五月下旬、プール開きを行うための掃除当番に選ばれてしまった俺は、ホースから勢いよく出た水をぶっかけられ、ずぶ濡れである。
すべてのきっかけは坂口にある。和田が学級委員長の山本にプールの掃除を手伝ってほしいと頼んでいるのを、俺達三人は傍で聞いていた。明日の放課後、山本の友人数名を誘ってプールに集合。タオル等は持参してほしい。一時間も掛からない。終わったらアイスを奢る。と和田はペラペラ喋り、山本を困らせていた。彼女は、「私は良いですけど、急に明日プール掃除を手伝ってって友達に言うのはちょっと。…しかも放課後になんて、少し気が引けます」と眉を下げてやんわりと断っている。
そんな山本に惚れている坂口は、俺と矢島に断りも無く「じゃあ、俺たちがやるよ。先生、山本困ってますよ。見て分かりませんか?」と強気に入り込んでいった。和田は怪訝そうな顔をして坂口を見るも、山本は心底ほっとしたように表情を緩めた。坂口は普段の苛立ちを発散させるように和田に喰ってかかった。和田も掃除を志願してくる生徒がいるにも関わらず、山本に押し付けるわけにもいかないため、あっけなく折れた結果、俺たちがプール掃除を行うこという結論に落ち着いた。
山本に非常に感謝され、坂口はデレデレと笑っていた。坂口が本当に嬉しそうだったこともあり、俺も矢島も特に何か言ったりはしなかったが、実際、三人で掃除を行うとなるとカオスになる予感しかしなかった。山本も手伝うと志願してくれたが、格好つけたい坂口がきっぱりと断ったため、完全に収集がつけられない現場と化するだろうとため息を吐く。勿論、予感は的中した。
途中までは良かった。放課後、部活をサボった矢島と三人でプール場へ向かい、和田の言われた通りブラシで適当に磨きながら、水を撒いて流すことの繰り返し。今は部員がいないため活動していないが、本校には水泳部があり、その名残か屋内にプールがある。想像よりも清潔に保たれていて、変に気合を入れなくとも直ぐに作業が終わりそうなことと、直射日光が当たらないことに関しては救いだが、屋外ではないため、他人の目が届かない。和田も、山本がこの場には来ないため、俺たちのためにわざわざ足を運んだりはしないだろう。気持ちが悪いほど分かりやすいが、和田の狙いは最初から山本一択なのだ。健康男児が懸命に掃除をしている様には全く興味が無いらしい。つまり、俺たちがどれだけ騒いでも無法地帯というわけだ。
恐ろしい出来事は、坂口の昨日の行動原理を弄りながら意外と楽しく掃除を始めた三十分後に起こる。山本が此処まで来て、お礼にとスポーツドリンクを差し入れてくれた。一番彼女に近かった俺が代表して受け取ると、彼女はスポーツドリンク三本が入ったビニール袋とは別に、俺に一本別の容器を手渡してくる。受け取ると、それは俺が良く飲んでいる缶コーヒーだった。「自動販売機でみんなにスポーツドリンク買ってたんだけど、間違って最初にコーヒーのボタン押しちゃって。新山くん、これ良く飲んでるの見たことあったから。私、コーヒー飲まないし良かったら貰って」と説明され、ありがたく頂戴したのがまずかった。坂口に「なんでお前だけ?」と詰め寄られ、山本に説明された通りに伝えても「缶コーヒーとスポドリの場所、全然違うじゃん!」と大声で叫んだ。「まあまあ、山本さん、坂口にすっごく感謝してたよ?」と矢島も宥めようとしいたが、坂口を止めることは出来ず、「狡い!イケメン滅べ!!!」とホースを向けられた俺は、数度避けはしたものの、坂口のホース対俺のバケツでは分が悪く、結果、勢いの良いホースから噴射される水を大量に浴び、体操服は無論、下着までやられてしまった。容赦ない坂口の攻撃に矢島はゲラゲラ笑い、もう一本のホースをお助けアイテムの様に俺に差し出しては「彩季、やっちゃえ~!」とすぐに遠くへ避難し、俺と坂口の対戦を見守っている。自分は危険地帯に入ろうとしないとところは良く徹底されていて、憎ましく思えたが、矢島の事など気にしていられない。俺と坂口は、夏休みの小学生の様に笑ったり叫びながら水を掛け合った。矢島の「そろそろやめようね。一時間以上経ってるよ」という声掛けがなかったら一生続いていたかもしれない。
結論から言うと、子供心を擽られ楽しかったのだが、ずぶ濡れの俺と坂口の間に、乾ききった矢島が居るというカオスな状況が出来上がり、何故か最悪なタイミングで様子を見に来た和田に叱られる事となった。
与えられた罰は大したことが無く、坂口は、来週和田が授業で使うという資料のプリントの手伝い、俺は和田が資料室から取り忘れた資料を再び持ってくるようにと命じられた。矢島は被害者ぶり、俺は止めたと和田に擦り寄っていたため罰を与えられなかったのだけは気に喰わない。傍観しながら心底楽しんでいたくせに、本当に此奴は狡賢い。坂口は、大嫌いな和田に命令されて眉間に皺を寄せていたが、自分が蒔いた種であることも十分理解していたため、大人しく従うようだ。
思いの外、プリントする資料の種類が多そうだったため、結局矢島は坂口の手伝いをすることとなり、俺は資料室の鍵を右手の人差し指に引っ掛け、くるくると回しながら資料室へと向かった。
資料室に世話になることが多いな、と足を運びながら思う。四階に到着し、資料室に向かうために長い廊下を歩いて行った。首にかけていたタオルで髪をがしがしと乾かしながら、一年の教室の前を素通りしていく。一組と二組は真っ暗だったが、三組、瀬爪の教室には灯が付いていた。勉強熱心の奴が居残りしているのか、と気になって通り過ぎるついでに中を覗くと、そこには良く知る人物がいた。瀬爪だ。
あまりの衝撃に、くるくると回していた指の動きを止めてしまい、遠心力が働かなくなった鍵は廊下に落ちて、金属と固いコンクリートがぶつかる音が廊下に響く。
ヤバイ、と鍵を拾いながら思った時にはもう遅い。音のした方へと反射的に振り向いた教室の中にいる生徒二人の視線が、俺に突き刺さった。
「新山、先輩?」
瀬爪の声が鼓膜を揺らす。
「瀬爪くんの知り合い?…あ!この前迎えに来てた先輩でしょ!」
「ああ、よく覚えてるな」
「えへへ~、記憶力良いんだ!」
続くように聞こえる甲高い声は、女子生徒のものだった。放課後の教室で二人、残って何をしていたのだろう。
「あ~…瀬爪。奇遇だな?」
なんと返していいか分からす、良く分からない言葉を口にしてしまう。席を立ち此方にパタパタと近寄って来る瀬爪を避ける様に「用事あるんだわ、またな!」と手を振って資料室へと向かった。若干早足になる己にダサいと思いながらも、鍵を回し資料室へ滑り込む。和田に言われたイスラム教にまつわる資料を手に取り、指定されたものかを確認してからすぐに資料室を出て鍵を閉める。さっさとこの場から離れて坂口たちの元へ戻りたかった。
まさか女子生徒と二人きりでいるとは思わず、変な汗が額を伝う。
俺は勝手に、瀬爪が心を開いてくれているのは俺だけだと思い込んでいたのかもしれない。田中と会った時、瀬爪の様子を伺うことを良くしていたが、未だに孤高の一匹狼のようなオーラは健在だと、ついこの間も言っていた。俺はそれを聞いて安心していたのか。そう考えると、自分が優しいどころか欲にまみれた汚い人間のように思える。
資料室のドアノブを軽く捻り、施錠が出来ているかを確認していると、また軽やかな足音が近づいてきた。
「新山先輩」
足音の正体は瀬爪で、俺の方へと駆け寄ってくる。俺の髪が濡れていることに気がついたのか、瀬爪は驚いたように目を開き、俺の肩に掛かっていたタオルに手を伸ばした。
「先輩、どうしたんだ。風邪をひくぞ」
瀬爪はタオルを手に取り俺の髪を拭こうとするも、十数センチほど身長差があるためやりにくそうだった。つま先で立ち、背伸びをしながら懸命に優しく俺の髪を乾かす手が本当に優しい。嬉しいはずなのに、その優しさが今は苦しかった。乾かす手を静止させるように彼の手首を優しく掴む。動きは止まり、瀬爪は俺の言動を窺う様に、綺麗な瞳で見詰めてきた。
「さっきの女の子はいいのかよ」
出た言葉は嫉妬に溢れていて汚かった。ダサいな、と俯く。
「ああ、もう帰った。古文を教えてもらっていたんだ。俺はあれが一番苦手で、」
「仲いいんだな。送っていかなくていいのかよ」
「…俺が此処に居るのは邪魔か?」
質問の意図が分からず思わず顔を上げ、瀬爪を見詰めた。彼は少し表情を硬くし、俺から視線を逸らしてしまう。綺麗で真っ直ぐな視線が逸らされるのは少し寂しい、なんて思うのは都合が良すぎるだろうか。
「邪魔なんて思うわけないだろ、俺は…」
「どこかに行ってほしそうな言い方だったぞ」
「違う、そうじゃない。ただ俺は、折角かわいい子と二人でいる時間、割いちまったなと思って…」
なんて言えば伝わるんだと苛立ち、眉間にぐっと皺を寄せると、瀬爪は俺のタオルをぎゅっと握りしめ、逸らしていた視線を俺へと戻した。俺の大好きな瞳が、俺を映して揺れている。
「俺は、先輩に会いたかった。たまたま此処を通りかかったのが先輩で、嬉しかった」
瀬爪の薄い唇から、低くも高くもない優しい声が鳴る。魔法の様に俺の心に溶け込み、じんわりと温かく包む言葉たちに、胸が苦しくもなった。
「それに、彼奴には良く新山先輩の話をしていたんだ。だから、新山先輩が通り過ぎた時には帰る支度をしていた。俺が、新山先輩と話したいだろうって」
一呼吸おいて、瀬爪は若干俯くと、先ほどより小さな声で呟いた。
「新山先輩にとって俺は、沢山いる、放っておけない後輩の一人だろうが…俺にとっては」
瀬爪の言葉にはまだ続きがありそうだったが、続きを聞く余裕などなかった。生徒が全くいない教室の廊下に、いきなり力が抜けたかのようにずるずるとしゃがみ込む。タオル越しに髪をかき回しながら、馬鹿デカい溜息を吐いた。
俺の行動は予想外だったのだろうか、頭上から「新山先輩?」と不安そうに俺を呼ぶ声が聞こえ、彼もぎこちなく俺に合わせてしゃがみ込む。はあ、ともう一度溜息を吐き、彼に視線を合わせれば、心配そうに揺れる瞳が近距離にあった。
心配なんてしなくて良い。俺は心底お前に夢中だ。
綺麗で真っ直ぐな瞳を見詰め、ゆっくりと口を開く。
「特別だ」
伝われ、伝わってくれと心を込めながら告げる。
「お前は、俺にとって特別だよ。瀬爪」
鼓動が通常時よりも早く脈打つ。一秒一秒が、長く過ぎていくような気がした。真摯に気持ちに向き合い告げた言葉に、視線を重ねるように見つめる。彼の様に美しく真っ直ぐ、綺麗に想いを伝えられる自信は無かったが、それでも視線を逸らすことはしなかった。
ポーカーフェイスが得意の瀬爪の表情が、驚きからなのか目、頬、口元、と徐々に崩れていく。
「…特別、か」
まるで今、俺のために天界から舞い降りた女神の様に、慈悲深い笑みを瀬爪は浮かべる。抱きしめたいと全身が震えたが、誤魔化す様に立ち上がった。
「一緒に帰ろうぜ、瀬爪。この本、和田…担任のとこに持っていかなきゃなんねぇから、ちょっと待てるか?」
「分かった。俺も一緒に行く」
瀬爪の返事を聞き、共に和田のところまで戻れば「遅かったな」と嫌味の様に言われた。和田の上からな態度に苛つきながらも資料集を渡す。坂口、矢島も任された仕事は二人で取り組んだからか既に終わっており、「お前、資料探すの下手?」と坂口に軽く揶揄われた。矢島は遠くで俺を待っていた瀬爪を見つけ、ニヤニヤと笑いながら「やるねぇ、彩季。俺達、先帰ってればよかった?」と別の方向から揶揄ってきて、思わず耳を塞ぎたくなる。
俺が戻って来るのを待っていてくれた二人に対して、瀬爪と二人で帰りたいから別々に帰ろう、なんて到底言うことが出来ず、四人で帰ることになった。
坂口は瀬爪に興味津々であり、俺を差し置いて隣を保ち、一方的に話をしている。瀬爪も嫌がる様子は無く、坂口の話に相槌を打ちながら時折微笑んでいた。坂口の話は面白いし、心地いい程度の自虐ネタを挟んでくるため、笑みがこぼれるのも分かるが、どうしてもモヤモヤする。
「彩季、眉間に皺。怖い怖い」
隣に居た矢島に指摘されるまで眉間に皺が寄っているなんて気がつかなかった。「マジ?」と矢島の方を向けば、真顔の矢島が「マジ。超顔怖かった。鬼かと思ったよ」と返してくる。
瀬爪と坂口が仲良くなることは嬉しいが、俺よりも仲良くならないでくれという焦りが同時に生まれる。坂口は俺よりも優しくて良い奴だ。人の懐に入るのも自然で上手い。
「修二は馬鹿だから、空気読まないよね。本来なら、俺と修二、彩季と瀬爪くんってペアになるはずなのにさ」
四人横一列で歩けるほど広くない歩道で、二人ずつ歩くのは仕方がない。坂口の行動が速すぎて、あっという間に瀬爪の横を奪われてしまったのは俺の落ち度だ。坂口と瀬爪は程よい距離感を保ちながら、二人だけの空間を作り上げている。
「矢島さん、坂口をお前が引きはがしてくださいよ」
俺の味方だよな、と矢島に視線を送れば、彼はニヤニヤと笑いながら、後頭部で手を組み、背を逸らしながら口笛を吹く。
「彩季のその顔、面白いから今日はこのままのペアで」
そう言って笑う矢島の顔を見て、思わず肩を落とす。矢島は自分が楽しい事に忠実であり、俺がモヤモヤと嫉妬心を抱いている様を見ているのが愉快で仕方がないのだろう。
「まあ、彩季は心配しなくていいよ」
どこからその根拠が生まれたのか謎だったが、最終的に俺は矢島に、瀬爪の可愛さを語っていた。矢島がそんな俺の話を聞いて楽しそうに笑いながら「近所のお姉さんの話、もう必要なくなったね」と言った瞬間は全身が震え、体が火照った。
「…やっぱ俺、彼奴のこと好きだよな」
「今更?まあ、本人も横に居る馬鹿も気づいてないと思うし、黙っておくよ」
自覚が全くなかったわけじゃないが、瀬爪は同姓で可愛い後輩であり、守ってやりたいだとか、構ってやりたいだとか、いろんな感情が芽生えていたため、はっきりと名をつけることをしなかった。矢島の一言で認めざるを得なくなった俺の恋心編、新連載開始といったところか。完全創作の恋愛物語は今日で打ち切りにしよう。
矢島と話しながら、少し前を歩く瀬爪の背中を見詰める。小さいのに、誰かを守ろうとする逞しい背中。その背中を、今後は俺が傍で守ってやれたらいいなと思う。
「応援してるよ、俺。彩季、頑張って」
に、っと歯を見せて笑った矢島は俺の背を、気合入れだ!と言って思い切り叩く。流石に大きな音に驚いたのか、二人は何事かと此方を振り返った。
「今の音、何?」
「彩季に気合い注入したんだよ」
矢島が笑いながら坂口の問いに答える。俺は苦笑いを浮かべながら相槌を打つも、他に誤魔化し方あっただろうと内心呆れた。
「結構、痛そうな音だった」
瀬爪が俺に近づいてきて、心配そうに見つめている。軽く俺の背に掌を当てて、優しく撫ぜてきた。役得だ、と思わずにはいられない。
「大丈夫、心配ありがとな。そういえば、瀬爪って古文苦手って言ってたっけ?」
瀬爪に話を振り、そのまま会話の話題を変える事に成功する。先ほどまで瀬爪に熱中していた坂口は、矢島の発した「気合入れ」が気になったのか、「俺も山本にもっとアピールできるように気合入れてくれ!」と矢島に懇願している。見事に矢島はめんどくさい、とかわしつつも坂口の相手を引き受けてくれるようだ。
矢島ナイス。お前はやっぱり俺の味方だな。
後ろから聞こえる坂口と矢島の声が妙な安心感を俺に与えてくれる。その後も、坂口に邪魔をされることなく、瀬爪の横を最後まで保って俺は電車を降りた。
明日もまた瀬爪に会える。それだけで朝日が昇るのが待ち遠しい。キラキラと輝く夕焼けを写真に撮り、淡く包み込むような橙が、瀬爪の優しい人柄を表している様でとても美しかった。