放課後はあっという間に訪れた。窓の外を見ると、大分小雨ではあるが、まだ雨は降り続けていた。
坂口と矢島には、予め今日は別で帰ると伝えている。素直に、瀬爪と帰る約束をしていると伝えようと思ったが、矢島はともかく坂口は、「じゃあ、みんなで帰ろうぜ!」と余計な事を言い出しそうだったため、彼の嫌いな担任、和田に用事があると嘘をついた。いずれこの嘘はバレるだろうが、その時はその時で対処すればいい。矢島が深く突っ込んで来なかった事に違和感は残るものの、「修二と二人とか、今日は俺が世話しなきゃじゃん」と坂口を揶揄う表情と声色は楽しそうだったため、特に心配はしなくて良いだろう。また矢島お得意の坂口弄りが始まるな、と俺も笑った。案の定、坂口は「なんでお前に世話されなきゃいけないんだよ!」と突っかかって来たため、予想通りの展開に、矢島も俺も、声を上げて笑ったのが昼休みの話だ。
HRが終わってすぐ、二人は先に教室から出て行ったため、俺も続くような形で教室を出る。本校は、一年が四階、二年が三階、三年が二階に教室がある。故に、三年が四階に居るのは大分アウェイなのだが、迎えに行くと言った手前仕方がない。四階には移動教室と呼ばれる音楽室や美術室なんてものは全くなく、一年の教室の以外に小さな社会科資料室があるだけだ。社会科教師は出入りするが、生徒が入ることはほとんどない。
四階に足を踏み入れるのなんて久しぶりだ。懐かしいなと階段を上っていると、ダッシュで階段を下るわんぱくな一年児とすれ違う。転ぶなよ、なんて声を掛けそうになりながら、俺もこの階段で坂口とどっちが先に一階に辿り着くか競争していたな、と思い出した。矢島はくだらない勝負など、やるより見る派の人間であるため、いつも最終地点にスタンバイしては俺たちの勝負の行方をニヤニヤと見守る係だった。負けた方を煽ることも忘れない。相変わらず、イイ性格をしている。
三組の前まで足を進めるも、たった今、HRが終わったのか、前方後方、両扉から生徒たちが波の様に教室から出て来るため、邪魔にならないように教室の中の様子を遠目で覗く。
一人でぽつんと座っている瀬爪の姿を想像したが、彼は前の席に座っている女子生徒と何やら会話をしているようだった。遠いため、会話の内容は全く聞こえないが、相手の女の子が笑顔で楽しそうに話しているため、必要最低限の業務的会話ではないことが伺える。瀬爪に話しかけるタイミングを失い、彼らの話がひと段落するまで廊下で待っていようと視線を逸らしかけた時、瀬爪が此方を見た。綺麗な瞳だな、と何度見ても思う。
軽く片手を挙げて視線に応えれば、瀬爪は立ち上がった。一緒に話していた彼女も此方を見詰めているようだったが、その姿はぼやけて見える。俺の方へと徐々に近づいてくる瀬爪にしかピントが合わないせいか。
「先輩、本当に来たのか」
「なんだよ、来ちゃ悪いか?」
開始一番、疑うような瀬爪の台詞に、多少の嫌味を込めて返答するも、瀬爪は首を横に振る。
「いや、もう少し来るのが遅いか、昨日一緒にいた人たちも連れて来るかと思った」
「坂口たちの事?彼奴らは煩いからお留守番。二人じゃ不満か?」
「不満なんて無い」
「なら良かった」
行こうか、と足を進めようとしたとき「瀬爪くん」と彼を呼ぶ可愛らしい声が聞こえた。声の主は、恐らく先ほどまで瀬爪と話していた女子生徒だろう。
「また明日ね」
彼女は瀬爪を見詰め微笑むと、俺に会釈をして友人たちと昇降口へと続く階段へ消えていった。今のはただの挨拶か、それとも牽制、なんてのは考えすぎか。
「仲いい子?」
堪らず彼女の後姿を見ながら問いかける。
「今日初めて喋った。あまり良く知らない」
瀬爪は淡々と答え、俺より先に一歩足を進めた。特別仲がいい相手ではないと知って安堵した。逆に、さきほどの彼女が瀬爪に「さっきの先輩、仲いいの?」と問いかけたとしたら、瀬爪はなんて答えるだろう。「良く知らない先輩」だと返答されたら悲しいな、と苦笑いを思わず浮かべた。
薄暗い空から降る雨。二人並んで話して歩くのに、傘は邪魔だろうなとぼんやり思う。懐かしい廊下を瀬爪と並んでゆっくり歩いていると、丁度、一組から出てきた人物とぶつかりそうになり、慌てて避ける。
「っと、すまないねぇ…。ありゃ、新山くん?」
目の前に現れた腰の曲がった白髪の男は、昨年度、俺のクラスの担任をしていた社会科教師、大川典昭だった。
「大川先生!今、一年の担任なんスか」
「そうじゃよ。おや、瀬爪くんもおったのか」
瀬爪は無言だが、会釈はしているようだ。大川先生はニコニコと笑っている。
「ああ、新山くん、丁度良い。社会科資料室の棚の一番上に段ボールが三箱あるんじゃが、降ろしてもらえんか?恥ずかしながら、この腰じゃ届かんくて」
腰を擦りながら苦笑いを浮かべる大川先生の頼みを断るわけにもいかない。俺は「お安い御用ですよ」と笑って見せれば、大川先生は調子に乗ったのか、「ついでに、その段ボールの中から、十五世紀の世界地図を探してもらえるととっても助かるんじゃが」と別の依頼まで追加してきた。普段なら二つ返事で了承するも、今日は瀬爪がいる。本音を言うなら、二人で帰りたかったが、仕方がない。先生が俺を頼ってくれることは素直に嬉しいし、二年時、世界史留年がほぼ確定していた、馬鹿すぎる坂口を救ってくれた大川先生には借りもあった。
瀬爪が此方を見詰めていて、俺の回答を待っているのがひしひしと伝わってくる。彼と視線を合わせたら、大川先生の頼みを断ってでも彼と帰りたくなりそうだ。彼と視線は合わせぬまま「任せてください」と了承する。先生も心からの感謝と、後日礼をするとにこやかな笑顔を見せた。
「瀬爪悪い、遅くなるかもしれないから今日は」
「俺も手伝う」
瀬爪の声はやはり曇りがなく綺麗だ。驚く俺を差し置いて、大川先生は「瀬爪くんならそう言うと思ったぞ」と高らかに笑い、社会科資料室の鍵を俺ではなく瀬爪に渡した。
「地図が見つかったら分かりやすい場所に置いておいてくれ。鍵も同様に。閉めんで帰っていいからのう」
大川先生は伸びやかな声で俺たちに告げると、腰を擦りながら階段へと向かって行った。
「瀬爪、良いのか?」
「約束は、守るためにあったほうが良いだろ?」
瀬爪は社会科資料室の前に着くと、慣れた手つきで鍵を開ける。ふわりと漂う古本屋のような香りに包まれながら、壁にあるスイッチに触れ、電気を付けた。
「新山先輩との約束を、俺は守りたい。人助けも出来て一石二鳥だ」
瀬爪は俺を入り口に取り残して、どんどん先へと歩いていく。段ボールが積まれた棚の前に立ち、此方を振り返って、あの真っ直ぐな視線で俺を見詰めた。
「だから、一緒に帰ろう。先輩」
敵わないな、と小さく呟いた。きっと、彼には聞こえていないだろう。
「おっしゃ、任せろ。さっさと見つけて、先生びっくりさせてやろうぜ」
「ああ」
瀬爪の相槌を耳に入れ、彼の身長では届きにくいであろう棚の上の段ボールに手を伸ばし、思ったよりも重いその箱を計三つ、机の上に並べた。
「地図、ホントにあんのかよ…」
「こっちにはない。意外と見つからないもんだな」
数分で終わると踏んでいたこの作業に終わりが見えない。中には地図という名の紙切れが大量に入っており、昭和元年作成の日本地図が一番上に入っていた時は、この箱に世界地図はないだろうなと呆れるように手に取った。しかし、最悪だったのが、日本地図の下にあった地図は中国の地図、その下にあったのは何処の国かも分からない小さな国の地図、と箱の中身はランダムで規則性が無い。すぐに見つかればいいものの、一番下にあったら面倒だと思わざるをえなかった。
「せめて国ごとに纏めるとかしておいてくれりゃ探しやすいものを…」
一枚一枚地図を取り出し、何処の国のだ?と首を傾げる。日本、中国、アメリカなんかはまだ分かりやすいが、他はさっぱりだ。さっさと見つけてしまいたいため、じっくり手に取って地図と睨めっこをする必要は無いのだが、なかなか見慣れないものを目の前にすると思わず作業の手を止めてしまう。
俺と違って、瀬爪はもくもくと作業を進めていた。違うものはすぐに省き、世界地図があれば年号を確認して、また省く。そんな瀬爪の手元をぼんやりと眺めていたら、効率よく作業をこなしていた瀬爪が一枚の地図を手に取った瞬間、その地図を凝視し作業を止めた。
「あったのか?」
数多の地図の中から目的のモノを見つけ出したのかと思い近寄れば、瀬爪が持っていたのは世界地図ではなく、とある国の地図の様だ。なんの特徴もない地形。この形は見たことが無い。右上に記載されている国名に目を凝らす。少し古いものなのか、色褪せ掠れた文字で[Bhutan]と書いてあった。
「ブータン?」
瀬爪に問えば、ゆっくりと頷いた。
「母の故郷だ」
「へぇ、お母さんの…ってことは、瀬爪ってハーフ?」
驚き、少し大きな声が出てしまうも、瀬爪は気にした様子はなく普段通り頷いた。
「ああ、一応。ブータンもアジアだからな、顔のつくりは日本人とか中国人と変わらない。あんまり気が付かれないが、たまに肌の色とか、目の色で言われる」
瀬爪は自身の腕の色を見る様に、長袖のカッターシャツを捲り数秒眺めた後、俺の方を見て「新山先輩は真っ白で綺麗だな」と笑った。
言われてみれば、運動部に所属していないにも関わらず、こんがりとした健康的な肌の色をしているし、美しいアーモンド色の瞳は、日本人離れしたものを感じなくはなかったが、綺麗だな、と思うくらいにしか思わなかった。
自分のちっとも進んでいなかった作業を俺は完全に止め、瀬爪の真横にあった椅子に腰を下ろす。
「へぇ、ブータンか。瀬爪は行ったことあんのか?」
「ある、というか、住んでいた。日本に戻って来たのは今年の春だ」
「おいおい、マジかよ」
瀬爪は手元のブータン地図の左中央の辺りを指さし「この辺に住んでいた。栄えていた方だが、日本に比べたらまるで月とスッポンだ」と懐かしむように微笑んだ。
「瀬爪が育った場所か、行ってみたいな」
一体どんな場所なんだろう。知識は間違いなく浅はかであり、中国といったら万里の長城、みたいなシンボルも全く思いつかない。しかし、瀬爪の人格を育てた場所が、荒れ果てた様な場所だとも思えない。きっと皆が温かくて素敵な場所なんだろう。
「生まれたのは日本?」
「ああ。小学校に上がるタイミングで向うに行った。父が死んで、母が故郷に戻りたくなったらしい」
「…お父さん、亡くなってたのか」
なんと言葉をかけていいか分からず、思わず視線を地図へと逸らす。大変だったな、よく頑張ったな、と労うことは簡単だったが、そんな軽い言葉で受け止めたくなかった。瀬爪の声に集中するように、大きく深呼吸をして彼の方をもう一度見つめる。
「母さんは死人のようだったな。今もだが、最愛を失う悲しみに囚われている」
「そっか。そうだよな、辛いよな…」
自分の愛する伴侶が、どんな形であれ命を落とす事に悲しまない者など居ないと思おうが、瀬爪の母親は、俺が想像するよりも苦しみ、絶望に陥ったのだろう。聞いている此方の胸が痛くなるような話だが、俺に大事な家族の話をしてくれるのか、と優越感のような感情が沸いてしまい、自分自身を殴りたくなる。
このまま瀬爪の過去に少しずつ触れて、彼の心の拠り所になれたらいいなとも考えたが、自分から更に深いところまで、過去を抉る様に尋ねるのは綺麗なやり方ではない。瀬爪が俺になら話したい、と思う日まで待とう。現に、瀬爪はもう口を開こうとはしない。
「でもお前、九年くらい向こうにいたんだろ?それにしては日本語上手すぎじゃ…」
話題を若干逸らす様に変えれば、瀬爪はブータンの地図を机の端にゆっくりと置き、作業を再開させながら口を開く。
「家では日本語で会話をしていた。父との思い出が詰まった日本語を、母は忘れたくなかったらしい。俺も日本の映画やドラマは見ていたからな。普通に喋れるんだが、皆の様に柔らかく喋るのは苦手だ」
「あ。だからお前、敬語使わないのか」
納得した、と頷けば、瀬爪は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「…すみませんでした」
「ぷ、はは。良いって。普段通り行こうぜ。言葉を丁寧にしなくても、敬ってる気持ちとかは態度で分かるもんだしさ」
カタコトまではいかないが、先ほどまで流暢に喋っていた瀬爪が、急に日本語に不慣れな外国人留学生のような喋り方をしたため思わず笑う。敬語が苦手で、表情も乏しい。言いたいことは割とはっきり言えるのに、必要最低限で要約してしまうから、彼の思いが上手く相手に伝わらないことが多々あっただろう。それでも良い。瀬爪の純粋で澄んだ優しく逞しい心は、俺が分かっていればいいのだ。
「先輩、でも」
敬語に対して少しは思うところがあるのか、何か訴えようとする瀬爪を静止するように先に俺が口を開いた。
「瀬爪はそのままでいいだろ。俺はお前のそういうとこ含めて好きだからさ」
照れくさい台詞を口にしてしまったな、と誤魔化す様に笑えば、瀬爪は綺麗な瞳孔を更に丸くした。空気が一瞬緊張するも、その緊張はすぐにふんわりと解けて、彼は優しく微笑んだ。
「俺は、先輩のそういう優しいところが好きだ」
瀬爪の言葉は、本当に真っ直ぐで眩しい。「ありがとな」と軽く返答しながら、目の前にある段ボール箱から地図を漁る。
直球ストレートで勝負されると、瀬爪相手に勝つことなど一生できない気がする。俺が彼の心に響くように言葉を考えて贈ったとしても、瀬爪から発されるなんの曇りもなく素直な言葉に完敗する未来しか見えない。
「なかなか見つかんねぇな…」
話題を変えなければ、ボロが出そうで必死に地図を漁る。無いな、と言った傍から直ぐにお目当ての世界地図が見つかってしまい、嬉しいような、瀬爪と共に過ごした小さな空間でのひと時が終わってしまうのが悲しいような、そんな曖昧な感情に支配された。
「あったのか?」
「あ、おう。あった」
地図を広げ、瀬爪に見せる。十五世紀末と記載されているのを二人で確認し、散らかった地図を元の箱の中へと片付けた。ブータンの地図も名残惜しかったが、さっさと片付けようとした瀬爪の手を掴み、「折角だし、埋もれないように一番上に入れようぜ」と提案する。瀬爪は、ほんの僅かに頬を緩ませ、嬉しそうに頷いた。
段ボールに綺麗に地図を直した後、頼まれた世界地図は分かりやすい場所に広げて置く。
「帰ろう、先輩」
「ん、帰るか」
任務は達成した。鍵は閉めないでいいと言われていたため、開けっ放しのまま資料室を後にする。数十分程度しか経っていないが、その間に外の雨は既に止んでいるようだ。
瀬爪と穏やかに話をしながら階段を下り、昇降口へと向かう。運が悪いのか、前を歩く男子生徒二人の声が耳障りなほど煩く、会話に品が無かった。聞かないようにしたいが、汚い話を耳が拾ってしまう。彼ら自身の親の悪口、容姿を蔑む言葉や、下品な笑い方に思わず眉を顰めてしまう。
瀬爪の様子をチラリと窺えば、表情は普段通り無表情だが、若干歩くスピードが速くなっている様に感じる。早く抜き去ってしまいたいのかもしれない。
結局、男子生徒二人組は自分たちの話に夢中で、迷惑だと後ろから視線を送っている俺達の存在など全く気がつかない。一年のロッカーに向かったため、漸く彼らの学年が知れた。どうやら三組の生徒らしく、ロッカーから靴を放り投げる様に置くと、靴を一切目視することなく適当に履いて、すり足で傘立てに近寄っていった。
三組の傘立てには、傘が計五本残っており、そのうちの三本がビニール傘だった。二本のビニール傘は雑に畳まれているのに対し、端に置かれた瀬爪の傘だけは、美しくそこに立っている。一人の男子生徒は紺色の傘を手に取り、もう一人も傘に手を伸ばす。下品な話に夢中な彼は、ノールックで傘を掴む。その傘は汚く畳まれていたものではなく、綺麗に畳まれて新品のように置かれていた瀬爪の傘だった。すぐに気が付くかと思ったが、男子生徒はそのまま手に持ち、帰ろうとしている。
「おい、お前」
気がついた時には、男子生徒の肩を掴んでいた。怪訝そうな顔で此方を見てくる二人に、俺も眉間に皺を寄せ、傘の持ち手を強引に掴む。
「この傘、お前のじゃないよな?」
「は?」
初めて傘の存在を気にしたのか、俺から傘へと視線を移すと、「ほんとだ」とあっさり口にした。
「あれ、俺のじゃないわこの傘」
「窃盗じゃん!ウケる!お前がこんな丁寧に傘畳んでたら病気かどうか疑うわ」
「はあ?ひっでえ!…あ、傘返します、すんません」
俺に瀬爪の傘を押し付ける様に渡すと、残りの二つの傘をしっかり確認した後に、己の方を手に取って二人は歩いて行った。裏門の方へと進んで行ったため、恐らくバス通学だろう。駅まで一緒、なんて最悪な事は無さそうでほっとした。
瀬爪は何も言わず、ただ一連の流れを見ていたようだ。
「ほら、傘。つか、お前が動けよな。なにボーッとしてんだよ」
傘を差し出すと、彼は無言で受け取った。両手で傘の持ち手部分を持ち、じっと見つめている。本当に何を考えているのかよく分からない。
動き出さない瀬爪を一旦置き去りにして、自身のロッカーへと向かい靴を履く。適当に畳まれた真っ黒な自身の傘を取って、もう一度、一年の場所に戻る。しゃがみ込んで靴をゆっくりと履く瀬爪を待ちながら、曇り空を見上げた。灰色の空からは今にもまた雨が降り出しそうだ。家に帰るまでは待ってくれよ、と誰に願っていいか分からぬ願い事をしていると、横に瀬爪がやって来る。
「先輩、別に俺は傘にそこまで拘りは無いぞ」
口を開いたかと思えばそんな台詞か、と苦笑いする。まずは可愛く礼でも言っておけば良いものの、正直者というか、可愛げが無いというか。
「お前は良いかもしれないけど、俺が嫌だったんだよ」
汚い連中にお前の傘を穢されるのが、と彼らを見下す発言を付け加えようとしたが、飲み込んだ。人を貶す発言を瀬爪は好まないだろう。
「そうか」
「そうですよ、お節介で悪かったな」
少し拗ねたような言い方になってしまい、格好悪かったな、と瞬時に反省するも、瀬爪の表情は緩やかだった。
「ありがとう、先輩」
瀬爪は傘をぎゅっと握り、大事そうに見つめる。その仕草が見れただけで俺の仕事は果たされた。彼の隣に居ると自然と表情も緩む。
不意に、鞄に二つつけているキーホルダーの存在を思い出した。目が合った気がして二つ購入したカメとタツノオトシゴ。実は傘にも付けられるような仕組みになっており、特にビニール傘に目印として付けておくのが主流だと商品紹介のポップに書いてあったような、書いていなかったような気がする。
思い立ったら即行動。鞄についていたカメのキーホルダーを躊躇いなく外し、瀬爪に差し出した。掌に置かれた可愛らしいカメを見て、瀬爪は首を傾げる。
「…カメ?」
「やるよ。昨日買ったばっかだから綺麗だろ?傘に着けてりゃ、お前のだって分かりやすいだろうし」
半ば強引に瀬爪の腕を掴み、受け取らせる。瀬爪は彼の掌に乗ったカメを優しく撫でながら、「貰っていいのか?」と遠慮気味に尋ねてきた。
「ダメだったら最初からやるなんて言わないだろ」
瀬爪は一瞬考えるそぶりはしたものの、最終的には頷き、礼と共に傘にカメのキーホルダーを括り付けた。何処にでも売っているただのビニール傘から一変、見分けがつきやすく、他者からも間違えて持っていかれることも無くなるだろう。
「でも、買ったばかりなのに先輩も変わり者だな。欲しかったから買ったんだろ?」
瀬爪の疑問も無理はない。少し恥ずかしいが、正直に買った経緯を話すことにした。
「昨日、目が合っちまったんだよ」
「…目?」
瀬爪は不思議そうに、瞬きを繰り返しながら俺を見つめる。なんだか可愛くて、そっと彼の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でながら少し視線を上げ、「そう。売り場にいる此奴らと目が合ってさ」と、説明しながら歩き出す。真正面から彼の瞳を見詰めて頭を撫でるのは照れくささがあった。勿論、嫌がられたら咄嗟に手を離そうと思ったが、彼が嫌がるそぶりはない。調子に乗って、そのまま柔らかく癖のある髪の感触を掌で感じながら話を続ける。
「他にも何種類かキーホルダーあったんだけど、此奴らにピンときちゃってさ。欲しくて欲しくて堪らなくなっちまって、気がついた時には購入済み。変な話だろ?」
「そうか」
瀬爪は表情を変えぬまま、カメを見詰め優しく撫でている。瀬爪はカメを撫でており、俺はそんな瀬爪を撫でているという、なんとも奇妙な構図が出来上がっていた。名残惜しいが、彼の頭を撫でる手を止める。
そういえば坂口にも、カメとタツノオトシゴを可愛いと褒められた後、なんで二個買ったんだ?と問われた事を思い出した。両者と目が合ったから、なんて坂口には返したが、きっと理由はここにある。
「瀬爪に渡す運命だったんだろうな」
心なしか、カメも俺の鞄についていた時より生き生きとして見える。
瀬爪は数度カメを撫でた後、俺に視線を合わせ、はにかむように笑った。
「このカメを見る度、先輩の事を思い出せるな」
特に何かを狙って言ったつもりはないのだろうが、あまりの健気な殺し文句に、己の髪をくしゃりと掻き回さずにはいられなかった。
「お前って奴は、ホント…」
「…どうした?」
きょとんとしている瀬爪に「なんでもない」と濁し、別の話題へとすり替えた。好きな教科、スポーツ、好きな色、苦手な食べ物。聞けば彼は惜しみなく答えてくれるし、俺にも同じような質問を返してきた。俺がその質問に答えても反応は微妙だが、毎回律儀に「そうか」「お洒落だな」「いいな」と相槌をくれた。彼の知らない単語をぶつけても、詳細を尋ねた後に「先輩が好きなものは俺も好きになりたい」と健気に言うのだ。真っ直ぐ俺を見詰めながら、嘘も偽りもない透き通った声で。心地いい時間が過ぎてゆく。
まだ話していたいからと、三本、故意的に電車を見送った後、ようやく電車に乗り込んだ。電車に揺れ、移り変わる景色を背景に、俺が坂口達と毎日のように楽しんでいるゲームを彼に教えた。高校生男児の間では結構話題になっているオンラインゲームだが、瀬爪は名前も聞いたことないような反応だった。簡単にゲームの内容を説明すると、楽しそう、やってみたい、という感想よりも先に「難しそうだな」とスマホの画面に釘付けになっているのが、瀬爪らしくて微笑ましいとさえ感じる。
楽しい時間はいくら延長しても束の間。俺の降りなければならない駅に間もなく到着するとアナウンスが入り、直ぐに電車は停車した。
「んじゃ、降りるわ。気を付けて帰れよ」
こくり、と瀬爪が頷いたのを見てから、名残惜しいが電車を降りる。振り向けば、瀬爪は俺をずっと見詰めていた。
「瀬爪」
扉が閉まる間近、彼の名前を呼んだ。一音一音、大切に想いを込めて呼んだつもりだが、どれだけ伝わるだろう。
「また明日な」
瀬爪が目を見開き、口を開いた瞬間、閉まるドアにご注意ください、と機械的な声が駅全体を包み、扉は閉まって電車は動き出した。
瀬爪の声は俺に届かなかったが、彼も「また明日」と返していてくれたら嬉しいなと思う。
そこら中に出来ている水溜まりに足を突っ込んだとしても、きっと笑い飛ばしてしまうくらい機嫌がすこぶる良い。田中曰く、孤高の狼のような存在の瀬爪に、俺の自惚れでなければ今日で大分距離が近づいただろう。嬉しくないわけがない。
家に着くなり、母親が「格好いいって言われた⁉」と未だに髪の事を聞いてくる。鬱陶しいなと思わないでもないが、「当たり前。誰の子だと思ってんだよ」と、遠回しに母親の事も褒めながら部屋へと入る。その後も煩くしつこい声が聞こえてきたような気がしなくもないが、無視させてもらった。今は、母親のお喋りに付き合わず、余韻に浸っていたい。
制服を脱ぎ、ダル着に着替えてベッドにダイブする。この瞬間が、堪らなく好きなのは俺だけではないだろう。真っ白な天井を見上げていると、思い浮かぶのはやはり瀬爪だった。
それにしても。なんだ、彼奴は。なんなんだ。可愛すぎる。
ごろん、と寝返りをうつと、机上に置いた鞄に付いているタツノオトシゴが、懲りずに俺を見詰めていた。まるで、俺の事は最後までお前が大事にしろよ、と訴えてくるようだ。
大丈夫だ、安心しろ。お前の事は責任もって俺が大事にしてやる。
瀬爪と間接的に繋がっているキーホルダーを眺めていると、窓からぼんやりと日差しが差し込んできた。どうやら晴れたらしい。
窓に近づき外を見れば、小さな虹が掛かっていた。手に持っていたスマホで写真を撮り、メッセージアプリを開く。虹が綺麗だぞ、と瀬爪に教えてやりたかった。きっと、彼も同じ景色を見ていると思いたかった。
刹那、俺はとんでもない失態を犯していたことに気がつく。
「…連絡先、知らねえわ」
スマホの画面を控え目に彩る虹の写真が、虚しくも残り続けた。
坂口と矢島には、予め今日は別で帰ると伝えている。素直に、瀬爪と帰る約束をしていると伝えようと思ったが、矢島はともかく坂口は、「じゃあ、みんなで帰ろうぜ!」と余計な事を言い出しそうだったため、彼の嫌いな担任、和田に用事があると嘘をついた。いずれこの嘘はバレるだろうが、その時はその時で対処すればいい。矢島が深く突っ込んで来なかった事に違和感は残るものの、「修二と二人とか、今日は俺が世話しなきゃじゃん」と坂口を揶揄う表情と声色は楽しそうだったため、特に心配はしなくて良いだろう。また矢島お得意の坂口弄りが始まるな、と俺も笑った。案の定、坂口は「なんでお前に世話されなきゃいけないんだよ!」と突っかかって来たため、予想通りの展開に、矢島も俺も、声を上げて笑ったのが昼休みの話だ。
HRが終わってすぐ、二人は先に教室から出て行ったため、俺も続くような形で教室を出る。本校は、一年が四階、二年が三階、三年が二階に教室がある。故に、三年が四階に居るのは大分アウェイなのだが、迎えに行くと言った手前仕方がない。四階には移動教室と呼ばれる音楽室や美術室なんてものは全くなく、一年の教室の以外に小さな社会科資料室があるだけだ。社会科教師は出入りするが、生徒が入ることはほとんどない。
四階に足を踏み入れるのなんて久しぶりだ。懐かしいなと階段を上っていると、ダッシュで階段を下るわんぱくな一年児とすれ違う。転ぶなよ、なんて声を掛けそうになりながら、俺もこの階段で坂口とどっちが先に一階に辿り着くか競争していたな、と思い出した。矢島はくだらない勝負など、やるより見る派の人間であるため、いつも最終地点にスタンバイしては俺たちの勝負の行方をニヤニヤと見守る係だった。負けた方を煽ることも忘れない。相変わらず、イイ性格をしている。
三組の前まで足を進めるも、たった今、HRが終わったのか、前方後方、両扉から生徒たちが波の様に教室から出て来るため、邪魔にならないように教室の中の様子を遠目で覗く。
一人でぽつんと座っている瀬爪の姿を想像したが、彼は前の席に座っている女子生徒と何やら会話をしているようだった。遠いため、会話の内容は全く聞こえないが、相手の女の子が笑顔で楽しそうに話しているため、必要最低限の業務的会話ではないことが伺える。瀬爪に話しかけるタイミングを失い、彼らの話がひと段落するまで廊下で待っていようと視線を逸らしかけた時、瀬爪が此方を見た。綺麗な瞳だな、と何度見ても思う。
軽く片手を挙げて視線に応えれば、瀬爪は立ち上がった。一緒に話していた彼女も此方を見詰めているようだったが、その姿はぼやけて見える。俺の方へと徐々に近づいてくる瀬爪にしかピントが合わないせいか。
「先輩、本当に来たのか」
「なんだよ、来ちゃ悪いか?」
開始一番、疑うような瀬爪の台詞に、多少の嫌味を込めて返答するも、瀬爪は首を横に振る。
「いや、もう少し来るのが遅いか、昨日一緒にいた人たちも連れて来るかと思った」
「坂口たちの事?彼奴らは煩いからお留守番。二人じゃ不満か?」
「不満なんて無い」
「なら良かった」
行こうか、と足を進めようとしたとき「瀬爪くん」と彼を呼ぶ可愛らしい声が聞こえた。声の主は、恐らく先ほどまで瀬爪と話していた女子生徒だろう。
「また明日ね」
彼女は瀬爪を見詰め微笑むと、俺に会釈をして友人たちと昇降口へと続く階段へ消えていった。今のはただの挨拶か、それとも牽制、なんてのは考えすぎか。
「仲いい子?」
堪らず彼女の後姿を見ながら問いかける。
「今日初めて喋った。あまり良く知らない」
瀬爪は淡々と答え、俺より先に一歩足を進めた。特別仲がいい相手ではないと知って安堵した。逆に、さきほどの彼女が瀬爪に「さっきの先輩、仲いいの?」と問いかけたとしたら、瀬爪はなんて答えるだろう。「良く知らない先輩」だと返答されたら悲しいな、と苦笑いを思わず浮かべた。
薄暗い空から降る雨。二人並んで話して歩くのに、傘は邪魔だろうなとぼんやり思う。懐かしい廊下を瀬爪と並んでゆっくり歩いていると、丁度、一組から出てきた人物とぶつかりそうになり、慌てて避ける。
「っと、すまないねぇ…。ありゃ、新山くん?」
目の前に現れた腰の曲がった白髪の男は、昨年度、俺のクラスの担任をしていた社会科教師、大川典昭だった。
「大川先生!今、一年の担任なんスか」
「そうじゃよ。おや、瀬爪くんもおったのか」
瀬爪は無言だが、会釈はしているようだ。大川先生はニコニコと笑っている。
「ああ、新山くん、丁度良い。社会科資料室の棚の一番上に段ボールが三箱あるんじゃが、降ろしてもらえんか?恥ずかしながら、この腰じゃ届かんくて」
腰を擦りながら苦笑いを浮かべる大川先生の頼みを断るわけにもいかない。俺は「お安い御用ですよ」と笑って見せれば、大川先生は調子に乗ったのか、「ついでに、その段ボールの中から、十五世紀の世界地図を探してもらえるととっても助かるんじゃが」と別の依頼まで追加してきた。普段なら二つ返事で了承するも、今日は瀬爪がいる。本音を言うなら、二人で帰りたかったが、仕方がない。先生が俺を頼ってくれることは素直に嬉しいし、二年時、世界史留年がほぼ確定していた、馬鹿すぎる坂口を救ってくれた大川先生には借りもあった。
瀬爪が此方を見詰めていて、俺の回答を待っているのがひしひしと伝わってくる。彼と視線を合わせたら、大川先生の頼みを断ってでも彼と帰りたくなりそうだ。彼と視線は合わせぬまま「任せてください」と了承する。先生も心からの感謝と、後日礼をするとにこやかな笑顔を見せた。
「瀬爪悪い、遅くなるかもしれないから今日は」
「俺も手伝う」
瀬爪の声はやはり曇りがなく綺麗だ。驚く俺を差し置いて、大川先生は「瀬爪くんならそう言うと思ったぞ」と高らかに笑い、社会科資料室の鍵を俺ではなく瀬爪に渡した。
「地図が見つかったら分かりやすい場所に置いておいてくれ。鍵も同様に。閉めんで帰っていいからのう」
大川先生は伸びやかな声で俺たちに告げると、腰を擦りながら階段へと向かって行った。
「瀬爪、良いのか?」
「約束は、守るためにあったほうが良いだろ?」
瀬爪は社会科資料室の前に着くと、慣れた手つきで鍵を開ける。ふわりと漂う古本屋のような香りに包まれながら、壁にあるスイッチに触れ、電気を付けた。
「新山先輩との約束を、俺は守りたい。人助けも出来て一石二鳥だ」
瀬爪は俺を入り口に取り残して、どんどん先へと歩いていく。段ボールが積まれた棚の前に立ち、此方を振り返って、あの真っ直ぐな視線で俺を見詰めた。
「だから、一緒に帰ろう。先輩」
敵わないな、と小さく呟いた。きっと、彼には聞こえていないだろう。
「おっしゃ、任せろ。さっさと見つけて、先生びっくりさせてやろうぜ」
「ああ」
瀬爪の相槌を耳に入れ、彼の身長では届きにくいであろう棚の上の段ボールに手を伸ばし、思ったよりも重いその箱を計三つ、机の上に並べた。
「地図、ホントにあんのかよ…」
「こっちにはない。意外と見つからないもんだな」
数分で終わると踏んでいたこの作業に終わりが見えない。中には地図という名の紙切れが大量に入っており、昭和元年作成の日本地図が一番上に入っていた時は、この箱に世界地図はないだろうなと呆れるように手に取った。しかし、最悪だったのが、日本地図の下にあった地図は中国の地図、その下にあったのは何処の国かも分からない小さな国の地図、と箱の中身はランダムで規則性が無い。すぐに見つかればいいものの、一番下にあったら面倒だと思わざるをえなかった。
「せめて国ごとに纏めるとかしておいてくれりゃ探しやすいものを…」
一枚一枚地図を取り出し、何処の国のだ?と首を傾げる。日本、中国、アメリカなんかはまだ分かりやすいが、他はさっぱりだ。さっさと見つけてしまいたいため、じっくり手に取って地図と睨めっこをする必要は無いのだが、なかなか見慣れないものを目の前にすると思わず作業の手を止めてしまう。
俺と違って、瀬爪はもくもくと作業を進めていた。違うものはすぐに省き、世界地図があれば年号を確認して、また省く。そんな瀬爪の手元をぼんやりと眺めていたら、効率よく作業をこなしていた瀬爪が一枚の地図を手に取った瞬間、その地図を凝視し作業を止めた。
「あったのか?」
数多の地図の中から目的のモノを見つけ出したのかと思い近寄れば、瀬爪が持っていたのは世界地図ではなく、とある国の地図の様だ。なんの特徴もない地形。この形は見たことが無い。右上に記載されている国名に目を凝らす。少し古いものなのか、色褪せ掠れた文字で[Bhutan]と書いてあった。
「ブータン?」
瀬爪に問えば、ゆっくりと頷いた。
「母の故郷だ」
「へぇ、お母さんの…ってことは、瀬爪ってハーフ?」
驚き、少し大きな声が出てしまうも、瀬爪は気にした様子はなく普段通り頷いた。
「ああ、一応。ブータンもアジアだからな、顔のつくりは日本人とか中国人と変わらない。あんまり気が付かれないが、たまに肌の色とか、目の色で言われる」
瀬爪は自身の腕の色を見る様に、長袖のカッターシャツを捲り数秒眺めた後、俺の方を見て「新山先輩は真っ白で綺麗だな」と笑った。
言われてみれば、運動部に所属していないにも関わらず、こんがりとした健康的な肌の色をしているし、美しいアーモンド色の瞳は、日本人離れしたものを感じなくはなかったが、綺麗だな、と思うくらいにしか思わなかった。
自分のちっとも進んでいなかった作業を俺は完全に止め、瀬爪の真横にあった椅子に腰を下ろす。
「へぇ、ブータンか。瀬爪は行ったことあんのか?」
「ある、というか、住んでいた。日本に戻って来たのは今年の春だ」
「おいおい、マジかよ」
瀬爪は手元のブータン地図の左中央の辺りを指さし「この辺に住んでいた。栄えていた方だが、日本に比べたらまるで月とスッポンだ」と懐かしむように微笑んだ。
「瀬爪が育った場所か、行ってみたいな」
一体どんな場所なんだろう。知識は間違いなく浅はかであり、中国といったら万里の長城、みたいなシンボルも全く思いつかない。しかし、瀬爪の人格を育てた場所が、荒れ果てた様な場所だとも思えない。きっと皆が温かくて素敵な場所なんだろう。
「生まれたのは日本?」
「ああ。小学校に上がるタイミングで向うに行った。父が死んで、母が故郷に戻りたくなったらしい」
「…お父さん、亡くなってたのか」
なんと言葉をかけていいか分からず、思わず視線を地図へと逸らす。大変だったな、よく頑張ったな、と労うことは簡単だったが、そんな軽い言葉で受け止めたくなかった。瀬爪の声に集中するように、大きく深呼吸をして彼の方をもう一度見つめる。
「母さんは死人のようだったな。今もだが、最愛を失う悲しみに囚われている」
「そっか。そうだよな、辛いよな…」
自分の愛する伴侶が、どんな形であれ命を落とす事に悲しまない者など居ないと思おうが、瀬爪の母親は、俺が想像するよりも苦しみ、絶望に陥ったのだろう。聞いている此方の胸が痛くなるような話だが、俺に大事な家族の話をしてくれるのか、と優越感のような感情が沸いてしまい、自分自身を殴りたくなる。
このまま瀬爪の過去に少しずつ触れて、彼の心の拠り所になれたらいいなとも考えたが、自分から更に深いところまで、過去を抉る様に尋ねるのは綺麗なやり方ではない。瀬爪が俺になら話したい、と思う日まで待とう。現に、瀬爪はもう口を開こうとはしない。
「でもお前、九年くらい向こうにいたんだろ?それにしては日本語上手すぎじゃ…」
話題を若干逸らす様に変えれば、瀬爪はブータンの地図を机の端にゆっくりと置き、作業を再開させながら口を開く。
「家では日本語で会話をしていた。父との思い出が詰まった日本語を、母は忘れたくなかったらしい。俺も日本の映画やドラマは見ていたからな。普通に喋れるんだが、皆の様に柔らかく喋るのは苦手だ」
「あ。だからお前、敬語使わないのか」
納得した、と頷けば、瀬爪は苦虫を嚙み潰したような顔をする。
「…すみませんでした」
「ぷ、はは。良いって。普段通り行こうぜ。言葉を丁寧にしなくても、敬ってる気持ちとかは態度で分かるもんだしさ」
カタコトまではいかないが、先ほどまで流暢に喋っていた瀬爪が、急に日本語に不慣れな外国人留学生のような喋り方をしたため思わず笑う。敬語が苦手で、表情も乏しい。言いたいことは割とはっきり言えるのに、必要最低限で要約してしまうから、彼の思いが上手く相手に伝わらないことが多々あっただろう。それでも良い。瀬爪の純粋で澄んだ優しく逞しい心は、俺が分かっていればいいのだ。
「先輩、でも」
敬語に対して少しは思うところがあるのか、何か訴えようとする瀬爪を静止するように先に俺が口を開いた。
「瀬爪はそのままでいいだろ。俺はお前のそういうとこ含めて好きだからさ」
照れくさい台詞を口にしてしまったな、と誤魔化す様に笑えば、瀬爪は綺麗な瞳孔を更に丸くした。空気が一瞬緊張するも、その緊張はすぐにふんわりと解けて、彼は優しく微笑んだ。
「俺は、先輩のそういう優しいところが好きだ」
瀬爪の言葉は、本当に真っ直ぐで眩しい。「ありがとな」と軽く返答しながら、目の前にある段ボール箱から地図を漁る。
直球ストレートで勝負されると、瀬爪相手に勝つことなど一生できない気がする。俺が彼の心に響くように言葉を考えて贈ったとしても、瀬爪から発されるなんの曇りもなく素直な言葉に完敗する未来しか見えない。
「なかなか見つかんねぇな…」
話題を変えなければ、ボロが出そうで必死に地図を漁る。無いな、と言った傍から直ぐにお目当ての世界地図が見つかってしまい、嬉しいような、瀬爪と共に過ごした小さな空間でのひと時が終わってしまうのが悲しいような、そんな曖昧な感情に支配された。
「あったのか?」
「あ、おう。あった」
地図を広げ、瀬爪に見せる。十五世紀末と記載されているのを二人で確認し、散らかった地図を元の箱の中へと片付けた。ブータンの地図も名残惜しかったが、さっさと片付けようとした瀬爪の手を掴み、「折角だし、埋もれないように一番上に入れようぜ」と提案する。瀬爪は、ほんの僅かに頬を緩ませ、嬉しそうに頷いた。
段ボールに綺麗に地図を直した後、頼まれた世界地図は分かりやすい場所に広げて置く。
「帰ろう、先輩」
「ん、帰るか」
任務は達成した。鍵は閉めないでいいと言われていたため、開けっ放しのまま資料室を後にする。数十分程度しか経っていないが、その間に外の雨は既に止んでいるようだ。
瀬爪と穏やかに話をしながら階段を下り、昇降口へと向かう。運が悪いのか、前を歩く男子生徒二人の声が耳障りなほど煩く、会話に品が無かった。聞かないようにしたいが、汚い話を耳が拾ってしまう。彼ら自身の親の悪口、容姿を蔑む言葉や、下品な笑い方に思わず眉を顰めてしまう。
瀬爪の様子をチラリと窺えば、表情は普段通り無表情だが、若干歩くスピードが速くなっている様に感じる。早く抜き去ってしまいたいのかもしれない。
結局、男子生徒二人組は自分たちの話に夢中で、迷惑だと後ろから視線を送っている俺達の存在など全く気がつかない。一年のロッカーに向かったため、漸く彼らの学年が知れた。どうやら三組の生徒らしく、ロッカーから靴を放り投げる様に置くと、靴を一切目視することなく適当に履いて、すり足で傘立てに近寄っていった。
三組の傘立てには、傘が計五本残っており、そのうちの三本がビニール傘だった。二本のビニール傘は雑に畳まれているのに対し、端に置かれた瀬爪の傘だけは、美しくそこに立っている。一人の男子生徒は紺色の傘を手に取り、もう一人も傘に手を伸ばす。下品な話に夢中な彼は、ノールックで傘を掴む。その傘は汚く畳まれていたものではなく、綺麗に畳まれて新品のように置かれていた瀬爪の傘だった。すぐに気が付くかと思ったが、男子生徒はそのまま手に持ち、帰ろうとしている。
「おい、お前」
気がついた時には、男子生徒の肩を掴んでいた。怪訝そうな顔で此方を見てくる二人に、俺も眉間に皺を寄せ、傘の持ち手を強引に掴む。
「この傘、お前のじゃないよな?」
「は?」
初めて傘の存在を気にしたのか、俺から傘へと視線を移すと、「ほんとだ」とあっさり口にした。
「あれ、俺のじゃないわこの傘」
「窃盗じゃん!ウケる!お前がこんな丁寧に傘畳んでたら病気かどうか疑うわ」
「はあ?ひっでえ!…あ、傘返します、すんません」
俺に瀬爪の傘を押し付ける様に渡すと、残りの二つの傘をしっかり確認した後に、己の方を手に取って二人は歩いて行った。裏門の方へと進んで行ったため、恐らくバス通学だろう。駅まで一緒、なんて最悪な事は無さそうでほっとした。
瀬爪は何も言わず、ただ一連の流れを見ていたようだ。
「ほら、傘。つか、お前が動けよな。なにボーッとしてんだよ」
傘を差し出すと、彼は無言で受け取った。両手で傘の持ち手部分を持ち、じっと見つめている。本当に何を考えているのかよく分からない。
動き出さない瀬爪を一旦置き去りにして、自身のロッカーへと向かい靴を履く。適当に畳まれた真っ黒な自身の傘を取って、もう一度、一年の場所に戻る。しゃがみ込んで靴をゆっくりと履く瀬爪を待ちながら、曇り空を見上げた。灰色の空からは今にもまた雨が降り出しそうだ。家に帰るまでは待ってくれよ、と誰に願っていいか分からぬ願い事をしていると、横に瀬爪がやって来る。
「先輩、別に俺は傘にそこまで拘りは無いぞ」
口を開いたかと思えばそんな台詞か、と苦笑いする。まずは可愛く礼でも言っておけば良いものの、正直者というか、可愛げが無いというか。
「お前は良いかもしれないけど、俺が嫌だったんだよ」
汚い連中にお前の傘を穢されるのが、と彼らを見下す発言を付け加えようとしたが、飲み込んだ。人を貶す発言を瀬爪は好まないだろう。
「そうか」
「そうですよ、お節介で悪かったな」
少し拗ねたような言い方になってしまい、格好悪かったな、と瞬時に反省するも、瀬爪の表情は緩やかだった。
「ありがとう、先輩」
瀬爪は傘をぎゅっと握り、大事そうに見つめる。その仕草が見れただけで俺の仕事は果たされた。彼の隣に居ると自然と表情も緩む。
不意に、鞄に二つつけているキーホルダーの存在を思い出した。目が合った気がして二つ購入したカメとタツノオトシゴ。実は傘にも付けられるような仕組みになっており、特にビニール傘に目印として付けておくのが主流だと商品紹介のポップに書いてあったような、書いていなかったような気がする。
思い立ったら即行動。鞄についていたカメのキーホルダーを躊躇いなく外し、瀬爪に差し出した。掌に置かれた可愛らしいカメを見て、瀬爪は首を傾げる。
「…カメ?」
「やるよ。昨日買ったばっかだから綺麗だろ?傘に着けてりゃ、お前のだって分かりやすいだろうし」
半ば強引に瀬爪の腕を掴み、受け取らせる。瀬爪は彼の掌に乗ったカメを優しく撫でながら、「貰っていいのか?」と遠慮気味に尋ねてきた。
「ダメだったら最初からやるなんて言わないだろ」
瀬爪は一瞬考えるそぶりはしたものの、最終的には頷き、礼と共に傘にカメのキーホルダーを括り付けた。何処にでも売っているただのビニール傘から一変、見分けがつきやすく、他者からも間違えて持っていかれることも無くなるだろう。
「でも、買ったばかりなのに先輩も変わり者だな。欲しかったから買ったんだろ?」
瀬爪の疑問も無理はない。少し恥ずかしいが、正直に買った経緯を話すことにした。
「昨日、目が合っちまったんだよ」
「…目?」
瀬爪は不思議そうに、瞬きを繰り返しながら俺を見つめる。なんだか可愛くて、そっと彼の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと撫でながら少し視線を上げ、「そう。売り場にいる此奴らと目が合ってさ」と、説明しながら歩き出す。真正面から彼の瞳を見詰めて頭を撫でるのは照れくささがあった。勿論、嫌がられたら咄嗟に手を離そうと思ったが、彼が嫌がるそぶりはない。調子に乗って、そのまま柔らかく癖のある髪の感触を掌で感じながら話を続ける。
「他にも何種類かキーホルダーあったんだけど、此奴らにピンときちゃってさ。欲しくて欲しくて堪らなくなっちまって、気がついた時には購入済み。変な話だろ?」
「そうか」
瀬爪は表情を変えぬまま、カメを見詰め優しく撫でている。瀬爪はカメを撫でており、俺はそんな瀬爪を撫でているという、なんとも奇妙な構図が出来上がっていた。名残惜しいが、彼の頭を撫でる手を止める。
そういえば坂口にも、カメとタツノオトシゴを可愛いと褒められた後、なんで二個買ったんだ?と問われた事を思い出した。両者と目が合ったから、なんて坂口には返したが、きっと理由はここにある。
「瀬爪に渡す運命だったんだろうな」
心なしか、カメも俺の鞄についていた時より生き生きとして見える。
瀬爪は数度カメを撫でた後、俺に視線を合わせ、はにかむように笑った。
「このカメを見る度、先輩の事を思い出せるな」
特に何かを狙って言ったつもりはないのだろうが、あまりの健気な殺し文句に、己の髪をくしゃりと掻き回さずにはいられなかった。
「お前って奴は、ホント…」
「…どうした?」
きょとんとしている瀬爪に「なんでもない」と濁し、別の話題へとすり替えた。好きな教科、スポーツ、好きな色、苦手な食べ物。聞けば彼は惜しみなく答えてくれるし、俺にも同じような質問を返してきた。俺がその質問に答えても反応は微妙だが、毎回律儀に「そうか」「お洒落だな」「いいな」と相槌をくれた。彼の知らない単語をぶつけても、詳細を尋ねた後に「先輩が好きなものは俺も好きになりたい」と健気に言うのだ。真っ直ぐ俺を見詰めながら、嘘も偽りもない透き通った声で。心地いい時間が過ぎてゆく。
まだ話していたいからと、三本、故意的に電車を見送った後、ようやく電車に乗り込んだ。電車に揺れ、移り変わる景色を背景に、俺が坂口達と毎日のように楽しんでいるゲームを彼に教えた。高校生男児の間では結構話題になっているオンラインゲームだが、瀬爪は名前も聞いたことないような反応だった。簡単にゲームの内容を説明すると、楽しそう、やってみたい、という感想よりも先に「難しそうだな」とスマホの画面に釘付けになっているのが、瀬爪らしくて微笑ましいとさえ感じる。
楽しい時間はいくら延長しても束の間。俺の降りなければならない駅に間もなく到着するとアナウンスが入り、直ぐに電車は停車した。
「んじゃ、降りるわ。気を付けて帰れよ」
こくり、と瀬爪が頷いたのを見てから、名残惜しいが電車を降りる。振り向けば、瀬爪は俺をずっと見詰めていた。
「瀬爪」
扉が閉まる間近、彼の名前を呼んだ。一音一音、大切に想いを込めて呼んだつもりだが、どれだけ伝わるだろう。
「また明日な」
瀬爪が目を見開き、口を開いた瞬間、閉まるドアにご注意ください、と機械的な声が駅全体を包み、扉は閉まって電車は動き出した。
瀬爪の声は俺に届かなかったが、彼も「また明日」と返していてくれたら嬉しいなと思う。
そこら中に出来ている水溜まりに足を突っ込んだとしても、きっと笑い飛ばしてしまうくらい機嫌がすこぶる良い。田中曰く、孤高の狼のような存在の瀬爪に、俺の自惚れでなければ今日で大分距離が近づいただろう。嬉しくないわけがない。
家に着くなり、母親が「格好いいって言われた⁉」と未だに髪の事を聞いてくる。鬱陶しいなと思わないでもないが、「当たり前。誰の子だと思ってんだよ」と、遠回しに母親の事も褒めながら部屋へと入る。その後も煩くしつこい声が聞こえてきたような気がしなくもないが、無視させてもらった。今は、母親のお喋りに付き合わず、余韻に浸っていたい。
制服を脱ぎ、ダル着に着替えてベッドにダイブする。この瞬間が、堪らなく好きなのは俺だけではないだろう。真っ白な天井を見上げていると、思い浮かぶのはやはり瀬爪だった。
それにしても。なんだ、彼奴は。なんなんだ。可愛すぎる。
ごろん、と寝返りをうつと、机上に置いた鞄に付いているタツノオトシゴが、懲りずに俺を見詰めていた。まるで、俺の事は最後までお前が大事にしろよ、と訴えてくるようだ。
大丈夫だ、安心しろ。お前の事は責任もって俺が大事にしてやる。
瀬爪と間接的に繋がっているキーホルダーを眺めていると、窓からぼんやりと日差しが差し込んできた。どうやら晴れたらしい。
窓に近づき外を見れば、小さな虹が掛かっていた。手に持っていたスマホで写真を撮り、メッセージアプリを開く。虹が綺麗だぞ、と瀬爪に教えてやりたかった。きっと、彼も同じ景色を見ていると思いたかった。
刹那、俺はとんでもない失態を犯していたことに気がつく。
「…連絡先、知らねえわ」
スマホの画面を控え目に彩る虹の写真が、虚しくも残り続けた。