を感じ取って、受け入れてくれる嬉しさはどんな喜びよりも尊い。
 幸人は優しいひだまりのような人だ。ただ柔らかく降り注いで分け隔てなくすべてを温める。

 幸ちゃん、ありがとう。俺、幸ちゃんのこと、どんどん好きになるよ。

 この気持ちを今すぐ伝えたい。幸ちゃんには重いかもしれないけど。
 自分が幸人の言葉でどれほど救われたか。それを伝えたい。

 幸人を追いかけようと扉に手をかけた刀真の背中越しに「おーい、本忘れとるで」と笑いを滲ませた声が届く。振り返ると図書委員の生徒がにんまりと笑いながら、両手であの分厚い本を揺らしていた。

「ありがとう」

 刀真は礼を言って本を受け取ろうと手を伸ばす。本の装丁に触れ、そのまま引き寄せようとするが、本はびくともしない。すぐに図書委員が手を放そうとしないからだということに気がついた。引っ張ればそれ以上の力で引っ張られる。本ごしに図書委員と目が合う。にやにやと笑みを浮かべ、妙に嬉しそうな顔をしているのが目についた。

「……悪いけど急いでるんだ。手を離してしてくれないか」

 苛立ちをほんの少し。加減して加えた言葉を口にして、図書委員を見る。このタイプはきっと意思表示をはっきりしないとやめてくれない。そう踏んで声に刺々しさを含ませてみたが、当の図書委員は変わらず笑みを浮かべたまま手を放そうとしない。
 もう一度。刀真が先ほどよりも強く意思表示しようとした瞬間、相手が先に口を開く。

「今から行っても間に合わんと思わん? 真壁くんは教室に鞄取りに行ったら、そのままダッシュでバス停やで。煩わせるのも嫌やろ。な、ちょっとだけ話そうや。無敵ング」

「…………」

 高揚した気分に水を差すように図書委員はカウンター越しにじっと刀真を見上げる。刀真はその視線を見返したあと、小さく息を吐いて視線を下に向けた。

「今、こいつウザいなって思ったやろ?」
「ノーコメント」

 刀真が端的に答えると図書委員は「あはっ」と楽しそうに笑って見せた。刀真に対してこんな態度をとる人間はいない。その点では興味深かったが、わざと人を怒らせるような態度は好ましくない。それに幸人との関係性も何かありそうで、それが分からないのも不愉快だった。

「真壁くんおらへんと怖いなぁ、自分。無敵ングはみんなに優しいって聞いとったのに」
「みんなに? まさか。人によるよ」
「まあ相性はあるわな。よく分かるわぁ。あ、そうそう。初めましてやから自己紹介しとかなな」

 図書委員は右手をひらひらしながら笑みを深めた。

「……マーチ。町田(まちだ)マーチ。ふふん、すんごい名前やろ。しがない図書委員で、真壁くんとたまに図書委員の仕事をしとるよ。転校してきたばっかりでまだぼっちなんよ、友達になって欲しいなぁ」
「……もう知ってるみたいだけど、早崎刀真。早崎か刀真でいいよ」
「じゃあトマトマで。よし、これでもうオレら親友やな」
「…………」

 なんというか色々独特。そんな言葉が出かかったが、刀真は頬の内側を噛んで耐えた。世の中には言っていいことと言ってはいけないことがある。特にこういうタイプは上げ足を取ってきて不快な気持ちにさせる嫌がらせが得意そうだと勝手に判断して愛想笑いに終始した。

「なあ、真壁くんのこと気になる?」
「え」

 急な問いかけに刀真は一瞬戸惑う。それまでの張りつめていた空気がぷつんと途切れる。マチはその隙を逃さずにんまりとした笑みを深める。

「あはっ、カマかけただけやのにそんな可愛い反応したらバレバレやで、トーマトマ」

 けたけたと笑う姿は本当に愉快そうで、苛立ちが募る。よく考えればこんな会話をするのは時間の無駄だ。すっかりマーチのペースに呑まれてしまっていることに気がついた刀真は余所行きの笑顔をマチに向ける。

「……悪いけど自己紹介も終わったことだし、もういいかな。俺もそろそろ帰りたいんだ」
「あーごめんて。そんな怒らんといてよ。親友にそっこーで絶交されたら悲しいわ」
「そう思うなら遊ばないで」
「や、ほんまにごめんて。真壁くんが誰かと図書室に来る日なんて来ないと思ってたからさぁ。あの子、いっつも一人やろ」
「…………」

 幸人のことを持ち出されて、刀真は口を閉ざした。それは事実だ。刀真が話しかければよかったのかもしれないが、幸人は一人で過ごすことを好む質だと知っていたからあえて声をかけなかった。

「仲良くしたってな、あの子寂しがり屋の偏屈やから」

 マーチは寂しそうに笑って、本を刀真に差し出し、視線を出入り口に向ける。

「二週間で返してや。これ分厚いからな、延長するなら期限内にもう一回ここにきて申請……」
「一週間で読むから大丈夫」

 刀真は本を受け取って図書室を後にする。マーチは小さくため息をつき、端においていた図書カードの作成を再開した。そしてしばらくしてクククッとこもった笑い声を上げる。

「……こらまた面倒くさい男に見初められとるなぁ。おもろいことになりそうや」