放課後の教室は|真壁幸人(まかべゆきひと)にとって簡易的な楽園だ。教室に押し込まれていた喧騒はホームルームが終わりを迎えるとあっという間に外へ飛び出していき、やがて教室には静寂だけが残される。そうして静まり返った教室で、一人居残った幸人は鞄から文庫本を取り出した。そして、薄紫の栞が挟まれたページを丁寧に開いて読み進めながら、時々右手で本のページを捲る。
 開かれた窓から聞こえる運動場の喧騒や吹奏楽部の楽器の音も幸人の集中を乱すことはできず、彼は最初からそこにある備品の一部のように教室に同化していた。塾へ行くまでの間、彼はいつもこうしてゆっくりと一人読書の世界に心躍らせるのだった。

 学年が一つ上がり、新学期が始まってから三ヶ月と少し。当初のそわそわした落ち着かない雰囲気は消え、履き慣れてこなれてきた靴のように教室の雰囲気は随分と軟化し、馴染んできていた。誰もが自分と気の合いそうなクラスメイトを見つけ友達になり、グループがいくつか出来上がっていたが、幸人はどこにも属さなかった。最初こそ幸人を気にかけて話しかけてくる者もいたが、幸人が素っ気ない態度や言動を返すたびに苦笑いを浮かべて去っていく。
 ぼっちが好きな変わり者だとか、中二病をこじらせているとか、上メセ陰キャとか、聞こえてくる自分の評価は散々なものだったが、それを気にしている余裕はなかった。幸人にとって今一番大事なのは試験で高得点を取り、大学受験に向けて学力を高めていくこと。ただそれだけ。
 ひたむきに勉学に邁進する幸人の目に映る世界は、いつもモノクロで味気がない。日々繰り広げられるリアルな物語は今まで読んだどんな本よりもつまらなかった。

「……本当に、つまらないな」

 文字に目を落としながら幸人は小さく呟いた。こうなると目が上滑りして本の内容が入ってこなくなる。本に集中したいのに、ふと気がつけば、取るにも足りない、どうしようもない些細なことばかり考えてしまう。
 つまらないもの。学校という場所。群れていないと不安になるクラスメイト達。既視感のある授業。そして、周りが楽しいと思うことを一緒になって楽しめない卑屈な自分。周りを気にかけないふりをして、他人が自分をどう思っているかとても気にしている臆病な自分。
 ひっそりと心の奥底にいる自分が周りの楽しげな様子を見ては寂しそうな顔を覗かせていることに、幸人は何度も何度も気がつかないふりをした。
 殻にこもればこもるほど殻はどんどん分厚く硬くなって、出ようとすると傷がつく。殻にこもりっきりで脆くなった心は、外に出たところできっと好奇や侮蔑、嘲笑の目には耐えられない。考えれば考えるほど現状維持が最適解だと幸人は自分に言い聞かせた。自分から進んで一人になっているのだから、寂しいのは当たり前だ。

「つまらないと思うから、つまらないんじゃない?」

 突然身近で聞こえてきた声に、幸人は思わず右手を小さく跳ね上げた。一人だったはずの教室に誰かがいる。そして誰かに話しかけられている。
 幸人の物思いを一瞬で壊した誰かは思いのほかすぐ近くにいるようだが、幸人はあえて本から顔を上げることはしなかった。クラスでの急ぎの用や提出物はなかったはずだし、どうせ大した用ではないだろうと気がつかないふりをした。まだ弾む鼓動とほんの少しの罪悪感を無理矢理押さえつけ、意識を再び本の海に深く沈ませようとする。

「…………ん。おーい幸ちゃん。聞こえてるでしょ、ねぇ、幸ちゃんってば」

 聞き覚えのある声だった。最初は聞こえるか聞こえないかというほどの小さな声。だが、それを無視すれば声は少し大きくなり、それでも無視すれば声はさらに大きくなった。

「幸ちゃん。俺だよ、俺」

 オレオレ詐欺か。思わず突っ込みを入れそうになったのを、幸人はぐっと耐え、沈黙を貫いた。そうしていると、不意に暖かいものが肩に触れ、ぞわりと一瞬で全身に鳥肌が立つ。その感覚に耐えきれなくなった幸人はついに声の主を見る。眉間に皺を寄せて不快感を露わに相手を睨めば、声の主は慌てて幸人の肩に触れていた手を離した。

「嫌なことしてごめん」
「…………」
「でも幸ちゃん、こうでもしないと話聞いてくれなさそうだったからさ。本当にごめんね」

 無言で睨む幸人に、声の主は眉尻を下げて申し訳なさそうに視線を下げた。クセのない黒髪と爽やかさを漂わせる整った顔立ち。凛とした涼やかな雰囲気がありながら、けして冷たくはなく、優しい眼差しが印象的な好青年。小説なら間違いなくそんな描写をされるだろうな、などと思いながら、幸人はふん、と小さく鼻を鳴らした。

「……何か用事、早崎(はやざき)
「うわ。やだなぁ、早崎なんて他人行儀な言い方。昔みたいに『はーちゃん』でいいのに」
「高校生にもなって、そういう呼び方は普通しない」
「年なんて関係ないよ。もしかして、みんなの前でちゃん付けするのが恥ずかしいとか?」
「……恥ずかしくないのは君ぐらいじゃないかな」

 早崎刀真(はやざきとうま)。このクラスにおけるヒエラルキーの頂点に立つ生徒で、幸人の幼馴染である。容姿端麗、文武両道で誰に対しても裏表のない気さくな態度で接する人格者。神が二物どころか盛れるだけ盛りに盛った才気溢れる優秀な青年。
 そんな非の打ちどころのない彼に周囲がつけた俗っぽい二つ名は『陽キャの無敵ング』。それが早崎刀真という男だった。

 刀真と同じクラスになったことは最初のクラス一覧表で知っていた。だが、二人きりで話したのは今日が初めてだ。中学時代は何かと理由をつけて頻繁に声をかけてきた彼がこの数か月話しかけてこなかったから、幸人はもう関わってくる気がないのだと思い込んでいた。幼い頃はそれなりに交流があったのに、二人の距離はどんどん開いていく。それを寂しく思いながらも、彼と自分とは住む世界が違うのだと自分を納得させたところだった。
 それなのに彼はまた話しかけてきた。だから少しだけ、そうほんの少しだけ、彼が話しかけてきたことに心が震えた。嬉しいとか懐かしいとかそういう感傷じみたものがじわりと滲みだしてきて、幸人は慌てて緩みかけた頬を意識的に強張らせ、唇を強く噛み締めた。
 
「……で、何。もうすぐ塾へ行く時間なんだけど」

 幸人はちらりと黒板横の時計を見た。タイムリミットまで残り三十分ほど。長話はできないが、彼が話すことには多少興味がある。少しぐらいなら遅れても、なんて思いが沸き起こったのを、幸人は急いで掻き消した。そうだ、残念なことに彼を追い払うだけのコミュニケーション能力を自分は持ち合わせていない。だから早急に話を聞いて用を済ませてもらうのが最善策だ。そんな言い訳めいた解釈を自分に言い聞かせた。

「少しだけ幸人君に用があって。あの……すぐに済むから、よく聞いてほしい」

 妙にそわそわした普段とは違う様子に、幸人は違和感を感じながらも黙ってじっと刀真の言葉を待った。だが待てど暮らせど一向に刀真は要件を口にしない。あと二十五分。

「早く言って」

 苛立ちとともに促すと、刀真はハッとして、しばらく視線をさ迷わせてから、まっすぐに幸人を見た。目が合うと、どういうわけか刀真の顔がどんどん赤く染まっていく。熱でもあるのか、と幸人は首を傾げた。

「……熱でもあるの」
「は、あ、えっ?」
「顔。真っ赤」
「…………っ」

 指摘すれば刀真はさらに狼狽えた様子を見せた。口を鯉のようにパクパクして「あ」とか「う」と言い始める。なんというか、普段の余裕綽々の笑みを浮かべている彼と比べると、目の前の彼はとても幼く見えた。操縦桿の壊れた飛行機みたいに、自分で自分のコントロールができていないようだ。そういえば、こんな彼を前にもどこかで見た気がする。でも、思い出せない。

「……ううっ、ゆ、幸ちゃん」
「だから何」

 不安げに震える声で幸人の名前を呼ぶ刀真に幸人が応えると、彼はようやく腹を括ったのか大きく深呼吸し、息を整えたあとに大きく口を開いた。

「……ゆ、幸人君! 俺、幸人君が、すっ、好きです!! 付き合ってくださいっ!!」

 教室に刀真の声が響き渡り、すぐに喧騒がその声を上書きする。何事もなかったかのような空気のなか、二人の周りだけ時間が止まったかのような雰囲気に包まれていた。

「は……あ?」

 幸人の口から疑問が音となって漏れる。それは間の抜けた音だったが、それを意識するだけの余裕は今の幸人にはなかった。

 好き? 恋人?
 聞き慣れない言葉はまるで異国の言葉のような響きを持っていて、脳内で何度も反芻するが、うまく呑み込めなかった。目を丸くしたまま刀真を見れば、彼は顔を真っ赤にして幸人の答えを待っていた。目の前の状況を全く理解できずに、幸人の思考が凍りつく。だがそれと同時に、理解の及ばない事象は好奇心にも似た新鮮な感覚を幸人の中に芽吹かせた。その感覚の正体を知りたい。そう思えばそれは意外にもするりと言葉になった。

「よく理解できなかった、もう一度言ってみて」
「えっ……だ、だから……すっ、き、だから、俺と付き合って、ほしい、んだってば」
「誰が誰を好きって?」
「……俺が、ゆ、幸人君を、す、好き……」

 語尾に近づくにつれ、刀真の声はしぼんでいく。相変わらず顔は茹蛸のようで、耳まで赤く染まっていた。

「好きだから付き合いたい、ってこと?」
「……うん、そ、そう」
「確認するけど、それは恋愛としての『付き合いたい』?」
「……付き合うに、それ以外の意味ってある?」
「義理や社交上の必要性から行動を共にしたい、っていう意味もあるにはあるから」
「この状況で国語辞典みたいなこと言わないで……」

 しばしの問答の果て、幸人は沈黙したまま机を眺める。少し落ち着いたからか、今度は内容がしっかり入ってきた。これは告白というやつだ。だが、なぜ刀真は急に告白してきたのか。何の脈絡もない展開に思いを馳せれば、今まで受けた嫌がらせの思い出が記憶の引き出しから勢いよく飛び出した。
 思い当たったのは、以前やられたことのあるイタズラだった。クラスの地味でモテない奴に突然告白して相手の戸惑いや困惑を見て楽しむという質の悪いイタズラ。今でも、誰がお前なんかと付き合うか、と甲高い声で笑い合うクラスメイト達の嘲笑が耳に残っている。

 気がつけば高揚していた気持ちが地の底まで落とされ気分が悪くなる。刀真への失望と苛立ちはどんどん膨れ上がっていく。少なくともそういう悪質な嫌がらせには加担しないと思っていたのに。久しぶりの会話が嫌がらせだと思うと鼻の奥がつんとした。幸人の返事を待つ刀真に、幸人は辛辣な視線を向ける。

「……そうか、君はそうやつだったのか」
「な、何、いきなり」

 冷ややかな視線と低く唸るような声に、刀真は動揺を隠せない。幸人を驚きと不安の入り混じった瞳で見つめる。

「これは何かの罰ゲームだろう? こんなことして面白いか。君には失望した。こんな低俗なことで喜ぶなんて最低だ」
「え、ちょっ」
「君のくだらない遊びに付き合っている暇はない」

 吐き捨てるようにそう言った幸人は呆れたという意味を存分に込めた息を吐き、読みかけの本を鞄に戻した。幼馴染は変わってしまった。鮮やかだった刀真との思い出が急速に色褪せていく。

「……幸人、君。幸ちゃん」

 今にも消え入りそうな、か細い声が幸人の名を呼んだが幸人は無視をした。荷物をまとめる。もう刀真と同じ空間にいるのは耐えきれなかった。忘れよう。今日の読書は全然進まなかった。忘れよう。そういえば今日は数学の個別指導の日だった。忘れられない。忘れようとすればするほど、幸人の意識は勝手に先ほどのやり取りを再生し続ける。忘れられない。唇を痛いくらいに噛み締める。そうしないと涙があふれそうだった。

「違う、違うよ。そういうのじゃない」

 立ち去ろうとせずその場に立ち竦んだまま、この期に及んでまだイタズラを続けようとする刀真に苛立ちを越えて、怒りが沸き上がった。舌打ちと共に、怒りを刀真にぶつけようと睨みつけた。

「……いい加減に「好き。本当に好きだよ、幸人君」」
「やめろ」

 最低だ。人の気持ちを弄ぶ奴は最低だ。これ以上、傷つけないで。

「罰ゲームじゃない。本当に、好きなんだ……信じて」

 今にも泣きそうな顔で、刀真は必死に声を絞り出していた。まっすぐに幸人を見つめる瞳はゆらゆらと揺れていて、頼りなくて情けない。誰にでも大人気の幼馴染がクラスの端っこの幸人に縋りつくように無様な姿を見せている。そこまで執着するだけの理由が自分にあるのだろうか。これでは刀真の方が道化に見えてくるのに、どうしてこんな。そんな疑問がふわりと浮き上がってきた。

「……からかうのに、こんな必死になる必要がある?」
「そ、れは……」
「こんなの、全然面白くないよ。面白いわけない。幸ちゃんに失望したって言われてさ、その上罰ゲームで幸ちゃんをからかうような奴だって思われてたなんて……幸ちゃんから見える俺は、そんな奴なんだ」

 ついに刀真はくるりと幸人に背を向けた。小さく肩が震えているように見える。その背を見つめていると、なんだかやりきれない気持ちになってきた。

 確かに今までの付き合いで、刀真がこういう嫌がらせをしたことは一度もなかった。冗談を言うことはあっても、人が本気で気にしていることをあげつらったり、馬鹿にしたりはしなかった。その辺のさじ加減を弁えているからこそ、彼はスクールカーストの頂点に君臨できているわけで。もしかして、これは本当に。
 行きついた結論は彼が幸人にイタズラを仕掛ける可能性が極めて低いことだった。幸人は小さく息を吐いた。

「……そうだな。よく考えれば、君はそういうことをする人間じゃない。突然のことに動転して、冷静な判断ができなかった。ごめん」

 謝罪を口にすれば、胸につかえていたモヤモヤがなくなっていく。そうすると今度は刀真が好きな相手が自分だという揺るぎない事実が雲間から顔を覗かせる太陽のように現れた。途端に今度は別の意味でこの場から立ち去りたくなる。

「じゃあ、付き合ってくれる?」

 くるり、と刀真は振り返った。うるうるとした瞳はそのまま、無垢な子犬のおねだりのように、じいっと幸人を見つめてくる。その目力は思いのほか強く、幸人は危うく頷きそうになるのをすんでのところで耐えた。

「流されないよ。君がイタズラで告白してきたと僕が誤解したことと、僕と君が付き合うことは別問題だ」
「確かにそうだ。じゃあ、俺の告白がイタズラじゃなくて本当だってことも分かってくれたよね、幸ちゃん」
「…………」

 刀真はそれまでの縋るような表情を一変させ、普段の余裕のある強者の笑みを浮かべた。引いてもダメなら押してみろ、と言わんばかりの方向転換だ。
 彼は昔から意外と頑固で、目的の為なら手段を選ばない一面がある。そして、こうして冷静に相手を説得するようなスタイルを取り、最終的には言うことを聞かせてしまうのが得意だと、幸人はよく知っていた。戸惑う素振りを見せてはいけない。幸人は眉間に力を込めて刀真を見据えた。

「本気でも急に好きだと言われても、わかりましたと即答できるわけがない」
「そこは即答してほしいな。だって本気なんだから。俺、本当に幸ちゃんが好きなんだ」

 さっきから刀真はずっと『好き』という単語を歌うように口にする。一番最初は恥ずかしそうだったのに、もう慣れたのか素面で『好き』だと言ってくるようになった。それにまた『幸人君』から『幸ちゃん』になっている。
 今日の彼の論調は今までとは少し違って、端的に言えば感情的で情熱的だ。幸人は刀真の寄こしてくる多量の『好き』に酔ってしまい、頭がクラクラした。

「……幸ちゃん、って言うな」
「二人きりの時は許してよ。長年の習慣はなかなか変えられないんだ」
「……僕は男だ」
「知ってるよ」
「……誰かと付き合った経験がないから、何をどうしたらいいのか分からない」
「知ってるよ。俺もないから一緒に勉強していこう」
「……どうして僕なんだ。君なら選び放題じゃないか」
「選び放題の中から幸ちゃんを選んだんだよ」
「……僕の、どこが好きなんだ」
「幸ちゃんのまっすぐで頑張り屋なところ。まあ、全部好きだけどね」
「……僕の、気持ち、は」
「幸ちゃんは俺のこと、嫌い?」

 幸人の質問に即答し続けた刀真は小さく首を傾げて幸人に問いかけた。その問いに、幸人はいよいよ動揺を隠せなくなる。彼の瞳はまっすぐに射抜くかのように鋭く、獲物を逃がすまいとする狩人のようにも見えた。
 卑怯な質問だ。嫌いとは断定できない程度の仲で、それを聞いてくるのはずるい。面と向かって嫌いと言えば刀真が傷つくだろうと思う程度の情が幸人にあることを、刀真は見抜いている。そして望む答えが出るまで、きっとこの男は諦めないだろう。

「……別に、嫌い、じゃない」
「じゃあ付き合って、幸ちゃん。大丈夫、別に何も変わらないよ。一緒にいる時間が増えるだけ。幸ちゃんの勉強の邪魔はしない。そうだ、幸ちゃんの苦手な物理、教えるよ。勉強会お家デート、なんてどう?」

 押し切られそうになる。刀真の言う通り、何も変わらない気がする。付き合うと何がどう変わるのか。経験のない自分には具体的にイメージできないが、一緒に遊んだり、勉強したりするなら今までとさほど変わらない気がした。それなのに、一度付き合えばもう幼馴染には戻れなくなるだろうという予感があった。怖い。そう思うのは初めて誰かとの関係性が変わることに対する未知への恐怖、なのだろうか。

「……何も変わらないというなら、別に今のままでも、いいだろ」
「幼馴染のままで? それだと稀薄なんだ。いつか途切れるかもしれない」

 刀真は目を細めて、窓の方を見つめる。外では相変わらず音があふれていて、眩しい。ふわりと風がカーテンを揺らして、広がったカーテンが二人の間を遮る。

「もう幼馴染は嫌だ。幸ちゃんにはこれからずっと俺のことだけを好きでいて欲しい」
「…………っ」

 好きだとか。そういうことは、まだよく分からない。刀真を好きになる理由が見つからない。淡い好意は確かにあるけれど、『好き』というには何かが足りなくて。その足りない何かが分からないから、刀真の気持ちに応えることができない。

「俺のことは嫌いじゃないけど好きでもない。そうだよね、幸ちゃん」

 刀真はまるで幸人の思いを見透かしたように、ぽつりと呟いた。彼はまだ窓の外に目を向けていた。

「俺たち、もう高校生だから。みんなで仲良く遊んで楽しいなーっていう時期は終わったんだ」

 刀真の言わんとしていることは分かる。いつまでも無邪気な子供のままではいられない、ということだろう。だが、その真意は分からない。刀真はどうしてそんな話をし始めたのか。

「だからね、言い方は悪いけど幸ちゃんを確保しておきたいんだ。幸ちゃんが誰かと付き合うかもしれないから。それは嫌なんだよ、俺」
「誰かと付き合う? こんな僕と? 考えすぎだ、僕に告白しようなんて物好きは君ぐらい……」
「それは幸ちゃんが知らないだけだよ」

 刀真が語気を強めたので、幸人は少し驚いた。よく見れば、彼の形のよい唇は引き結ばれており、怒りを押し殺したような、今にも泣きそうな、そんな張りつめた表情をしている。

 確保する。それは幸人が刀真をどう思っているかに関係なく、誰かに取られる前に付き合いたいということなのだろう。だが、刀真にそう思わせるほどのものを、自身が持ち合わせていると幸人には到底思えなかった。

「どうして……そんなに僕にこだわる。君になんの得が……」
「得とか損とか、そういうことじゃないよ。そういうのがなくても、ただ一緒にいたいだけ」
「それ以前に……僕と君は釣り合わない。だから」
「……釣り合わない?」

 低く唸るような声。こんな声で刀真が話したのは初めてだった。ないこと尽くしの異常事態に、体が強張る。視線だけ動かして見た時計は十五分しか経っていなかった。たった十五分。この教室だけ時の流れが止まっているとしか思えない。幸人が淀んだ空気を無理矢理飲み込めば、喉はごくりと音を立てた。

「幸ちゃんと俺が? 幸ちゃんがそう考える根拠は何?」
「……僕は君みたいに賢くもないし、運動神経もよくない。読書が趣味の一般人だ。君と僕の間には天地ほどの差がある」
「よく分からないな。その理論だと同じぐらいの能力値同士じゃないと付き合えないってことになるけど、付き合っている人たちは必ずしもそうとはいえないよね?」
「…………っ」

 もうだめだ。どんどん追い詰められている。どうにかして躱そうとしても、刀真はどこまでも追いかけてくる。
「……こんな俺は、嫌い?」

 べったりと張りつくような好意。狂おしいほどの独占欲。強く巻きつく執着。息苦しくなるほどに、刀真に好かれている。思いが重い。だけどそんな聞き方をするしかない必死さも、拒否されたくない、受け入れて欲しいという思いが透けた健気さも嫌いじゃない。こんな自分にまっすぐな好意を向けてくれるひたむきさが好ましい。だけど、何かが足りない。自分の気持ちに嘘はつけない。そんな思いを何とか言葉にして伝えたかった。

「……正直、まだ早崎のことを好きと言えるほどの好意はない。僕の中ではまだ幼馴染だから。好きというにはまだ何かが足りない気がする。でも嫌いじゃないことは確かなんだ。だから僕がその何かを見つけて、君に好きだと言えるまで待ってくれないか」
「分かった。幸ちゃんが俺のことを好きだって言ってくれるまで待つよ」

 刀真は張りつめていた表情を緩めて、柔らかい笑顔を幸人に向ける。その顔を見て、幸人も体の力が抜けるのを感じた。教室の時間がゆっくりと確実に動き出す。

「……それで、その、君を好きになる理由を、探すために」
「うん」
「付き合うのが、一番いいと思う……けど」
「……けど?」
「その前に僕の個人的な願いを聞いてくれるか?」
「…………こ、個人的な、お願い」

 好きな人に願いを聞いて欲しいとねだられて、拒否などできるはずもない。しかも、恥ずかしそうに上目遣いでお願いされたとあってはなおさら。幸人にそういう恋愛面での駆け引きができないことを知っているだけに、刀真はすぐに快諾したのだった。